中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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戦中戦後の思い出;八紘一宇・3本の矢の的はアメリカだ!

2020年09月07日 05時07分51秒 | 戦争の思い出


        戦中戦後の余話;八紘一宇・3本の矢の的はアメリカだ!
              (戦中戦後の思い出)
         2020年9月5日(土) 晴・蒸し暑い一日

 残暑厳しい毎日が続いている。
 台風19号、20号が沖縄地方に近づいている。馬鹿デカい台風のようだ。ただ、ただ、被害が最小限に済むのを願うのみである。台風に備えて乾電池や養生テープを買い求めるために大船まで出かけたが、どうせ大船まで行くのなら・・・ということで、何時もの標準コースを少し外して、13,000歩ほどブラブラ歩きを楽しんだ。でも暑いのなんのって・・・残暑がまだまだ厳しい今日この頃である。
 もう敗戦記念日の8月15日をだいぶ過ぎているが、敗戦前後の様子を、記憶があるうちに、もう少し纏めておきたいと思う、
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 今から10年ほど前に、山仲間数人と一緒に燧岳を訪れた。そのときのメンバーは約10人、私が最高年齢で大半の人は私より10歳ほど年下だった。つまり大半の方は、今、70歳代である。私たちが登る少し前に台風の襲来を受けていたこともあって、登山道はかなり荒れていたが全員無事に登頂した。山頂近くには「八紘一宇」と刻字された石塔があった。その石塔を見て私は驚愕した。
 「八紘一宇なんて書いてある石塔が良く残っていたなぁ・・・」
 すると仲間がキョトンとしている。
 「八紘一宇って・・・何?」
と私に聞く。
 私はこれにまたビックリ仰天!
 「えっ・・!!! 八紘一宇知らないの・・・!!」
 この事実に、戦後派(焼け跡派)の私と、今、70歳代の方々との間の頭の中身に大きな差があることを改めて思い知らされた。若い方々から見れば、70歳代も80歳代も全く同じように老いぼれに見えるかもしれないが、頭の中身には大きな断層が隠れている。
 今更、ここで軍国主義の説明をする気はないので、おわかりにならない方には辞書でも引いてもらう。
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 さて、舞台を昭和20~21年に戻そう。
 私は旧制中学校1年生。
 今、思えば大東亜戦争も終末期を迎えていたが、戦争には絶対に勝つと、頭の芯までしっかり刷り込まれていた私たちは、本土決戦になっても最後にはきっと戦争には勝つと信じていた。
 そんなある日、生徒全員が大講堂に集められた。正面の壇上に、ナントカ少将(だったかな?)という偉そうな方が立つ。その頃、私の父は軍医として応召してた。父の位は軍医曹長。曹長に比べれば少将は雲の上の存在である。
 壇上には日本地図が広げられている。
 「・・・大日本帝国は千島列島、樺太・北海道・本州・四国、九州、さらに沖縄・台湾の3つの弓の弧を形成している。この3個の弓は鬼畜米国に矢を打つ宿命にあることを示している・・・」
 これ以外の話の内容は忘れてしまったが、当時の日本地図は樺太の南半分から台湾、それに朝鮮半島まで赤色で示されていてた。そしてガム島を除く太平洋の島々も赤い枠で囲まれていた。

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 この講話があって、何ヶ月も経たないうちに、玉音放送があり日本は無条件降伏した。真夏の暑い日に、自宅で直立不動の姿勢で玉音を聞いた。
 ほどなく、また私たちは、同じ大講堂に集められた。
 今度は、米国帰りという中年男性が壇上に立つ。立派な服装をしている。
 「・・・アメリカでは老人の女性でも、自分で自家用車を運転している文明国である・・・」
というように、アメリカが豊かで素晴らしい国だということを盛んに宣伝した。
 幼稚で単純な私たち焼け跡派は戸惑いながらも、案外早く新しい時代に順応していった。そんな私たちの姿を見た戦中派が、
 「お前達は芯が無い軟弱者だ・・・」
と軽蔑された。

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 2年生になってから、学校内も少しは落ち着いた。
 その頃だったかと思うが、例の「教科書墨塗」が実施された。テレビなどでもこの墨塗が話題になることもあったが、その内容は実際とは違うなという印象がある。
 確かに教科書が配られた。有償か無償かは覚えていないが、敗戦直後に配られたのは国語だけだったように覚えている。その他の数学、物象、漢文などは教科書なしで、もっぱら先生の板書だけに頼っていたように記憶している。
 この国語の教科書も今の新聞の1日分にも満たない分量しかなく、ただ折りたたんだだけで製本もされていなかった。そして小さな字の2段縦書きで印刷されていた。
 先生が、
 「○○ページの××行から△△行まで塗りつぶしなさい・・・」
と指示する。その指示に従って、筆で墨塗りする。当時はまだボールペンだのサインペンなど便利なものは発明されていなかった。
 墨塗りしたところに何が書いてあったかは、もう忘れてしまったが、「飛行機」という単語を墨で消したことだけは鮮明に覚えている。
 「飛行機なんて・・・今更墨で塗っても、もう覚えしまったのに・・・」
と不思議な気分で墨を塗った。

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 ある日、担任の教師から、
 「・・・家にある地図を学校へ持参して提出しなさい・・・」
という指示がある。地図には大日本帝国とか昭南島(シンガポールのこと)とか印刷されている。単細胞な私は指図されるままに地図を学校に引き渡してしまった。もちろんこれらは廃却処分されてしまった。
 今、思えば、その地図を供出しなければ貴重な歴史資料になっていたはずである。
 でも、今でも、その地図の内容をいくらか覚えている。たとえば東京、大阪など工業地や北九州工業地帯などはぼかして印刷されていた。
 供出してしまったなんて・・・勿体ないことをしたなあ~
                                  (おわり)

「戦中戦後の思い出」の前回の記事
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「戦中戦後の思い出」(索引)
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