中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
最初に左下の“カテゴリー”を選んで,クリックして下さい.

歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第1日目(4);沓掛宿から浅間山麓を西へ

2013年06月30日 11時03分59秒 | 中山道六十九宿

                   <遠近神社で休憩>

[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第1日目(4);沓掛宿から浅間山山麓を西へ
             (五十三次洛遊会)
        2010年6月12日(土)~14日(月)

※本稿の初出は2010年6月20日である.
 初稿の地図を改訂し,本文の誤字脱字転換ミスの訂正と,加除推敲を行った.

第1日目:6月12日(土
) (つづき)

<ルート地図>

■沓掛宿とその周辺

※再掲


■追分宿とその周辺

※追分宿詳細図は次回掲載


<沓掛宿から西へ>

■くさつ道標と道祖神
 中軽井沢駅で休憩を取った後,私たちは国道18号線に沿って,西へ歩き続ける.
 13時42分,「くさつ道標」と刻字してある石碑の前を通過する.続いて,13時43分,くさつ道標の直ぐ近くにある道祖神の前を通過する.
 道祖神近くで,国道18号線と分かれて,進行方向左手(南側)の旧道に入る.
 私たちは,高い木立に囲まれた静かな道をひたすら西へ歩き続ける.何時の間にか林間に見えていた別荘の建物が疎らになっている.
 
<くさつ道標>                       <道祖神>

■二十三夜供養塔
 13時56分,二十三夜供養塔に到着する.「二十」を「十」の字を二つ並べて表現しているのが面白い.「廿」という字で表しても良いかなと思う.
 一体,二十三夜塔とは何なのだ?
 浅学の私には,二十三夜塔が何なのか全く見当が付かない.帰宅後,インターネットで調べると,以下のような記事があった(資料5).
 「
・・18世紀の後半から昭和の初期にかけて,日本の各地で「講」を組織した人々が集まって,月を信仰の対象として精進・勤行し,飲食を共にしながら月の出を待つ,月待ちの行事をしました.その際供養のしるしとして建てた石碑(月待塔)のひとつが,二十三夜塔です.
 崇拝の対象として十三夜は虚空蔵菩薩,十五夜は大日如来,十七夜から二十二夜までは,観音様を本尊とし,二十三夜は勢至菩薩を本尊として祀りました.
 勢至菩薩は,智慧の光をもっており,あらゆるものを照し,すべての苦しみを離れ,衆生に限りない力を得させる菩薩といわれています.月は勢至菩薩の化身であると信じられていたことから,二十三夜講が最も一般的で全国に広まりました(「道祖の神と石神様たち」 西川久寿男著 穂高神社より).」
 私は,この記事を読んで,なるほどそういうことだったのかと納得する.
 余談になるが,昔の人は信心深かった.現在,私が住んでいる鎌倉には,沢山の社寺仏閣や供養塔,石碑が点在している.これらは,神仏や霊魂,怨霊の存在を信じていた昔の人たちが残してくれた遺産である.これらの遺産に感動を持って触れることができる.
 それに対して,今の私たちは,子孫に何が残せるんだろうと思うと暗澹とした気分になる.
 これから数百年後に生まれる子孫は,私たちの世代から一体どんな文化遺産を得ることができるのだろうか.昭和・平成時代の遺構を発掘したら,とっくに読めなくなってしまったCDやゴチャゴチャした配線やプリント基板のガラクタばかり.建造物はコンクリートの破片に帰しているだろう・・・こんなことを想像すると,だんだんと惨めな気分になってくる.

<廿三夜供養塔>

■秋葉神社
 13時59分,秋葉神社の前を通過する.
 神社の境内に,一寸だけ入ってみたいなと思ったが,リーダー役の皆さんがドンドン先へ行ってしまうので,写真を撮るだけで通過する.ちょっと残念.
 資料9によれば,「
秋葉神社(あきばじんじゃ.地方によっては「あきはじんじゃ」とも読まれる.)は日本全国に点在する神社である.神社本庁傘下だけで約400社ある.神社以外にも秋葉山として祠や寺院の中で祀られている場合もあるが,殆どの祭神は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現(あきはだいごんげん,現在の秋葉山本宮秋葉神社を起源とする)である.一般に秋葉大権現信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが,実際には各地の古くからの神仏信仰や火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多く,その起源が定かであるものは少ない.祠の場合は火伏せの神でもあるため,燃えにくい石造りの祠などが見かけられる.小さな祠であることが多く,一つの町内に何箇所も設置されている場合もある.」とのことである.

<秋葉神社>

■3体が並ぶ馬頭観音
 14時02分,進行方向右手(つまり北側)斜面の草むらに馬頭観音が建っている.その直ぐ先に2番目,さらに直ぐ先に3番目の馬頭観音が安置されている.
 馬頭観音の先で,再び国道18号線と合流する.
 なお,3番目の馬頭観音の近くに「ゆうすげ温泉」の案内板が立っているが,この温泉は1軒だけの温泉のようである(詳しくは資料10参照).


<一番目の道祖神


<2番目の道祖神>


<3番目の道祖神>

■馬頭観音と女街道入口
 国道18号線を西へほんの2分ほど歩いた後,再びY字の分岐を左に進んで,旧中山道に入る.
 14時07分,国道18号線のバイパスの下を潜る.そして,立派なログハウスの脇を通って,静かな旧道を進む.
 14時14分,三叉路の脇に安置されている馬頭観音に到着する.ここは女街道入口でもある.
<馬頭観音>

■女街道
 入口付近に説明板が設置されている.
 この説明板によると,江戸時代「入り鉄砲」「出女」に厳しかったので,女性は関所を避けて裏街道を通るようになった.この裏街道のことを女街道あるいは姫街道と言うようである.
 ここの女街道は,この馬頭観音のところから,「由比釜ヶ淵橋を渡って風越山,地蔵ヶ原を横切り和美峠または入山峠を往来した」とのことである.
 私には,これらの地名の所在は全く分からないが,何れ機会があったら調べてみたいなと思う.

<女街道入口>

■遠近宮
 14時17分,遠近(おちこち)宮に到着する.すがすがしい樹木に覆われた静かな神社である.私たちは神社の木陰で一休みする.
 資料6によると,この神社の社名は「浅間の山に立つ煙 遠近人のみやはとがめん(伊勢物語)という在原業平作の有名な歌にちなんで名づけられたものと思われる」とのこと.また「磐長姫命は浅間山の守り神であり,富士山の木花咲耶姫命の姉君で,長寿健康の守り神であり,また,特に安産の守護神として御神徳が高い」という.
 資料6には,次のような感想文が書かれている.
 「
都育ちで京都のなだらかな山並みを見慣れた業平にとっては,山頂から噴煙をたなびかせる荒々しい浅間山の様子に,さぞや驚愕し畏怖の念を覚えた事でしょう.
 境内には山岳信仰の盛んだった証のように,御嶽山神社,三笠山大神,八海山大神の石碑がありました.
 また,遠近宮社叢は町指定天然記念物(樹木)となっており,特にシナノキが多いのが特徴だそうです.」
 帰宅後,この資料を拝見して,
 「しまった! ここまで詳細に見学しなかった!」
と地団駄を踏んだが後の祭り.やっぱり事前に詳細な下調べをしないと,旅の価値が半減するなと反省する.
 資料7によると,遠近神社の名前の由来は次の通りである.
 「
遠近宮は『伊勢物語』の主人公として登場する在原業平が,「むかしをとこ有りけり.京にや住み憂かりけん,あづまの方に行きて住み所もとめむとて,ともとする人ひとりふたりして行きけり.
   信濃の国,浅間の嶽にけぶりの立つを見て
    信濃なる浅間の嶽に 立つけふり
       をちこち人の 見やはとがめぬ」
と詠んだ和歌から,明和8年(1771)に建立した借宿村の神社に「遠近宮」と名付けたという言い伝えが残っている.」
 “
なるほど・・そうだったのか!”

<遠近宮>

■馬頭観音
 遠近神社で小休止した後,14時29分に再び歩き出す.
 14時32分,借宿公民館公民館の前を通過する.公民館には人気がなく,静まりかえっている.
 14時37分,馬頭観音に到着する.進行方向右側(北側)に2基の馬頭観音が並んでいる.馬頭観音を過ぎると直ぐに国道18号線に合流する.

<馬頭観音>

■草津街道分岐道標
 14時40分,草津街道分岐道標を通過する.この辺り,道路の側溝には浅間山の豊かな伏流水が流れている.
 草津街道については,資料8の説明によると,「沓掛宿は,草津道の起点となっていて,草津温泉往来の湯治客でにぎわっていた.江戸初期には現在の鉄道の南側だったが,1773年に大火があり,宿全体を北側に移した.そこから千ヶ滝,峰の茶屋にいたる旧道.現在は荒廃いしている.ガイドなしに通らない方が良いだろう.」という説明がある.
 “なに,なに~っ!…ガイドなしで通らない用が良いって!”
 “…ンなら,ますます歩いてみたいなあ…”
 またもや天の邪鬼な私は余計なことを考える.


<草津街道分岐道標>

追分宿が間近だ
 14時47分,軽井沢西部小学校の前を通過する.いよいよ追分宿が間近である.緑が一杯の素敵な学校である.
 地図でこの小学校の位置を確かめる.
 “もうすぐ追分宿だぞ”.

<鎌倉西部小学校>
                            (つづく)
[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5:http://www.harasangyo.co.jp/reader/file12.html
資料6:http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/nagano/kitasakugun/ochikochi/ochikochi.html
資料7:http://kazeno.info/karuizawa/8-shi/8-shi-1-01.htm
資料8;http://kitakaru.jp/kanko-others/shira-8.htm
資料9;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E8%91%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE

資料10;http://www.karuizawa.jp/yuusuge/

[加除修正]
2013/6/30  地図の差し替え,誤字脱字転換ミスの修正,加除訂正, 推敲を行った.

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/016588309c15b1746bb4ad68f44f41bb
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/0ecd93aac267528fc3829be3e4cb3002
 
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


※記事の正確さは全く保証しません.
 この記事は,あくまで,個人的趣味.仲間達と情報を共有することを目的としています.第三者の方々を読者の対象とはしていません.
 誤字,脱字,転換ミス,引用ミスなどあって当然ということでご覧下さい.ご不快に思われる方は,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.











最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。