終戦前後の余談;田舎のバスは木炭車
(戦中戦後の思い出)
2020年8月11日(火) 晴
お天気は上々.
午後から定番の身体の体操をする予定だったが,横浜に住む息子一家が午後から来訪とのこと.少し遅い昼食を摂っている間に,まともなお散歩は無理になってしまった.せっかく身についたリズムが狂ってしまうのはちょっと困るが,そんなことより子供たちが顔を出してくれる方がずっと嬉しい.
窓を開け,クーラーかけての奇妙な取り合わせで3密を避けながらも,今年,大学1年生になった孫娘を交えて楽しく自宅会食.
”まあ,いいさ・・・歩き不足は2~3日掛けて取り戻すさ・・・”
と思いながら・・・
15時30分頃,息子一家は早めに帰宅する.
”おや,まだ時間があるな・・・”
ということで,定番の大船周回コースを大急ぎで一回りした.歩行距離7.27キロメートル,歩数11,035歩,歩行速度4.35キロメートル/時.でもこのコースの話は毎度同じことの繰り返しになるので,今回は割愛.
・・・ということで,終戦記念日の8月15日まで,もう少し頑張って,終戦前後の与太話を披露することにしよう.
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今回のテーマは,戦中戦後の自動車,特に田舎の乗り合いバスということにしよう.
本題に入る前に,ひとまず,時代を昭和14~15年頃まで遡ることにする.つまり私の幼少期である.
舞台は生まれ故郷の小諸.北国街道沿いの宿場町である.目抜き通りは相生町.小諸駅前近くの国道との十字路を越えて,浅間山に向かって500~600メートル,北国街道に突き当たるまでの上り坂.佐久地方の商業の中心地で,平素かが随分と賑やかな街だった.
でも,その頃の道路事情と言えば・・・今では想像も付かないほど貧弱で,市街地のごく一部を除いて全くの未舗装,ほとんどが轍と威勢の良いベンベン草が繁茂する土道だった.国道も例外ではない.しかも1車線,ところどころに蛇が卵を飲み込んだように,道幅がちょっと広くなったところがあり,そこで,自動車がすれ違っていた.
私は小諸の中心街から2キロメートルほど離れた隣村(今は小諸市内)に祖父母と一緒に住んでいた.家の脇には近くの湧き水が流下する側溝があり,そこで鍋釜や野菜などを洗っていた.側溝に沿って1本の土道が小諸まで通っていた.この土道を挟んで我が家と反対側に火の見櫓があり,その前がちょっとした空き地になっていた.そこに極々希に小諸方面から来た自動車が停車していることがある.すると,その辺りの自動車が珍しいガキ共が沢山集まってくる.もちろん幼少の頃の私もその一人.みんなで自動車をなで回す.
「こら,こら,・・・みんなどいた,どいた・・・(自動車が)動き出すぞ・・・」
小諸から往診に来たお医者さんの車である.
運転手がボンネットの前にL字型のハンドルを突っ込んで,重たそうに何回もグルグル回す.やっとエンジンが掛かる.自動車は薄青い排気ガスをもうもうと立てながら田舎道を走り出す.私たちガキ共は青っぱな2本垂らしたまま,文明の香りがする排気ガスを一杯吸いたくて自動車の後を追う.当時は公害もへったくりもない.排気ガスの臭いは田舎で嗅ぐことのできる唯一の文明の香りであった.
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さて,タイムマシンに乗って,私が中学生の頃,つまり敗戦前後まで戻ってみよう.その頃,私は小諸市内に両親と一緒に住んでいた.
以前,当シリーズでも書いたが,私はその頃上田にある中学校に通っていた.当時の小諸駅前の広場は今の半分程度の広さしかなかったが,毎朝,千曲バスのバスが2台(だったかな?)停車している.
当時,ガソリンが払底していて,自動車は薪から発生するガスを使っていた.確か「木炭車」と呼んでいたような気がする.
バスの後ろに大きな円筒状の釜のようなものが付いている.円筒状の中には薪が入っている.下の火口から盛んに空気を送り込んで木炭に火を付ける.これが朝の儀礼である.なぜ木炭でバスが動くかのメカニズムは面倒なので調べていないが,要するに木炭を不完全燃焼させて発生するガスを燃料にして走る仕組みである.
ただでさえ,信州は山が多く坂道ばかり.ほとんどの道はギヤーをローに入れたまま,エンジンは”うんうん”と唸り声をあげたまま走り続ける.ただガソリンと違って,馬力が出ない.坂道で時々エンコ(動かなくなること)する.そんなときは,いったん,乗客が下車し,カラで身軽になったバスだけ先に坂道を登らせて,その後を乗客が追うことがしばしば.時には乗客がバスの後ろから押しながやっと坂道を登ることもあった.
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当時のバスは,ボンネット型.客席は「コ」の字型.乗客が何人乗れたのか正確には覚えていないが,多分,座席は10名余りだったと思う.出入口には車掌.車掌は若い女性が多かった.当時は国道といえどもほぼ100パーセント歴混じりの砂利道だった.だからバスは上下左右メヤメチャに揺れた.腸捻転になるのではないかと心配になるほどの揺れである.でも,車掌は格好良かったなあ~
急坂を登っていると時々エンコする.バスが逆戻りしないようにブレーキを踏む.それでも止まらずにズルズルと後戻りしそうになると,入口近くに居る車掌が,バスから飛び降りて,近くに落ちている石を車輪にあてがって,バスがずり落ちるのを食い止める.そして素早くバスに戻る.こんなことも日常茶飯事だった.
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あるとき悲劇が起きた.
国道(だったかな?)を走っているバスが,坂道でエンコした.例によって車掌がバスから飛び降りる.バスが止まって後ずさりしなくなった.車掌がなかなか戻らない.
運転手が,
「おーい,何やってんだ! 早く戻れ!」
と車掌に声をかける.
でも車掌は戻らない.
「いったい,何やってんだ!」
運転手は苛つきながらバスを降りて様子を見に行く.
”ぎゃぁ~~! なんてこった!”
運転手が悲鳴を上げる・・・
車掌が,バスの後輪の下敷きになっていた.
適当な石が咄嗟に見当たらなかった車掌は自分が犠牲になってバスを止め,10名あまりの乗客の命を救ったのだ.
この事故のことは,当時の地方紙にも大きな記事になって紹介された(私の文章もこの記事を思い出しながら書いている).
もし,ガソリンがあればバスは坂道でエンコしなかったろう.道路がもう少し整備されていたらエンコすることもなかったろう.
若い女性が自分の命をかけた献身.これには涙せずにはいられない.もし,自分がその立場だったら・・・多分,自分を犠牲にしてまで,バスを止めようとはしなかっただろう.
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当時の日本は,列強(敢えて国の名称は記さないが)の包囲網により石油断の状態だった.戦争は列強のエゴから始まる.
戦争さえなければ,この若い女性も自らの命を絶つことなんて,なかったのに・・・
(おわり)
https://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/dd673fb347b59744e86c2514a5d21430
「戦中戦後の思い出」(索引)
https://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/07a94741579bd5ad00bda6762253638c
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