先日、初めて「美術館を作った男」、について書いたところ、いつも興味深いコメントをくださる山科様からまたまた気になるコメントを頂いた。
山科様のブログを拝見したところ、「最初の美術商」というイタリア人の話が出ていたのでちょっと調べたらはまった。なかなか興味深い人物だよ、この人。
残念ながら、ページで紹介されていた「古美術1963年第2号の史上最初の美術商人--ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・パッラ :著者 三輪 福松」の本文は、現在国会図書館等が休館中のため、確認はできていないのだが、私が調べることが出来た資料を元にDella Pallaについて紹介することにする。
Giovanni Battista della Palla(ジョバンニ・バッティスタ・デッラ・パッラ)はPaolo Giovio(パオロ・ジョビオ)とほぼ同時代を生き、政治にもかかわっていたのだが、この二人正反対の道を歩んでたみたい。
言ってしまえば政敵だった。
片やフランス派、片やドイツ派というべきか。もしくはメディチ信奉派か反メディチか。
2人接触が有ったかは分からないけど、知らない仲ではなかったはず。
Della Pallaは1489年、フィレンツェで裕福なスパイス商の息子として誕生、その後の人生は、彼がOrti Orcellariに通うようになるまではっきりしない。
このOrti Orcellari、聞いたことがある。
調べてみると、2014年ここを訪れていた。更に珍しくちゃんとそこのことを書いていた。(参考)
このOrti Orcellariで開催されていたアカデミーに、Della Pallaも参加していた。
他にもFilippo de'Neri, Anton Francesco Albizi, Iacopo Nardi, Antonio Brucioli, Zanobi Buondelmonti, Luigi Alamanniといったメンバーが集っていた。
特記するとすれば、Machiavelli(マキャベリ)もここに通っていたらしく、Della Pallaの後の政治活動にMachiavelliの影響がみられる。
Della Pallaは元々Giuliano de'Medici(ジュリア―ノ・デ・メディチ)の非常に近くに仕えていたらしいが、1478年Giulianoはパッツィの陰謀で暗殺されてしまい、フィレンツェを去る。
その後ローマへ向かったDella Pallaは、同じくメディチ家出身の教皇Loone X(レオ10世)に貴重な黒貂(クロテン)の毛皮を何枚か献上して、教皇庁の出入りを許され、Cardinale Francesco Soderini(フランチェスコ・ソデリーニ枢機卿)とお近づきになる。
この枢機卿との出会いが、Della Pallaの人生を大きく左右することになる。
というのもこのFrancesco Soderiniという人、この人もfiorentino(フィオレンティーノ、フィレンツェ出身)なのだが、立ち位置が半メディチだった。
1517年7月Bandinello Sauli枢機卿とAlfonso PetrucciによるLeone Xに反する謀反の共犯認められ、教皇庁から追い出される。
しかし1521年LeoneXは死去し、コンクラーベ開催の為ローマに戻ることを許される。
ここでオランダ出身のAdriano Vl(ハドリアヌス6世)が選出された。
このSodarini枢機卿、1年数か月という短いAdriano VIの御代にも、また新たなる謀反を起こす。
1522年当時枢機卿だったGiulio de'Medici(ジュリオ・デ・メディチ)、後のClemente VII(教皇クレメンス7世)でパッツィ家の陰謀で暗殺されたGiulianoの遺児(庶子)でもある、の暗殺計画を立て、フィレンツェ政府の転覆を狙う。
この謀反には、フランス王フランソワ1世が大きく関与していた。
結局この謀反は失敗に終わり、Sodariniは1523年4月27日には財産と使用人は没収され、Castel Sant’Angeloに幽閉された。
6月、病になり、教皇に使用人を使うことは許された。
ところが9月教皇Adriano VI死去、枢機卿会はコンクラーベのために牢屋から解放される。
新しく選出されたClemente VII(クレメンス7世)に誓いを立て、枢機卿は晴れて自由の身になる。
さすがに3度目の謀反はなく、そこ後は枢機卿職を全うし、1524年5月24日多分ペストで死去。
Santa Meria del Popolo教会に葬られた。
Della Pallaはこの枢機卿とOrti Oricellariの仲間によって、反メディチに傾く。
そしてSoderini枢機卿が頼りにしていたフランス王、フランソワ1世との調停役を務めることになる。
このフランシスコ1世の援助を求めるために使ったのが、ルネサンス芸術の数々だった。
ということからDella Pallaが「最初の美術商」ということになったのだと思うのだが、これ正確には「商」ではないのではないか?
というのはDella Pallaは主にフィレンツェで手に入れた美術品(時には不当に)を、フランソワ1世に売ったのではなく、贈っている、賄賂として。
昨日丁度「日曜美術館」を見ていたら、ルーブル美術館の特集でフランソワ1世のことも出ていたのだが、「我は芸術の父に任命されたのである」と言っていたフランソワ1世は、イタリアに侵攻した時に当地の素晴らしい美術作品に触れ、自分も祖国フランスに美術品に溢れた宮殿を建てたいと望んでいた。
1515年ミラノを攻略したフランソワ1世は、Sforza(スフォルツァ家)をミラノから追放し、当時スフォルツァ家に仕えていたLeonardo da Vinci(レオナルド・ダ・ヴィンチ)をアンボワーズに招待する。
こうして、レオナルドの死後、彼の作品はフランソワ1世のコレクションに収まる。かの有名な「モナリザ」がフランスに有るのはこうした理由からで、フランソワ1世は自分の理想に宮殿としてはフォンテーヌブロー宮殿を造り、そのコレクションが現在のルーヴル美術館の基礎をつくることになる。
そしてこのフランソワ1世コレクションの一端を担ったのがDella Pallaだったのである。
イタリア語の数少ない資料を読んでいても、フィレンツェの宝、ひいてはイタリアの宝を難きフランスに渡したDella Pallaの評判はすこぶる悪い。
ただ、彼の行動はフィレンツェを守るために自分なりに良かれと思っての行動だったのだから、一概に「悪人」と決めつけることは出来ないのではないか、というのが私の個人的な感想。
彼がどれだけひどいことをしたのか、についてはまた次回。
実はDella Pallaのことよりその周辺、メディチ家のことや、教皇のことなど調べていたので時間が予想以上に掛ってしまった。
残りは次回ということでお許しを!!
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「新美の巨人たち」録画しておいたので、昨晩見ました。いつまた再び実物を見られるのか、と思うと寂しいです。
関西は明日緊急事態宣言が解除されそうなので、秋の展覧会などは予定通り見られそうですね。東京は解除されても、色々難しいと思いますので、今年は過去に訪れたところを復習することに専念したいと思います。
コメントありがとうございます。
ヴァザーリがデッラ・パッラについて書いている部分(16か所ありました。)を直接調べているところです。ネットで検索できる資料が少ないのが残念です。フランソワ1世側の資料が欲しいところです。
ひとつ前に書かれていた、コモの町にも行ったことあります。ツアーで行った最初のイタリア旅行の時、ミラノで午後、自由時間になり、一人で特急に乗っていきました。思い出深い町です。2回目に個人旅行でイタリアに行った時は、ウフィツィ美術館からヴァザーリの回廊を歩いていける現地の旅行代理店の半日ツアーに参加しました。2階の窓からヴェッキオ橋の道を歩いている人たちが見えました。
美術商のお話は、ヨーロッパの絵画をアメリカの資本家に紹介して数多くの作品を販売した美術商に関しての本を読んだことがあります。アメリカの美術館がヨーロッパ絵画のコレクションが充実しているのはこうした美術商の力があったんですね。
史上最初の美術商人--ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・パッラ (著者 三輪 福松
のソースは殆どヴァザーリだけのようです。
アンドレア・デル・サルトに依頼した聖母像を4倍の値段でフランソワ1世に売ったりしているそうです。
また、フランソワ1世からお金を預かってイタリア美術の買い付けをした、アンドレア・デル・サルトも預かったそうですが、全部使い込んでしまった、とか書いてありました。