<常磐御前の墓にて>
歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第1日目(5);関ヶ原宿山中
(五十三次洛遊会)
2012年9月15日(土)~17日(月・敬老の日)
第1日目;2012年9月15日(土) (つづき)
<関ヶ原宿・今須宿地図>
■関ヶ原宿(再掲)
■関ヶ原宿山中・今須宿
<山中間ノ宿を行く>
■大谷吉継陣跡
若宮八幡神社を後にした私達は, 中仙道に沿ってほぼ西の方向に歩き続ける.
13時29分,「大谷吉継陣跡400m 10分」と書いた案内板に到着する.大谷吉継については,前回のブログ記事で触れたとおりである.
ここから400メートルも離れていたのでは,日程の都合で,残念ながら,とても見学に立ち寄るわけにはいかない.関ヶ原古戦場の見学は,回を改めてユックリ回る方がいいなと納得して通過する.
<大谷吉継陣址案内板>
■またもや雨宿り
辺りは閑静な集落である.手許の地図で確かめると,山中という名前の集落らしい.
集落の中にコミュニティバスの停留所を見付ける.この停留所に掲示されている時刻表を見ると,1日に4本の通るようである.
余談になるが,私は鎌倉の山中にある住宅地に住んでいる.大船駅からこの住宅地まで小さなバスが通っている.通勤時間帯と夕方は1時間に4~5本,日中はほぼ25分に1本しかバスがない.日頃,鎌倉駅や大船駅周辺のバスに比較して,バスの頻度が随分と少ないので,不便なところだなと感じているが,ここの停留所の時刻表を見てしまうと,あまり贅沢は言えないなとつくづく思う.
また,雨が降り出した.そんなに急ぐ旅でもないので,私達は通りすがりの建物の軒下を借りて,暫くの間,雨宿りをする.雨はイヤだが,考えようによっては風流でもある.自然の所行には逆らえない.なるようにしかならない,まあ,辛抱強く雨が上がるのを待つしかない.
私達が雨宿りをしているのはどこかの会社の事務所のようである.丁度今日は土曜日のため,建物には人の気配がない.
<コミュニティバスの時刻表> <事務所の軒で雨宿り>
■教楽寺
雨宿りをしている建物の反対側に,お寺の参道がある.雨が小止みになった頃合いを見計らって,写真だけでも撮っておこうと思う.
ここは浄土真宗大谷派の教楽寺.山号は香雲山.残念ながら,教楽寺に関するこれ以上の情報は私の手許の資料では見当たらない.
13時37分,雨も小降りになったので,再び歩き出す.
<教楽寺>
■高札場跡
13時38分,高札場跡に到着する.一寸した公園風の広場に案内板が設けられている.
この案内板の記事によると,ここは関ヶ原宿と今須宿のちょうど中間に位置しているという.ここには,休憩施設の立場茶屋があったことから,間ノ宿と呼ばれていたという.
ここは,かつての山中村.江戸時代まで旗本竹中氏の知行地でもあった.
「当時は竹囲いをめぐらし,石垣や度盛りを施すなど管理は厳重で,責任者には村役人を命じ,周囲の清掃を始め,火災時には狼藉者の取り締まりにも当たらせていたのである.」と案内板に記述されている.
<高札場跡>
■史跡の真っ直中
13時39分,高札場の直ぐ近くの四ツ辻に到着する.
ここから600メートル離れたところに大谷吉継の墓,反対側には常磐御前の墓がある.時間の都合もあるので,案内標に書かれている所をすべて回ることはできない.
<常磐御前墓.大谷由継墓標識>
■東海道本線のトンネル
前方にトンネルが見えている.地図で確かめると,トンネルの上には東海道本線が走っている.
進行方向左手(南側)には小さな川が流れている.川沿いの手すりの向こうに案内板が見えている.何だろうと思って近付いて確かめる.
案内板には「鶯の滝」と書いてある.
「あっ!・・・ここだ! 鶯の滝は・・・」
私は近くに居た仲間に注意を促す.ところが,数名の方々は,既にここを通り越して,トンネルの向こうに行ってしまっている.
「オーィ・・」
と声を掛けるが届かない.
「仕方ない・・・放っておこう・・・」
で呼び止めるのを諦める.
<トンネルと手前に鶯の滝がある>
■鶯の滝
案内板の近くから,小川を覗き込む.
三筋に分かれて流下する小さな滝が見える.
案内板の説明によると,この滝は今須峠を登り下りする旅人の心を癒してくれる格好な場所にあるという.滝の高さは約5メートル.「水量は豊かで,霊気立ち込め,年中鶯の鳴く,平坦地の滝として,街道の名所になっていた」という.
<鶯の滝>
<常磐御前哀話>
■東海道新幹線のガード
13時41分,東海道新幹線のガードを潜る.
ふたたび雨脚が少し強くなる.相変わらず先頭と末尾の感官が開いて,列がばらけているのが気になる.
「山歩きだったら,遭難するな・・・」
と思いながらも,いくら注意を促してもこうなってしまうんだから仕方がないなと諦める.
そろそろ,今須宿が近付いている.
<東海道新幹線のガードを潜る>
■常磐御前の墓
中仙道から右折して路地を少し入ったところに常磐御前の墓がある.資料3(p.318)によれば,五輪塔が常磐御前の墓だというが,どの五輪塔か私には良く分からない.どれも一部の石が欠損していて,完全な形の五輪塔は残っていないように思える.
傍らに立っている説明板には,こんなことが書いてある.
「都一の美女と言われ,十六歳で義朝の愛妾となった常磐御前.義朝が平治の乱で敗退すると,敵将清盛の威嚇で常磐は今若,乙若,牛若の三児と別れ一時期は清盛の愛妾にもなります.伝説では,東国に走った牛若の行方を案じ,乳母の千種と後を追って来た常磐は,土賊に襲われて息を引き取ります.哀れに思った山中の里人が,ここに葬り塚を築いたと伝えられています.」
鎌倉に住んでいる私には,常磐御前,義朝,牛若・・・などは,とても身近に感じられる存在である.
<常磐御前の墓>
■常磐地蔵
13時50分,常磐地蔵に到着する.路傍に小さな地蔵堂が建っている.
傍らの案内板には,以下のような記述がある.
「平安末期,此処山中村で置きた常磐御前の不幸な出来事は,涙なしには語れない.常磐は「義経がそのうちきっとこの道を通って都に上る筈,その折りには是非道端から見守ってやりたい.」と,宿の主人に形見の品を手渡し息を引き取った.時に常磐四十三歳.主人は常磐の念願が叶うよう街道脇に塚を築き,手厚く葬ったのである(右手下約300メートルに先にあり).その後哀れに思った村人は,無念の悲しみを伝える常磐地蔵を塚近くのこの場所に安置し,末永く供養することを誓い合った.案の定寿永二年(一一八三)義経上洛のため弐万余騎を率いて,当地若宮八幡神社に到着し,西海合戦勝利を祈願.合わせて母の塚及び地蔵前では,しばしひざまずき,草場の陰から見守る常磐の冥福を祈ったという.」
この記事を読みながら,咄嗟に鎌倉の万福寺のことを連想する.
<常磐地蔵>
<山中間ノ宿から今須宿へ>
■山中踏切
13時54分,東海道本線山中踏切を渡る.
<山中踏切を渡る>
■今須坂を行く
それほど旧ではないが登り坂が続く.今須坂である.
自然に歩く仲間の写真を撮りたいので,仲間の先頭に出る.
「自然に歩いて下さい・・・」
と声を掛けて写真を撮るが,改めてこの写真を見ると,やっぱり何人かがカメラを意識しておられる.ちょっと残念な写真になってしまったが,まあ良い記念になる.
<今須坂を行く>
■山中の道標
今須坂を下って,14時04分,「これより中仙道関ヶ原宿山中」と刻字された案内杭を通過する.
ここで関ヶ原宿山中は終わりになる.いよいよ私達は継ぎの宿場,今須宿に近付いている.
<関ヶ原宿山中の道標>
■今須の一里塚跡
14時05分,今須の一里塚跡に到着する.江戸日本橋から114番目の一里塚である.京三条大橋まで後12里.
南側の塚だけが残っている.
ここまで来れば,双六の上がりである京もあと少しである.
<今須の一里塚>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;「岐阜県十七宿散策ガイド」日本歴史街道美濃中山道連合・岐阜県
資料11;「せきがはら巡歴手帖」関ヶ原町役場地域振興課
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a169ad66d7518db5cea64d150f51cd15
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/2479ad35c31e238ff2c7b0790a36fc43
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