学びの中で最近、対話ということに注目しています。
対話することにより、対話に参加する人のお互いの脳は活性化され、様々な思いやアイデアが出てきます。言語化をするという抽象的な活動が自分のまわりの世界をつくっていくという記号論の立場・見方などとも関連して興味深いです。
さて、6月10日に渋谷にて近藤直樹氏の対話のセミナーに参加しましたので、そこで気づいたことを書き連ねてみたいと思います。
まず、対話(ダイアローグ)とは、つながりや広がりを持った人間の活動と位置付けられていて、その対極にあるのがディベートです。
ディベート|ディスカッション|スキルフルディスカッション|ダイアローグ
ここで 左にいくほど、思考としては分断化し、右にいくほど思考は一体感のある形になっていくということです。
対話のセッションでは、何かテーマが決まっていて進行役(ファシリテーター)が進行していくのではありません。自然な形で参加する個人からの発言を待って会は進行していきます。どうやら近藤氏の意図は、体感型のワークにして参加者が感じるものを持ち帰ってもらうというスタンスのようでした。
この対話の中で、私にとっての気づきを以下に箇条書きしたいと思います。
◆同じ作業を共有すると対話が促進される
たとえば見知らぬ同士が同じ作業をする(単純な草取りでも田植でも、粘土細工でもよい)と、その中で非言語化されたコミュニケーションや共有がおきる。そして無言であっても対話が広がるのではないか。そして、実際に体験した後に言語での対話の機会があれば打ち解けられるのでは。
◆初めての人同士だと本心が出る
仕事やプライベートなどで何の関わりもない人が集まると、かえって本音のトークがでてきたりする。この理由を考えてみると、基本的に人間は何かを知りたいという欲求うがあり、相手から話が出れば「何のことだろう?」と耳を澄ます。そして相手が見知らぬ人であってもその話を色眼鏡なしにとりあえず肯定的に受け入れて聴く。
そのような傾聴の姿勢や雰囲気が話す人の”安心感”を呼ぶのではないか。また、話した相手が自分のプライベートについてさらに他人に情報が伝わり、巡って自分に不利益になる可能性も少ない。
◆狩猟の謎
「対話(ダイアローグ)」の起源を探ると狩猟民族の対話が関係しているそうです。
すなわち,狩猟民族は狩りに出かける前の晩にメンバーが集まり,焚き火を囲んでたわいもないおしゃべりをします。その内容は狩りに関係する打ち合わせ的な物ではなく,家族の話と言った雑談です。ところが,十分に対話が行われた翌朝,狩りに出た彼らは阿吽の呼吸で見事な連携プレーで狩りをするという・・・・ ではいったい前の晩に行われたこの対話というのは何だったのでしょうか?
狩りの場合,メンバーは近所に住む素性のわかった仲間です。どんなキャラでどんな考え方の持ち主かというのは普段の様子や行動,言葉や雰囲気からわかっているわけです。しかし,狩りの直前のコンディションというのを推し量るというのは難しい。よって前の晩の対話によって,各自のコンディションの最終調整をしたり互いに具合をチェックしているのではないか・・・そんな気がしたのです。
さて,翻って現代社会。対話の少なくなった社会がかかえるのは慢性的なコミュニケーション不全。近所の人,となりのデスクに座っている人,上司・部下,近いようで対話がないために互いに疑心暗鬼になっている状態。しかるに解決方法は簡単。もっと対話の機会を増やせばよいのです。IT化は便利な生活をもたらしていますが,逆に本来会ってコミュニケーションすべきところを省略化してしまって,不要な争いやもめごとを生んでいる。効率優先の世の中が生み出してしまった不幸といえなくもないような気がしますね。
◆仮面舞踏会や覆面座談会
ワークショップでの対話が続く中で,ふと仮面舞踏会のことが頭をよぎりました。仮面舞踏会って何であるのだろうと,どう機能しているのだろうと・・・
仮面を被っていれば相手からは自分の素性が察知されません。つまりそこにはいわば匿名性が人工的につくられるわけです。こうした状況だと人は本音が出たり,いつもとは違う自分を演出できたり,大胆に行動できたりするわけです。舞踏会なら,自分とは絶対ふつりあいだと思う相手とダンスできるわけです。これが面が割れている知り合い同士だったとしたらそうはいかないのではないか。覆面座談会も匿名のまま対話を進行させようという趣旨なんですね。
◆対話(ダイアローグ)の面白さ
今回このワークショップに参加し,ダイアローグの面白さは,
(1)対話が作り出す場によって,自分自身にわき上がる何か,自分自身の再発見を促進できるということ
(2)他人の考えを知り,視野を広められるということ
(3)利害関係を考えず,自分をさらけだすことができること
(4)場によって共同の何かが生み出される面白さ
であると感じました。
「人間はもともと表現したい動物である」「場を信頼する」「一人一人が感じたことが大切」という近藤氏の言葉を改めてかみしめながら,またどこかでこうした対話のセッションに参加したいと思いつつ,会場をあとにいたしました。
対話することにより、対話に参加する人のお互いの脳は活性化され、様々な思いやアイデアが出てきます。言語化をするという抽象的な活動が自分のまわりの世界をつくっていくという記号論の立場・見方などとも関連して興味深いです。
さて、6月10日に渋谷にて近藤直樹氏の対話のセミナーに参加しましたので、そこで気づいたことを書き連ねてみたいと思います。
まず、対話(ダイアローグ)とは、つながりや広がりを持った人間の活動と位置付けられていて、その対極にあるのがディベートです。
ディベート|ディスカッション|スキルフルディスカッション|ダイアローグ
ここで 左にいくほど、思考としては分断化し、右にいくほど思考は一体感のある形になっていくということです。
対話のセッションでは、何かテーマが決まっていて進行役(ファシリテーター)が進行していくのではありません。自然な形で参加する個人からの発言を待って会は進行していきます。どうやら近藤氏の意図は、体感型のワークにして参加者が感じるものを持ち帰ってもらうというスタンスのようでした。
この対話の中で、私にとっての気づきを以下に箇条書きしたいと思います。
◆同じ作業を共有すると対話が促進される
たとえば見知らぬ同士が同じ作業をする(単純な草取りでも田植でも、粘土細工でもよい)と、その中で非言語化されたコミュニケーションや共有がおきる。そして無言であっても対話が広がるのではないか。そして、実際に体験した後に言語での対話の機会があれば打ち解けられるのでは。
◆初めての人同士だと本心が出る
仕事やプライベートなどで何の関わりもない人が集まると、かえって本音のトークがでてきたりする。この理由を考えてみると、基本的に人間は何かを知りたいという欲求うがあり、相手から話が出れば「何のことだろう?」と耳を澄ます。そして相手が見知らぬ人であってもその話を色眼鏡なしにとりあえず肯定的に受け入れて聴く。
そのような傾聴の姿勢や雰囲気が話す人の”安心感”を呼ぶのではないか。また、話した相手が自分のプライベートについてさらに他人に情報が伝わり、巡って自分に不利益になる可能性も少ない。
◆狩猟の謎
「対話(ダイアローグ)」の起源を探ると狩猟民族の対話が関係しているそうです。
すなわち,狩猟民族は狩りに出かける前の晩にメンバーが集まり,焚き火を囲んでたわいもないおしゃべりをします。その内容は狩りに関係する打ち合わせ的な物ではなく,家族の話と言った雑談です。ところが,十分に対話が行われた翌朝,狩りに出た彼らは阿吽の呼吸で見事な連携プレーで狩りをするという・・・・ ではいったい前の晩に行われたこの対話というのは何だったのでしょうか?
狩りの場合,メンバーは近所に住む素性のわかった仲間です。どんなキャラでどんな考え方の持ち主かというのは普段の様子や行動,言葉や雰囲気からわかっているわけです。しかし,狩りの直前のコンディションというのを推し量るというのは難しい。よって前の晩の対話によって,各自のコンディションの最終調整をしたり互いに具合をチェックしているのではないか・・・そんな気がしたのです。
さて,翻って現代社会。対話の少なくなった社会がかかえるのは慢性的なコミュニケーション不全。近所の人,となりのデスクに座っている人,上司・部下,近いようで対話がないために互いに疑心暗鬼になっている状態。しかるに解決方法は簡単。もっと対話の機会を増やせばよいのです。IT化は便利な生活をもたらしていますが,逆に本来会ってコミュニケーションすべきところを省略化してしまって,不要な争いやもめごとを生んでいる。効率優先の世の中が生み出してしまった不幸といえなくもないような気がしますね。
◆仮面舞踏会や覆面座談会
ワークショップでの対話が続く中で,ふと仮面舞踏会のことが頭をよぎりました。仮面舞踏会って何であるのだろうと,どう機能しているのだろうと・・・
仮面を被っていれば相手からは自分の素性が察知されません。つまりそこにはいわば匿名性が人工的につくられるわけです。こうした状況だと人は本音が出たり,いつもとは違う自分を演出できたり,大胆に行動できたりするわけです。舞踏会なら,自分とは絶対ふつりあいだと思う相手とダンスできるわけです。これが面が割れている知り合い同士だったとしたらそうはいかないのではないか。覆面座談会も匿名のまま対話を進行させようという趣旨なんですね。
◆対話(ダイアローグ)の面白さ
今回このワークショップに参加し,ダイアローグの面白さは,
(1)対話が作り出す場によって,自分自身にわき上がる何か,自分自身の再発見を促進できるということ
(2)他人の考えを知り,視野を広められるということ
(3)利害関係を考えず,自分をさらけだすことができること
(4)場によって共同の何かが生み出される面白さ
であると感じました。
「人間はもともと表現したい動物である」「場を信頼する」「一人一人が感じたことが大切」という近藤氏の言葉を改めてかみしめながら,またどこかでこうした対話のセッションに参加したいと思いつつ,会場をあとにいたしました。