龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

安藤栄作さんの作品。

2019年09月29日 16時56分31秒 | 大震災の中で
円空賞を受賞し、現在パリで個展を開いている安藤栄作さんの作品を、ようやく手に入れました!
福島県いわき市のギャラリー創芸工房で2人展をの最終日と知り、駆け込みで見に行ったところ、書斎に置けるジャストサイズの展示作品があったので迷わずゲット。

「空気の狭間」


安藤さんが作品空間で産み出している空気の流れを、今日からは自室で味わえます(幸せ)。

『いつもそばには本があった』読書会まとめ

2019年06月28日 16時19分51秒 | 大震災の中で
先日(2019/6/22)に福島の文化堂二階ペントノートで開催したCafé de Logosの
國分功一郎×互盛央
『いつもそばには本があった』
の読書会まとめを、世話役の渡部純さんが書いてくれました。
私自身の感想も書かねばならないのですが、私事に追われてなかなか書けません。
こちらにまとめがありますのでぜひご覧ください。

https://blog.goo.ne.jp/cafelogos2017/e/04c27975c758ee6b5f6581b087a25d50


映画『主戦場』を観てきた。

2019年06月19日 14時18分11秒 | 大震災の中で
偶々ぽっかりと福島市で3日間過ごすことになった。
昨日はこれもたまたま駅前で友人と出会い、軽く酒飲みしながらグチ聞き大会になった。

上手くいかないことはそれこそ星の数ほどあって、そういう 「ウンコ」なことでほぼ日常の 「業務」は埋め尽くされている。

決してシンプルな答えは出ないし、快刀乱麻を裁つような名案が見つかったときは むしろ 「危ない」デロデロした泥沼のような日常の中で、何がしたいのか見失わないようにするのが精一杯だったりもする。

それぞれに守るべきものがあり、自尊心ややるべき方法、理想なんぞというものさえ各自ふんだんに抱えてもいるとしたら……。

昨夜聞いていたグチとさっき観た『主戦場』という映画とが、今私の頭の中で少し響き合っている。

杉田水脈(みお)とか桜井よし子とか、藤岡信勝とかいった人たちの語る話をマジメに聴いたのは実はこれが初めての体験で、これは正直非常に興味深いものがあった。

彼らの主張は正直なところ私の立場とは遠くかけ離れていて、普段真剣に聞く気にもならない。

だが、暗闇に独りポツンと置いておかれ、音と映像を次々に繰り出されていく 「映画」というマゾっぽいメディアだからこそ、彼らの主張もじっくり聴かされることになり、だから(当然)じっくり聴くことにもなった。
さて、じっくり聴いてみると、これがなかなか面白いのである。

例えば藤岡信勝は 「国家は謝罪しちゃならんのです」と何度も何度も繰り返す。だから河野談話は致命的なミスだったとでもいいたげに。
私などは河野談話を聞いて 「日本も成熟していくのね」と感慨深く思ったから、藤岡信勝の
〈絶対許せん河野談話〉
的スタンスがどういう欲望に支えられているのか興味がわいてくる。
レキシシュウセイシュギシャがたんなるウンコであることが自明である時代は(日本では)終わったのだ、ということは分かる。
そして実はこれは、日本だけのウンコ蔓延で済まないようだ、ということも感じる。

日本会議は1997年河野談話に対するバックラッシュ(反動)というのがこの映画の作り手の基本的スタンスで、それがせいじてき宗教的市民運動的に勢力を増してきている様子もよく分かった。

杉田水脈とか、名前も覚えていない学者某とか、櫻井某とか、ケント某とか、あまりにも 「普通」の杜撰さがあからさまで、相手にしたくない。

しかし、マジメに考えないと本当に大変なんだ、と分かった。

極めて面倒くさい。


とはいえ、事態は面倒くさいところにある、のだとしたら、それから逃げ出すわけにもいくまい。

さて、ではどうしたいか。
国家について考え抜かないといかんなあ。何が起こっていて、何が欠如しているのか、を見ることだね。

決して
「なにが隠されているのか」
というスタンスではなく。
それではちょっと油断すると、答えを与えたがっているヒトの餌食になる。

そこ、難しいんだけど。

第12回エチカ福島 「【テーマ】公害事件と世代間伝達―水俣事件を第二世代はどのように考えてきたのか」

2019年05月07日 22時05分44秒 | 大震災の中で

第12回エチカ福島開催のご案内です
【テーマ】公害事件と世代間伝達―水俣事件を第二世代はどのように考えてきたのか
【ゲスト】高倉草児さん・高倉鼓子さん(ガイアみなまた)
【日 時】8月17日(土)13:30~17:00    
【会 場】未定(決まり次第アップします)
【申 込】 特に申し込みは必要ありません。
【参加費】資料代100円(学生無料)
【主 催】エチカ福島
【開催趣旨】
過酷な公害事件を子ども世代はどのように見、考えたのだろうか。それに対して、大人たちはどのような姿を見せてきたのだろうか。
原発事故という未曽有の公害事件を経験した私たちにとって、このような問いを避けてとおることはできません。
しかし、その問いに対する答えを見出すことはまだまだこれからのことでしょう。
2020年の東京オリンピックとともに、さまざまな場面で子どもを出汁に「復興」物語を喧伝する大きな力もはたらくなか、あの出来事の教訓を次世代に伝えることは日増しに複雑化しています。
その世代間の伝達はいかにして可能なのか。

このような問題意識から、第12回となるエチカ福島では、水俣市よりガイアみなまたの高倉草児さんと鼓子さん兄妹をお招きして、講話と参加者とのダイアローグを開催します。
ガイアみなまたは、70年代半ばから水俣病問題をきっかけとして水俣に定住し、被害者の社会運動を支援しつつ、水俣病患者運動の中で知り合うことができた被害者家族とともに、 農薬を減らした甘夏栽培(生産者グループ きばる)を始めた団体です。
草児さんと鼓子さんは、その家族のなかに生まれた第二世代です。
  
実は、渡部は3年前にガイアみなまたで援農をさせてもらいながら、10日間ほど水俣に滞在する機会を得ました。
その際に、高倉さん一家をはじめとするガイアみなまたの皆さんには、多くの方々に出会わせていただきながら、水俣病事件をめぐるさまざまなお話を聞かせていただきました。
そのなかでもとりわけ興味を引いたのが、草児さんと鼓子さんのお話でした。
お二人は水俣病事件をめぐる社会運動家であったご両親のもとで育ちながら、その運動や思想について教えられることはほとんどなく、高校卒業まで水俣病事件に関心もほとんどなかったというのです。
その二人は進学・就職とともに県外へ出た後に、いま水俣へ戻ってご両親の仕事を受け継いでいます。
それは、近代水俣という土地に生まれ育った彼らの、人生の「転回」というべきものだったのではないか。いったい、そこにどのような思考のプロセスがあったのか。お二人のお話を伺いながら、私は世代間の伝達というものにたいへん興味を抱かされたものです。

もちろん、このお二人の経験がすべての公害事件地域の第二世代に生じたものではないでしょう。
しかしながら、先行世代というものは、次世代への継承の重要性を訴えつつも、得てして自分たちの枠からはみ出していく可能性には気づけないものです。
しかし、その先行世代の期待と第二世代の受け止め方のズレから生じる化学反応は、世代間伝達における希望の可能性でもあるでしょう。
そのヒントを水俣事件の第二世代ともいうべきお二人をお招きしながら、「3.11」以後の福島における問題としてみなさんと一緒に考える機会とさせていただきます。(文:渡部 純)

読書会をします『いつもそばには本があった』

2019年04月16日 00時22分52秒 | 大震災の中で
読書会をします。



國分功一郎×互盛央『いつもそばに本があった』を読む会
https://blog.goo.ne.jp/cafelogos2017/e/8d317766c827f1cf39b6e0f9ead06a21

【テーマ】  國分功一郎×互盛央『いつもそばに本があった』を読む会
【開催日時】 6月22日(土)15:00~18:00    
【開催場所】ペンとノート(福島市上町2-20 福島中央ビル2階)
【申し込み】 参加希望される方は必ずメッセージでお申し込みください。
【参加費】  飲み物代(各自)+会場費
【カフェマスター】島貫 真
【開催趣旨】
 あの哲学者國分功一郎のファンを自称する島貫真氏のリードで本書を読み合います。
 どしどしご参加ください。
 
《カフェマスター島貫より》
『いつもそばには本があった。』國分功一郎・互盛央
個人的に、上半期ベスト3に入る一冊です。
二人と一緒に本を語り合えるような楽しさに溢れた本に仕上がっていることも驚き。この著者だからこそ、の真っ当さを感じます。
極端なことをいえば、本の中身なんて読んでみなければ分からないものです。でも、本を読むことで変容していく主体のことに興味を抱かない本好きはいないはず。その本と向き合うことによる「変容」や「発見」の(特に、答えよりも問いを発見するという)プロセスを、これほど率直に書いている本というのはあまりないのじゃないでしょうか。
この本の効能は
1、ここ25年ぐらいの人文系のテーマを見通すことができる。
2,従って、人文系「本」好きの40代以上の人には文句なしにお勧め。
3,読書体験が、ただ本を読むというだけのことではなく、時代の流行とか、人との出会いとか、もちろん未知の書籍との必然的な出会いとか、本に対する愛着や敬意、その本を読むことによって初めて見えてくる景色の変化とか、さまざまに豊かな側面をもっていることを改めて感じさせてくれる。
4,本の中身についてほとんど直接紹介はされていないのに、ちょっとその本について読んでみようかな、という「誘惑」の力がある。
5,読書体験というものの持つ意味を、お二人と共有できる。
6,二人の対談でも往復書簡でもない、本についての話を互いにしていくことによって著者自身が互いに触発されていくリアルタイムのわくわくがある。それは「連歌」的あるいは「観念連合」的と本文中でも言われているけれど、そのライブ感覚の醍醐味を味わえる。
といくらでも挙げられますが、とにかく人文(思想・哲学・文学)系に興味がある人は必読、といっていい本だと思います。
個人的に直接さわったことのない本も数十冊ありましたが、それはむしろ新たな「誘い」として読めました。ぜひこの機会に一緒に読んでみませんか。


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『自閉症連続体の時代』立岩真也を読み始めた。

2019年02月12日 10時52分35秒 | 大震災の中で
『自閉症連続体の時代』立岩真也
みすず書房刊3700円+税
(……高いね(>_<)……)

この本は、とても 「懐かしさ」を感じる書物だ。これを懐かしいと感じるのはなぜなんだろう、と思うが、簡単には説明できそうにない。
読んでイライラする人もいんるだろうな、いやむしろ普通に考えれば読み難い文章だと言っていいかもしれない。しかし、この 「道行き」というか、答えと問いとを同時に手のひらの上に持ちつつ、なおそれらをいくつかの切り分け方に応じて 「一定の根拠」を認めた上で、それを含めた問い直しを端からそくそくやっていくことばの身振り(と私には感じられるもの)が、とても懐かしかったのだ。
まず一つ、ここ数年いろいろと考えることがそれなりにあって、そういうことたちとこの本が共鳴している。だから 「懐かしい」のだ。
もう一つには、
「答えを出そうとする欲望が問いを立てさせる」
ことの複数性をきちんと踏まえてそれらがぐちゃぐちゃに立ち現れる 「混乱した頭の中」を、簡単には整理することなく叙述してくれているという 「高度さ」というか 「まどろっこしさ」というか 「不自然さ」が、にもかかわらず不思議にフィット感をもって近づいてくる 、という点が、懐かしく感じる理由かもしれない。だかそれはそうだとしても…………いやその続きは本を読んでからにしよう。


内容については、 「近代医療批判」についての分析で(1)~(4
)まで指摘している、この挙げ方を見れば興味を引かれるかどうかが分かる。

引用開始
(1)病・障害を社会が引き起こしているという批判
(2 )「自然」が賞揚されることがあった
(3)どちらをよしとするにせよ自分で決めればいいという自己決定の主張があった

これらはみな重要だが十分ではなく、時には問題の所在に気づかせない装置として作動してしまうこともある。

(4)(前出のみっつ:引用者)より以前からあったとも言えるしその三つの後に現れたとも捉えることのできるかあ社会」を問題にするもう一つの捉え方が有効であると私は考えている
引用終了

今、今日私が立っている場所、どの病院でどんな治療を(してもらう)(していける)(選択する)のか、という場所に立たされている。それは医療のご加護を祈ることでもなく、全く主体的に医療に関わるのでもなく、環境を変えればいいというものでもなく、自分で選択すれば問題解決、というわけでもない。

著者がいう 「明るさ」でもいいし、スピノザの 「コナトゥス=(より良く)生きる努力」といってもいいが、今ここにある環境世界の中で 「生きる」ことを考えるために必要な事柄をめぐってかかれようとしている文章だということは分かる。
今日はこれからこれを読む。
しかし、週末に予定している読書会の課題図書の一冊をまだ予約した図書館から受け取っていない。手ごわそうな本なのに……。

「連続体」=スペクトラムを単純に切り分けることばはうさんくさい。
福島に住んでいると、そういうことについてはよく分かるようになる。

福島に生きることについても書かねばならないことがあるのだが、、それはまた項を改めて(未来会議の 「50年後への手紙 」がメッチャメチャおもしろかったのですが)書く。


森鴎外『渋江抽斎』を読んでいる。

2019年01月27日 00時41分46秒 | 大震災の中で
森鴎外の『渋江抽斎』を読み返している。
正確には、若い頃途中で放り出したものを再び拾って読み直しだしたというべきなのだが、ともあれ息子の本棚に残っていた岩波文庫を手にとって、何の気なしにパラパラとめくっている。
石川淳は『森鴎外』という文章で鴎外晩年の史伝物を 「婦女童幼の智能に適さない」とかいっていたそうだが、わたしなどはいわゆるその 「女子供」の典型で、還暦過ぎても知能は高がしれている。
いや、今時は こんなことを書いていると「婦女童幼」をバカにしたカドで石川淳も私も同様に槍玉に挙げられてしまうだろうか。

平たくひっくり返していえば歴史の考証をしていくような 「辛気臭い」文章は流行らない、ということなのだろう。石川淳はその毀誉褒貶の毀と貶に対して(昭和最後の文士的に)開き直ってみせた、と見ておくべきかもしれない。

ともあれ、生意気盛りの二十歳過ぎの頃、石川淳を背伸びして読み続けてはいたものの、石川淳が 「小説」と呼んで絶賛する鴎外晩年の史伝モノの良さは全くピンときていなかった。だから『渋江抽斎』を読んでみても、ただページをめくるだけで何が面白いのかさっぱり勘所が掴めないままだった。
それが、今読んでみるとなにやらとても面白いのだ。
小林秀雄が読めなかったのに橋本治の『小林秀雄の恵み』を読んでからちょっと身近に感じられるようになったのと、ちょっと似ている体験かもしれない。

テキスト自体はなかなか読めないけれど、テキストの海を泳ぎつつ表現しようとしているその営みなら読める。

そういう意味では石川淳がいう〈森鴎外においては史伝こそが 「小説」だ〉
というのは当たっていなくもないのだろうけれど、やっぱりちょっと不親切(そんなことをいうとまた 「女子供扱いされるんだろうが、そう思うのだから仕方がない)だ。

とりあえず、史伝における想像力は、 「できるもんならやってみろ」とこちらを突き放すような厳しいものだ、ということなんだろう、と理解しておく。

なぜ面白いのか。
(史伝物で思い出した。『やちまた』も詠まなくちゃ!)

ただ想像力で何かを想像するというのではなく、歴史において様々な考証(テキスト収集もあるが、人を尋ねて聴き回ることもある)を重ねて、言葉の海から波の波動の痕跡のようなものを見つけ出す 、比喩的にいえば「宇宙物理学」のような作業につきあっているように感じられはじめる感覚があるから、といっていいだろうか。

「あり得べき」ものや人に語らせつつ、あり得べきことをそこから見出して 「想像する」という営みが面白い、といってもいいかもしない。

そこにはもちろん探偵小説的な面白味もあり、史実とどこかでリンクして 「歴史」の基盤を感じさせる手応えもあり、それでいで今までだれも 「映像化」にせいこうしていなかった幕末の医者 「渋江抽斎」を見事に蘇らせているという小説家の 「腕」の見事さもある。

とにかく、二十歳の頃には読めなかったテキストが六十歳なら読める、ということがある。
それを知っただけでも嬉しい(笑)

鴎外自身が医者であり、抽斎もまた医者であった、ということもあるだろうし、鴎外がしだいにその歴史的な人物と鴎外自身のテキストの中で出会っていく様子が 「醍醐味」の一つになっているということもあるのだろう。

だか、そんなことどもはみんな、二十歳の時だって知識としては知っていた。
だから、テキストが読めるというの、私程度の人間にとっては 「知識」の有無の問題ではないのだ、とつくづく思う。
今更鴎外の史伝を読むという行為自体、もはや人生の終わりが近い、ということなのかもしれない、とも思う。
とすれば、これは盆栽とか石磨きをする代わりに 「鴎外磨き」を始めただけのことなのだろうか。そうかもしれない。そうでないのかもしれない。
ともあれ、森鴎外『渋江抽斎』は、メチャメチャ面白い読書体験になっている。

もしかするとテキストを読むということは 「分からなくてもいいんだ」ってことが身体レベルでわかり始めている、のかもしれない。
つまり、テキストを読んでいる間は、テキストの中を生きている、のかもしない、という意味で。
このあたり、もう少し考えてみる意義はありそうだ。

第11回エチカ福島を開催します。

2018年12月27日 00時55分53秒 | 大震災の中で


第11回エチカ福島
    
【テーマ】「原発事故8年後の沈黙を考える」

 映画『THE SILENT VOICES』の上映とゲストトークおよびフロアとの対話を実施します。

内容は以下の通り。

【日 時】2019年3月9日(土)13:30~17:00  
    13:30開会 
    13:40映画上映(73分) 
    15:00ゲストトーク×会場とのダイアローグ
    17:00閉会   
【場 所】福島市市民サポートセンターA1・A2
【申し込み】必要ありません
【参加費】資料代500円(学生無料)
【共 催】エチカ福島×カフェロゴ

【開催趣旨】

今回、エチカ福島で上映させていただく映画『THE SILENT VOICES』は、フランス在住で福島出身の佐藤千穂氏とパートナーのルカ・リュの共同監督作品です。
〈3.11〉当時、フランスにいた佐藤監督は、日本の外から故郷の家族や友人・知人の健康を危惧していました。
しかし、その年の夏に帰国して見た福島に棲む家族は、彼女の想像とは異なり、それ以前と変わらない日常を過ごしていました。なぜ、家族が放射能汚染を気に留めず毎日が送れるのか。
この問いを抱き2015年と2016年にかけて、二人は福島の撮影に入ります。
そして、その過程で見たものは「放射能汚染がないようにふるまっている方が楽ということ」でした。
しかし、同時に家族たちは放射能の問題については話題を避けます。
『THE SILENT VOICES』というタイトルには、この福島における沈黙、あるいは〈語りにくさ〉への問いが込められているのです。

 2016年、私たちは第8回エチカ福島において阿部周一監督のドキュメンタリー映画『たゆたいながら』を視聴しながら、監督とのトークセッションを開催しました。
同作品は、原発事故による放射能汚染の不安から避難した人々と福島に残った人々の葛藤を描きながら、被ばくをめぐる〈語りにくさ〉を問うたものです。
自ら福島市出身の被災者である阿部監督の根底には、原発事故をめぐる家族と自己への問いが存在していました。この点は佐藤監督の問題意識も重なり合うものであり、この二つの作品の系譜から共通性と差異性を浮き彫りにすることは、私たち自身の〈語りにくさ〉を問い直すことに通じます。

 今回のエチカ福島では、佐藤監督とともにフランス人として日本の外側からこの〈語りにくさ〉という現象を見つめたルカ・リュ監督をお招きしてゲストトークをいただきます。
この二人の映画監督の問いと発見は、原発事故から8年を経てもなお、福島に生きる人々にとっては鉛のように重くのしかかるものでしょう。
佐藤監督は「見たくないものを見ることはとても辛い。同時に家族が見たくないものを見せるのもとても辛い」と述べています。
この言葉には本作品の誠実さと繊細さがにじみ出ていますが、この思いを共有しながら私たちもまた原発事故から8年後の自己に向き合う機会にしたいと考えています。

         


12/3から放送される、100分de名著『エチカ』スピノザを観るべし。

2018年11月24日 17時30分57秒 | 大震災の中で
NHKの月曜日午後10時25分~放送されている
100分de名著の12月では、なんと
スピノザの主著『エチカ』を取り上げます。
講師は國分功一郎さん。

今日テキストが届いたので早速読みました。

こ、こ、これは……(>_<)


びっくりするほど分かりやすいではありませんか!!

みなさん、悪いことは言いません。
このテキストは買っておきましょう。これ一冊でスピノザの基本理解はほぼOK。

これ以上分かりやすい解説はない!……と國分さんも断言してました(笑)

12/3(月)10:25分からの放送です。
再放送は(水)の朝5時30分~
と、同じく
(水)の午後0時から。



ハンナ・アーレント『精神の生活(下)』P45~P46が面白い!

2018年11月05日 08時28分28秒 | 大震災の中で
2018年11月3日(土)
佐藤和夫さんとハンナ・アーレントの『精神の生活(下)』を読む読書会に参加してきた。
佐藤さんは最近『<政治>の危機とアーレント』を刊行されており、『精神の生活』翻訳者でもある。
第5回になるこの読書会に、4回目から参加させてもらっている。

今回読んだのは第1章の第5節「思考することと意志することとの衝突=精神活動の調性」。

調性とは元来音楽用語で、

広義には、音楽において、あるひとつの音(主音)を中心に他の音が秩序づけられ従属的な関係をもつこと。狭義には、西洋近代音楽の長・短二種の調からなる和声的な調体系をいう。(大辞林第2版-Weblioより)

トーナリティと呼ぶ。曲の全体あるいは一部に、その曲の基となる音や音階が感じられるもの。(yamaha music media coporation)

とのことだそうだ。

大辞林の意味でいうと、「主音」があるということになる。
ここでは思考が主音という比喩になるのかそれとも意志が主音という比喩になるのかという疑問が湧いてくるがそれはまた別のこととして、忘れないようにメモしておきたいのは、P45の次の部分だ。

(引用開始)
いっさいの意志の働きは、たしかに精神活動ではあるが、投企が現実化される現象界に関係する。思考とはまったく対照的に、いかなる意志もそれ自身のために生じることはないし、その行為自体において自ら充足することはない。

いっさいの意志の働きは、<何かを意志すること>がこの<何かを為すこと>へと変化してしまうと、たんに個別的なことに係わっているばかりでなく-そしてこの点が重要なのだが-、自ら自身の終わりも予期しているのである。

言いかえると、意志する自我の通常の様態は、落ち着かなく、不安で、憂慮(Sorge)しているものなのだが、その理由は、たんに魂が恐怖と希望に満ちた未来に反応するという点にあるだけではなく、けっして保証付きというわけではない<私ができる>を意志の行う投企が前提としている点にもある。意志が憂慮しているという不安は、<私ができ、しかも私が為す>によってのみ、すなわち意志独自の活動と中断と意志の支配からの精神の解放によってのみしずめられるのである。

(引用終了)

改行を入れて3つの部分に分けたが、実際には一つの段落の後半部分である。


(投企とはとりあえず未来に向かって開かれている可能性のことだ、みたいに考えておくと)意志とは、まだ起こっておらずこれから起こる未来の可能性にむかっていて、それ自身のためには存在せず、行為においても充足せず、実際の行動(為す)が起こってしまうと、「不安と共にある」意志も「終わる」、と書いてるように読める。

アーレントの意志は、かなり「微分的」なものに見えてくるではないか。
あるいは、存在しない場所に息づくベクトル、もしくは志向性が内包するものといってもいい。

読書会の参加者(学者の方)から、
「この部分、何をいっているのか分からない」
「アレントは意志を否定しているように読める」
というコメントが出てくるのも納得できる。

佐藤さんからは、この精神の生活の下巻の中心となる関心が意志であることはまず間違いないのであって、アーレントが意志を否定しているとは考えられない、との応答があった。

もう一人のアーレント研究者の方からは
アーレントに意志があるかどうかは微妙だが、あるとすれば「許し」と「約束」においてだろう
という補足があった。

日本語の国語教師から感想を言わせてもらうと(つまり哲学的とか政治学的な意味はよく分からないまま、ということです)、アーレントはかなり「レトリカル」な文章を書く。だから、アーレントがいいたいことをあられもなくガツンと書くと言う感じではない。一読したところ

①古代から連綿と続いてきた哲学における「思考」の優位を現実からの引きこもりとして捉え、
②ここで読み始めているヘーゲル&マルクスをそれに対置しつつニーチェとスコトゥスの主意的な思想にふれ
③なおもアーレント的な「意志」をその関門をくぐり抜けさせることによって
④結果として「救いだそう」としている

ように見える。

國分功一郎氏の『中動態の世界』におけるアーレントの意志論批判から始まった私にとっての「アーレントへの旅」は、ちょっと今面白い局面を迎えつつあるという印象だ。

國分氏が「中動態」概念を適用した方が理解できるとして挙げている例が「謝罪」や「依存からの回復」であり、この読書会で話題の中心になっている「意志」は、「許し」と「約束」という場所に立ち現れるのだとすれば、これらはどちらも

思考と行為の間(裂け目)に瞳が向けられているという感触を私は押さえることができない。

國分氏はアーレントの意志論を批判し、読書会ではアーレントの意志論の記述が「意志の否定」として「読まれたり」、あるいは「読めない」テキストとして指し示されたりする。

単に「ダメ」な論の展開というのではないのは確かで、そこには確実にアレント的テキストの欲望が指し示すアレント的「意志」があたかも幽霊のように立ち現れてきている。

そこが面白い。

境界線の近傍に立ち現れる幽霊のようなオブセッションに形を与えるということを、けっこうみんなやろうとしているのかもしれない、と自分の狭く小さい主題の中に取り込みつつ、感動しながら読書会を「経験」していた。

最近、自分で感じたこと考えたことをあまりにもたやすく忘れてしまうので、誰か他の人に観てもらうということをちょっとだけ意識しつつ、メモしておく。

てつカフェ@湯本高校『茶色の朝』を読む、をやりました。

2018年09月19日 11時45分23秒 | 大震災の中で



『茶色の朝』

文:フランク・パヴロフ 絵:ヴィンセント・ギャロ メッセージ:高橋哲哉


をテキストにして、てつカフェ@湯本高校をやってみました。

国語演習という三年生の選択授業9人のメンバーで、9月12日(水曜)の3、4校時二時間。

時間的にはちょうどいい感じでした。



1、まず自由に感想を出していきました。



「なぜ国が茶色推しなのか知りたい」という疑問が出されました。確かに犬・猫の色というのはいささか馬鹿馬鹿しい話だし、どうでも良いこと、のようにも思われます。

別の人からは、  「法律で決まっているというが、おかしいものはおかしい。遺族が反対しても犯罪者が社会に戻れる例と似た理不尽さを感じた。」という感想が出てきました。

「狂っているのはどっちなのか。」

という感想も。


次に、物語の展開について感想が出てきます。

 「主人公は、最初はどうなのと思っていたが、茶色に合わせていって、最後に気づく

。最初から自分の考えを信じ続ければ良かったのに、社会の雰囲気に自分も合わせてしまった。」


 「私たちの日常でもあり得るのではないか。」

と、自分たちのことに重ねて考える視点も出てきます。

さらに、

 「俺やシャルリがこの後どうなったのか?」

と、物語のその後に注目する視点もだされました。


今度は、強制する国や政府側、状況全体についての視点も出てきます。


 「この話では、国や政府は国民に押しつける者だ。国民は意見を言えないままそれに従い、最後には『今いくから』と諦めてしまっている。いろいろ考えさせられる」


 「自分の犬や猫を殺したり、本を廃棄させられたりと、登場人物は薄々おかしいんじゃないか、と感じてはいる。しかし次第に「ただ従っているだけだ」と自分に言い聞かせ、自分を正当化していくプロセスがある。そして最後自分が窮地に陥った時に初めて気づく。さらには自分自身に「どうしようもなかった」といいわけし出す。これは私たちにも当てはまる。」


 「新聞の廃刊の例は、それに従わなければ罪に問われる(弾圧される)というのを強く感じたと思う。そうなると人々は権力を恐れて自分から茶色を選ぶようになる。さらには、クジに当たったことで、本来は無関係なのに『茶色も悪くない』という感覚まで植え付けられてしまう。これは一種のみ情報操作の側面もあり、政府の圧力の存在がどんな影響をもたらすかの例になっている」


など、国や政府の企みと、結果としてそれに巻き込まれていく人々の様子が読み込まれていきました。

そこで、どうすれば良かったのか、という意見も出てきます。


・人間社会のルールは大事

・しかしおかしいルールもある

・従わなければ自分の犬・猫を殺さずに済んだかもしれない。

・でも、従わないと周囲の目がある

・(いいわけはしているが)一応気づいた。

・愛する者のために勇気を持って行動するのが大事


などなど。


2、一通り意見がでたところで、この作品の意義について論じられていきます。


① 動物に対する 「愛情」は変わらないはずだが、  「茶色に染まる」と、それが変質してしまう。こういうのは明らかにおかしいと思うが、私たちでは解決できないのか。

②普段意見を言えていない人が、意見を押しつけてくる人に流されて合わせてしまうという現実に教官した。

③絵本という形式を取ったのは、どうすることもできないという絶望的な現実を踏まえて、せめて絵本という形式で思ったことを自由に表現しようとしたのではないか?

④登場人物は「どうしようもなかった」と言い訳しているが、この作品には  「~すべきだった」という批評の視点があるのではないか。

⑤この本は絵本という形式を取っている。カタイブンショウハ読みにくい。どんな人でも社会の問題をたくさんの人に考えてもらいたかったのではないか。


⑥歴史的事実はよく分からない。目に見える形での独裁者は今はいないが、もし現れたら同じようになってしまうのではないか。そういう危機感を表しているのではないか。


3、その後、感想・課題をふまえて意見を出し合う討議のような形になりました。


・今の学校、社会、読んでくれている人全員に考えてほしいのだとおもう。  「おかしいと思ったときに言わなければ後悔する」と。


・しかし、いつのまにか当たり前になり、慣れてしまうということもある。知らず知らずのうちに従わなくちゃ、となるのではないか。


・そう、必ずしも最初からすごい圧力で押し付けられたというわけではない。  「気づいていない」というだけでなく、自分に得がある場合さえある。現状を肯定する姿勢がさらに正当化を生むという悪循環があるのではないか。


・別の視点から考えると、最初から少数派の人はそれだけで圧力を感じている。すると少数派の人は目立たないようにむしろ積極的に同調する場合さえあるかもしれない。


・本当に外それ以外の選択はなかったのか。こういうことが起こるからこそみんなで話し合うことが重要になる。押しつけではなくちゃんと説明し、話し合って決定することが(当たり前だけど)重要だ、ということが、分かる。


・今の自分たちにもいえることだが、圧力を感じている側と不自由を感じていない側で意見がすれ違ってしまうことも考えられる。シャルリーが連れて行かれて主人公は初めて気がついた、と本文にもある。他人事の人はこのほんの終わりでも  「まだいい」と思っているかもしれない。


・こういう場合、

よく知らないのに乗っかる人がいる

    ↓

乗っからないではいられなくなる

    ↓

上の圧力がさらに強くなってしまう


という、メカニズムがあるのではないか。


・別の角度で。今までは従う市民の側の話が中心だったが、強行する側の問題、国や行政のあり方も考える必要がある。


・国や政府はどうやって国民に強制していくのか。法律が決まる前にきちんと議論がなされているのか。この本ではそこが全く書かれていない。そこがとても重要だと思う。


・法律にきちんと人々が関われることが重要ではないか。そうじゃないとただ法律だから従え、となってしまう。

十分に自分たちで話し合いをしていない。

署名をしたりとか市民が活動したりとか、そういうことも必要だ。


・もうひとつ付け加えたい。

話し合いはもちろん重要であるが、それを支える条件がある。

外部との比較(標準性)

専門家の意見(正当性)

情報の公開(公平性)

そういう話し合いを支える条件があって初めて十分な議論ができ、適切な意志決定ができるのではないか。


以上、充実したイベントになりました。







(続報)8/25読書会 〈國分功一郎『中動態の世界』読書会開催について〉

2018年07月16日 11時52分50秒 | 大震災の中で
イベント
<國分功一郎『中動態の世界』を読む>
の場所と日時が決定しました。

Facebookのイベント告知はこちら。
https://www.facebook.com/events/721352934718770/?ti=cl

イベントの参加は
人数把握(資料準備)ができるとありがたいので、よろしければイベントページでのクリックをお願いします。もちろん当日ふらりときていただくのも大歓迎です。

宿泊(1泊2食)の方はイベント参加とは別に、必ずメッセージやここへのコメント(ブログ子チェックまでは非公開になっています)などで主催(「島貫 真」)まで連絡をし、確認の返信・応答を受け取ってください。

人数によって料金は前後しますが、約1万円+お酒という感じです。夏休み中なので宿の都合もあり、お泊まりの方は早め(7月中)の表明をお願いします。

以下、概要です。

☆場所:みちのく荘(福島市飯坂町小滝5-2)

☆日時:2018年8月25日(土)13:30~

第1部 13:30~17:00
第2部 夕食+その後

☆内容について

今考えているのは、
第1部は
①島貫が入門編として、「中動態は能動態と受動態の間の第3項ではない」、ということを確認しつつ全体の概要を報告します。

次に

②アーレント読みのJun Watanabeさんから、アーレントの意志論を踏まえて問題提起をいただき、その後みなさんで一緒に「意志とは、自由とは、責任とは」といったところを考えていきたいと思います。

第2部では、
③その他言語論の部分や
スピノザにおける自由について、
メルヴィル『ビリー・バッド』と中動態、日本語と中動態、
といったところをふくめてエンドレスで話をしていきましょう。


お待ちしています。

森一郎『世代問題の再燃』が面白い。

2018年03月02日 21時48分41秒 | 大震災の中で
森一郎『世代問題の再燃』を読み始めた。
一読、巻を措く能わざるがごとき魅力がある。

よく考えてみると、去年この感触に捉えられた本が二冊ある。

一冊は
佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』
もう一冊は
國分功一郎『中動態の世界』
だった。

私は特にアーレントを正面から読んでいたわけではなかった。友人にアーレント読みが一人いた、だけのことである。

だが、特に選んだわけでもないのに、まるでエンタテイメントの物語か小説ででもあるかのようにぐんぐん引き込まれていった三冊が全て哲学者の文章であり、かつ、いずれもがハンナ・アーレントについて書かれた文章であった、というのは、私にとって実に驚くべきことだった。

森先生のこの一冊は、明らかにハイデガーの側からアーレントに足を踏み出してゆくという方向性を持つ。

國分先生の本は、もちろんスピノザ(=ドゥルーズ)の側からのアプローチだ。

佐藤和夫先生のそれは、当然のことながら、マルクスの側からそれを超える形で読まれている。


これは一体どういうことか?

こうなると、私の目下の最大の関心はアーレント、ということにならざるを得ない。

だが、私の読書の関心は、哲学にもなければアーレントのテキストにもない。
私の関心は、この5年間、一貫して3.11以後の福島をどう考えていけばいいのかの一点に尽きている。

その私が、哲学書をエンタメのように貪り読み、その全てがアーレントに言及している。しかもさらっと触れているのではなく、がっつりと向き合っているのだ。

友人のアーレント読みに紹介されてしぶしぶ読んだというのではないところが、これはかなり 「 深刻 」という感じである。

やむを得ず、というか、不可避的に『精神の生活』(下巻)を読み始めたら、これがまた面白すぎて困る。アリストテレスもプラトンもかじっただけで通読したことがなく、ギリシャの話なんてチンプンカンプンだし、スコトゥスとか 「??」なのに、これもまた読まずにいられない。

ここ(アーレントのテキスト)には、明らかに 「物語」が蠢いている。一見矛盾するような、何か私たちがスルリと飲み込むことを拒むようなお話の進み方があって、論理の筋を追っていくといつもどこかで分からなくなる。アーレントを読んだことのある(素人の)人なら、 「何がいいたいの?」と戸惑ったことがおそらくあるのではないか。
それは、単線的な論理を展開するしか 「能力」として認められない 「世界」では受け入れにくい 「お話」だし、その困難はアーレントのテキストに魅力を感じるものたちでさえ、つじつまをあわせにくい難しさとして立ち現れることがあるようにおもう。

だが、おそらく、アーレントのテキストは何かよく分からないけれど 「物語」の発生地点により近いところにある。私にはそう感じられてならない。

それは文学的な感想に過ぎないだろうか。

そうかもしれない。

だが、私が信頼する現代の哲学者、しかも元々の専門を異にする三人ともがアーレントに向きあって語り出す 「今」を生きているということは、ちょっとかなり面白い。

無論それはこの 「世界」(人為の世界)が深刻な 「危機」と直面しているということでもあるのかもしれない。

そうだとすれば単に面白がっているのはよろしくない、ということになろうか。

本の内容についてはまた後日。

しさとりあえずアーレントの『精神の生活(下巻)』の意志論は、今すぐにでも読み進めねばなるまい。

それはそのまま、福島で3.11以後と向き合うために必要不可欠な営みでもある、という感じがある、ということでもある。

(この項続く)




「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」東洋経済新聞社刊 、のこと

2018年01月28日 08時50分30秒 | 大震災の中で


「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」東洋経済新聞社刊
新井紀子(ロボットは東大に入れるかプロジェクトディレクタ)

本の腰巻きにはこう書いてある。


AIが神になる?なりません!
AIが人類を滅ぼす?滅ぼしません!
シンギュラリティが到来する?到来しません!
(ブログ子の注:シンギュラリティとはここでは、人工知能が自らの能力を超えたAIを産出できるという、ある種の技術的な境界線を越えること、ぐらいの意味)

つまり、第三次AIブームと呼ばれる最近のAIに関する大騒ぎを「ちょっと冷静に」と諫めているわけだ。


同時に、
人工知能はすでにMARCH合格レベル
と、AIが人間に対して雇用のライバルには十分になり得ることに警鐘を鳴らす。
そういう本だ。

話しのポイントはいくつかあるが、ざっと理解した範囲で以下の通り。

1,現在の第三次AIブームの延長線上にはシンギュラリティはこない。決してAIは人間の能力を越えたりしない。

2,「ロボットは東京大学に入れるか」プロジェクトのねらいは入試による合格ではなく(だいいちそんなことはできない)、むしろ現在のAIの可能性と限界を正確に把握することだった(できないことを知るというのは投資のためにも重要な情報)。

3,そこで見えてきたのが,AIにはできない読解の力。つまりAIは数学的な方法、すなわち論理と確率と統計で動いていて、読解力などというものをAIは持ちおわせてはいないということ。

ここしばらくはそんなもの(私たちがSFのように期待するAI)はできっこない。

4,しかし同時に、本当に意味が分かっているわけではないのに、中堅以上の大学(MARCH)には「東ロボくん」が合格できてしまうということ。

とすれば、人間は(恐ろしいSFの世界のなんでもできちゃうAIとではなく)、意味は分からなくてもそこそこ仕事ができるAIと労働市場で仕事を奪い合うという現実に直面する。

4,現在の労働市場において、AIは人間の強力なライバルになる。具体的には今人間がやっている職種の半数はAIに代替される。とすれば、それだけでも全体未聞の大事件だ。


5, 今までのように「技術の進歩とともに新たな仕事も生み出されたから、AIによって仕事が奪われるなどと心配しなくてもよい」とだけ言っていればいいというものではない。中高生に「読解力」をきちんと身につけさせるのが焦眉の急だ。

だいたいこんな話として理解した。

細かい具体例の評価については異論もあるが、私も一人の国語教師としてこの危惧は共有する。技術的には「読解力」の養成が急務、という新井さんの心配もまあまあ納得だ。
過渡期にはエラい数の失業者が出てしまうかもしれない。
これはたしかに深刻な事態だ。一読しておく価値のある本だと思う。

ただ、ちょっと結論は  「まじめ」すぎるかな、とも思った。
「読解力」を身につけるにしたって、その物差しで測ればそれはそれで得意や不得意が出てくるだろう。

むしろ文末に出てくるベーシックインカムを私はもう少しポジティブに受け止めてみた。
「働かないでたらふく食べたい」
というところからはじめた方がいいんじゃないかな。

つまりどこが不満かというと、調査・分析ではなく解決策のところである。


彼女が始めた「教育のための科学研究所」によるRST調査のプロジェクトについては感服したし、生徒たちの読解力をはかり、それをのばしていく仕事が急務になるという指摘にも深く同意する。

一方、そのこれから向かうべきビジョンの一例が糸井重里の「ほぼ日」というのはちょっとどうかな、と思う。

もちろん新井先生に処方箋まで出してもらう必要はない。

数学者の意見は、専門から外れた瞬間にたんなる「私見」になる。


私たちはこの貴重な新井紀子さんの分析と提言を受けて、これからの教育について考えていかねばならない。

漠然とした話で恐縮だが、私は、もうすこし個別的表現的な地点が落としどころになるのではないか、と感じている。
新井先生のいう「読解力」の訓練は、実は「常識」だったり「道徳」だったり、「倫理」だったり、我々が集団の中で、あらかじめ言語によって共有している有形無形の「合意ならぬ合意」へのアクセスが必須になる。
しかし、当然のことながらそれは予め与えられた規範やデータではない。

とすれば慌てて  「読解力」とかいった切り取り方をするよりも、意志とも衝動ともゆらぎともつかない自分の中のベクトルを、ある共同性・社会性、つまり大きな意味での  「環境」の中で、どう自己を現実にしていくか、つまり「より良く生きつづける」姿勢のようなものが重要なことになっていくのではなかろうか。

新井さんの言うのはそんな大げさな生き方ではなく、「読解力」の問題だ、ということなのだろうね。
うん、それはそれでそのとおり。
でも、そういう意味では、子どもたちの力に不安を抱くのがちょっとなあ、と思う。


いや、何か良い方法がある、というのではないのです。福島で立ち尽くした7年を振り返ると、新井先生の危惧を、もう少し別の文脈で生かせないかな、とぼんやり考えた、というだけのこと。


さて、ではどうする。