沖縄での一人暮らし

延べ8年間、沖縄で一人暮らしをしました。歴史・自然・文化を伝えます。

海軍壕

2008-06-08 | 戦跡・沖縄戦・米軍
那覇空港の近くの高台に、旧海軍司令部壕があります。

米軍が沖縄本島に上陸したのが1945年4月1日。
本土決戦のための時間稼ぎを、沖縄で行なうため、徹底抗戦して玉砕せよという本土の指令。
陸軍の32軍は、首里城地下の司令部を捨てて魔文仁の丘へ南下したが、海軍はこの高台に築いた地下壕にとどまった。

長い階段を下りていくと、ひときわ涼しいです。
米軍の艦砲射撃に耐える構造で、4000人の兵士がいたそうです。
狭い壕の中、兵士は廊下で寝たそうです。

6月13日、自決する前に本土の海軍次官に打電した有名な大田実 少将の電文です。

「沖縄県民の実情に関しては県知事から報告すべきも、県には既に通信力なく、32軍司令部も通信余力なしと認められ、現状を見過ごせないので、緊急に通知申し上げる。
沖縄島に敵攻略開始以来、陸海軍は防衛戦闘に専念し、県民を殆ど顧みることはなかった。
しかし県民は、青壮年は全員防衛召集に捧げ、残る老婦女子のみが相次ぐ砲撃・爆撃に全財産を焼かれ、身一つで軍作戦に支障ない小防空壕に避難し、乏しい生活に甘んじている。
しかも若き婦人は率先して看護婦、炊事婦、砲弾運び、捨て身の斬込み隊を申し出る者もいる。
敵が来れば老人子供は殺され、婦女子は後方に運ばれ毒牙に供されるとして、娘を軍に捨てる親もある。
看護婦は、軍に置き去りにされた重傷者を親身に助ける。
軍が作戦を大転換し、遥か遠隔地に住民地区を指定され、黙々と雨中を移動する。陸海軍が沖縄に進駐して以来、終始一貫、勤労奉仕や物資節約を強要されつつ、ひたすら日本人としてご奉公の護を胸に抱き…。
一本一草残らない焦土と化し、食糧は6月で尽きるという。
沖縄県民、かく戦えり。
県民に対し、後世に特別のご高配を賜らんことを。」

大田司令官の部屋です。
当時のままだそうです。

こちらは、自決した山田中佐が息子に宛てた遺書。
「雅弘よ 父は「バトン」をお前に渡したよ
父が望んで達することの出来なかった更に大なる飛躍こそは、お前以外に誰が襲いでくれるひとがあろうか…」

手榴弾で自決した幹部達。
壁に傷跡が残っています。

入り口の、階段の手前側に展示室があります。
ここは無料で入れます。
年配の方、若い人、外国人が無言で展示を見つめていました。
ここは、撮影してもよいとのことでした。


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4 コメント

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marianさんへ (forever-green)
2008-06-14 09:43:24
これから死のうという時に、最後に残す言葉。
真実を伝えようとする重みがあります。

首里城地下壕から南へ動いた陸軍と、動かなかった海軍。
ガマに避難していた民衆を戦闘に巻き込んでしまった陸軍と、民衆を巻き込まず最後まで自陣で戦い電文を残した海軍。

美しい海の沖縄と、人間の過ちを知ることができる沖縄ですね。
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kururinさんへ (forever-green)
2008-06-14 09:34:42
「沖縄県民、かく戦えり」の電文です。

周囲を米軍に取り囲まれ、いよいよ自決する直前に、海軍指揮官が海軍のトップに宛てた手紙。

もし、生きて本土に帰れることができるのなら、直接証言しようという思いが、短い文章の中に力強くこめられています。

沖縄に来たら、行ってみたい場所です。
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忘れてはいけない (marian)
2008-06-10 10:01:45
沖縄県民は最後まで戦ったんですね!
涙が出そうな文面でした。

>県民に対し、後世に特別のご高配を賜らんことを
この言葉に託された思いとは反して・・・・・・。
沖縄県民だけでなく、多くの人に真実を語り続けてほしいと願わずにはいられません。
もちろん、私もその1人!
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絶句です (kururin)
2008-06-08 23:02:54
なんと言ったらよいか、言葉が見つかりません。

沖縄の方々こそ、捨て身で国のために戦ってくれたのですね。

「県民に対し、後世に特別のご高配を賜らんことを」
という言葉が印象的です。

あの時代、戦争で人を傷つけ、命を奪ってきたのに
今の時代は、自然破壊までも・・・

ひとりひとりが歴史を振り返り、過去の出来事をちゃんと見聞きし、
今を、これからをどう生きていくかが問われる時ですね。
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