龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

読むべし!『ホハレ峠』もしくは辿り着かない大西暢夫論のために(その1)

2020年05月15日 11時04分01秒 | 大震災の中で
仕事が非常勤時間講師のため、この非常事態宣言で4月後半の仕事がなくなった(当然そこは無給)。
かといって、この自粛(騒ぎ)では出歩くこともできない。
(「騒ぎ」などと書くとお叱りを受けそうだが、自粛はちゃんとやってます。でも、納得はしてないよ、という程度の意味です。)
というわけで不本意ながら超暇になったので、以前からやろうやろうと思いながら果たせていなかった、母親の家系と人物の説明図の作成をようやく実行に移した。
不本意といいつつ、仕事が休みになるのはちょっとワクワクする面もある。
仕事は社会貢献でもあり、自分にとって大切な経験の場でもあるのだが、結局お金のための我慢しているという側面もゼロではないから、4月から働き出したはかりだというのに仕事がなくなってホッとしている自分もあって、それもなんだか「ヤレヤレ」なのだけれど、それはさておき。
母親は現在88才。
福島県いわき市で生まれた。
父親(つまり私の祖父)は炭坑の街湯本の、母親(祖母)は勿来の出身だ。
私の母親が知っている範囲で、片方半日ずつ時間をかけて聞き取り「調査」を実施した(笑)
出てきたのは、私を含めて5五世代の話だ。
第一世代→昭和30年代の私。
第二世代→昭和初年代の母親
第三世代→明治末期の祖父母
この三世代までは私が知っている範囲だ。祖父母の兄弟は見たことがあるし、その子まではなんとかわかる。分からないまでも、いわゆる福島あたりでいう「マケ」つまり一族の範囲ぐらいは一応なんとなくきいたことがある。
つまり、第四世代、私にとっての曾祖父母(母の祖父母)までは、私にとっての「血の意識」が、届く範囲といっていいだろう。その上の第五世代(私にとっての高祖父母)までは名前は分かるが、その親戚とか一族のことは分からない。どこの「安島」という「マケ」から(第五世代の)お嫁さんが来たのか、という話になる。
第四世代→明治中期
第五世代→明治政府ができて以後
第六世代→明治初期に戸籍を買って長男となった、などの「言い伝え」のみ残る
といったところか。もはや第六世代になると実態は分からない。
ちなみに法律上の「親等」という概念は、自分を0と数えるので両親が一親等、祖父母が二親等、曾祖父母が三親等、したがって高祖父母は四親等。
他方、世代という横の帯の区切りで考えると、自分を一世代とと捉えれば、全部で5つの世代ということになる。
そしてこの系図聞き書きが、意外なことに、抜群の面白さだった。
 今、抜群の面白さだったと書いたが、私の中ではその面白さが今回書こうとする『ホハレ峠』の面白さに繋がっているので、もう少しお付き合いいただければありがたい。
かつてアメリカで『Roots』という小説が爆発的に話題となった。そのTVドラマは日本でも高視聴率だったと聞く。自分のルーツを知りたいという思いは分かる。ましてアフリカ系アメリカ人の作者にとって、当時それを掘り起こして形にすることは、強いモチベーションに支えられた仕事だったと想像できる。
だが、私が面白かったのはそういった祖先探し、ルーツ探しの魅力ではない。
ポイントは「語り」だ。今まで、母親・父親・祖父母が繰り返し断片的に語ってきた「マケ」の話、どの世代どこに住む親戚だかも分からない人の名前が次々に出てきて、そういう人がいたということだけは印象にのこっているものの、いわゆる分家の「マケ」が字(あざな)の名で呼ばれたり、通称で言われたり、襲名された本家(父方は商家だったので、嫡男は同じ名前も継いだのだ。そりゃわからなくなるよね)は違う人が同じ名前で呼ばれていたり、もはや『百年の孤独』かってカオス状態だった。
おそらく皆さんの多くも、お年寄りの話を若者が「傾聴」する習慣が最近出来てきて(いいことです)、いろいろな昔話を聴く体験をしていると思う。
で、これが再構成困難なのだ(笑)
母親が生きているうちに系図とヒモづけて話を聞くことができた結果、五世代にわたる「マケ」の全貌が母親の父方、母方2系列に渡って再構成することができた。
ああ、あの身代を潰したといわれる「細めのコウゾウ」さんは、そういう人(商才がなくて、お店を預けられたのに、イケメンでモテて、お店の売り物の高級たばこに手を着けるひとで、結果身代を潰した人)だったのか、とか、街の世話役をやっていた三代前の当主はお目かけさんと正妻の間でだいぶ「苦労」したとか、「行かず後家」の人たちは、「マケ」の中の繁盛していた家が引き取って「お二階姉さん」としてその家の切り盛りを奥さまに代わってマネージメントし、みんなに一目置かれていたとか、様々な人の生きている様子が、極めてリアルに立ち上がってくることになったのである。
それはいわゆる自分のルーツを辿る「旅」とはちょっと違う悦びだった。
ルーツを辿るとは、たった一つの、もしくは少数の、自分の血筋の原点にむけて遡行(ソコウ:さかのぼること)する「旅」がメインになる行為、とみていいだろう。
私(ブログ子)が驚いたのは、そういうことではない。
まあ、面倒臭い話をちょっとすると、わたしの祖先はたった一つの血統に収斂するはずがないものだ。遡れば遡るほど、祖先は広がっていく。当然至極だ。父母は2人、祖父母は4人、曾祖父母は8人と、さかのぼれば遡るほど広がっていくではないか。そしてそこから改めて下の世代をみれば、あたかも扇状地のように人々の血筋は広がっていく。
つまり、ルーツが一つというのはほぼまちがいなく都合の良いフィクションにすぎない。
「万世一系」のくだらなさは言うに及ばず、だが、そういう話は今はどうでもよい。
語り始めたのは良いけれど、まだ『ホハレ峠』にたどり着く気配がないのには正直困るが、もう少しお付き合いいただきたい。
まとめて言えば、あまりにも多様な「生きること」の集積に、驚いた、ということになるだろうか。
そんなことは当たり前のこと、かもしれない。まあ、そうだろう。親戚を辿れば人間の数が増えていくことは、小学生でもわかる。たが、これはそういうことで「も」ない。
たった1人のルーツ探しが特権的な系図を称揚する(ほめたたえる)ためのフィクションであるとするなら、他方で親戚を辿ってカウントしていけばいろんな人がいるという話は、結局のところいろいろあるよね、という数に解消された抽象にすぎなくなってしまいかねない。
かつて年寄りの話を聞いていたときには、意味が分からず退屈で、ただ祖父母に付き合うためにだけ聴いていたような断片が、お話の総体に適切に配置されることによって、生き生きとした相貌(かおかたち)を獲得していく過程がそこにあったからだ。
いや、もう少し正確に言おう。
断片だけの話は正直聴くのがツラい。
ちょうどガルシア・マルケスの小説『百年の孤独』の最初の100 ページを読んでいるときの気分のようだ(笑)
だが、丁寧にメモをとって話をきいていくと、その断片が次第につながり出し、最後には全体像を結び、かつそれが大きな100年の流れとして把握できるようになっていくのだ。そこに立ち現れる悦びは、語りを聴く体験におけるレイヤーというか、次元というか、そういうものもまた多層的なのだと気づかされ、そのことにも感動を覚えてしまった、のだろう。
やれやれ、いくら書いても『ホハレ峠』に辿り着かない。
ここはさらにゴールデンウィーク後半に読了した
『百年の孤独』ガルシア・マルケス
を迂回して騙らなければならない。読んでくれる奇特な人がいる、と仮定しての話ですが。

ついに『百年の孤独』を読み切った(飲み切った、ではありませぬ)。

2020年05月11日 12時35分00秒 | 大震災の中で
ガルシア・マルケスの長編小説『百年の孤独』をようやく読み切った。
中身を忘れないうちに感想メモを書いておく。

hontoのサイトにはこうある。
https://honto.jp/booktree/detail_00000795.html

[「一般的なファンタジー小説とは一線を画す「マジックリアリズム」をご存じですか?ラテンアメリカの文学で隆盛をきわめたその技法は、ただ怪奇を描くだけでなく、それがその世界での常識として表現されることで、よりいっそう数奇な味わいを感じることができます。さあ、新しい不思議の扉を叩いて、異常な日常をご堪能ください。」
また、『百年の孤独』の紹介文には
「「蜃気楼の村」であるマコンドが、勃興し、隆盛をきわめ、やがて廃墟となるまでの百年間を描いた小説です。開拓者たちの絶望と希望、生と死、そして孤独。明らかに非現実の世界であるのに、圧倒的な現実感を伴う物語は、マジックリアリズムを冠するにふさわしい説得力に充ちています。」https://honto.jp/booktree/detail_00000795.html
とる。

いずれもhontoのサイト

私も読む前は、その「マジックリアリズム」を体現した、たいそうイメージ豊かな、そしてそれゆえにリーダビリティに難ありの、本格的南米小説という印象を抱いていた。

今回、コロナ禍による自粛GWを奇貨としてプライベートな読書会の課題図書に友人が挙げたこの本を、だからたまたま読んだわけだが……

とにかくめっちゃクチャ面白かった。マジックリアリズムとか、読んだことがないひとの戯れ言か、と思った。


何が「マジック」なものか。
ある意味、これこそ小説ではないか、という思いがわき上がってくる。
確かに、不思議なことはいくつか起こる。
気がついたことは二つあって、一つは不眠症の解決方法であり、もう一つは小町娘の行く末だ。
だが、それは別に「マジック」とかいうほどの話でもない。まさか幽霊が出てくるから「マジック」とか言っているわけではあるまい。そんな物語なら星の数ほどある。
むしろ「誰に幽霊が見えないのか」というのがポイントかもしれないが、それは今は措く。

少佐の一代記であるかのように始まる話が、それで終わらず、むしろ次第に実は軸となる登場人物はウルスラ(イグアラン)<町を開拓した第一世代、ブエンディア家の「グレイトマザー」>であり、ピラル(ネルネラ)<作品の最初から最後まで生き続ける占い師であり売春宿の主>であると気づかされていく。しかしもちろん、男の物語から女の物語へ、とズレていくだけの話でもない。

「マジックリアリズム」という言葉の裏には、北側に「マジックでないリアリズム」があるという前提にたった視線があるだろう。その視線が「読み手=私」の中で解体しはじめてから、作品が本当に楽しくなっていったのだ。
これは個人的な体験なのだろうと思うけれど、そのまた陰には、北(アメリカ)が中・南(アメリカ)に当時強いていた政治的な圧力を考えれば、のんきに「マジック」とか言っている場合じゃないだろう。個人的読書体験で終わらせてはなるまい。

いったいリアルはどちらの側にあるのか、と考えてしまう。

男は女を求め、女は男を求め(あるいは拒み)る当たり前の多様な豊穣さが、そこにはあるではないか。あるときには近親相姦のタブーを拒み、あるときにはその線を越えようとする。あるときには革命に燃え、暴力を行使しあるいは怯え、あるときには内に籠もって夢想する男達に対し、様々なものに縛られつつ支えられ、それから解き放たれようとし、それらさまざまな営みを成就させていこうとする執着を生きる女たちの姿は、本当にここに「生ー性」がある、との手応えを与えてくれるのではないか。

また、『百年の孤独』という題名にも惹かれる。
ネットで検索すると、そのほとんどが焼酎の名前としてヒットするのだが(笑)、そのネーミングはこの小説を多分に意識したものではないかと推測(根拠はないが)してみたくなる。

「百年」は5世代にわたる「ブエンディア家」とマコンドの町の栄枯盛衰を示す言葉だとみてよいだろう。
では「孤独」はどうか。

作品中の「グレイトマザー」ウルスラは、作品の中で、一族の者が抱えるさびしさというか憂鬱のようなものに繰り返し言及している。その一方の極に、この作品の登場人物中おそらくたった一人だけ(読み過ぎかな?)幽霊を見ることがない大佐が位置しているとはいえるだろう。
たとえば三人の次世代についてウルスラが考える次の部分を見てみるとよい。
ウルスラの、次男アウレリャノ大佐に「愛の能力の欠如の明白なしるし」を見いだし、男を拒み続ける三女アラマンタにその拒否の身振りの中に「底知れぬ愛情と自分ではどうにもならぬ恐れの葛藤」見いだし、そして子供同様に育てたレベーカにこそ「自分が息子や孫たちに望んだ奔放で大胆な心の持ち主」を見いだしている(ガルシアマルケス全小説版P292~P293)。
だがおそらく、ここにあるのは、少佐=孤独、アラマンタ=逆説的な愛、レベーカ=自由、が内面化されているという話ではら、全くない。
ここに描かれているのは、(北)アメリカ(と私たちパクスアメリカ-ナの中で生きてきた現代人たち)がそうであるような近代的個人の孤独や愛、そして自由ではおそらくない。

そうは書かれていない。

むしろ奔放に豊かに生ききる登場人物達が、同じような名前を次々に引き継ぎつつ、同じことを繰り返していく、その繰り返しの中で町が生まれ、繁栄し、衰微し、終焉を迎える……その時空が「孤独」で満たされている、ということであり、「愛」にも満ちているということでもあるのではないか。

あえて言うなら「孤独」(1)ではなく、「孤独」(2)をそこに見る必要がある。
5世代に渡り、血を濃く受け継ぎ、名前も受け継ぎながら模倣し繰り返されるような多層化された一族の人生の「孤独」は、町が広がり、さまざまなシーンを経巡りながらその寿命を閉じていく町の100年の「孤独」と正確に響き合っている。
そこでは「愛」も「孤独」も「自由」も、拒む身振りや革命の流血や、土を食べる奇癖とともにある。それらの人物達に、「愛」なり「孤独」なりの言葉がもたらす原因を尋ねてみても、しょうがないんじゃないだろうか。

人間の諸様態が丁寧に描かれている「幾何学」が見えてくるような気すらする、といえば、スピノザかぶれのおじいちゃんの妄言、ということになるのだろうね(笑)。

だが、この作品は徹頭徹尾丁寧な記述に支えられた律儀な物語だということは言っておきたい。
だから、丁寧に読めば人物を混同するのではなく、むしろ正確に描き分けて豊穣な枝葉が絡み合っている様子が浮き上がってくる仕掛けになっている。マジックはむしろ、単純化してしか物語を読めない私たちの側の「瞳の中」に装着されていた装置の別名ではないのか?そんな風にも思えてくる。

前評判にとらわれず、挫折した何人もの愚痴をとりあえず横において、ゆっくりじっくり、人物の名前と世代のメモぐらいを軽くとりながら読み進めさえすれば十分なんじゃないかな。

コロナ禍の自粛騒ぎに終始したGWも、そうでなければ絶対に読まないまま終わっただろうこの小説を読ませてくれたという意味では、ありがたいものだったのかもしれない。

ぜひ、お勧めです。

だいいち、なにかスポーツをやり遂げたような達成感も得られますし(笑)。







#百年の孤独

観るべし、大西暢夫監督作品『オキナワへいこう』

2020年05月11日 12時30分26秒 | 大震災の中で
大西暢夫監督に初めて会ったのは、今年の春(2020年3月14日)のことだった。

昨年の夏からずっと、大西監督に福島へ来ていただき、『水になった村』<2007年8月4日(土)公開>という映画の

上映会&監督を囲んでの対話の時間&その後じっくりお酒を酌み交わす……

という計画を立てていた。自分たちの仲間でやっているエチカ福島というイベントの第14回になるはずだった。フォーラム福島の阿部さんにサポートいただき、映画館で上映していただけることにもなっていた。特に計画を発案した友人のAは、大西暢夫監督に惚れ込んでおり、この日を心待ちにしていた。

そこに折からのコロナ禍だ。
一時は感染症対策を呼びかけた上での開催も考えたが、最終的に諸事情を勘案して開催を断念することに決めた。

だが、イベントは中止したものの、大西監督のスケジュールもガラガラになっていると聞き、イベントとは別に大西監督を迎えてお酒のみをプライベートで企画することになった。
そこでうかがった話がメチャメチャ面白かったのだが、それは最新刊の『ホハレ峠』の内容だった。
翌日、監督と朝食をとりながら、「『オキナワへいこう』という映画ができたんだよ」という話をうかがう。
これがまた抜群に興味深い。20年間毎週『精神科看護』のグラビアを撮影しつづけていて、その結果としてできあがった映画だという。
『水になった村』という映画、『ホハレ峠』という書籍も、何十年もの時を跨いでできあがった作品で、その取材の重さを感じていたが、『オキナワへいこう』も粘り強いというか、日常との出会いを継続してきた大西監督ならでは、の作品になっている。

前置きが長くなった(コロナ禍で時間だけはあるので)。
連休中、5月2日から、vimeoというサイトで期間限定有料配信がなされていた(再延長がなければ現在は終了、のはず)ものを観た。

すてきな映画だった。
70歳を過ぎた長期入院者の女性が、「沖縄に行きたい」という願いをカードに書く。それは院内のイベントか何かで書いたのだろう。ただし書いた経緯は映画には出てこない。そこも、いい。「沖縄に行きたい」という初期衝動が設定されていて、しかし映画はその直後、その女性が「私いかない」とかたくなに「あきらめる」ところを映し出す。女性の発案で5人の患者さんが沖縄に行く計画に乗り、みんなその気になって看護師と旅行のバッグや荷物を準備始めている時に、である。

映画は、日本の精神科病院が、世界標準からは大きく逸脱した(超)長期入院患者を抱えている「文化」について声高に批判したりはしない。

監督は「明るい映画」にしたかった、とメイキングの自己インタビューで語っている。
そうなのだ。この映画はどこかその「明るさ」に支えられて進行していく。

沖縄行きを希望した人の全てがそれを断念したわけでもなく、全ての人がいけたわけではない。
そのイベントの成否だけが重要なのでもないだろう。
映画が、けっして「オキナワ」にいけるどうかのドラマを描こうとはしていない、ということでもある。

徹底して映画が重視しているのは、おそらく、(ブログ子の感覚でいえば)「出会いを待ち続ける」(by ジル・ドゥルーズ)姿勢だ。具体的で繊細な出会いが、大西監督の映画には溢れている。そしてその出会いは、一瞬一瞬の一期一会で終わるのではなく、「弱い」つながりが「持続する強度」に支えられている。

後半、「オキナワ」に行った患者さんの一人に恋人ができる。その「出会い」についても映画のカメラは丁寧に追っていく。ただ恋人に出会うことだけが重要なのでもない。オキナワに行くという「物語」が重要なのでもない。この映画の目は、そういうことを跨ぎ越して、「生活」をつないでいく。

この感じは、ぜひ映画を観て味わってほしいと思う。
映画が何か人生の一部のシーンや物語を切り取ったり物語ったりするだけの現場ではないことが、そこことこそがしみじみと「明るい」姿勢を肯定できるのだと、分かってくる(ような気がしている)。


映画『オキナワへいこう』も映画『水になった村』も、最新刊『ホハレ峠』も、そういう明るくて丁寧で、繊細で
出会いを大切にしつつそれを長い時間紡いでいく努力の持続を厭わない瞳に支えられている。

私たちが必要としているのは「新しい生活様式」ではけっしてなく、この映画の瞳の力なのだ、と実感した。

ぜひ、観てください。





♯大西暢夫 ♯オキナワへいこう

第12回エチカ福島「公害事件と世代間伝達-水俣事件を第二世代はどのように考えてきたのか」

2020年04月12日 20時03分09秒 | 大震災の中で
第12回エチカ福島の内容まとめができました。
2019年8月17日土曜日
ゲストにガイアみなまたの高倉草児さん・高倉鼓子さん(ガイアみなまた)をお迎えして、

「公害事件と世代間伝達―水俣事件を第二世代はどのように考えてきたのか」

というテーマでお話をいただきました。
そのまとめができましたのでここにアップします。

【ガイア水俣の歴史と高倉兄妹】

草児
 まず僕らの話をさせていただきます。ガイアみなまたで働いていると言いましたが、もともと僕の親父は千葉県茂原市出身で、若い頃に社会運動というか旅をして九州に来ました。そのとき熊本で本田啓吉さんという水俣闘争の思想的リーダーにたまたま出会った際、「今水俣が熱いからそこへ行ってみなさい」と言われた。そのまま水俣に居ついたのが親父でした。おふくろはまた別の理由で水俣に来たと思うのですが、詳しく聞いていません。とにかく流れ流れて水俣に残りました。親父は水俣に移り住んでから、水俣病患者の川本輝夫さんと、水俣病の見えない患者さんたちをどんどん発見していって明るみにさらしていこうという未認定患者掘り起し運動をしていました。



鼓子
 未認定患者というのは、水俣病に認定されていない人々を指します。水俣病は県知事の判断でもって認定か棄却かが決まるので、医師の診断ではありません。そもそも認定申請制度を知らなかったり、申請すること自体に差別的な視線が注がれていた背景もあって、側から見れば水俣病の症状があるように見えるのに、申請されていない方々が多数いました。父はその掘り起し運動に取り組んでいたんです。
草児
 本来は国や県が未認定患者の掘り起こしをしなければいけないのですが、そのような方々がたくさんいたというので父はその運動に取り組んでいました。さきほど主催者から「相思社」というワードが出ましたが、正式名称は水俣病センター相思社といって1970年半ばに構想されて建てられた施設です。目的の一つが、患者さんとその家族の拠りどころにしようというものでした。
鼓子
時代的に1970年半ばは、水俣病第一次訴訟という大きな裁判で勝訴した患者たちがその後どう生きていくかという問題がありました。勝訴はしたけれど、患者さんの人生はそこで終わりではないので、地域で孤立している患者さんがどう生きていくのか。その生業や運動の拠点としようとしたのが相思社でした。
草児
 運動も続いていたので、相思社の中でも裁判を支援したり、患者さんとの共同作業という意味ももちろんありますがもう一つには相思社自体の運営のためにもキノコ工場をつくったり、堆肥をつくって売ったり、長野県までリンゴを仕入れに行ってそれを配達して売ったりだとか役割を分担していました。いろいろやっていく中で、今も残っているのが甘夏づくりです。当時、不知火海沿岸を中心に漁師として生業を立てていた人たちが水俣病を発症して生活できなくなっていたという経緯があるので、甘夏が熊本県下で栽培を奨励されていたこともあり、甘夏づくりに向かう患者さんたちが出てきます。第一次訴訟勝訴の後に、その人たちが生きがいとして何をしようかということになりました。ランクが決められ、1600~1800万円の補償がもらえることなったのですが、そのお金は医療費の借金のカタなどに消えて何になるのかということになります。そのとき、運よく甘夏があり、じゃあ陸に上がろうということになりました。出稼ぎなどで稼いだお金で根気よく苗木を買って一本一本植えていきました。そのとき植えた苗木が今でも現役です。その患者さんたちの甘夏づくりに対して、主に販売事務局としてかかわったのが相思社だったのです。親父たちは相思社で仕事をし、甘夏については特に生活クラブという生協とおつきあいが始まって販売量も増え、何とか生活ができるようになりました。甘夏をつくっている主体は患者さんたちだったので、その団体名を「水俣病患者家庭果樹同志会」(以下「同志会」)としました。それが、いま「きばる」という名前に変わっています。そのときにはまだガイアみなまたはありません。ガイアは1990年に出てくるのですが、1989年に起こった「甘夏事件」というのがきっかけになります。当初、「同志会」をつくった際に、水俣病の被害にあった人間ができるだけ加害者にならないようなものづくりをしようというスローガンを掲げました。農薬や化成肥料が改善要素の最たるものでしたから、農薬はできるだけ使わないようにしよう、肥料も有機質のものを施肥しようと決めて、つくっていました。だから、農協さんとは違う流通網を立ち上げる必要があった。そこに協力してもらったのが生活クラブ生協さんや、日本各地で甘夏を買ってくれる人々だったんですね。やるからには独自の基準をつくらなければいけない。たとえば酢とか焼酎を代替資材として使って甘夏をつくるであるとか、農薬を減らしているので外観は市場のものと異なるよ、という基準を外部に示していました。ところが1989年にカイヨウ病がかなり流行ります。カイヨウ病とはコルク状の斑点がミカンの皮につく病気なんですけれど、これに加えて裏年というか生産量の少ない年だったんです。欠品がかなり見込まれたので、相思社の甘夏部門が同志会の基準に合致しない、会員外の甘夏を手配して補填したんです。それを消費者にあらかじめ伝えておかなければいけなかったんですけれども、できなかった。それは不義理じゃないか、水俣病の裁判支援や患者さんとものづくりをする人間たちがいかがなものかと、ある新聞の一面に載ってしまった。その片を付けなければいけないということで、父や母たちを含む相思社の一部メンバーが引責辞任しました。もともと、よそから水俣に入ってきた人間ですから地元に帰る術もあったのですが、せっかく植えてつくった甘夏があって、その甘夏をつくり続けたいという患者さんたちも数人おられた。だからもう一度、不義理してしまったことを反省して、再スタートしたのがガイアみなまただったんです。とはいってもその経緯については本で読むだけの知識しかないので、本当のところを僕らが理解できているわけではありません。はじめ9人のメンバーがいて、引き続き甘夏の販売を担うことになりました。ただ、「水俣病患者家庭同志会」という名前は使えないので、「きばる」という名前に変えたわけです。それで、資料にあるのはガイアみなまたの通信です。ガイアみなまたを立ち上げた頃から出しているのでもう59号になります。そこに親父たちの思いをコラムとして載せています。我々兄妹は相思社の時代に生まれ、そういった親父たちの背中を見ながら育ちました。
鼓子
大きくなってから気づいたんですけれど、ガイアみなまたが他の会社と異なるのは、共同生活の場でもあるという点です。当時5つの家族が集まって有限会社を立ち上げたんですけれど、貧乏なのでお昼と夕飯はみんなで食べる。子どもたちもまだ小さく、総勢20人くらいで食卓を囲んでご飯を食べる日々で、車もシェアし、保育園のお迎えも親たちが交代でしていました。【親の水俣闘争に無関心な子どもたち】
草児
堆肥もつくっていたからか、蠅なんかが飛び回ってすごい環境だったね(笑)。今日話すことはある意味特殊なことかもしれません。親父たちは水俣病に深くコミットしてきた、そして甘夏づくりの背景にあるのは水俣病患者さんたちとの共同作業です。そこで育ってきた我々なんですけれども、それだけのバックボーンがありながら、全然水俣病のことを知らなかったというか、知る気がなかったというのが高校生までの生活でした。目の前には水俣の海が広がっていましたし、僕なんかは小学生の頃からずっとその海で泳いだりして遊んでいました。けれど、全然水俣病に興味関心がなかった。
鼓子
私も、小中高を通して水俣病に興味がなかったし、父親にそういう話を聞くこともなかった。学校の授業で、水俣病について教科書の勉強だけでなく語り部さんの苦しみや思いを聞く時間はあったのですが、チッソについてみんなで話そうとか水俣病事件について深く考える場というのは授業の中にはなかった。当時そういう教育は受けていないと思っています。

草児
高校卒業するときも、僕は大学に行くんですけれど、大学に入りたい理由というのが水俣を出たいからというものでした。何もない水俣から出て、早く都会へ行きたい。結局神戸の大学に通ったんですが、僕の話をすると学部の同級生たちから「お前、水俣出身なんだぁ。水俣出身なら水俣病のことを教えてくれよ」と聞かれます。でも、全然知らないから、「本でも読んでおけよ」と言いながら、僕は隠れて図書館でこそっと本を読むんですよ。色川大吉さんの『水俣の啓示』という本とか。無茶苦茶おもしろいなと思いました。 だから、僕は大学の図書館で初めて水俣病と出会ったわけです。風景としては、さきほど言ったように、水俣の海は目の前にあったし、親父たちが甘夏を売っていたし、水俣病の患者さん、特に胎児性の患者さんたちがガイアの事務所に遊びにきてくれていたので、一緒にご飯を食べたりなんかしていたんですけれども、それはよくも悪くも日常風景の一部だったので、彼らが水俣病患者だということをまったく意識しないんですよ。○○さんっていう個別の名前でしか認識していなくって、胎児性の患者さんとしては認識していない。今考えると、そこは不思議なところなんですけれど。



鼓子
 私の場合は、ちょうど私が大学に入学した2006年以降、明治大学や和光大学で水俣展が開かれていたので、水俣を外に行ってようやく知りました。水俣ってこんなに注目されていて、こんな立派な展示があって、土本さんのドキュメンタリー映画もそこで初めて見るという。外に出てようやく注目されていることを知って、勉強しなければいけないなっていう気持ちになりました。2006年は水俣病公式確認から50年でもあったので大々的に水俣が報じられているのを見て、水俣出身なのに知らないのはまずいなと思いレポートを書いたりしましたが、そこで止まっています。それ以上発展させようという気持ちはなかったです。
草児
僕も図書館で本を読んだといいましたが、詳しい学術書をたくさん読んだわけではなく、ミーハーなんです。緒方正人さんの「チッソは私であった」なんて、カッケーなぁって思ったりして。今思えば恥ずかしい限りですが、そういう表面的なところでしか触れていなかった。
鼓子
展示を見に行くと、知っている人がいっぱい写っているんです。ふだん自分の周りにいる人たちがメディアに写って、写真に切り取られているときのカッコよさ。こういう人と知り合いなんだなぁと思いましたが、それ以上深くは考えませんでした。

草児
 大学卒業後、僕はとある生協に入りまして、一年間コールセンターに配属されたのですが、その窓口業務に耐えられるほどできた人間ではなかった。次の年には、仙台で冷凍食品の営業を10か月したんですけれど、そこでぐうの音をあげてリタイアをし、そのまま水俣に帰って来たんです。まったく胸の張れる帰り方ではなかったんです。ほうほうの体で逃げ帰って、たまたま親父たちがまだ甘夏をやっていたから、働かせてくださいということでギリギリ働かせてもらえたんです。他にどこに再就職するとか考えなくて。そのとき自分はどこにも適応できない弱い人間だと、すごい思いながら逃げ帰ったので、何も考えず実家に戻ったというのが正直なところです。
鼓子
私の場合は大学卒業して東京で就職したんですけれど、じつは就職活動をする前にガイアみなまたに入ろうとしました。農業に興味があったので、農地もあって甘夏も植えてあるガイアは魅力的でした。水俣病のことを何かということは一切頭にはないんですけれど、親がやってきた甘夏の仕事を継ぎたいという単純な気持ちで、就職活動する前にガイアで働きたいんだと父に相談したところ、「やめてくれ。お前が帰ってくる場所はない」と言われました。父は私が外で働くことを望んでいたし、大学も必ず卒業して、それから広い世界を見て来いと。もしガイアに戻って来たいと思っても、一回違うところに就職してからにしろと言われていたので、一度農業法人に就職しました。が、兄と同じで、私も東京での暮らしが合わなかったので水俣に帰りました。でも、私が水俣に帰って水俣病を伝えるんだとか、そういうキラキラしたことはまったくなくて、居心地のいいホームに帰りたいという気持ちが強かったんです。
草児
ここが重要だと思うのですが、親父は帰ってくるなと言うんですよ。一回飲んでいるときに、「ここはちょっときついぞ」と言われたことがありました。
鼓子
水俣病のことも、何で私たちに伝えてくれなかったのかなと、大人になってから思っていて。
草児
僕らは知ろうともしなかったんですけれど、親父は逆に自分がやっていることを伝える気があまりなかった。
鼓子
なぜだったのかと聞いたら、自分が話すと偏るからと言われました。被害者の立場に立って、裁判も一緒に闘っている人間の言葉を子どもに聞かせると間違いなく自分の方に寄ってしまうから、そうではなくて自分で学んで判断してほしかったと。「君たちが聞かない限りは、何かを伝えようとは思わなかったし、興味があるならば答えようと思っていたけど、聞かれることもなかったから」と言われました。
草児
でも、「闘う人」というのは滲み出てましたけどね。親父に電話がかかってきたときのことです。最初親父も礼儀正しいのですが、いきなり「もう知らん!」と言ってガンと電話を切って、「塩まいとけ!」と言うんです。激しいんです。だから、この人は闘っているんだというのは、言わなくてもわかる。小学校の頃ですけど、何かの会議から帰って来るなり、「うわー!!!」と叫んで畳をドンドン叩き出すんです。すごく鬱憤がたまっているんだ、というのは傍目に見てわかるんです。
鼓子
裁判や交渉などで父がメディアに取り上げられ、テレビに出てくるんですけど、何で父が出てるのかわからないのと、水俣病にかかわっていることをあまり友達に知られたくないので、次の日に学校で友達から「お父さん出てたね」と言われても、「へぇ~」と流していました。あまり自分も深く知ろうと思わなかったですし、恥ずかしいと思っていました。父が水俣病にかかわっている人として出ることが嫌でした。
草児
結局、今ガイアみなまたで働いているんですけれども、帰って来た当初は特にそれぞれ何も考えていなかったのが正直なところです。ところが、年を経ていっぱしの大人として扱われるようになると、水俣の見え方というか、かかわり方が少しずつ変わってきます。一つは地域にかかわる共同作業とか、町おこしの中で地域にかかわるようになると、ガイアみなまたという評価がもろに出てくるんですよ。ガイアみなまたというと、くり返しますが、元々は相思社で働いていた人間がやっている会社です。じゃあ、相思社で何をやっていたんだというと、患者さんの支援をしています。語り継ぐという作業をやっていますと。そこで、ちょっとうがった見方をすると、色がついてしまう。「あぁ、高倉さんの息子さんね」というのはある種のレッテルなのかなと思って、最初は変に反発もしていました。そういう風に見られると嫌でも意識せざるを得なくなる。親父がやってきたことは何なんだろう、ガイアみなまたが今やっていることって何なんだろう。ガイアみなまたで働くことで私たちができることって何なんだろう、と次は自分のレベルで考えるようになる。水俣って今、「再生」、「環境創造」とか明るい方へ明るい方へ向かっている。それはとても大切なことなんですけれど、それと「水俣病事件が解決した」ということとは、ちょっと違う。何でもそうだと思いますが、過去の事実、失敗や衝突や努力の積み重ねが土壌として重なり合って、その上に未来が花咲く。だから過去と現在、そして未来は簡単に切り離すことができないんですよね。そんなきれいに花は咲かないよ、と。そこに違和感があって、だからせめて「いや、今もむっちゃ大変なんですけど何とか前に歩いていこうとみんなギリギリ頑張ってるんですよ」みたいな、地に足がついたところのもどかしさを伝えたいという思いもあります。一度、環境省主催の講演会が東京であって、僕らパネリストで招かれたんですけど、「あばぁこんね」という団体による町おこしのような事例を報告した時に、最後のまとめで「若い人がこんな風に未来に向かっていろんなことをしようとしている。水俣ってすばらしいですね」みたいなまとめを、当時の環境省の事務次官がまとめようとしたので、僕が思わず「まだそんなんじゃないと思います」と言ってお茶を濁してしまったことがありました。全然、すばらしいことができているとも思っていなかったので。とにかく自発的ではないんです。周りから、外的要素から自分を考えるようになったんですよ。
鼓子
私は2016年にガイアで働きはじめ、「きばる」をやっているけれど、そもそも「きばる」の生産者27軒の人たちがどういう人たちかなのか知らなかったんですよ。ずっと父たちの代からお世話になっていて、その甘夏の売り上げのおかげで私たちは生きてこられたのに、どういう人たちがつくっていて、どういう気持ちでやってきたのかまったくわからなかった。だから、兄と一緒に話を聞かせてくださいと聞き取りにまわったんです。そのときに、女島という地区に住んでいる緒方幸子さんから「あんたたちのお父さんたちが運動してくれたおかげで今があるとよ」って言われて、凄くびっくりしました。「高倉さんの名前聞いて、ここで感謝せんもんはおらんよ」って。お世辞もあるんだろうけど、それでも本当にうれしかったです。やっぱりどこかで私は父たちがやっていることを恥ずかしいと思っていて、やってきたことはあまり地域で受け入れられていないし、相思社やガイアみなまたという存在がよそ者の集まりで、水俣を混乱させているという見方をされているんじゃないかと、ずっと思ってきたので。60代以上の方々からは直接そのようなニュアンスで言われることもあって、相思社というだけで「ああ、あの相思社ね…」みたいな。そういう気持ちもあって、自分も父母がやっていることを評価できていなかったので、あらためて「来てくれてよかった」と言ってもらえたことがうれしくて、そのときからようやく私は父たちがやってきたことを知らないといけないなと思って、私の場合はそこからぐっと水俣病事件とは何だったんだろうと、勉強し始めました。【沖縄・高江の座り込みから学ぶ】同じ時期に私は沖縄の高江に行ってきました。FacebookやTwitterでちょうどそのとき、沖縄の高江にヘリパッドがつくられていることを知りました。政府が工事を強行する中で住民が反対しているんだけれど、140人しかいない小さな集落に機動隊が500人以上投入されていました。高江に行って自分もびっくりしたんですけれど、肌で感じることが多かった。
鼓子
父母たちがやってきたことは、私とか次の世代が苦しい思いをしないようにとか、もっとみんなが住みよい水俣にしたいという気持ちからなるものなのかなということを、高江に住む人の話を聞きながら思いました。運動とか闘争と呼ばれているけれども、人間が幸せに生きるためにはどうすればいいのか、尊厳を守るってどういうことなのかといった根源的な問いを、一生懸命考えた上での行動が座り込みなどの住民運動なんだと。父の場合、裁判闘争が主だったのですが、裁判というシステム上で闘わざるを得なかった苦労に思いを馳せることが、ようやくできるようになりました。だから、兄と違うなと思うのは、兄は一歩引いて水俣病事件を見ていて、私は一歩前に出てるんだよね。【水俣の記憶と世代間伝達】
草児
兄妹でバランスを取っているのかもしれない。やっぱり伝えるということは大事だと思っていて、この10年が何もしなければ水俣という言葉が少しずつ消えていくだろうなということをひりひりと感じています。記憶としても事実としても消えていくというか。水俣病事件というのはいろんな記憶の集合体なんですよね。甘夏ミカンを通して水俣を生きてきた人もいれば、かわらず漁をしてきた人もいるし、裁判をしてきた人もいるし、チッソという側から見てきた人たちもいる。いろんな糸が寄せ合って一つのものを織りなしていると考えると、我々はその一つの記憶でしかないんですけれど、格好つけていえば、小さな物語を伝えることの意義というものを今すごく考えています。じゃあ、それを伝えたところで実際に何の効果があるかはわからないんですが、2,3人ふり返ってもらえればいいかな、と。その伝えるということをどうすればいいか。生まれ故郷で暮らしていると、いわゆる親父サイドではないその他大勢の方々とふれあう機会がたくさんあります。その中で、「お前の親父が水俣に入ってきたことで大変だった」と、実際に面と向かって言われたこともあります。でも、今考えてみると、その人にもそういう発言をするだけの理由があるんですよ。悲しいつらい過去を経験していて。だから、親父たちを責めることが第一義にあるのではなく、「この思いをどうしたらいいのか」みたいなのがあって、どこにも言うところがないから、とりあえず目の前の人に言うみたいなところがあるんじゃないかと思います。だから、それは甘んじて受け入れたい。もともとケンカすることができない性質なのですが、ガイアの兄妹間の役割で言えば、妹がすごい突き進んでやってくれているところがあるので、僕は逆にあまり突っ込まない。この間も市議会の傍聴とかに行ってたよね。今度どうなんだっけ?公害が消えるんだっけ?
鼓子
水俣市議会の特別委員会に公害環境対策特別員会というのがあるんですけれど、そこに「公害」という名前がついていると、未だに公害が発生していると思われたり、水俣に企業を誘致する際にマイナスイメージになる可能性があるから外しましょうという議案が出されて、可決されてしまったんです。環境問題として取り扱えばいいじゃないかとなったんですね。
草児
じゃあ僕も妹とこういう活動を一緒にやるかとなると、ヘタすればガイア自体が全部それになってしまう。そうなると、その他大勢の人の理解を得られないなと思って。これは戦略的に卑怯だと思われるかもしれないけれど、僕はその他大勢の人たちと関係を保つ役になろうと何年か前から意識しています。とにかく、ガイアみなまたというのは、めちゃくちゃうまい甘夏を売る団体であります。そして、その甘夏からめちゃくちゃうまいマーマレードをつくる団体であります、というところを目指したい。このあいだ、愛媛県八幡浜市でマーマレードアワードという審査会があり、日本中のマーマレードを集めて品評会をしようじゃないかということになりました。もともとイギリスでやっているんですが、その日本版です。そこに出品したら、ハイ!銀賞いただきました(拍手)。ある種の正当な評価を得るということを僕はすごく意識しています。評価を得たからと言って、何か役に立つわけでもなく、売り上げにつながるかどうかはまた別の話ですが、そのことによって一部の人たちが僕らの存在を知ってくれるというのは、僕らにとってかなりのメリットだと思っています。その銀賞を取ったガイアみなまたが、こんな変なことをしているという文脈の方がわかりやすいと思っているのです。
鼓子
兄はこう言っていますが、私は違います。私は変なことをしていると思っていないんですよ。たしかに、父たちがやってきたことは左翼運動、言ってしまえば過激派と見られていたので、私の中にもそれに対する偏見があったんですよ。運動やっている人というのをどこかで切り離したい気持ちがあったから、ちょっとかかわりたくないというか、あまり評価ができていなかったんです。でも、やっぱり高江に行ってみてわかったのですが、座り込みをやっている人たちって本当に普通の人たちです。そこで暮らしている住民が別に運動をやりたくて住んでいたわけではないのに、いきなり自分たちの住んでいる環境にヘリパッドができてどうしようとなった。でも、運動とかやったことないから、とりあえず座り込むことで抵抗の意思を示そうという方法をとるわけですよ。父たちも運動がやりたくて水俣に来たわけでもないし、たまたま水俣に来て、水俣が気に入って、患者さんと出会ってしまったから、この人たちを置いてどこかに行く気持ちにはなれなかったという、人間のつきあいで住んでいる。運動がすべてではないということがわかったんです。だから私は変なことをやっているわけではないんだということを、高江に行ってわかったんです。高江や、沖縄の基地反対運動している方々に向けられるネット上の批判は、かつて父たちが言われていたことに似ています。だからこそ、権力に立ち向かっている人たちに対する偏見を自分が持つのはおかしいなと思いました。私が高江に行くと水俣の知り合いのおじさんに話したときも、「日当2万円、出っとやろ」と言われました。おじさんはネットやっているように見えないのに、なぜ日当の話をするんだろうと頭を抱えました。アカが集まっているとかものすごい偏見を持っている。沖縄の宿に泊まったときも日当が出るって話は言われて、そういう偏見、わかってもらえなさ、お金のためにやっていると思われるくやしさを感じた。でも、高江で学んだのは、住民の人たちは伝え方をものすごく研究しているということでした。偏見の目で見られること、SNSで発信すると炎上してしまうようなことをどう工夫して伝えるか、共感を持って注目してもらうためにどうすればよいかを考えて実践している石原さんというご夫婦に会うことができて。二人は座り込みの現場で、夫婦で笑顔で写真を撮って、それをSNSで「僕たちの笑顔は権力に奪わせません」と発信して、「いつでも愛とユーモアを」とずっと言っているんですよ。傍から見ると、緊迫した状況でそんなこと言っていて大丈夫?って思われるかもしれないけれど、でも否定されることではないじゃないですか。愛とユーモアなんてみんなに必要なことだから。だから、水俣に関して伝えるときも、正しさとか信念を伝えるだけよりも、そこに愛とユーモアを添えることで伝わりやすさが増すのではないかと。父母の運動に偏見を持っていた人たちにも理解してもらえる言葉がつくれるんじゃないかなと、今私は意識しています。本当に一番知ってもらいたいのは、水俣で一緒に生きている人たちです。水俣外の人たちの方がフラットに見てくれるので、市議会が「公害」という名称を外す決定をするなんてあり得ないと言ってくれるんですけど、水俣のほとんどの人は「別にどうでもいいんじゃない」と言うでしょう。他にも水俣病の名称変更についての議論がまた復活したりしていて、水俣病という名前のせいで差別を受けている、その言葉を子どもたちの世代に残していいのかどうか議論したいと言っている方もいる。それはもっともなんだけれど、その言い方では水俣病患者が悪いようにも聞こえてしまう。一方的ではない対話ができないかなと考えています。福島は対話の機会を多く設けられていると思うんですけど、水俣でも同じようにできないかなということを考えています。兄は優しい人なので、センシティブな議論はしたくないタイプなんですが、私は議論はしたいのです。
草児
親父たちが話す言葉と僕らが話す言葉の使い方は、全然違います。前提として、親父たちが経験してきたことを僕たちは自分のことのように話してはならないと思っているんです。たとえば、ガイアみなまたのテーマには「母なる大地にありがとう」というのがあるんですよ。これはおそらく母の実感から出てきた言葉であると思うのですが、僕らは僕ら自身の言葉を発しなければいけない。いろいろなところで何回かお話をさせていただく機会がありましたが、完全に借り物の言葉なんですよ。僕の口から出てくる言葉は。そのときに感じる無力感。この言葉は絶対10年もたない。僕自身がこんなことをしゃべっていたら空虚なんですよ。僕のリアリティというのは、今は甘夏ミカンなんです。甘夏ミカンが目の前にあってそれを箱に詰めて人に売るっていう。その甘夏ミカンが実は甘夏を通して水俣を生きてきた人たちの軌跡につながっているので、それを自分の中でどう咀嚼して、自分の生活実感を伴った言葉に変えていくかというのが課題なんです。だから、今日も話しながら「あぁこれ、あの人の言葉だ」というのが出てくる。いろんな本をつまみ食いしているから、いろんな人の言葉が出てくるんですけれど、そこから8割くらいの言葉を差っ引いて残ったのが僕の言葉という感じなんですね。そこが忸怩たる思いなのですが。
鼓子
私は今回のテーマになっている、次の世代に伝えることは意識しています。それは自分が小中高校を通して、まともな水俣病教育を受けた記憶がないからというか、水俣病について全然話せなかったんですよね。知識として社会科の教科書で学び、目の前で患者さんが語りその話を聞くんだけれども、何がどうして水俣病事件がこうなってしまったのかを考えるとか、みんながどう思っているのか話す場が一切なかった。(その授業を実践することは)すごく難しかったと、かつて小学校の先生をやっていた方に聞いたことがあります。それは、私の生まれ育った地区が水俣病患者の多発地域だったことが関係しています。患者家族が同じ教室の中にいたのと同時に、親御さんがチッソで働いている子どももいるので、とてもデリケートな話題になります。そこで先生がチッソの加害性について話すと、子どもがどう思うか。親御さんがどう思うか。そのことを考えると話せることがものすごく限られたと言っていました。水俣病教育に関しては一律にこういう話をしましょうというものがなく、各教員に任されていたようです。その先生のアプローチは水俣病に関する詩とか歌といった表現を通して子どもたちに伝える、それを構成詩という形で発表させる。そういう形での伝え方はあったけれど、事件性を問うとか、みんなでディスカッションをしようということもなかったので、友達がどう考えているのかとか、まったく知らない。そういう環境が水俣病に興味を持てない私をつくったと思うので、じゃあ今、自分が次世代の子どもたちに残せるものは何なのかを考えています。何か指針じゃないけれど、「お守り」のようなものがあったらいいと思っていて、そのきっかけになるような一冊の本をチッソの人たちも一緒に、みんなで話し合ってつくれないかなと考えています。それはやっぱり自分が知らなかったということがあまりにも悔しかったというのが、大人になって気づいたことなので、大人になった自分がやれること、責任を果たすことができるとすれば、子どもたちが水俣で生きていく上で知っておいてほしいことを一つ提示できればいいのかなと思います。水俣病のことを大人になってから勉強し始めたときに衝撃を受けたことがあります。昔の資料って名前とか住所がそのままに載っているんですよ。そこに友達のおじいちゃんとかおばあちゃんとか、おじさん、おばさんの名前が出てきて、患者のいる家も地図で黒丸の印がついていて、それ見ると友達の家だとわかるんです。そういう資料を通して、でも、私たち、そういう話を一度もしたことがなかったから、知らなかったなぁというのがすごく悔しかったし、友達に対して無神経なことを言ったかもしれないと、そのとき思ったんですね。私は親族が水俣にはいないので、一歩引いて見れるんだけれど、自分の家族が水俣病だったりとか、おじいちゃんおばあちゃんが水俣病で苦しんでいる友達がどういう気持ちでいたのかなぁと知らなかったのは申し訳なかったなぁと思って、それはどうしようもないんですけれど、知ったからにはできることをやりたいなというのは…やっぱり知っておいた方がよかったんじゃないかなぁって。タブーだったからできなかったんだと思うけれども、大人がタブーにしてしまったことが、子どもたちが何も知らずに育つ土壌をつくったし、それによって偏見とかも生まれてしまう。大人たちがですね、患者派チッソ派っていう風に分かれて交わることがなかった時代があったので、それによって私自身チッソ派に対して偏見もあったし、チッソ側にとっては私たちの父たちは本当に余計なことをする敵だったと思うし、そこを大人が頑張って交われることをつくっていけば、家庭の中でももっと水俣病の話ができたのかもしれないけれど。でもそれができなかったことは仕方がなかったというのも、事件史を読み返すとわかるんですよね。1995年に政治解決という区切りがつきますけど、そこまでは常に裁判で争っているので、損害賠償の問題ですから下手なことは言えないし、ひざをつき合わせて話すなんてのは無理だったと思います。政治解決がよかったとは思いませんが、それでも、それ以降ようやく話せるという土壌ができてきたということは、改めて次の世代に…ア、何言いたいんだろう。
草児
つまり、鼓子が言いたいことは1995年以降、補助線がたくさん引けるようになったということだと思うんです。水俣病って裁判闘争の物語を中心に、たとえば第一次訴訟から関西訴訟が終わるまでという一本の流れがあったりするんですが、その中で95年以降、堰を切ったように私はこうだった、私もこうだった、私の親父はこうでね、こういうことがあってねという物語が出てきた。ポール・オースターという作家が、アメリカに暮らすいわゆる一般市民に何でもないような個々人の物語を募ったら、それが「ナショナルストーリープロジェクト」という一冊の本になったという話があるんです。それと同じで、どこぞの誰々が話をするようになったんですね。今度はそれを誰が聞いてくれるのかという問題なんです。補助線が次々できてきた、物語が一つではなくなった。これはものすごいことなんですよ。理解が深まるとかそういうことではなしに、物事がそんなに単純じゃないんだよということが明らかになるんです。水俣病事件もいい人/悪い人、敵/味方と分けられがちです。でも、それは補助線によって解消されることもあるんじゃないかと思うんですが、それは水俣では、今はまだできない。僕は長丁場で考えていて、それは鼓子と意見が違うんですけど、僕があと30年生きられたら65歳です。そうしたらですね、地域内でも発言できる機会が少し増えてくる。それで情勢が少し変わるんじゃないか。そのときまで、これが一番大変ですけれど、65歳になるまで今の志を持ち続けられれば、水俣に新しい補助線を引ける可能性も出てくるんじゃないか。ただ、今はもう本当にたくさん出てきているので、この話を誰かが聞かなければ…どんどん消えていく泡のようなもので、誰かが掬い取らないと話は潰えていきます。僕らが聞き取れるのは、甘夏生産者の話だけです。25人の話で精一杯です。でも、あと何人かいれば100人、200人の話が聞ける。それは別に本にしなくてもいいんです。それを自分の血肉にして、自分の言葉で語りなおせばいいんですよ。それをこの5年、10年でやっていかないといけない。死というものは意外と身近にあるというか、話を聞く前に亡くなられてしまってものすごく後悔したという経験もあるんです。いつ聞くのって、今なんですよね。そのチャンスが今、水俣はめぐってきています。これはかなり希望であると思います。一方でまだ混とんとしているのは変わらないのですが、その中で僕らにとっては、ガイアみなまたというところにマーマレードという商品があることがほんとうに幸いです。マーマレードを軸にして商売をしていくことができる。商売は余剰を生み出していくものですが、その余剰というのは金に変えたり時間に変えたり、いろいろな方法があります。たとえば、妹のように活動する時間に充てたらどうか。資本は、本来は蓄積したり設備投資に充てたりするものですが、あえて別の使い方にしてしまう。そうすると変に滞らないというか、滞る前に使ってしまえというのを、妹がやってくれていると思っています。そういう意味もあって、僕としては商売というものに乗せて、商売ベースの話し方になっていないといけない。それでマーマレードがある。マーマレードというのは、水俣病患者さんとのおつきあいであるとか、ずっと甘夏を買ってくれていた尾崎英里さんという人がつくり方をわざわざ教えに来てくれたことから始まっています。では、このマーマレードを地域の人がどう見てくれているのか、気になります。だから、銀賞を取ったことはよかったと思うし、あるとき水俣に住む友人が「いい商品つくってるじゃん」とふだん言わないことを言ってくれたことがあって、「あっ、見てくれているんだ」と思ったんです。そういう話ができたことが最近一番うれしかったことです。あと、ガイアみなまたは農薬散布を減らした作物なんかを売っている、だからここで扱ってほしいと、ある農家さんからからこっちにコミットしてくれたということも最近あって、これもうれしいことです。とにかくこういうことを軸にしていくと、現地でぶれずにやっていけるかなと思います。
鼓子
福島で話すことを考えたとき、私は何かの役に立ちたいけれど、何の役に立てるのだろうかと考えました。福島の方も水俣にたくさん来られて、水俣に学ぶということをずっと8年間やっておられるんだろうなと思うんですけれど、私たちは第二世代と言われますけど、その自覚もなかったし、特に何ができるかわかっていないし、伝えるって何だろうって、伝えたいけど自分の言葉が何なのかもわかっていない。たとえば、自分が水俣病の話をしたり顔でしたところで、あの時代を経験してきた先輩方がどう見ているかなと思うと、怖すぎる。だけど話したい、だけど伝えたいという思いがある。その中で、水俣病事件というと悲惨なんだけれども、そこでも人は生きていて、水俣を離れずに暮らしていて、魚をずっと食べているんですよね。魚が大好きで、今でもおいしく食べています。そういう自分の生まれ育った土地への愛とか、海への信頼とか、そういったことを自分の体験とともに話すことしかできないなと思います。それは福島の方々も、似たところがあるのではないでしょうか。水俣病事件といえば劇症型の患者さんがブルブル手を震わせて狂ったように死んでいく姿とか、黒い御旗が上がって裁判でチッソの社長にみんなで詰め寄る姿とか、そういった映像が思い浮かびますし、実際にあったことです。でも、それだけが水俣ではない。水俣病公式確認当時から63年経った今も私たちがもがいて何とか生きていますということを、どうやったら伝えられるかなということを考えながら生きています。最後に、私たちが一緒に働いている生産者グループ「きばる」の会長さんで緒方茂実さんという方の言葉を紹介させてください。茂実さんは妹さんが胎児性の患者さんで、弟さんも患者さん、おじいさんも劇症型で亡くなられてますし、お父さんも原因不明で亡くなっています。お母さんも水俣病。親族のほとんどが水俣病の被害を受けてます。もともと漁師だったのに、小学校6年生のときにお父さんを亡くされて、生業が成り立たなくなって甘夏生産へ転換した人なんです。ちょうど3年前に、福島の原発事故を受けて水俣病事件を経験した人がどう考えるかというインタビューを「きばる」で受けたことがあるんですが、私も同席させてもらって、茂実さんは何を語るのかなと思って聞いていたんです。そのとき、インタビュアーの方が「水俣病事件によって茂実さんが奪われたものは何でしょうか?」と聞いたんですね。その瞬間、茂実さんが固まって、言葉を失われてから、「奪われたものはたくさんあるなぁ」と言って、「数えきれない。けれど、生まれたものもあって、それがきばるです」とおっしゃってくれて…。自分のおじいちゃんが狂って亡くなって、お父さんもある日突然、漁から帰って来たその日に亡くなって、そういう大切な人の死、しかも彼らには何の落ち度もない。そのときは原因がわからずに…苦しかったと思うんです。そこから見出した希望と言っていいと思うんですが、絶望の中にも希望はあるということを茂実さんは教えてくださった。しかも、それが彼にとっては「きばる」だとはっきり言ってくださったことが、私はとてもうれしくて、茂実さんの思いを継いでいきたい。だから、「きばる」は40年は続けると思っています(いや100年でしょ〔草児のつっこみ〕)。今、皆さんは福島で暮らしていて、エチカ福島も7年続けてこられて、言葉にする、考える作業をずっと続けられていることはすごいことだと思っています。復興という旗印のもとに無理やり言葉を引き出されたりとか、ポジティブな言葉を求められたりとか、本当につらいことだと思うんですね。事故が収束もしていないし総括もできるような年月ではないのに、それを求められるのは本当に大変だなと思って、その中で考えるということをやっておられるエチカ福島というのが、私は希望だろうなと思うし、逆に水俣にも輸入できないかなというか、水俣でも立場が異なっても相手を非難するのではなく話を聞く、対話をする場というものがつくれたら最高で、水俣では今はないので…以前はあったんですけれど。
草児
ですから、対話の場というのはクローズさせるというよりは、結果を出せないままでも100年続けた方がいいんじゃないか。それが水俣ではできていないのかもしれないです。どこかで結果を求めて、終わらせている節がある。
鼓子
あるいはリーダーが変わってしまって終わらざるを得なかったということもあると思うんだけれど、そこを継続してやっていくということだし、必ずしも正解は一つじゃないんだなということをみんなが言い続けることはとても大事なことだと思いました。【対話編】甘夏事件をめぐって相思社との関係は?
草児
そのとき、誰もが傷ついたと思います。たとえば当時相思社に残った人の息子さんと僕は小中学校で先輩後輩の関係で、帰ってきた当初、酒飲みながら「お前ら出てったけど勝手だよ」と言われたこともありましたし、そのときは僕も言いたい放題言いました。でもひととおり言い終えたら、あとは特に何も感じることはないです。むしろ、相思社は今とても大事な機能を担っていて、僕らはそこを支えられること、手伝えることがあればしたいですという感じになっています。僕らにできないことを相思社が担っているという認識です。
鼓子
具体的には、相思社は患者さんの相談に乗っています。患者に認定されていないけれども、自分は水俣病じゃないかという不安を持っている人に耳を傾けて、申請に関するアドバイスをする役割を、永野三智さんという方がほぼ一人で背負っています。他の職員も、永野さんに取って代わることはできないというような、忸怩たる思いを抱えているように、外からの勝手な憶測ですが、私にはそう見えます。私たちも代われないんだよなぁと思っています。
草児
僕たちもそこには深くコミットできない。彼女も同世代なので何度か飲みながら話すこともありましたが、数年前までかなり悩まれていた記憶があります。それが、どこかでスイッチが入って転回したような印象を受けたんですよ。たぶん、覚悟したんだろうなということだと思うんです。自分の役割を、かなり過酷な役割ではあるのですが、それを引き受けようとしたのがこの数年の間にあったんだろうなと思うんです。外部から見て好き勝手言っているだけなので、これも憶測に過ぎませんが。
鼓子
私はまだ怖くてできないという部分もあるんです。自分が実際のところ何もできないのに、その人の話を聞くということに罪悪感があるので、被害者の方の苦しみ、今持っている苦しみを聞いて受け止める覚悟はないですね。過去のお話を聞きに行くことはできると思うんですが、今まさに手が震える、足がつる、耳鳴りがするという話に自分がどう応えられるのかはわかりません。永野さんもそれはずっと問いとして持っておられると思います。救えないのに聞くとはどういうことなのかと。
草児
まあ、ガイアみなまたと相思社の間柄というのは単純に甘夏事件があったから分裂、という括りにはできないと思います。
鼓子
相思社が大変なときには、いつでも手助けできるように準備しておこう、という心持ちではいます。【患者さんの聞き取りについて】草児
きばるでは目的意識がよくも悪くも甘夏というカテゴリーに限られるので、その範囲で生産者の話を聞いています。その外に飛び出すということは、今は考えていない。でも特に今ガイアの通信上でやっているインタビューについては、その人の持っている言葉をひととおりさらって一字一句間違えず完全に伝えたいということではなくて、もう少し私たちのスタンスを交えて聞き取りに臨むというスタイルになっているかな、と思います。通信なので誰かのインタビュー記事を他の誰かに届けたいというのが半分はありますが、もう半分は自分たちを変えたいからというところがあります。実は自分たちのためにもガイアの紙面を利用している。僕らなりのアプローチの仕方、というのはちょっと意識しています。もちろん、紙面を意図的に改ざんしているわけではないのですが。
草児
お手元にある通信に掲載されている下田さんという方のインタビューで、僕らの中でめっけもんだったことがあります。それは、ある種自分の中で意見が変わっていくという状態の捉え方。1年前の自分とは違う、あっちやこっちにブレてしまっているというのを、下田さんと話す前はかなり後ろめたく思っていたんですが、下田さんは雑駁に言えば意見なんて変わるんだよ、と。いろいろ摂取しながら、どんどん自分は変容していく。当事者にしても、自分の経験と向き合う中で何度も何度も語りなおすっていう作業をしているんだ、と。だから、語りなおすということを、そこに付随する葛藤を含めて能動的に捉えなおさせてもらえたということが、有り難かった。血肉化していく過程があって、そこを見せる。すると見ている側はどういう印象をもつのか。こいつらまたもがいてるなぁとか。そういう感想を持ってもらうこと自体が、結果的に後押しをしてもらえているというか。だから、僕らはどんどん変わっていくと思います。大筋は変わらないけれど。ちょっと違うようなことを言うようになったねと思ったら、そこはどんどん突っ込んでもらいたいです。何で変わったのか説明できるようなやり方をとっていきたいです。

【補助線について】
草児
一つの絶対的な正しさってないと思うので、人の数だけ、100人いれば100通りの水俣病がありますということをあぶりだせるといいんですけど。僕らも限られた人の話しか聞けないし、僕らのインタビューは粗雑というか垂れ流し状態なんですよね。
鼓子
水俣病事件という大きな括りで見るんじゃなくて、そこにこういう人が生きていて、個人の名前があってその人一人ひとりを知ってほしいという気持ちはあります。それはたぶん、自分が知らなかったことへの反省もあるんだけれども。私は水俣病事件のことを、小中高を通して、環境問題だと思っていたんですね。加害企業がいて、チッソがやるべきことはたくさんあったのに、被害拡大を止められたのに止めなかった。その加害性を全然意識していませんでした。あのとき入江さんがこう判断したら、西田工場長がこう判断していたら、熊本県の副知事の水上さんがこう判断していたらとか、数々の「惜しい」が積み重なっているところに固有名詞がある。名前のある人たちの判断が生み出した事件だということを知ると、もっと入ってくるのかなと思いました。固有名詞がもっと出てくればいいのかなというのは兄妹で共通しています。
草児
今妹が着ているのは「猫400号」Tシャツといって、7色展開、お届けまで一か月待ちです。
鼓子
猫400号実験というのはチッソがやっていた猫実験の名前です。水俣病は1956年に公式に確認されているんですが、3年後の1959年にチッソは猫実験で一例、400号目の猫が水俣病を発症したことを確認していたので、自分たちの工場の廃液に原因物質があることはわかっています。しかしながら一例だけでは公表するに足らないと判断した。実験をしたチッソ附属病院医院長の細川一さんは公表した方がいいと言ったんですけれど、上層部の判断で一例では公表できなかった。再現性が求められたのですが、それ以降は同じ実験をさせてもらえなかった。だから再現性も何もないのですが。その実験の犠牲になった猫が838匹いると言われていますが、そういう犠牲の上に今があることを私は忘れませんということを示したつもりです。さきほど愛とユーモアという話をしましたけれども、そういう事件性や重大性、悲惨さを伝えたいときにワンクッション置きたいと思った。それをそのまま伝えたらみんなショックだし、聞いて悲しいとなるしかないけれど、それを着るという形にするとか、デザイン性を求めたい。そこで、夫婦のユニットでデザインをやっている友達に猫をモチーフにしたTシャツを依頼して作ってもらいました。メッセージも込められていて、Iwashere.Iamhere.Idiedhereという3つのメッセージが隠れているんですけれど、メッセージを受け取った人があまり重たくならないような、こっそり着てその意思を表明できるようなTシャツがあってもいいんじゃないかなと、水俣病を伝える一つの形として提示したいと思いました。それが補助線の話にどうつながるかというと、わからないのですが(笑)。事件史の中で忘れてほしくない出来事として、猫400号がいたよということを形にしてみたというお話でした。
草児
猫400号実験の話って歴史年表の上では語れるんですけど、ふだんの井戸端会議の中でもちょろっと出てこないかなぁ、と。雑談の中で出てくる水俣病というか。僕らのインタビュー記事は狙い撃ちしているんですけど、本来はもっと、道端で会った人とたわいもない話をしている中で猫の話が出てくれば。そうすると純粋な雑談として立ち上がってきて、そういうのが1000話ぐらい積み重なればもっと水俣のリアリティが生まれてくるんじゃないかなと思っています。そういう意味でみんな気軽にお話をしようという伏線を張るような作業が、95年の政治解決以降、しやすくなっている気がします。なぜかというと、一回そこで終わっているとみんな思っているからなんですよ。
鼓子
猫400号Tシャツをつくることも、95年の後だからできたんだと思います。それ以前にやっていたら「ふざけているのか」と、たぶん怒られたと思う。歴史を知らなすぎる、この実験の重大さを認識しているのかと指さされる。でも、一つフェイズが変わったということかなと。
草児
フェイズが変わったという意味では、じゃあ現在チッソで働く若者がどう考えているかを知りたいというのもあるんです。水俣病から生かせることって、我々にはまだあるぞという補助線の引き方をしたい。裁判闘争ってものすごい闘いで、ある程度みんな知っている事実で、それはそれでいいんですけれど、そこから水俣に入れない人がいるんだとすれば、別の見方があるよということを提示できれば。窓口はいくつもあるんですよという水先案内人になれればと思うわけです。
鼓子
支援者第二世代でもいろんなグループがあります。それぞれの活動をしていてそれぞれに水俣病の発信の仕方が違うんですが、それが私はいいなと思っています。父たちの時代は闘争が中心だったから発信どころじゃなかったと思うんだけれど、第二世代になって、水俣の海を体感してもらうことを仕事でやっていたり、現在も訴訟で闘っている人たちを支援している人もいます。そこにグラデ-ションがあることがいいのかなと。
草児
いろいろな窓口がある状況をつくり出したいということですが、どこからでも、一回入ればいつか必ず悲しい事実に突き当たると思います。正直、その個人が体験した苦しみや恨みっていうのは僕らでは伝えきれないんです。一生消えることがないですし、その人の一生が終わったからといって消えるものではない。そういう類いのものを僕は話し切れないから、でもその近くまでは少なくとも案内したいと…うまく言えませんが、だからまずはいろんな人の話を聞くという形をとっているのかなぁ~…やっぱりうまく言えないです。周辺の声にこだわるのは、誰かしらが声を上げ続けている限り終わらないからだと思います。裁判はいつか終わるんですよ。でも井戸端レベルの話というのは終わりを知らないというか、ふだん着レベルで水俣病のことが話し続けられていれば、けっして途絶えることはない。ささやかな抵抗の一端は井戸端話レベルにあるのかなと思います。【水俣病を背負う責任】
草児
自ら背負う感、仕事にしても僕がやっているんだと意識するようになったかな。それまでは勝手に背負わされていると決めつけている節が自分の中にあったのですが。
鼓子
私は父親から、君は水俣病のことを何も背負わなくていいんだよとはっきり言われました。君に水俣病の責任は何もないからねと言われて。でも私は水俣病のことを知りたくて調べていて父にどんどん質問するようになったとき、父にすごい嫌な顔されたんですよ。何でやってるのっていうような顔。自分がとても苦しかったことを娘がやろうとしたならば一度は止めようとしたのでは。【知ってしまったこととただ知るということを分けるものは何か?】
鼓子
私の場合は友達とふつうに遊んで楽しく暮らした水俣生活18年だったのに、大人になってから、友達のおじさんが胎児性水俣病の患者さんだということを知ってしまった。それは資料からなんですけれど。友達はその話を一切しなかったし、水俣病の自分の家族の話はしなかった。これって何だったんだろう。友達の苦しみは何だったんだろうということを考えた。知ってしまった。でも友達とその話はしていない。何だろう…ようやく実感したという感じかな。友達がその話をしなかったことって…患者さんが家族にいるってどういうこと…その話ができないってどういうこと。友達が差別的な眼差しで患者を見ていたわけではないと思うけれど、話せないことは本当に苦しいだろうなと…
草児
『ぐるりのこと』っていう映画があって、ぐるりというのは自分が手を伸ばせてつかむことのできる範囲のこと。その中に入る人はわずかだと思うんです。一生かけて一人の人間と関係することができたらそれで精一杯だと思います。きっとその琴線に触れたのでしょう。友達のことをもっと知りたい、じゃないけど。
鼓子
そのとき急に思い出したんです。中学校のとき、そういえばその友達と水俣病の話を一回だけしたことがあったと。そのとき友達は、「つー(鼓子)のお父さんが書いたものが一番水俣病のことをわかりやすく教えてくれた」と言ってくれました。私は当時、父の文章を読んでなかったのでポカンとしてしまったことを思い出しました。後になって調べたら、その友達のおじいちゃんは水俣病の患者団体の委員長をしていた人で、うちの父と一緒に活動していたんですよね。私が知らなかっただけなんですよ。
草児
水俣病というものを通じてその人との関係性が一歩違う方向に進むことができる。のさりって表現したりもしますけど。ありがたいということなのかな。


中止した第14回エチカ福島だったが

2020年03月26日 14時58分26秒 | 大震災の中で
公開イベントとしては中止せざるを得なかった3/14(土)の

第14回エチカ福島
大西暢夫監督作品『水になった村』の上映と監督を囲んでの討議

を、形を変えて急遽プライベートで実施することになった。
エチカ福島のメンバー(今回の胴元※)が中止の残念会を飲み屋でやっていて、酔っ払った勢いで突然監督さんに「イベントは無理でも一緒にのみませんか!?」と、無茶ぶりのお誘いをしたところ、このご時世でたまたまスケジュールが空いていた(というか元々イベントのために空けておいてもらっていた)ため、「行きますよ」と快諾をいただき、結果我々仲間内だけのごく小規模な集まりになってしまったけれど、お話をじっくりうかがうことができた。

そこで感じたことを少し書き留めておく。
映画『水になった村』は、岐阜の徳山村が一村丸ごとダムに沈むことになったとき、、街に移住した村民の幾人かが、それでも毎年春から秋まで村の旧家屋に住み、畑をつくったり山菜やきのこ、わさびをとったりして塩漬けにする今までの暮らしを最後まで続けていく様子を撮ったドキュメンタリー作品である。
ダム工事による土地の買収と移転が決まっても、直ちに村が水没するわけではない。それからダム建設が進み、何年も経ってようやく水が張られる。その間、本来なら家屋を取り壊すのが契約なのだろうけど、直ちにすべてを壊すとは限らず、残った家屋や、代わりに立てた掘っ建て小屋などに、長年そこで暮らしてきた老人たちが水没まで住み続けることが黙認されていたようだ。

映画はダムの工事も反対運動も一切撮さない。そう言う映画ではない。ただひたすら、水没が決まってからも今まで通りに村の生活をそこで続けていく人々の営みを見つめていく。
それがもうなんとも元気いっぱいのお婆さんたちで、かつ厳しい自然のなかでの営みの「豊さ」がジワリジワリととこちらに伝わってくる映像になっている。
コロナ禍のなかで見る山村の「豊饒さ」は、都市近郊生活者のノスタルジックな思いとは全く別の打撃を与えられた。
そのことはここにどうしても書いておかねばならないと思った。

何年か後、村の家を壊して街場にだけ住むようになった老女たちがスーパーで買い物をする姿や、街の隠居所では撮影に来た監督に何も食べさせてあげられない、と指輪を監督に渡そうとする姿に、どうしても私たちの今の生活を重ねてしまう。

しかし、大西暢夫監督は、
「こんな風になったのはたった100年じゃないですか。いつかこんなことは歴史の点に過ぎないってなりますよ」
と希望を語る。

映画を観た後、監督さんにじっくり話を聴く機会があったのだが、
映画に出ている最後まで水没直前の村に残った老夫婦の一人は、じつは徳山村から北海道に開拓に移住した人が、徳山村の世帯の跡継ぎのために呼び戻されたのだ、ということを知った、という話をうかがった。

徳山村から集団で「自分の土地」を求めて北海道に渡った一団があったということを、大西監督は、映画を取り終えてからなお20年かけて追い続けていたのだ。

『ホハレ峠』という著作に纏められてこの四月に出版されるという。

ナガイナガイ時を経て続いていく監督の仕事に驚嘆すると同時に、深い敬意を覚えた。思わず泣けるエピソードがそこにあるのだが、ぜひ『ホハレ峠』を買ってよんでください。

翌日監督と新作映画『沖縄へ移行こう』の話をうかがった。
このドキュメンタリーは精神病院に入院している患者さんが沖縄に行きたいと思って5人が沖縄に行こうとするお話なのだそうだが(未見)、驚いたのはこのドキュメンタリー映画を撮るまで20年時間を経ているという点だ。
大西監督は、『精神科看護』という治療者向けの専門誌のグラビアを20年担当して、毎月精神科の病棟を尋ねては患者さんを撮影し続けてきたのだそうだ。

その「粘り強い柔らかさ」の持つ浸透力が、監督の言葉からも映画からも沁みてくる。

そう思った。声高に病院の閉鎖性を糾弾するとかいう流れとは対極。
「精神病院の閉鎖病棟の人はも写真に写りたいと思ったら誰の許可もいらないんじゃない?」というところから傍らに立って(立ち続けて)20年シャッターを切り続けるその仕事ぶり。
あくまで温和な表情でこともなげに20年を語る監督の笑顔。

やられました!

中止告知。第14回エチカ福島を開催中止とします。

2020年02月29日 09時42分29秒 | 大震災の中で
エチカ福島のHPにも書きましたが

諸般の事情により、2020年3 月14日(土)に実施を予定していた第14回エチカ福島を中止とします。


当日、大西監督を招いてのイベントは中止になりますが、映画『水になった村』そのものは(2/29日現在)フォーラム福島での上映が予定されています。

3/14(土)も通常の上映となりますのでご了承ください。


なお、実際の上映期間、上映時間についてはフォーラム福島のHPでご確認くださいますようお願いします。


エチカ福島14回目で初めての中止は大変残念です。しかし、映画上映に止まらず長時間に渡る限定空間での総合トークイベントとなるため、参加を予定されていた方には大変申し訳ありませんが、今回は実施を見合わせることとなりました。ご了承ください。

(以上)



熊本県の夏みかん「きばる」で作ったマーマレードが美味しすぎる。

2020年02月15日 12時36分30秒 | 大震災の中で


熊本県の水俣、芦北、御所浦で夏みかんを生産するグループ「きばる」(サイトはここをクリック)から取り寄せた甘夏から自分ちで作ったマーマレードがびっくりするほど美味しすぎる、という件について書きます。

手作りマーマレードがおいしいのは当然。

そして

皮まで食べられることにこだわって作ってくれている生産者の「きばる」の甘夏だから美味しいのも道理。

でも、この季節に、この「きばる」の甘夏で、しかも「自前でつくる」マーマレードの味は、生まれて初めてでした。

透き通った、遠くまで届くあくまでも爽やかなマーマレードになりました。

「きばる」の甘夏、この時期本当にお薦めです。
皮まで食べることを前提に栽培されているから安心、安全。見た目がいまいちなのが入っているのもそれゆえ。

私の人生史上最高の甘夏マーマレードになりました。
たとえて言うなら、冬場に採れたワタたっぷりのイカを自分で捌いて一晩水を切り、ワタを開いた中にイカの身を切り込みにし、さっと塩を振って食べる塩辛の美味しさしか、比肩出来るものを思いつきません。
甘党と辛党の違いはあれど、旬の恵みを自分の手で食べ物にしていく恵みは、他のモノに代え難い力を持っていると改めて実感。


他にもこんなレシピが。

去年の夏、「きばる」の高倉さん弟妹を福島にお呼びする縁に恵まれたのですが、その時紹介されて買ってみたらびびびびっくり。おいしかったです。

福島県立ふたば未来学園の研究発表がおもしろかった。

2020年02月14日 10時45分31秒 | 大震災の中で
書こうか書くまいかちょっと迷ったので遅くなってしまったが、備忘録的な意味でアップしておく。

ふたば未来学園高校のSGH研究発表会に行ってきた。

1,はじめに

2020年2月4日に実施された福島県立ふたば未来学園高校の研究発表会を見てきた。
とてもおもしろかった。

資料詳細はこちらを。

https://futabamiraigakuen-h.fcs.ed.jp/blogs/blog_entries/view/111/18fa56de30489ff7c88909f0fad8d892?frame_id=29


福島県立ふたば未来学園という学校は設立経緯が普通の県立高校とは異なり、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故の被害・避難を受けて、地元の町の要望と国の政策との両面を受けて立ち上げられた、「政治的」な高校だ。

加えて今年度から中学校も出来、原発事故地域周辺に作られた初めての中高連携の学校ということになる。

予め確認しておくと、設立当初は地元住民の子どもたちの受け入れという役割も大きかったが、次第に地域の人の師弟の割合は減っていき、現在新しく始まった中学一年生においては、地元地域子弟の割合は2割台まで減っていると説明された。

だから、生徒の実質からいえば、必ずしも
「東日本大震災の被害を直接に受けた地元地域の子弟による学校」
というわけではない。
 そうはいっても一方、一般に理解されている前述の成立の経緯から言えば、善し悪しは別として「国策学校」、政治的な意義に裏打ちされた予算や政策の「意味」を持たされている学校でもある。

元公立学校の教員だった者(私)から言わせれもらうならば、正直なところ、本当に「難しい」舵取りを強いられる「仕事」だろうな、という印象をもつ。

校長先生や(副校長さんは国からの人だから確信犯なんだけどね)
先生方、生徒たちは色々大変なんじゃないかなあ、と推察。

ともあれ、設立から5年の節目に当たる今年度(SGIの研究発表とはいいながら)、設立5年目の現況報告といった意味で受け止め、参加させてもらった。



2,興味深かったのは3点

①おもしろポイントその1
校長の説明と質疑

 広島県から視察にきた方(わざわざ遠方からきてそれどうなんだろうかと個人的には思うけれど、真面目な人なんだろうね、きっと)が、この総合学習三年間8単位で、

「(受験に)間に合うんでしょうか?」

という質問をした。それに対する校長の応答がふるっている。

「さあ、どうなんでしょうねえ」

「もしかすると足りないかもしれませんね」
だった。やるな、校長先生。

総合学科的な研究発表で、総合科目をやって受験に間に合うのか、というのはそれ自体場違いな質問だろう。

だが、現実に総合学科に在籍していても大学進学したい生徒はいる。そうすると範囲が終わらなかったり、頻出の知識事項にふれないまま受験を迎えることになるのは確かに心配だ。

それもまあ分かる。

間に合いますよとも間に合いませんよとも言わず、あたかも他人事のように応接する校長にエールを送りたくなった。

つまりさ、決定的に手間がかかるわけよね。総合的な学習とか、プロジェクト型の授業って。だから、単位の奪い合いという発想をしている限り、
「総合の学習なんてじゃまだ」
という発想はなくならない。

そしてそれは総合学科だから間に合わなくてもかまわないという話でもなくて、そういう中身をやりつつ、個別に進路対応をしていくということでもある。

実際、校長は補足の説明で、必要な場合は個別対応になりますね、とも付け加えている。

校長の話でもう一つおもしろかったのは、5年間の感想として、「生徒たちがいい子すぎる」と言ったのが印象的だった。「権力(のあり方)についてももう少し考えてもいいのに」とも。

県の方では、最初この学校の設置に必ずしも前向きな意見ばかりではなかったとも聞く。中学校の併設にも慎重な意見があったとも。

結果、「地域の要望」&「国策」として原発事故被災地域に作られた学校なのに、現実には地元の子どもは減る一方。

そんな中で運営される豪華な施設と充実したカリキュラム。力を入れた人事交流(この学校を勤務すれば、出身地域以外2地区10年以上回らなければならないルールの適応外になる)によって、成果も求められる。

とてもまともな神経ではやっていられない状況なのではなかったかなあ、と想像する。

だから、校長が「いい子すぎる」とつぶやいたのは、生徒に対する評言に止まらないのではないか、とも思えた(考えすぎかな?)。教員の人たちも、もうちょっと緩くやってもいいかも……っていうのはよけいなお世話か(笑)。


②おもしろポイントその2

公開授業中、教室の入り口でネイルの手入れをしていた二人の女子生徒

校長の概要説明が終わると、授業公開の時間になった。豪華な校舎は廊下に人がいるとすぐ分かる病院=監獄の形式ではなく、三角形が組み合わされた棟ごとに角度のついた作りになっていて、見通しが悪い(それ自体はいいことなんですが、場所がわかりにくい)

いたるところにオープンスペースもあり、吹き抜けもあり、普通の学校とは違う、いい感じだ。

そんな中、高校2年の教室でグループごとに今後のプロジェクト(発表?)の作業計画をたてる授業を見学したところ、入り口の女子生徒二人が、爪に液体を塗って、ネイルの手入れをしていた。

つい教員根性を発揮して「君たち何をしてるの?」ととがめたくなる光景だ。

全国規模の発表会で、視察にきている大勢の教育関係者の前で爪を塗っているんだから、けっこう肝が据わっているものと見えた(笑)

他方、研究発表会だからという大人の事情で体裁だけ整えてもしょうがない、という「大人側」の姿勢もちょっと見て取れる。

生徒にたいして「規律訓練型」の教育を生徒にさせるタイプの「教員向け規律訓練」を有形無形に受けたわたしのような
教師なら、お尻がむずむずしてくる光景だ。

だが、教師も生徒も、そんなことに動じる気配はみじんもない。

私にはコレが爽快だった。
「だよな」
って感じがした。
おそらく、それも含めて見てもらいましょうってことなんだろうなと思う。

ちなみに、同行してもらっていた大学院生(現職マスター)はさすがだった。
丁寧に、
「きみたち何をしているの?」

と聞いたところ、
「お年寄りにお化粧とかネイルとかしてあげるととても喜ぶという経験をして……」
という説明が返ってきた。

まあ計画の時間だからその練習ってこともないのだろうが。

校長の言葉が、彼女たちの姿と少し重なって見えた。「いい子たちばかり」が不安だとしたら、この子たちのパワーを使うようなタイプの授業者を集めればいいんじゃないかな、とも思った。

もし、そういうことにエネルギーを割く時間が不足しているのであれば、校舎に下りるお金の数十分の一でいいから人的資源に投入したらいいのに、とも。

確かに、放課後の協働スペースでは、NPOカタリバの人たちが常駐しながら生徒たちとふれ合っている。個別進路の対応や、授業・プロジェクトにうまく参加できない子たちのフォローもしてもらえそうだ。

でも、そこ「ななめの関係」(南郷副校長)とかいって済ませてていいのかしらん、と、入り口のネイル少女たちを見ていて思ったのも事実。

授業規律・規範の面から言っているんじゃなくて、彼女たちのパワーの方が実は大きくて、今のところ負のパワーかもしれないけれど、それとどう向き合うかが原発事故と災害とどう向き合うか、にも(教員のたちの姿勢としては)つながるんじゃないかな、という感想を持った。無責任に言うことでもないのですが。

③おもしろポイントその3
生徒発表

SGHと探求学習の成果といえば、やはりこの生徒代表の発表だろう。

発表は二つあって、一つは木戸川の鮭を使ったフレークの商品化で、もう一つは地域交換留学というプロジェクトだった。
(詳細は資料を参照のこと)

これは発表もさることながら、それに対する質問がおもしろかった。
前者に対する質問は、

「鮭の獲れる時期」が限られていると分かったときにどうやって諦めずに商品化までこぎつけたのか、そのときの諦めなかった理由をききたいというもので、

発表者はそれに対して「諦めるのは悔しいから」、といった返答をしていた。かみ合っているようないないような微妙なやりとりだったけれど、それがおもしろかった。

この探求学習は一種のプロジェクト学習でもある。特にこういう商品の企画を考えるときには、とにもかくにもプロジェクトを実現する事が重要だ。

今までやったことのない企画だから困難が出てくるのは当然だし、過半は「困難」を解決する仕事、ともいえる。

諦めるのは悔しい、私たちにも冷凍保存鮭の「分け前を」

といった市場参入への「欲望」は、きわめて適切な(笑)姿勢ではなかっただろうか。

他方、それを語る彼女の語り口は、質問者の求める「なぜ」というプロットの問題ではなく、(この高校生にとってはむしろ)「物語」(こうしたらこうなった)という水準の「語り」なのかもしれない、とも思った。

そう言う意味でおもしろかった。


最後の発表は、原子力防災探究ゼミ「地域交換留学生」についての発表だった。

全国の高校生と双葉郡の高校生をつなぐ交換留学生のプログラムを実施することで、他人事ではなく「自分事」としてこの災害を受け止めてもらう、というものだった。

それに対するフロアからの質問がまたふるっていて

「どうやったらその交換留学生が自分事として受け止めたと分かるのですか」

というものだった。

すると発表者は
「行動ですね」
と間髪を入れずに応える。
「具体的には、最初のアンケートでは一行しか書いてもらえなかったが、最後のアンケートでは、詳細かつ具体的に書いてもらえるようになった」

考え方が変わるということでは必ずしもなく、同じところに戻っていくのであっても、その過程があるということが大切、との指摘もしていた。

資金のことについても、補助金を求めたり、クラウドファンディングをしたり、といった状況をきちんと説明していた。よくできました、という発表だったと思う。ある意味痛快でした。

3,最後に

この高校は繰り返しスタッフも指摘しているように、他地区から意欲ある生徒が応募してきて真剣に学校を利用しながら成果を出している生徒、スポーツ環境に魅力を感じ世界を目指している生徒、行き場所・生きる場所が見いだせずにとりあえずこの学校に入学はしたものの自分を出せずポジティブに活動できない生徒、と多様な生徒が併存している学校だ。

小学校や中学校のように、時間事に生徒の活動について、包摂を前提に授業経営をしていくのは難しい側面がある。

もし私がこの学校の教員だったなら、一体ここで何ができるのか、どうしたらいいのか、を自分の頭の中で考えていくと、簡単に解は出てきそうもない。

ただ、こんなにお金をかけて、こんなに研究を背負って、こんなに地域を背負って、国の政策まで担って、学校というものは経営しなければならないものなのか、という疑問はどうしても残る。

もっと貧乏で規模が小さくて、いろんな大人がいて、大人たちが新しい「包摂性」「公共性」を備えたスタッフとして活動できる、そんな学校を作る(できなければ誘致でもよい)方がなんぼかいいんじゃないか?

そう思う。

解の一つは、たとえばたまたま1月25日に訪ねた
南アルプス子どもの村
にある。ふたば未来に投入されたお金があれば、子どもの村規模の運営なら数十年可能じゃないかしらん。あるいは寮費の補助をしてもよい。

ふたば未来学園は、原発をベースロード電源として維持する方針の現政権にあっては、むしろ「オルタナティブ」な政策側面を持っている。あまり政治に関心のない人にとってもそれは自明のことだろう。

安倍政権に押し込められながらも、教育の自立性をまあまあなんとか保とうとしている文科省教育行政の予算獲得の旗印の一つなのかもしれない。
だがこのやり方は、原発行政の「ドーピング」政策に他人のそら似程度には似ているという気もしてくる。

つまり、教育って当たり前だけど、内発的な志向をのばしていくのがその自由にとっては大切で、それは子どもたちが互いに互いの近傍に立って、その複数性を前提として彼らたちがプロジェクトについて公共的に議論しながら深めて行く必要があるわけで、それが総合的学習の理想型であるとするならば、もはや国策と地域復興みたいなところはより少なくして、貧乏になりながらも腕に覚えのある、ということは哲学のある教師を全国から集めてくる方がいいのではないか?という思いが湧いてくるということだ。

今年から入った中学生に道徳じゃなくて哲学対話の授業をはじめた、と校長の話にあった。

すばらしいと思う。

でも、重要なのは生徒に哲学対話させるにしても、教員たち自身がまずはゆっくり彼ら自身の「哲学」を問い直してみることの方が大切なんじゃないかな。

スタッフの給料を上げたり、あるいは昇進させてあげたりするより、むしろやりたい教育ができるって方が魅力的だと思うけどな。ここだけ20人学級とか(教員の3倍加配とか)。楽させていいから、成果を、みたいなね。
忙しくしないで。

お金を投入するとエビデンスとかうるさいからなあ、今時は。

以上、勝手な感想でした。


鷲田清一『現象学の視線』を読む

2020年01月31日 16時09分08秒 | 大震災の中で
鷲田清一の文章はここのところ入試頻出だから、高校国語教師という商売柄、この書き手の「ファッションに」ついてとか「顔」について、「福祉」「医療」「臨床哲学(哲カフェなど)といった応用論についてはたくさん読んできた。

図書館にこの文庫があったのでたまたま拾ってきたら、何と先々週読みさしで図書館に返却したウィリアムス・ジェイムズ論が載っているではないか。

鷲田せんせの考え方なら馴染んでいる。その「視線」に支援されればジェイムズももう少し読めるかもしれない。ウロウロしていると出会いがあるものだ。

読み切れなかった図書館のW.ジェイムズの宗教論(岩波文庫)はいずれ買って手元に置こうと思っている。その助けにもなる一冊。

それと、「現象学」についてもう一度おさらいしたくなった、という事情もある。

カノユウメイナ(^_^)『自閉症の現象学』を書いた村上靖彦せんせいが、それを書いた後すぐに「転向声明」を出したという旨の話を対談(『精神看護』2020 年一月号)で読んで、さらに別の哲学している友人宅からも福田定良がらみで「現象学」ってね……という話を聞いていて気になっていた、というのもある。
「現象学」についての自分の感触を確かめておきたい、ということかな。

これから読み始めます。
ああ、山内志朗と並行読みになっちゃうー(笑)

第14回エチカ福島を開催します。

2020年01月25日 10時24分21秒 | 大震災の中で
第14回エチカ福島
大西暢夫監督作品『水になった村』上映会、大西監督とのセッション。
3/14(土)13:30~
フォーラム福島にて。

前売り券1,100円はフォーラム福島にてお求めください。
詳細はフライヤーにて。

 徳山ダムに沈んだ故郷、そこに生きた人々の最後の姿を淡々ととらえた映画です。上映会には大西監督ご自身も来られます!
 佐藤弥右衛門氏をお招きして実施した第13回エチカ福島に引き続き、私たちが再び見出すべき「もう一つの生き方」を考えます。






『浄土系思想論』鈴木大拙を読み出す。

2020年01月20日 16時20分59秒 | 大震災の中で
『正法眼蔵随聞記』と平行して、
鈴木大拙『浄土系思想論』
を読み出した。『正法~』が自力系禅の教えとすればだとすれば、こっちは明らかに他力的「大乗系」の教えになる(のだろう)高校で教わった範囲だけど。あれ、でもどっちかっていうと、浄土宗というより、浄土真宗なのかな?絶対他力は後者だとならったような。
でも、実は法然さんと親鸞さんの違いをはっきり分かってない。

まあ、いいや(笑)おいおい見えてくるでしょう。

最初に読みだしたところでは、彼岸と此岸の「一如」がポイントになりそうだ。極楽と娑婆は1つではない。2つでもない。
「一如」なのだそうだ。
道元と違って脱力系なのかと、いっしゅん思うが、これはこれで、分別を越えて「霊性」を発揮しなければならないというのだから簡単に分かるというわけには行かないのだろう。というか「分かる/分からない」ではない次元に行く、という意味では道元さんと似ている面もあるのかしら(仏教だから当然?いやいやまだよくわからない)。

そこのところの「ジャンプ」をする前の此岸的準備運動の道具立てが違っていそうだが。

こうなると日蓮系も覗いてみたいが、こちらはいろいろありすぎてとりあえずお正月明けのぼんやりした頭ではまかない切れなさそうだ。
今年前半の課題ホッブズ『リヴァイアサン』に取り組む前の準備運動の一環かな。


個人的な橋本治追悼として『ひらがな日本美術史』を読み出す。

2020年01月19日 22時12分42秒 | 大震災の中で
個人的には
『花咲く乙女のキンピラゴボウ』
(こんな題名だったと思うが)
から始まって、『蓮と刀「どうして男は"男"をこわがるのか」』、桃尻語訳、窯変、そして『小林秀雄の恵み』まで、様々な形で恩恵を被ってきた。

天才的でもあるが、ヘンな人でもある。
そしてとにかく、こういう仕事を素人相手にきちんとやってくれる人を、私は他に加藤周一と松岡正剛ぐらいしか知らない。あとは学問か美学しちゃう人が多くて。、あ、國分功一郎さんの名前も挙げておきたい気もするな。迷惑かもしれないけれど、文章を読んでいるだけで、その論理の力だけで惰夫を立たせてくれる。中沢新一さんは、まはや芸の術に近いのかも?
それはさておき、橋本治追悼、である。

七巻本セットで購入して寝かせておいたが、無職の徒と化した今、心して味わいたい(笑)


「しらみずアーツキャンプ 2019」に参加してきた。

2020年01月19日 20時24分55秒 | 大震災の中で
「しらみずアーツキャンプ 2019」
とは、福島県いわき市内郷白水町というところで開催される芸術祭のこと。
かつて炭鉱で栄えた白水の文化や歴史を学ぶイベントがここ3年開催されている。

2019と題名にあるとおり、本来は2019年10月に開催される予定だったが、10月に起こった大規模災害(台風に伴う水害)によって開催ができず、形を変えて今日(2019/01/19)ようやく一部の企画を実行することができた、という。

私は白水の知人から教えてもらい、ちょうど日曜日が空いていたので、ふらりと参加してみた。
私が参加したのは以下の三つのプログラムだった。

1,「講座 やっちき学概論」 9:00~10:15 講師 江尻 浩二郎 於:旧白水小学校

2,選べるフィールドワーク② 公認ガイドといく 石炭(スミ)の道

3,いわき・浦項(ポハン)潮目文化交流 

どれも面白かったのだが、抜群に興味を引かれたのは1、江尻さんの「講座 やっちき学概論」だった。
いわきには「やっちき」という踊りがあったらしい。しかしそれがよく分からない、というところから始まり、いわきに古くから伝わる念仏踊りの「じゃんがら」について、またいわきの盆踊りについて、昭和56年に創作されたいわき踊り、常磐ハワイアンセンターのキャンペーンで取り上げられた「古代やっちき」、従来の盆踊りを壊すようなはちゃめちゃな踊りがそう呼ばれていた?など、よく分からない「ヤッチキ」というものについて、レジュメ17枚に及ぶ丁寧な資料と、ビデオを駆使して「ヤッチキ」とは何か、に迫っていく。
私は実際のところ、寝坊による遅刻で最初の30分を聞き逃してしまったのだが、これは人生最大級の悔恨だった。

いわきといえば「じゃんがら念仏踊り」であり、盆踊りはだいたい日本全国似たようなもの……といったきわめてぼんやりした認識しかなかった私は、大きな衝撃を受けた。


仮説として提示されたものは5つ……というところからしか聞いていないので、全体像は江尻さんにお問い合わせを。

(1)崩して踊ること、お道化て踊ること、やんちゃに踊ること、激しく踊ること、それらを広く「ヤッチキ」と呼んでいたのではないか?少なくてもそういう語幹だったのではないか。

(2)であるならば、「ヤッチキ」が指し示すものは以下の5つに分けなければならないのではないか。
①文句
②節
③振り
④囃子言葉
⑤立場/昨日

(3)そしてこれまで「ヤッチキ」と一括していたものには以下の5つがあるのではないか。
①いわゆる「上三坂のヤッチキ踊り(≒塙町のとびっこ踊り、浅川町の踊り、磯原花園神社の踊り)
②北好間、内郷のあたりで盛んだった、通常の盆踊りの内側で踊る別な踊り
③通常の盆踊りが早間になって早く踊る早踊り(古殿、小名浜など)
④安達郡岩代町のヤッチキ系(一人で別な踊りを踊って輪を壊す)
⑤白水の念仏ヤッチキ

ここら辺りからのお話を理解した限りでは、白水の念仏ヤッチキというものは、戦後すぐ、炭鉱に働く人たちの間で短期間だけおこなわれた、じゃんがら念仏踊りとは異なる、しかし盆踊りやじゃんがら念仏踊りなどとも共通する側面を持つような猥雑で熱狂的な踊りだった……かもしれない、というように受け止めた(繰り返しますが、正確には江尻さんに確かめてくださいね!アーツキャンプ事務局に問い合わせるとなんとかつながる、かもしれません)。

いや、このお話だけでもわくわくした。
北海道や九州の炭鉱の踊りとの関連、福島県から茨城県にかけての盆踊りの関連、じゃんがら念仏おどりとの関連、常磐ハワイアンセンターが仕掛けた地域興しとの関連などなど、地元の「踊り」一つをとっても、幾重にも折り重ねられた織物の残欠からその着物の全体を想像するような楽しさがかんじられる。

第一、江尻さんの発表には、フィールドワークや文献渉猟がとっても楽しい営みだという波動が満ちている。
もちろん、地元の古老の踊りのビデオ撮影、聞き取り調査、全国に渡る踊りの文献検索など、楽しいだけで済むはずのないご苦労がこの資料やビデオからも十分察せられる。
しかしなお、愉しみながら「問い」を重ねていく「知の営み」の豊かさが、確かにここには感じられた。


2の選べるフィールドワーク②は、みろく沢という場所の炭鉱跡地を巡るものだったが、これは個人的には本当に貴重な体験になった。福島県いわき市がかつて炭鉱の町として栄えたことは知っている。そして石炭の需要の低下とともに産業としての炭鉱は衰微していったことも。
しかし、具体的に江戸末期から明治・大正・昭和にかけてどのように炭鉱産業が栄えていき、ぐたいてきにこの内郷の白水のどんな場所でそれが行われていったのか、現地を歩きながら体験するフィールドワークというのは、めちゃめちゃ楽しくかつためになった。
いわき市湯本には「石炭化石館」という展示館があって、炭鉱の歴史や様子が分かりやすく理解できる学習施設になっているのだが、具体的な現場でその土地の風を体に受けながら感じたのは、空調の効いた展示館でボタンを押すと解説がきける環境とは全く異なった意味/意義がある、という(当たり前といえば当たり前の)事実の重さだ。

午後から行われた3の浦項の方々との交流イベントは、残念ながら途中退席してしまったので、まとまった感想を書けないのだが、一つ印象に残ったことをメモしておく。

浦項では地震の被害を受けてから、その町と人々の心と、共同体を回復しようとする営みがいくつかあって、その中に、他の災害や事故で傷ついた人々を繋いでいこうという試みがF5というチーム(今回きてくれた人々にも含まれている)の仕事が紹介されていた。
韓国の他の地域、他の災害、他の被害を受けた人々とつながり、あるいは外国の、たとえば福島県の人々とつながり、対話をひろげ深めることによって精神の復興の試みとしてくという発想は、私にとって新鮮だった。

休憩時、韓国からきた方の一人に
「浦項の地震の被害は、福島の被害と比べることはできません(被害の程度は軽い、という意味で)。その点をいわきの方がどう感じられるか心配です。いかがですか」
と尋ねられた。

実は、その問いは、私自身、この5年間エチカ福島というワークショップに携わってきて感じていた疑問でもあったから、逆に「ああ、つながっているんだな」と意を強くした。

福島県でも、「福島のことをわかりもしないでしゃべるな」と言わぬばかりの態度を取る人もいる。
それほど攻撃的ではなくても、「福島にはもう大きな問題はないのです。十分復興していけるのです。」と発信したい人もいるし、「他方いろいろな立場があって口ごもるのもわかる」とも言えるし、「福島は未曾有の原発事故のまっただ中にいって、大きな傷を背負ったままではないか」と強く抗議する方がいるのも分かる。

私は口ごもりつつ、それでもなお「表現」と「出会い」のきっかけを模索したいという辺りをうろうろしている。うろうろしつつも、「声の複数性」は担保したいと思う。
経済や政治や既存の壊れかけた共同体の網の目に隠れてしまって聞こえない声に耳を澄ませ続けたいと思う。

そのためにはこういう文化=アートの事業が絶対に必要だ、と改めて思う。

いわきにはたくさんの活動があって、ありがたい。

文化庁の助成は今年限りで、来年以降はこの形では続かないとの噂も聞いた。

田人地区の芸術祭もそうだけれど、地域を具体的にフィールドワークしつつ感じ、考えることを、こういうイベントをきっかけに自分のものにしていかねば。そう改めて考えた。
 



第13回エチカ福島のまとめです。

2019年11月24日 21時28分50秒 | 大震災の中で






第13回エチカ福島を開催します。

2019年10月27日 23時41分55秒 | 大震災の中で
第13回エチカ福島を開催します。


【テーマ】「〈電力〉から考えるもう一つの生き方」

【ゲスト講師】
      佐藤弥右衛門さん(会津電力)
      山内明美さん(宮城教育大学)

【日 時】11月23日(土)14:00〜17:00    
再生可能エネルギー体験学習施設(雄国大學
【会 場】(喜多方市熊倉町新合字休石地内) 

【申 込】 自由参加ですが、できればコメントなどで参加の旨お知らせいただければ幸いです。

【参加費】見学料は1,000円 
     (ただしエチカ福島が負担しますの寺実質無料です)
【開催趣旨】
 「エチカ福島」は、これまで震災・原発事故以降の私たちの倫理(エチカ)を問うてきたが、大きく二つの系列に分けられる。一つは、震災・原発事故の被害にあったフクシマに生きる者として、私たちはそれをどうとらえ、その状況の中でどう生きて行けばいいのかを問うという系列である。もう一つは、私たちのこれまでの生き方の選択こそが結果として原発事故を引き起こしたと考え、その生き方を問うという系列である。特に、奥只見は原発前史として電源開発が行われ、奇しくも原発事故の年の夏にダムの林立する只見川で洪水が発生し大きな被害を出した。その只見川流域の地域、特に過疎が深刻化する奥会津の現状を知りその未来を考えることで、私たちのこれからの生き方について考えようとするものである。
 奥会津は、水や森林震源をはじめとする自然資源はもちろんのこと、歴史的にも豊かで奥深い地域である。そこに巨大なダムが建設され、それが作り出す電気は日本の高度経済成長を支え続けた。奥只見は当初ダム建設とダム関連予算によって栄えたが、やがて電源開発はダム発電から原発にシフトすることでそれは終焉をむかえる。奥会津に林立するダムは今でも稼働を続けるが、豊かな自然と引きかえにして得た経済的恩恵は先細りし、人々は奥只見を離れ過疎化は深刻な局面をむかえている。このことは奥只見に限った話ではない。このまま市場主義を貫徹すれば、奥只見をはじめとする日本の多くの地方を根こそぎにしてしまうだろう。
 奥会津の過去を問うことは、実は私たちの今までの生き方を問うことである。奥会津の未来を問うことは私たちのこれからの生き方を問うことである。私たちはこれまで何を選び何を捨ててきたのか。私たちはこれから何をたいせつなものとして守らなければならないのだろうか。
 今回の「エチカ福島」は、佐藤弥右衛門氏と山内明美氏をお招きし、それぞれ「電力の自立と地方の自立」「地域自治と福島の発電史」と題したお話をうかがう。