ウイルヘルム山登頂記(30):エピローグ
<ウイルヘルム山雑感>
私の積年の希望であったウイルヘルム山登頂は,こうして実現した。今回の山行は,私ごときの年輩者には,大変きつい旅ではあったが,それだけに無事登頂できた喜びも一入である。ウン10歳の中頃から始めた登山歴は,まだ,やっと10年足らずである。とはいえ,遅ればせながら,北アルプス,南アルプス,八ヶ岳などの主要な山々をはじめとして,海外ではキナバル,キリマンジャロ,メンヒ,ユングフラウ,モンブラン,アパチャなどの登山を経験することができた。これも,登山を始めてから,なんとか健康に過ごせた結果であろう。
これらの拙い経験から,今回のウイルヘルム山に関連して,印象やらのコメントなどを若干書きとめておきたいと思う。
■ウイルヘルム山の特徴
ウイルヘルム山登頂は,予想通り厳しかった。私なりにウイルヘルム山の特徴を列挙すると以下の通になる。
1.行動時間が10時間を超える丁々場である。
2.登山道が急傾斜で,しかも泥濘な所が多い。
3.岩稜地帯も多いが,技術的に困難な箇所はない。
4.山麓と山頂の気温差がかなり大きい。
山麓は暑いが,山頂は零度以下になり寒い。
5.特別な装備として長靴が必須である。
普通の長靴ではなく,釣り道具屋でシッカリした長靴を準備する。
6.寝袋は3シーズン用で十分である。
■私見による難易度の評価
私の経験した主要な海外の山の難易度を,私見で評価すれば,難度の高い順に並べれば,次の通りのような気がする。
第1位 ユングフラウ
体力的にはモンブランの方がきついが,技術的にはユングフラウの方が難しい。
<ユングフラウ山頂付近からの眺望>
第2位 メンヒ
ユングフラウより岩稜地帯が多いが,体力的にはユングフラウより少し楽。
<メンヒ山頂を目指して>
第3位 モンブラン
体力的にはユングフラウやメンヒよりきついが,技術的には両山より楽。
<モンブラン山頂付近>
第4位 ウイルヘルム山
体力的にはユングフラウ,メンヒと同等。ただし,泥濘のひどい登山道だが,雪山ではないので,モンブランよりは,幾分楽である。
第5位 キリマンジャロ
標高は5,800メートルに達し,ユングフラウやモンブランより高いが,アイゼン,ピッケルは不要で技術的には全く楽。
<キリマンジャロ山頂近くのギルマンズポイント:右の人物は無関係>
第6位 アパチャ山
長くて急傾斜のザレ場と雪渓歩きが続く。軽アイゼンがあった方が気分的に楽だが,アイゼンなしでも雪渓歩きに問題はない。行動時間は結構長い。
<アパチャ山山頂>
第7位 キナバル山
急な階段の連続。頂上の一枚岩が印象的。体力的にも,技術的にも,上記の山々よりはかなり楽である。
ちなみに夏の富士山よりは,キナバル山の方が体力的にはかなりきつい。
<キナバル山山頂付近>
■PNCで印象に残ったこと
PNGは俗にいう未開発の国である。どんな尺度で社会の開発度を計測するかは別にして,PNG滞在中に,いろいろと驚くことに出くわした。それらの中で主要なものは以下の通である。
1.奥地へ行くと,未だに貨幣経済に移行しきっていない。
2.800種におよぶ部族が割拠していて,お互いの縄張り意識が強そうである。
部族間のいざこざを仲裁するために,私達に警官が同行した。
途中で通過のために通行料を上納させられたところがある。
一夫多妻制でブタ50匹用意できれば1人の妻を娶ることができる。
3.PNGは貧困ではあるが食べていけるだけの食料は確保できる。
ブラブラとしている人がとても多い。
食べてはいけるものの,現金収入は極めて少ない。
4.義務教育がない
子供を学校へ行かせるだけのお金の余裕がない人が多い。
5.自動車の運転手,ガイドが富裕層である(現金収入があるから)。
6.腰蓑で裸姿の現地民は,ショー以外で見かけなかった。
7.時間厳守という考え方は,通用しないようである。
<文明って一体何だ?>
■帰国時の第一印象
日本に帰ったときの第一印象は,街が明るくて清潔なことである。綺麗で清潔な服装をした人達が,素晴らしく綺麗な電車やバスに乗っている。とにかく便利である。確かに「日本は良い国だな」と実感する。
「でも,でも,・・・」である。
PNGで,天気が良いから仲間達と飛行機の残骸を見に来た人達や,日長一日,のんびりと日向ぼっこをしている人達を見ていると,私達日本人よりも彼らの方がずっと幸せなような気がしてくる。
私達が乗った自動車の後を,ワイワイ言いながら追いかけてきた子供達の姿が,私の目に焼き付いている。彼らの屈託のない澄んだ眼に,昔,昔の貧しかった自分の少年時代を重ね合わせてしまう。
<PNGの民家の内部:中央で煮炊き,周辺が寝室>
■貧しかった私達
あの頃,私達は確かに貧しかった。
信州の寒村には舗装された道路は全くなく,国道でさえ,自動車がまともにすれ違えるところがなかった。丁度,PNGの凸凹道のような道路を,木炭バスがエンコを繰り返しながら,ヨタヨタと走っていた。食料もなく,何の娯楽もない。
戦争末期には,本屋には売っている本は1冊もなく,大人達は口には出せない厭戦気分の中で,疲弊しきった顔をしていた。でも,小国民であった,私達は厳しい毎日とはいえ,結構楽しい日々を過ごしていた。
■マンガ「ブロンディ」の生活に憧れる
戦後,英語の勉強を兼ねて,アメリカのマンガ「ブロンディ」を見た。「ブロンディ」のマンガを通じて垣間見たアメリカの平均的なサラリーマン一家の日常生活は,日本人にはとても実現できない見果てぬ夢だと思っていた。当時の私の目にはブロンディ一家の生活は,正に桃源郷のように見えていた。
終戦から数年後,私はようやく計算尺を買って貰った。計算尺の片隅に,made in occupied Japanと書いてあった。街にはどう見ても「米国」と読める新拾円札が出回り始めた。子供心に,情けない気分でいっぱいになった。
池田内閣が所得倍増論を打ち上げた。「本当だろうか・・」と疑った。
・・・・・・・・・・・・・・
今,振り返ると,私達の生活は,少年の頃夢見ていたブロンディ一家活を遙かに越えた生活水準を享受している。でも,私達が直面している世相に,何となく空疎で,挫折感が滲んだやるせなさを感じているのは私だけではないと思う。
■文明の発達とは何か?
私はPNGの屈託のない子供達の笑顔を思い出しながら,文明の発達とは何かが分からなくなっている。
私達は,PNGの人達に較べて,充実した毎日を送っているのだろうか?
私達の社会は,PNGの社会より進化した社会なのだろうか?
こう自問自答してみると,私には答えが見つからない。確かに「幸か不幸か」と聞かれれば,それを測定する尺度は,十人十色なので,どちらの答えも正解になるだろう。 ある課題が解決されると,その解決策が引き金になって新たな課題が発生する・・・どなたか高名な学舎が指摘していた。正にその指摘通りなのだろう。
PNG訪問は,改めて分明とは何か,幸せとは何かを考えさせられる切っ掛けを私に与えてくれた。
<エピローグは新たな旅のプロローグ>
こうして,私のPNGの旅は終わった。
旅に出るたびに,新たな出合や,新鮮な驚きに接することができる。これが何よりの生き甲斐になっている。誰に読んで貰おうというわけでもなく,こうして自分史の1ページを書き続ける。旅の雑文をしたためるのも本当に楽しいことである。
体力が続く限り,気力が続く限り,私もまた“永遠の旅人”で居続けたいと思っている。
(完)
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