<長閑な風景の中を歩く>
東海道五十三次宿場巡り全15回第10回(41)
(小田急トラベル)
2008年3月15日(土)~17日(月)(その7)
←これまでの東海道五十三次宿場巡りの記事をご覧に
なる場合は,左の『CATEGORY』欄の中にある
「東海道五十三次」をクリックしてください。
第10回 第3日目 3月17日(月)(3) 晴
<間の宿菊川>
■石畳の道
暫くの間,石畳茶屋で休息を取った私達は,恒例の「エイ,エイ,オー」で,チンチョウゲの香りに見送られながら,9時38分に歩き出す.直ぐにやや急な登り坂になる.すぐに石畳の道になる.ガイドの説明によると,この石畳は往時の面影をそのまま今日まで伝えている貴重な史跡だという.上がり口から約100メートルが江戸時代の石畳だという.そこから,諏訪原城趾跡手前まで続く400メートルの石畳は,1991年に町民によって復元されたもののようである.
9時45分,うべらず地蔵入口という立て札の前を通過する.その脇に「東海道金谷坂の石畳」という説明文が掲示されている.旅行者から貰った資料の記事は,この説明文から引用していることが明らかになる.
坂の途中には,日本左衛門が夜働き出掛けるときに衣替えをしたといわれる庚申塔がある.
<金谷坂石畳の説明文>
<石畳を行く> <長閑な風景が続く>
■菊川の里会館
9時46分,石畳道は下りになる.この辺りをロマンスコースというらしい.そして,10時07分に石畳道は終わりになる.辺り一面に茶畑が広がっている.
10時08分,小さな川を渡る.そして,10時10分,私達は間の宿菊川の里に到着する.ほどなく,菊川の里会館に到着する.ここで,20分ほどの休憩を取る.残念なことに,会館は月曜日が定休日である.私達は会館前の広場で,適宜,休憩を取る.
<菊川の里会館>
広場に面した建物の壁に沢山の説明文が貼り付けてある.一体何が書いてあるのかと思って,近付いてみる.そこには,「柳井戸」「矢の根鍛冶五條才兵衛のこと」「八挺鉦」「与茂七越し」などの金屋町昔話が書いてある.全部,解説するのは少々面倒なので,ここでは省略する.
<間の宿菊川の説明文>
■宗行郷詩碑と日野俊基歌碑
菊川の里近くに,宗行郷詩碑と日野俊基歌碑の説明文が建っている.
この説明文によると,1221年(承久3年)の承久の変で,後鳥羽上皇は鎌倉幕府追悼の院宣を出した.この院宣を受けて軍事行動を起こした京都方は敗退する.そして,この計画に荷担した宗行は,鎌倉へ誤送される途中,ここ菊川の宿の柱に,
“昔は南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ぶ
今は東海道の菊川西岸に宿りて命を失う”
という詩を書いたという.
承久の変から100年ほど後,今度は正中の変で,日野俊基は捕らえられ,鎌倉へ誤送される.その時に,菊川の宿で,宗行の往時を追悼して,
“いにしへも かゝるためしを菊川の
おなじ流れに 身をや しづめん”
と詠んだという.
<宗行郷詩碑日野俊基歌碑の説明文>
<日坂宿>
■夜泣き伝説と久延寺
10時30分,菊川の里会館を出発する.直ぐに登り坂になる.辺りは,穏やかな丘陵地帯である.一面の茶畑が広がっている.
10時45分,「菊川の宿,日坂の宿」と書いた案内杭の前を通過する.
10時50分,久延寺に到着する.久延寺は,真言宗の寺である.山号は小夜中山.
<久延寺境内説明文>
久延寺は,夜泣き伝説に関わりの深い寺である.境内にある説明文によると,小夜の中山の女が,菊川の里で動けなくなる.この女を助けた男は,女がお金を持っていることを知り,女を殺して,お金を奪う.ところがこの女が受けた腹の傷口から赤ん坊が生まれる.女の霊魂が石に乗り移って,夜ごとに泣いていた.そこで,この石は夜泣石と呼ばれるようになった.一方,この子どもは,久延寺の和尚に育てられ,刃研師になったた・・・あるとき,犯人の男が刃こぼれのある刀を持っていることを知る.そこで,母の恨みを晴らす.その後,弘法大師がこの話を聞いて,この石に仏号をつけたという.
<小夜の中山夜泣石>
■久延寺で昼食
ここで昼食となる.
旅行社が手配した弁当を受け取って境内で,三々五々,集まって,昼食を摂る.おにぎり2個の脇に,タマゴ焼き,エビの天ぷら,タケノコなど具沢山である.このおにぎりがとても美味しい.
<久延寺で弁当> <久延寺の夜泣石>
■子育て飴
食事を済ませても,まだ,時間がある.近くにある観光案内の地図を見ながら,その辺りを散策する.どうやら,この辺りには,適当なハイキングコースがあるらしい.
また,近くに名物「子育て飴」を売る扇屋があるが,今日は定休日らしくて,店頭の雨戸が閉まったままである.
扇屋は,先ほど紹介した「夜泣き石」にちなんで子育て飴を販売した.私は寡聞にして知らなかったが,この子育て飴は全国的に有名なようである.子育て飴に,関係があるのかどうか分からないが,近くにある説明文に西行法師の詩,
“年たけて また越ゆべしと 思いきや
命なりけり 小夜の中山”
が紹介されている.
近くの広場に,円柱状のモニュメントが造られていて,このモニュメントに,西行法師の詩が刻まれている.
私達がガヤガヤしていると,その声を聞きつけた扇屋の主人が,俄に店を開いてくれた.何人かの人達が先を争うようにして,飴を買っている.
<扇屋の店先> <御上井戸>
■御上井戸
大多数の方々が飴に集まっているときに,少しばかり「ひねくれた」私は,道路から枝道を100メートルほど入った所にある御上井戸を見学に行く.
傍らにある説明文によると,この井戸は,1600年(慶長5年),上杉攻めで東海道を東進してきた徳川家康を,掛川城主山ノ内一豊が,久延寺でお茶の接待をした.そのときに,この井戸の水を使ったので,御上井戸と呼ばれている.
井戸は青竹の垣根で囲まれていて,保存状態も良さそうである.
(つづく)
前の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/282c61502d741eee4bfb9b272be4c8bc
このシリーズの最初の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/c89cae7b2b1599037054c83f91e8fd39
東海道五十三次宿場巡り全15回第10回(41)
(小田急トラベル)
2008年3月15日(土)~17日(月)(その7)
←これまでの東海道五十三次宿場巡りの記事をご覧に
なる場合は,左の『CATEGORY』欄の中にある
「東海道五十三次」をクリックしてください。
第10回 第3日目 3月17日(月)(3) 晴
<間の宿菊川>
■石畳の道
暫くの間,石畳茶屋で休息を取った私達は,恒例の「エイ,エイ,オー」で,チンチョウゲの香りに見送られながら,9時38分に歩き出す.直ぐにやや急な登り坂になる.すぐに石畳の道になる.ガイドの説明によると,この石畳は往時の面影をそのまま今日まで伝えている貴重な史跡だという.上がり口から約100メートルが江戸時代の石畳だという.そこから,諏訪原城趾跡手前まで続く400メートルの石畳は,1991年に町民によって復元されたもののようである.
9時45分,うべらず地蔵入口という立て札の前を通過する.その脇に「東海道金谷坂の石畳」という説明文が掲示されている.旅行者から貰った資料の記事は,この説明文から引用していることが明らかになる.
坂の途中には,日本左衛門が夜働き出掛けるときに衣替えをしたといわれる庚申塔がある.
<金谷坂石畳の説明文>
<石畳を行く> <長閑な風景が続く>
■菊川の里会館
9時46分,石畳道は下りになる.この辺りをロマンスコースというらしい.そして,10時07分に石畳道は終わりになる.辺り一面に茶畑が広がっている.
10時08分,小さな川を渡る.そして,10時10分,私達は間の宿菊川の里に到着する.ほどなく,菊川の里会館に到着する.ここで,20分ほどの休憩を取る.残念なことに,会館は月曜日が定休日である.私達は会館前の広場で,適宜,休憩を取る.
<菊川の里会館>
広場に面した建物の壁に沢山の説明文が貼り付けてある.一体何が書いてあるのかと思って,近付いてみる.そこには,「柳井戸」「矢の根鍛冶五條才兵衛のこと」「八挺鉦」「与茂七越し」などの金屋町昔話が書いてある.全部,解説するのは少々面倒なので,ここでは省略する.
<間の宿菊川の説明文>
■宗行郷詩碑と日野俊基歌碑
菊川の里近くに,宗行郷詩碑と日野俊基歌碑の説明文が建っている.
この説明文によると,1221年(承久3年)の承久の変で,後鳥羽上皇は鎌倉幕府追悼の院宣を出した.この院宣を受けて軍事行動を起こした京都方は敗退する.そして,この計画に荷担した宗行は,鎌倉へ誤送される途中,ここ菊川の宿の柱に,
“昔は南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ぶ
今は東海道の菊川西岸に宿りて命を失う”
という詩を書いたという.
承久の変から100年ほど後,今度は正中の変で,日野俊基は捕らえられ,鎌倉へ誤送される.その時に,菊川の宿で,宗行の往時を追悼して,
“いにしへも かゝるためしを菊川の
おなじ流れに 身をや しづめん”
と詠んだという.
<宗行郷詩碑日野俊基歌碑の説明文>
<日坂宿>
■夜泣き伝説と久延寺
10時30分,菊川の里会館を出発する.直ぐに登り坂になる.辺りは,穏やかな丘陵地帯である.一面の茶畑が広がっている.
10時45分,「菊川の宿,日坂の宿」と書いた案内杭の前を通過する.
10時50分,久延寺に到着する.久延寺は,真言宗の寺である.山号は小夜中山.
<久延寺境内説明文>
久延寺は,夜泣き伝説に関わりの深い寺である.境内にある説明文によると,小夜の中山の女が,菊川の里で動けなくなる.この女を助けた男は,女がお金を持っていることを知り,女を殺して,お金を奪う.ところがこの女が受けた腹の傷口から赤ん坊が生まれる.女の霊魂が石に乗り移って,夜ごとに泣いていた.そこで,この石は夜泣石と呼ばれるようになった.一方,この子どもは,久延寺の和尚に育てられ,刃研師になったた・・・あるとき,犯人の男が刃こぼれのある刀を持っていることを知る.そこで,母の恨みを晴らす.その後,弘法大師がこの話を聞いて,この石に仏号をつけたという.
<小夜の中山夜泣石>
■久延寺で昼食
ここで昼食となる.
旅行社が手配した弁当を受け取って境内で,三々五々,集まって,昼食を摂る.おにぎり2個の脇に,タマゴ焼き,エビの天ぷら,タケノコなど具沢山である.このおにぎりがとても美味しい.
<久延寺で弁当> <久延寺の夜泣石>
■子育て飴
食事を済ませても,まだ,時間がある.近くにある観光案内の地図を見ながら,その辺りを散策する.どうやら,この辺りには,適当なハイキングコースがあるらしい.
また,近くに名物「子育て飴」を売る扇屋があるが,今日は定休日らしくて,店頭の雨戸が閉まったままである.
扇屋は,先ほど紹介した「夜泣き石」にちなんで子育て飴を販売した.私は寡聞にして知らなかったが,この子育て飴は全国的に有名なようである.子育て飴に,関係があるのかどうか分からないが,近くにある説明文に西行法師の詩,
“年たけて また越ゆべしと 思いきや
命なりけり 小夜の中山”
が紹介されている.
近くの広場に,円柱状のモニュメントが造られていて,このモニュメントに,西行法師の詩が刻まれている.
私達がガヤガヤしていると,その声を聞きつけた扇屋の主人が,俄に店を開いてくれた.何人かの人達が先を争うようにして,飴を買っている.
<扇屋の店先> <御上井戸>
■御上井戸
大多数の方々が飴に集まっているときに,少しばかり「ひねくれた」私は,道路から枝道を100メートルほど入った所にある御上井戸を見学に行く.
傍らにある説明文によると,この井戸は,1600年(慶長5年),上杉攻めで東海道を東進してきた徳川家康を,掛川城主山ノ内一豊が,久延寺でお茶の接待をした.そのときに,この井戸の水を使ったので,御上井戸と呼ばれている.
井戸は青竹の垣根で囲まれていて,保存状態も良さそうである.
(つづく)
前の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/282c61502d741eee4bfb9b272be4c8bc
このシリーズの最初の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/c89cae7b2b1599037054c83f91e8fd39