大空を見上げて

日頃感じていること

青春時代

2008-11-13 | Weblog
  今週N高校に行きました。
N高校は吹奏楽で有名、いつもいろいろな大会で素晴らしい成績を修めています。
福祉コンサートや定期演奏会等では、吹奏楽のほかに2~3曲合唱もやりますが、歌と共に手話で表現したいとのことで、私は1年に2回指導させていただいています。

今回は「友よ 北の空へ」と「明日への扉」という歌でした。
普通の講演会などの手話と違って、抽象的な表現や例えば「君きみ」と言っても男子なのか女子なのか…迷う事もあります。
そんな時は生徒さんたちと相談して、「じゃーどちらでも良いように友達という手話にしましょう」と決めたりします。

いつもいつも驚く事なのですが、皆さん、たった1度で覚えてしまうことです。
これはほんとにすごい事です。
若いから、だけでなく何事にも一生懸命、真剣に取り組んでいる姿には感動させられます。
そしてとても礼儀正しく、素直です。
毎日、朝早くから夜まで練習に励んでいますが、指導される先生方のご苦労や親御さんの協力は並み大抵ではないと想像されます。
しかし若い時のこの経験が、生徒さん一人一人の素晴らしい宝となって、未来を切り開いていく力になるのだなぁと思わされています。

今回の定期演奏会、11月30日に招待されています。とても楽しみです。
                 (shizuko記)

(写真:N高定期演奏会のポスター)
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航空幕僚長

2008-11-12 | Weblog
今朝、出勤前妻と今話題の空幕長問題で話した。
私が空幕長問題でのヤフーのアンケートによると空幕長側に58%の人が賛成みたいだと言ったら、妻は論文の内容はともかく立場などいろいろ難しいことがあると思うと言った。        

航空自衛隊のトップである田母神空幕長が辞任させられた。
アパグループの募集した論文に応募して特別優秀賞(賞金300万)に入選した。
審査員は上智大の教授や経済界の名の知れた有名人達である。
この論文が、政府の意向にそぐわないと問題になり責任をとらされた。
昨日、私もこの論文を繰り返し2回全部読んでみた。
正直な感想は共鳴する部分も多く素晴らしいと思った。
しかし、今の時代近隣諸国と問題を起こさずうまくやって行かなくてはならない。
現在、我が国の日本の空を守る装備は世界でも最先端の設備を備えているとの事。
田母神空幕長はそのトップにいる現役の自衛官である。
やはり近隣諸国に配慮が足らなかった様に思う。
確かに日本は言論、思想の自由な国だが自衛隊をやめて一民間人だったら問題はなかったのだと思う。

独立国の日本の防衛は何をおいても一番国として大事であると思う。
いざという時、真っ先に命をかけて任務を遂行する為、日々猛訓練をしている自衛官達も日本の国民であり法律が認めている言論、思想の自由があると思う。
自衛隊の高級幹部は一人一人の各自衛官に、間違いのない正しい思想教育も行う責任がある。又 どうしても職務上や隊務の規則により部外に口外できない事が多々あると思うが、一般社会と間隔をあきすぎないように努力する事を望む。
防衛省は各隊員に、見ざる、言わざる、聞かざるを強調し過ぎて卑屈にならないように、また国民の中の自衛隊であって、孤立する事がないようにと思う。
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トルコ&日本人

2008-11-11 | Weblog
 もう少しトルコと日本ついて書いてみたい。
明治時代、日本とロシアは雲行きがだんだん怪しくなり、明治34年日露大戦争が勃発。
世界は大国ロシアと小国日本との戦争は無謀だと呆れながら見守った。
その頃オスマン帝国(現トルコ)は歴史的にロシアとイザコザが絶えず、一時ロシア帝国の支配下になったこともあり常に敵対関係にあった。
ロシアは全国力をあげて日本の10倍の兵力を日本との戦いにつぎ込んだ。
寅次郎はイスタンブールに滞在しながらトルコからロシアの情報を得て、ウイーンの日本大使館に伝え、本国日本に重要情報を打電し続けたとの事。
ロシアの艦隊が商船に偽装してボスポラス海峡を日本に向けて南下、この情報は寅太郎自身が打電したと記録に残っているそうだ。
弱肉強食の時代でインド、シンガポール、ビルマ、香港、マカオ等英仏の殖民地になり、日本もこの戦いに負ければロシアの植民地なる恐れがあった。
この頃ロシアはすでに中国全土を掌握しつつ、朝鮮半島に向かっていて、明治天皇は日本国、日本民族の為に日露戦争を避けられない戦いとして決断した。
承知の通り日本は大勝利をしたが、寅次郎の蔭の力が大であると思う。
もし負けていたら、この四季の豊かな魅力ある日本を世界の他国の反対があってもロシアは簡単には諦めず植民地にしていたと思う。

1994年イラク戦争が始まった時、日本人がかなりイラクにいたが、アメリカ側にいた事情で日本の飛行機は救出に行けなくて、日本政府はいろいろな国に協力を求めたが危険が伴う為難しく困惑していた。
この時トルコ政府が危険を顧みず三機の民間機を出して、日本人を無事羽田空港に送り届けたとの事だ。
明治時代、遭難し生き残ったトルコの船員を日本政府が送り届けた歴史や、山田寅次郎が日本国民から集めた寄付金をトルコの遭難で亡くなった遺族に届けた歴史等を、トルコの人達は学校でも習うらしく、親日家がとても多く、トルコ政府も歴史上の感謝の気持ちですぐ応じたとの事だ。
晩年、山田寅次郎は大正、昭和と経済界で活躍し、1948年(昭和23年)三島製紙会長を最後に91歳で波乱に満ちた生涯に幕を下ろした。
    (写真:イスタンブールのボスポラス海峡!妻が写す)
        
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トルコ&山田寅次郎

2008-11-10 | Weblog
 今迄トルコはとても綺麗でヨーロッパとアジアの文化があるとは聞いていたが、詳しい事はほとんど知らなかった。
この度、妻が旅行したので興味が湧きトルコの歴史を調べて見た。
特に日本とトルコの繋がりに、トルコ人が誰でも知っている日本の歴史上の人物で「山田寅次郎」と言う人がいたらしい。
恥ずかしいが私は全然知らなかった。
寅次郎は幕末(1866年)沼田藩江戸家老の次男として生まれた。
1890年オスマン帝国(現トルコ)の海軍が明治天皇を親善訪問したが、帰国の時台風に遭遇、和歌山沖で沈没し581名死亡したが69名を当時の日本の漁師達が助けた。
69名は日本海軍の船で送り届けたが、それを聞いた寅次郎は遺族の為、全国から義損金(寄付)を集め、外務大臣に届けたら自分でトルコに届けるように命じられた。
寅次郎は1892年トルコのイスタンブールに行き、皇帝に会い国民から大歓迎をうけた。
1914年(明治25年)まで滞在して日本とトルコの親善の礎を築いた人物で、トルコの教科書にも載っていて、トルコ人で知らない人はいないと言われている。
現在も日本語学校がイスタンブールに24箇所もあり、日本語がよく勉強されている。
日本人観光客が、多くのトルコ人が日本語を喋るので不思議がるそうであるが、そんな事情がある。
又イスタンブールの街の中心に山田寅次郎の綺麗な公園があり、説明書きもしてあるとの事。

トルコ旅行をした妻は知らなかった様で、私は今回は行けなかったが、その他トルコのいろいろ旅行ばなしを聞いてとても勉強になった。
    (山田寅次郎!明治37年イスタンブールにて撮った記録絵)
      
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富士五胡の紅葉

2008-11-08 | Weblog
 昨夜TVを見ていたら山梨県の河口湖の紅葉の美しい映像をやっていた。
妻が「とても綺麗ね、今年は紅葉狩りに行ってないし行きたいなぁー」と言った。
「そうだね、明日は予定もないし5時に起きれれば連れて行くよ」と約束し急遽出かけることにした。
5時30分出発、中央高速の談合坂SAで軽い朝食をすませ8時30分河口湖に到着。
小雨だったが、TVで見るよりもずっと綺麗な紅葉を見ることができた。
赤、オレンジ、黄色、緑…どう表現したらよいかわからないほど美しかった。
河口湖から西湖、山中湖へと車を走らせた。
今度行く時には精進湖や本栖湖の方へも回ってみたいと思う。
透明な湖にどんなさかながいるのか、小舟に乗って釣り糸を垂れている人、湖畔で釣っている人もいた。
富士山を見ることができなかったのは残念!
冬のすっきりと晴れ渡った日に、また早起きして行ってみたいと思う。
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イスタンブール

2008-11-07 | Weblog
  トルコ旅行の最後は出発地点のイスタンブール(旧名はコンスタンチンノーブル)でした。
トルコの首都は「アンカラ」ですが、最大の都市はイスタンブールで、人口は1350万人とのこと。
さすが大都会で今まで通って来た所とは大違いで、どこからこんなに大勢の人々が湧き出てきたのだろうと思うほどの賑わいでした。
旧市街と新市街に分かれていて、新市街はホテルやビジネス街、旧市街はモスクやバザールなどの観光地になっていました。
ブルーモスク、アヤソフィア、トプカプ宮殿など有名な建物や展示物など見ました。
またトプカプ宮殿の外庭から見る海峡はほんとにナイスビュー!でした。

私たちは、アジアとヨーロッパの間のボスポラス海峡の見える素晴らしいホテルの19階に泊まり、景色も堪能し、いよいよ明日の帰国に備えて荷物の整理をしながら今まで見てきた所を思い出していました。

翌日は空港に行く前にグランドバザールへ。
あまりに広くて迷子になってしまいそうで、ほんの一角だけ眺めて歩きました。
いつもは控えめで物静かな奥様ですが、海外での生活を長く経験された方で見事に交渉して値段を約半額にしてしまうなど、ほんとに楽しくて笑いながら良い時を過ごしました。

しかし、どこへ行っても流暢な日本語が飛び交っていました。
単に日本人観光客が多い、ということだけでもなさそうです。
(その事については後日主人が又書くようです)

どの都市でも朝早くからモスクで祈る声がホテルの部屋にまで響いていました。

旅ってホントにいいものですね。やはり自分の目と耳、足で歩き、現地の空気を吸いながら古代にまで思いを馳せることが出来るってなんと幸いなことでしょう。

全員健康も守られ、病気や怪我もなく無事に帰って来ることができました。
              (shizuko記)
 (写真:カパドキアのローズバレーにて全員で)
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米国に変革到来

2008-11-06 | Weblog
 アメリカ大統領選挙で黒人系のオバマ氏が大差で勝利した。
奴隷制度という過去を持ち、人種問題を抱えるアメリカに偉大な歴史的な事だと思う。
奴隷解放をしたリンカーン大統領が言った「人民の人民による人民のための政治」が真から実現に向かって歩き出したような気がする。

私は今迄夫婦でアメリカに何度も行った。
ニューヨークのマンハッタの街を歩くと、ヨーロッパ系からメキシコ、ヒスパニック、アジア、インド、アフリカ等移民の国らしくあらゆる系統の人種がひしめいている。
国も大きいが180種類以上の人種をがいることを聞いた。
人口も2億8千万人近くいるそうで人種が違えば考え方もいろいろでこれをまとめていくのは大変だと思った。
サンフランシスコに行った時ある店に入ろうとしたら黒人お断りだった。
私達夫婦アジア系は平気なのに黒人は駄目なのである。
まだまだ何件もありアメリカの差別に対して根強い歴史を感じる。
現在でも黒人の初代国務長官パウエルや二期勤めている女性のライス長官いるが、
この度はアメリカの頂点でもある大統領にアフリカ系のオバマ氏が選ばれた事は本当に素晴らしい事だと思い楽しみである。
 (写真:アメリカ大陸を夫婦で旅行中、カリフォルニア州とネバタ州の境にて)
       
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シロの思い出(2)

2008-11-04 | Weblog

 小五の時、近所の大人に連れられて山に行く事になり、友達5~6人で 私の愛犬シロも一緒に行く事にしました。
皆もシロ!シロ!と言いながら可愛がり構ってくれました。
小さなトラックの荷台に乗り20k位先の岸壁に行き、其処から小船で5k先の向島と言う大きな島に行きました。
その島は標高も高く険しいですが、自然な山が多くアケビや山ぶどう等が多く採れます。
シロも山中を駆けずり回り、喜んでシッポを振りっぱなしでした。
弁当のおにぎりを食べ、冷たい山水を飲んで採ってきたアケビを食べた事を覚えています。
午後も3時頃になり山道を下りかかった時、シロが突然吠え出し何か「山犬、狼、きつね、たぬき」見つけたみたいで、私は思わずとシロ行け!と言ったら、シロは吠えながらすごい勢いで追っかけて行きました。
それから少し待っていたのですが、シロが帰って来ません。
だんだん暗くなり、船が迎えに来る時間が迫っている為山を下りながら皆でシロー!シロー!と何度も何度も呼びながら探しました。
あたりは暗くなりシロは見つからず船に乗る事になり、私は涙を溜めて島に残ると言ったら大人の人に怒られ仕方なく乗り帰宅しました。
その日の夜は何にも食べないで泣いていた様に記憶しています。
次の日もその次の日も学校から帰ったら、自転車で島の見える場所まで行きシロー!シロー!と暗くなるまで呼んでいました。
それから1週間位過ぎた早朝父に起こされ、「勝義シロが帰って来てるぞー!」と。
私は庭に裸足で飛び出しシロに抱きつき、シロも吠えながらシッポを振り、それは今考えても私にとって劇的な再会でした。
シロはやせてとても身体が冷たかったですが元気でした。
1週間何も食べないで、あの海を泳ぎ20kの道をどうやって帰って来たのか今でも不思議に思います。
その日はシロに夕食の残り物のご飯や魚をいっぱい食べさせ、夜遅くまでシロの側を離れませんでした。
親に怒られ真夜中に家の中に入った事を覚えています。

この日、確かラジオで朝鮮南北戦争が始まったと臨時ニュースが流れていました。
     (写真:私の思い出にいつも浮かぶシロの顔です)
      

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週末の静かな時間

2008-11-01 | Weblog
 いよいよ10月も終わり、秋も深まり朝夕めっきり冷えて来ました。
今日から11月、土曜日で会社は休み、午前9時にゆっくりと起きました。
妻が又昨夜の夢の話をし、ああでもない、こうでもない、そして誰が出てきた、なぜあの人がこんな時現れるのかしらと、まったくそんな事俺が知るかぁー!と思いながら、どうして女は夢の話を長々するのだろう。
私はフーンと言いながら聞いたふりして生返事。
本当に気楽なもんだ、私は夢の話などほとんどした事はない。
しかしこういう事も男性にない女性の魅力の一部なのかな、とも解釈した。

11時から夫婦で久しぶりに近くの市営の温水プールに行き1時間位泳いだ。
帰宅して昼食に妻が作ったタラコスパゲッティーを食べた。
以前はスパゲッティーは食べなかったが、最近食べるようになった。
心地良く疲れ、TVのBSでヨーロッパの風景を映しながらの名曲アルバムを聞いている。
とても静かな土曜日の昼下がり、夫婦でゆったりした時間を過ごし、何とも言えない幸せを感じている。
      (写真:マザー牧場のロバの子)
   
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