今日は桃の節句です。
引っ越して、段飾りのお雛様を飾るスペースがなくなったので、娘たちが生まれたときに頂いた真多呂人形を飾っています。
人形をじっと見ていると、段飾りの端正な顔立ちの雛人形よりも、こちらのほうが「桃」の無邪気さをよく表しているように感じます。
春風にほころびにけり桃の花枝葉に残る疑いもなし
道元禅師が悟りの世界を詠んだと言われるこの歌を、玄侑宗久は、桃の無邪気さがそのままに現れていると言います。春風に吹かれて吹き飛ばされてしまう、などと気にすることもなく、桃の花は無邪気にそこに咲いて、ひたすらに匂い立っているのだと。
玄侑和尚がよく引き合いに出す「梅、桃、桜」の話が好きで、この花の季節によく思い出します。
梅には厳しい寒さに耐えてようやく咲く、儒教的な印象があります。剪定が欠かせないところも、自らを律することをイメージさせます。桜の花は、一気に咲いて一気に散る、無常であるがゆえの祝祭の印象、浄土教のイメージです。これに対して梅の花は、本来無一物で汚れようのなかった心に気付く、禅の世界に通じます。
幼いころの無邪気な「桃」の時代が終わると、社会性を身につけるべく「梅」のように自らを律することを学び始め、そうしているうちに、世の中の無常をしみじみと感じる「桜」に触れるようになる。
玄侑和尚の話のなかで「桃、梅、桜」は人間の成長の過程になぞらえられるだけではありません。梅の規律のなかにも、桃の無邪気さと、桜の感性の両方があって、はじめて人生というものが奥行きをみせる、そういう人としての振り幅にも例えられるのです。
この例えを使うならば、今二十歳前後の若者たちは、三年間の自粛生活で厳しい「梅」の季節を強いられました。本来あるべき学校行事のほとんどが無くなるということも経験しています。無常ということを「桜」を借りるまでもなく、身にしみているのです。
ならばこそ、春風のなかに笑いが広がるような「桃」の無邪気さに、遠慮なく浸っていてほしい。二十歳の子を持つ親としてそう切に願います。