終戦前後の中学;竹刀振り振り”こつ,き,くる”の大合唱
(戦中戦後の思い出)
2020年8月10日(月)
本日,私が3月に卒業した某大学通信教育部の卒業式があったはず.
でも結局はコロナ騒ぎでネット経由の式になってしまった.それも本来ならば3月に催行する予定だった式である. とはいえ,オンラインの式も結構おもしろかった.
その後2時間ばかりzoomを使っての懇親会,リアルの乾杯はできなかったものの,なかなかの新機軸で新しい時代を予感されるものであった.
ついでながら,今回も”goo to 過去”の旅に出かけようと思う.
・・・で,今回は敗戦前後の中学校での授業風景を取り上げることにしよう.
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私は昭和21年に旧制の中学校に入学した.
当時,商業の中心地であった小諸でも,人口の過半数は農業だった.国民学校1クラスが約50名.町中の学校なので進学率も周辺の村の学校よりもかなり高かったが,それでも,1クラス50人中,中学校に進学する人数はせいぜい2~3人,職業学校に進学するのが10数名.残りは高等科に進学したり,農業など家業を継いだり,大都市への出稼ぎ出かけたりしていた.
その意味で,曲がりなりにも中学校に進学させてもらった両親にとても感謝している.
昭和21年2月ぐらい(正確な月は忘れた),私は上田にある旧制中学を受験した.小諸から,わざわざ汽車に乗って上田まで受験のために出かけた.その頃,すでに戦雲急を告げていた上に物資が不足していたんだろうと思うが,いわゆるペーパーテストはなかった.
受験番号を記した荷札を胸元にぶら下げて,教室をいくつか回った.各教室には数名の先生がいて,何問かの質疑応答がある.当の本人は何をしているのか分からないうちにすべてが終わった.
倍率がどの程度あったのか全く分からないが,この年,小諸からは5~6名がこの中学に進学した.
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さて,ここからが本題である.
戦雲急を告げるにつれて,応召する先生たちが増えて,だんだんと授業が窮屈になっていったが,今考えると,学校も随分と努力して授業を維持していたと思う.生徒の方も,以前話題にしたように,殺人的な列車に乗って,それこそ命がけで通学し続けた.
前回英語の授業で披露したように,授業が始まっても教科書は一切ない.すべてが黒板の板書だけ,
・・・で,今回は国語の授業に様子を披露しよう.
文法の授業.
先生が,黒板に動詞の「来る」の活用を,縦書きで板書する.
「こ,き,くる,くる,くれ,こい」
先生が,教壇脇にある竹刀(だったと思う)を持って,板書した字を頭から順に,「コツ,コツ,・・・」とリズミカルにたたきながら拍子を取る.そのリズムに乗って生徒に一緒に大きな声で読ませる.
それも独特の節回しで.
”こつ!”,”きっ!”,”くる”,「ハイ!」・・”くる”,”くれ”,”こい”,ハイッ! もう一度!
”こつ!”,”きっ!”,”くる”,「ハイ!」・・”くる”,”くれ”,”こい”,ハイッ! もう一度!
で,同じことを何回も,何回も繰り返す.「ハイ」の”間の手”が良い調子である.
私たちは,動詞,形容詞,形容動詞の活用は,”節”を発声する音楽のように発声するのが当たり前だと思っていた.例えば,
”だら,だつ,で~にぃ,(一呼吸置いて”ハイッ”)だあ~なあ~…なら,マル”,”ハイッ”(注;旧仮名遣い)
国語の先生も,前回披露した英語の先生と同じように,同じことを嫌になるほど繰り返すことをモットーとしていた.
そのためか文法そのものの講義は少なめだったように記憶している.でも,結果的には大多数の生徒が国立一期校の受験にも耐えられるだけの,応分の実力がついたかと思う.
ちなみに先生のあだ名は「こっきっくる」.
蛇足ながら,当時,種牛のようにごつい身体の柔道の先生のあだ名は「種さん」.祝日の祝典でお盆にのせた教育勅語を掲げて,角を直角に曲がって恭しく登場する物象の先生のあだ名は「直角」.明快で優しくて良い先生だった.
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さて,この国語の授業,どのくらいの間,続いたかもう忘れたが,しばらく経って,先生の人事異動があった.このとき,戦争末期か,終わっていたかその辺はハッキリ覚えていない.
新任の国語の先生は,佐久地方の中学からの転勤である.
新しい先生になって,最初の国語の授業が始まる.最初は,いわば新任先生と生徒の腹の探り合いみたいなもの.
教室の前の方に座っていた生徒に,新任先生が,
「”来る”の活用を言いなさい・・・」
と指名する.
これから教える生徒の実力がどの程度かの”お試し”のようである.
その生徒は,前任の先生から教わったとおりに,抑揚をつけて,
”こつ!”,”きっ!”,”くる”,(”ハイ!”の間を置いて,)・・”くる”,”くれ”,”こい”,
と,歌うよな調子で答えた.
何の疑いもなく・・・
それを聞いた途端に,新任先生は烈火のごとく怒り狂った.
「ふざけるんじゃないッ! もっと真面目にやれ!」
”鳩が豆鉄砲を食らう”とは正にこのこと.生徒一同,”ぽか~ん”.
何で怒られているのか分からない.
「”こーきーくるくつくれこい”って真面目に言え!」
いや~あ!
実に怖かった.
このとき,今まで私たちが教わっていた抑揚をつけた歌みたいな言い方が特殊だと悟った.
でも,(比較するのはまずいかも知れないが,)この先生の先任校の生徒より,上田中学の生徒の平均的学力はかなり上,それもそのはず,上田はこの地方のトップ校.生徒も真面目に良く勉強する.このことが分かってからは,新任先生の授業も,とても穏やかになった
卒業後,毎年開催されていた同窓会でも,この「こきくる」先生のことが何時も話題になっていた.
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戦争終末期から戦争直後は,学校も急速に変化し一時期荒廃した.でも,そんな苦境の中で,先生も生徒も本当に真面目に良く頑張っていたなと今になって思う.
校長先生も特色のある良い先生を発掘して学校に誘い込むことで躍起になっていたに違いない.
当時,”お上”は占領軍と政府の二重構造だった.占領軍が「右」といえば「右」が正義であり,唯一の進むべき道であった.多分,この混乱期に文部省も一貫した指針など出せなかったんだろう.
そんな中でも,私たちは結構個性豊かな授業を受けていたなと今になって思う.
多分,何もかも”お上”任せではなく.制約条件の中で,創意工夫をしながら”even better”な道を自分で探すという気概が当時の学校関係者の中にあったんだろう.いや,学校関係者だけでなく世間一般に・・・
それが,だんだんと豊かになるにつれて,このような貪欲な生き方が見られなくなったなと感じるのは私だけだろうか. (おわり)
https://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d450f18ca66ee18ae2c9db26af436998
「戦中戦後の思い出」(索引)
https://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/07a94741579bd5ad00bda6762253638c
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