龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

①身体……Café de Logos 「語れることから語れないことまでを語る会」のこと

2018年01月28日 07時36分11秒 | 大震災の中で

まず①語りにおける身体性の重要さ。

Café de Logosはカフェや飲み屋で飲み食べする緩やかな場所だ。誰でもワイワイしゃべればいい。
郡山対話の会は、ある意味でその対極だ。もちろん対極とは言っても、語りの場として互いを尊重し、かつ安心してしゃべれる場を目指すということでは共通してもいる。だからコラボ企画も実現したのだろう。

だが、いつも参加しているCafé de Logosの世話人の方は 「知的に柔軟」であるのに対し、郡山対話の会のファシリテーターの方は 「身体的に柔軟」で、Café de Logosの参加者からみると今回はとても 「身体を伴った柔らかさ」を味わった感じがした。

そのときはとても 「身体」的な場だなあ、と思って参加していただけだったが、帰ってきてブログの記述を見るとファシリテーターの方の師匠が竹内敏晴とアーノルド・ミンデル、とある。なるほど、と思った。
方法として特別なことがあるわけではないが、一つ挙げておくと、彼(ファシリテーター)は普通未知の人が出会うときに行う簡単な場になじむための行為(ストレッチや自己紹介、簡単なゲームなど)を ホテルに入るように「チェックイン」と呼んでいた、それが印象的だった。つまり、 レトリックとしてそこは「場所」なのだろう。

対話には人の考えと人の考えが出会うという側面もあれば、まず何よりも身体が表現するという側面もあり、また目の前にいる他者の視線を意識したときに自分の中の思いを理解してもらいたいとかうまくしゃべりたいとか、どう思われるのだろうとか、様々な 「思い」が渦巻く側面もある。

そういう様々な側面を持ちつつ人が集う場所に 「チェックイン」するということは、バックグラウンドの異なる人がひと時そこに偶々集う、というイメージを与えるだろう。
まずそれが興味深かった。

そして次に興味深かったのは、ファシリテーターが机と椅子をあまり歓迎していなかった点だ。
想像でしかないが、机と椅子は身体を支えつつ縛る。机はテキストを見たりメモを取ることを支援しつつ、方向性(こちらと向こう)を固定する。椅子は体重を支えるが、(ファシリテーターによれば)下半身を固めてしまう。

その点が 「対話の身体」にとっては相応しくないのだろうと思った。

こう書いてくると対話の方法(メソッド、やりかた)の話にこだわっているかのようだが、そうではない。そこに驚いて興味を引かれている 「私」の身体が、「身体」と 「観念」とともに一瞬で動かされた、ということが言いたかった。

対話はまことに身体的な側面があるのだ。

あとは 「声」かな。発声、つまりそれは口蓋の使い方、という人類の 「歴史性」(進化、というか使い方)の問題でもあり、それは「姿勢」の問題でもあり、それらは、一人一人がどうやって他者と向き合っているか、という問題でもある。
一対一と違って複数人数の対話の場合、他者の身体を限定して全面的に意識することはできない。というか1対1であっても時折相手の瞳をのぞき込むことはあるにせよ、相手をそんなには注視してなどいない。ただし、他者としてはかなり意識してはいる。
たくさんの人を前にしたときに必要なのは 「声」だ。表情や身振りももちろん大切なのだろうが、ここは営業の自己啓発講座じゃないから、相手に伝える内容が大事だ……ということになると、メディアとしての 「声」の重要性は高いということになる。


ああ。
この身体性についてのぐるぐるは、 「まず竹内敏晴の本でも読め」ってことになりそうだからなめておく。
ただCafé de Logosでは無自覚だった意識(語りに対する甘え、といっても良い)が払拭された、それの身体観の変更が、ある種の 「場」をつくる「姿勢」によってなされたことに感動した、ということである。

この 「身体」と 「身体についての観念」についてはまた別に。
(この話、続く)

Café de Logos 「語れることから語れないことまでを語る会」

2018年01月28日 06時48分15秒 | 大震災の中で
昨日開かれた
Café de Logos×郡山対話の会
のコラボ企画に行ってきた。
内容は以下の通り。
ブログはこちら

【テーマ】〈語れること〉から〈語れないこと〉までを語る会
      ―「ワタナベさん」と出会う
【参考テキスト】『ろうそくの炎がささやく言葉』(菅啓次郎‣野崎歓編,勁草書房)

超絶に面白かった。興味深かったことがたくさんありすぎて書ききれないのだが、とりあえず忘れないように書いておきたいのは以下の8つ。
①語りにおける身体性の重要さ。
②語りにおける歴史性の重要さ。
③語りにおける出会いの重要さ。
④語りにおける教育の重要さ。
⑤幾分か 「妖怪」になること。
⑥幾分か 「知的」になること。
⑦幾分か 「動物」になること。
⑧そして幾分か 「人間」になること。

(以下分割して書く)
 



國分功一郎 「How to read Deleuze」

2018年01月25日 07時40分09秒 | 大震災の中で
國分功一郎さんがソウル大学のドゥルーズワークショップで発表した論文「How to read Deleuze」

を読んだ。まず驚いたのはGoogle翻訳の読みやすさ。翻訳ソフトが進化してることを実感した。
しかし一方、これはもしかすると 「國分功一郎的なことば」
が持つ圧倒的な読みやすさの効果なのかもしれない。Google翻訳にとっても國分さんの文章は読みやすい、のだとしたら、これはスゴいことですね(^_^)

http://www.academia.edu/35744293/How_to_read_Deleuze_neurosis_schizophrenia_and_autismhttp://www.academia.edu/35744293/How_to_read_Deleuze_neurosis_schizophrenia_and_autism

内容は、19世紀を象徴する 「病い」が神経症(フロイトによる)であり、20世紀を象徴するそれが統合失調症(ラカン←ドゥルーズ=ガタリが前景化した)であったとするなら、21世紀を象徴する「障害」は自閉症(ドゥルーズによる)である、という枠組みが作業仮説として成立するのでは?というお話。
(フロイトはいいとして)もちろんラカンの 「原抑圧」とかドゥルーズの 「無人島」とか理解しなければならない概念はあるけれど、とても興味深い。


ちなみに、もう少し正確に言えば

神経症→フロイト
統合失調症→ガタリ(ラカンから別れての)
自閉スペクトラム症→ドゥルーズ

という感じになる(読み返してみたら)。

フロイトからラカン、
ラカンからガタリ、
ガタリとドゥルーズ
という流れはもちろん切断されつつもつながっているから、そのあたりの丁寧な表現の機微は直接本文を当たってほしい。

ガタリとドゥルーズの分離は國分さんがいつもちょっと触れていた話だが、ここではよりはっきりと示されている印象を持った。

千葉雅也『動きすぎてはいけない』
國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』
村上靖夫『自閉症の現象学』を
復習読みしたくなった。

第10回エチカ福島、共同代表のコメント(1)

2018年01月08日 11時19分53秒 | 大震災の中で

2011年の8月には全国高校総合文化祭が福島県でいよいよ開催されるという時に震災、原発事故は起こりました。私はこのイベントの実行委員の一人として長い時間をかけて準備をして来たので、このイベントを中止することはとても残念に思いましたが、それは避けられないのではないかとも思いました。実行委員会では様々な意見が出ました。ある校長が学校が再開して校舎内に合唱や合奏の音が聞こえると本当に良かったなと思う、やはりこのイベントはやるべきではないのか、高校生の元気な姿が福島県を元気にするのではないかと発言しました。今考えれば、その方の正直な感想だったのでしょう。でも僕はその時に噛みつくように言いました。そういう情緒的な問題ではないのだから、本当によかったとか高校生の元気な姿とか言うのはやめて欲しい。高校生が本当に元気だと思いますか?私たちが疲弊しているように彼らは疲弊しきっているのがわからないのですか?彼らに福島にとどまるべきかどうかの迷いがないと思いますか?私たちが迷いの中にあるように彼らも迷っていると思う。そもそも、今私たちが考えなければならないのは、やるべきかどうかではなく、やることができるかどうかだと思う。来なければ余計な被曝をしなくて済む全国の高校生をここ福島県に呼びあつめることができるのかどうかです。などと発言しました。
結局は知事に判断を委ねることとなり決行されました。

高速が開通しました。多くの地域で避難解除が行われた。福島県以外では事故がなかったかのように原発が再稼働され、それどころか日本製の原発を首相が外国にトップセールスをしに行き、事故の実態すらも明らかではないのに、事故炉の放射能は完璧にコントロールできているという首相の明言のもとにオリンピックの誘致に成功した。

何も終わっていない。事故直後から状況はほとんど何も変わっていない。終わってないから終わってないと言い、変わっていないから変わってないと言う。必ず地震は起こり津波も起こる。明日かも知れないし20年後かも知れない。今事故炉はプラントによって水冷されているが、融けた燃料を全て取り除くのに何十年かかるかわからないがその間にプラントそのものも経年劣化するだろうし、それが破壊される地震が起こる可能性は大きい。これはシンプルな事だけど、そんなことも言えなくなっているのではあるまいか。そうやって事故は繰り返され、悲しみは繰り返される。

7年も経ったから風化したのではない思う。事故直後から風化は起こっていた。いやそれは風化とは言わない。虚偽がまかりとおっているだけだ。(共同代表N)

駱駝の瘤 通信14号が届いた。

2017年10月14日 23時24分44秒 | 大震災の中で
駱駝の瘤 通信14号2017年秋

という同人誌が届いた。小説家秋沢陽吉、俳人五十嵐進、研究者・歌人澤正宏など福島県内在住の文学に携わる人々が毎号編集同人制で発行している雑誌だ。東日本大震災および東京電力福島第一原子力発電所事故以後の福島が置かれている状況に対しても積極的に発信を続けている貴重な媒体の一つでもある。

私は、いわきから発信を続けているバイウィークリーの「日々の新聞」とこの『駱駝の瘤』に励まされながらなんとか息を継ぎつつ暮らしている(ようなものだ)。

今回の号では、秋沢陽吉の評論『これは人間の国か、福島の明日』で展開されている開沼博批判にまず目がいった。

ちなみに、私自身の考えはこちらを参照してください。

(http://blog.goo.ne.jp/foxydogfrom1999/s/%E9%96%8B%E6%B2%BC%E5%8D%9A)


開沼博は今福島にとってどんなにひどい存在なのか。それを丁寧に検証してくれている。

誰からが福島の中からこれをやらなければならないのだが、その仕事を秋沢氏はやってくれている。
なぜ開沼博的言説が成立・流通してしまうのか、はくだらない問題かもしれないけれど、無視はできない。

素敵な文章や表現だけ見聞きして理解し味わっていたいという思いは、今の福島には贅沢なことなのだろうか。

ぜひ本文に当たられることを勧める。

第9回エチカ福島「国民投票について考えよう」を8月26日(土)に開催。

2017年07月11日 22時32分23秒 | 大震災の中で
第9回エチカ福島
「国民投票について考えよう」


2017年8月26日(土)13:30-16:30
西沢書店 福島市大町店にて

開催します。

7月7日に『国民投票の総て』を制作・出版した大芝健太郎氏を講師にお迎えして、

・国民投票って何?
・世界の国民投票について
・国民投票の実態と効用、ルールについて
・国民投票とどう向き合うか

などをじっくり考えてみたいと思います。

申し込み不要です。当日おいでください。
お茶・資料代500円(学生無料)。




読むべし!『ヒルビリー・エレジー』J.D.エヴァンス

2017年06月17日 07時55分52秒 | 大震災の中で
うちの図書館に入ったばかりの本を、カバーかけする前に週末だけちょっと借りたのだが、読み始めたら止められなくなった。
腰巻き惹句には
「トランプ支持者の実態 アメリカ分断の深層」
とある。

てっきり白人のブルーカラー労働者たちが抱える課題を分析した社会学化政治学周辺の本かと思って手に取ったのだが、そうではなかった。
読者としての私がここに見いだしたのは、第二時世界大戦後、アパラチア山脈に沿って南から移住してきた工場労働者たちの姿ばかりではなく(もちろんそれが書いてあるのたが)、私たちが今ここ(日本=福島)で向き合っている、自分自身のが抱える 「困難」の手触りだった。

もちろんそんなはずはない。

ここに書かれているのは、第二次世界大戦後のアメリカ中部の白人ブルーカラー労働者の家族の歴史であって、私自身の歴史とは全く別のものだ。

また私はアメリカ国民じゃないし、仮にそうだとして、何度選挙があってもトランプ支持者にはなれそうもない(サンダース支持者にはなれそうだが)。

でも。
ここには今まで私が長年高校教師をやっていながら観て見ぬ振りをしていた、そして実は現実に存在し続けていた課題が、海の向こうの国のリアルの描写の中に描かれているのを目の当たりにしている。

そう感じる。

人はそう簡単には変われないのだ。いや、個人はそれなりに境遇をチョイスすることもできる。友達を選ぶことだって不可能ではないのかもしない。
しかし、自分たちが生まれ育った文化や習慣、人と人との接し方、愛情の表し方、怒り方、悲しみに対する態度など、たんなる 「雇用」や収入に収まらない 「繋がり」の網の目が、この本には示されている。しかも圧倒的に読みやすい視点と文体で。
フォークナーを読め、ドストエフスキーを読め、そういう時代もあったのかもしれない。
だが、今どれほどの高校生にそれを勧められるだろうか。

この本は、本を読み慣れた高校生なら間違いなく読める。
そして、自分たちの前にもある 「課題」を取り戻すことが出来るかもしれない。

階級とか格差とか、階層とか、そういう話でもあるのだけれど、それだけではない。気質や文化とかいうふわふわした話でもない。
何だろう、人はある種の多重な環境世界の中で自己を形成しかつ微細な選択を繰り返して生きているのだというあの 「生の感触」を、まるで本格的な小説を読んでいるかのようなリアルな手触りで示してくれている。

とにかく読んでみてくださいな。そして感想プリーズ。

『ルミッキ』が上半期に読んだ本ベストかと思っていたが、『中動態の世界』がきたし、この本『ヒルビリー・エレジー』もすごい。

時代=政治はなんだか見通しがきかなくて暗いが、テキストを読む希望と快楽は間違いなく手の中にある。



ヒルビリー・エレジー

https://www.amazon.co.jp/ヒルビリー・エレジー-アメリカの繁栄から取り残された白人たち-J-D-ヴァンス/product-reviews/4334039790

続・観るべし 「まつろわぬ民」風煉ダンス(主演:白崎映美)

2017年06月11日 21時08分16秒 | 大震災の中で
もちろん響き合いを感じる作品は無数にある。

第一に挙げねばならないのは石川淳の大作『狂風記』だ。
まつろわぬものたちが集い、ゴミの山にてヒコとヒメが出会い、「陰陽めでたく一に合して」、世界をエナジーに満ちた混沌へと叩き込むSFとも神話ともファンタジーとも寓意ともつかぬパワフル小説。これをすぐに思い浮かべた。

ただし、後期石川淳の作品はどうしても猥雑さの中にもある種の希薄さを孕む。
「1000年前とはすなわち1000年後のことよ」
という手品の身振りは、震災後のの福島にはちょっと響きにくい恨みがある。

次に思いついたのは、ベタだが野田マップの『アテルイ』だ。確かに大きな枠組みはそういうことでもある。東北の民は、歴史的に大きく捉えるなら中央政府の意向に翻弄され続けてきたことに間違いはない。

だが風煉ダンスの「まつろわぬ民」は、そういう 「権力の物語」のみに収斂しはしない。

むしろそこからはみ出す その後の 「鬼たち」すなわち「私たち」に焦点が当てられている。

三つ目に想起されるのは 「レ・ミゼラブル」だ。
バリケードを権力側の兵隊がそれを押しつぶそうとするのに対して、魂の炎を燃やす鬼たち(即ち私たち)の群舞はあたかも 「レ・ミゼラブル」の一シーンの如くでもある。


だが、それもまた一部を切り取った印象に過ぎない、ともいえる。

「まつろわぬ民」のコトバというものは、定まったカタチをもたず、流動しつづけるのだし、だからこそ、今なお抑圧され続けている心の奥底に火を灯すことができる。

叫びが言葉に変わる時、いつだってそのコトバは 「身体」を離れては意味をなさない。

身体を離れた ことば=「約束」は、私たちをいつの間にか闇に引き込んでしまいかねないのだから。
芝居を観なければ分からない所以である。
歌あり踊りありの2時間半、充実してました。
繰り返しになりますが、山形の公演、ぜひ!


観るべし、「まつろわぬ民」風煉ダンス(主演:白崎映美)

2017年06月11日 20時01分10秒 | 大震災の中で
いわき市アリオスでの二回公演を終えた風煉ダンスの 「まつろわぬ民2017」だが、6/16(金)の山形公演がのこっている。

東北の人は、迷わず観るべし。

古代東北のまつろわぬ民についての芝居やドラマ、小説は繰り返し作られてきた。

この作品もその一連の流れの中にある、とは言える。

たが東日本大震災から6年を経た今、いわきでそして東北でこの芝居を観ることに必然を感じる。

数年スパンで消費してしまえる「物語」ではない。

話はちょっと横道にずれるが、いわきには かつて「ラッシュカンパニー」という演劇集団があった(今もある、といいたいところだが、残念なことにここ最近公演がない)。

私は、風煉ダンスを観ながら、彼ら(ラッシュ)のやっていた芝居のことを思い出していた。

まつろわぬものたちの心の炎を描く、という意味では間違いなく響き合うものがあったからだ。

神話的・伝説的な 「古層」を通奏低音のように響かせながら、それを現代の主人公たちと響き合わせつつ、そのいずれとも違ったリアルを現出させていく舞台の多重性は、瞬間的な表情や身振りの変化一つで1000年の時をまたぎ越してみせてくれる身体=言語の総合表現芸術ならではの魅力となって、観るものの心に火を灯していく。

神話的古層を参照するのは、もちろん一義的には主人公たちだ。だが、現実に苦痛や欠落、抑圧や敗北を抱えているのは主人公たちだけではないだろう。

まつろわぬものたちはいつだって、必ず権力や権力者によってその存在を抑圧され、忘却を強いられ、そのことによって外側からの支配を内面化して生き延びるよりほかに手立てがないところに立たされる。

そしてしかし同時に、まつろわぬものたちは必ず 「記憶」を持つ。幸せなモノ、抑圧を意識できないものは持たないような 「記憶」を。

たとえ表向きは抑圧され、馴致させられたとしても、心の奥底の基層・古層に、外側からはめられた枠にはおさまらない残余を抱えて無意識を生きざるを得ない。

なんのために、誰に向かって抗うのか、改めてみずからの手でそれをつかみ取り直さなければ分からないような所まで追い詰められ、その 「ゴミ捨て場」のような場所から、まつろわぬものたちの戦いは改めて始められなければならないのである。

だからこそ、神話や伝説に依拠するのでもあろう。

その まつろわぬものたちの内在的「契機」を孕むという点で、ラッシュカンパニー(常打ちの小屋は文化センターだったが)と風煉ダンスは通底している。

私はそれゆえに、いわきでひさしぶりに演劇と再会した、と感じた。

演劇は単なる消費=商品としての「物語」ではない。

例えば石原哲也(いわき高校演劇のレジェンド)が、そして例えば勝田博之(ラッシュカンパニーとメリーベルの座付き脚本家兼演出家兼主演)がいわきに蒔いた演劇の火種は、今日に限って言えば観客の胸の中に小さいながら灯りつづけていたといっていいのではないか。

これから、ここから、その火種を作品にして、100年後まで闘っていく魂の出現を待ちたい。

そんな元気をこの舞台はいわきに与えてくれたと私は思う。

山形在住の方にこの思いがどれだけ届くのか分からないけれど、お知り合いがいたら是非、山形の公演を観てみてけろ!と伝えてください。


國分功一郎『中動態の世界』二度目の読了。

2017年05月21日 12時00分35秒 | 大震災の中で

國分功一郎『中動態の世界』を二回読み終えた。
しかし、ちっとも読み終わらない。
ギリシア語の分析のところは、分からないからむしろサクサク読める。へぇーそうなんだ、と感心していればよい。
だが、
「言語は思考の可能性条件である」
との表現でデリダのバンヴェニスト批判を批判するあたりからそうもいっていられなくなる。

ソシュールは「言語というもの」については論じたが(それはまだ抽象的であり)、バンヴェニストはもっと具体的にきちんと言語を論じている。それが重要だ
(4/29星野太氏とのトークより)

というその指摘からも見て取れるが、

実はこの本でめっちゃビビっていたのは言語学からの「攻撃」です

(5/10大澤真幸氏とのトークより)

との言葉が逆に示しているように、哲学者國分功一郎氏はバンヴェニストと共に、具体的な言語の「現場」で(抽象性やイメージにおいてではなく)緻密な思考を展開していく。
これが見えてくると、ちょっとゾクゾクしてくる。

次の山はもちろん、アーレントだ。
この本は國分さんの語学フェチぶりが序盤戦のポイントだとすれば、中盤戦はアーレントの意志論との対峙が大きなポイントになってくる。アーレントは終章でも大きな役割を担っており、國分さんの「哲学」にとってアーレントがいかに大きな存在か、ということが示されていく。

(言うまでもなくドゥルージアンでありスピノジアンである國分さんがそれでもなお、という逆説的な意味での重要性です。おそらくそれは「姿勢」の問題でもあり、「義」の問題でもあるのでょうね。)

(結論は真逆だが)、人間に期待しているという点はアーレントと共有しているのじゃないか。
(5/10のトークより)

さらに個人的にドキドキしたのはその次、

第六章言語の歴史

だ。日本語の「ゆ」を例に上げつつ、中動態が論じられていく。これは30年も古文を教えて自分なりに調べてみなければならない課題にもなる。


もう、二度目の読みはこのあたりでいっぱいいっぱいになってきてしまった。


とにかく「豊かな」本なのだ。

ドゥルーズの章とスピノザの章ほもう少しゆっくり読まないと、読んでいるうちに頭から溢れ出してしまいそうだ。

東北6県ロールショー(ボーカル白崎映美)のライブを温泉神社で観た。びっくりした。

2017年05月08日 23時08分11秒 | 大震災の中で
東北6県ロール!ライブ in 湯本温泉神社
に行ってきた。

白崎映美、恐るべし。


白崎映美は、上々颱風というバンドのボーカルを30年近くやっている歌手、なのだが、なんとも形容のしようのない「パワー」に満ちあふれた人だった。

あまはげ(秋田では「なまはげ」)の衣装と本人は自伝エッセイで書いているようだが、むしろ田舎のお地蔵さんや古びたお堂の観音様が赤いぼろ布をたくさん被せられている、その観音様が生きて歩いて踊って歌っている……そんなイメージがする。

ちょうどいわき市湯本の温泉神社には、舞を奉納するためのものか、舞台が神殿の向かいにしつらえてあり、薄暮の境内の中、そこだけがライトアップされているのだが、その舞台の中央正面前に、赤い無数の布きれを身にまとった「観音様」もしくは「吉祥天」といった、ホリゾントから舞い降りて私たちの前に「何か」が本当にやってきたような印象を抱かせる。

歌う歌は、東北を元気づける、不思議な歌であり踊りであり、語りだ。

『イサの氾濫』という小説に強烈なインパクトを受けた白崎映美が、東北で東北の歌を歌わねば!!!と、自らメンバーに声をかけ東北6県ロール!というバンドを立ち上げたのだそうだ。

「妖怪もお化けも神様も」みーんなやってきて、まつろわぬ民(権力に服従せず抵抗する人々のこと、かつて蝦夷は都からそう呼ばれていた)を言祝げ、踊れ、歌え、と歌い出す白崎映美は、すでにミュージシャンではない。

なんといったいいのだろう、シャーマンというのとも違う、なんだろう、なんだか得たいのしれない、しかしとても身近にある「力」が白崎映美=「あまはげ」となって、私たちのところにやってきた、そしてもう立ち去ることはない、そんな感じがする。

私はスピノザを読んでから、人生を「スピノザ以前/スピノザ以後」に分けて考える癖がついたのだが、今晩このライブを観てから、ちょっと大げさにいえば「白崎映美以前/白崎映美以後」と人生を分けることができるかもしれない、と思った。

白崎映美は「傍らに立つ者」だ。みずからもまつろわぬ民の末裔として、その踊り手・歌い手として、私たち東北の者どもの「傍らに立ち立ち続ける。

ちょっとエスニックな沖縄的なバンドのボーカルという旧来の印象を持っていた自分の不明を恥じる。

みなさん、「東北6県ロールショー!」のライブに行きましょう!

本当は書きたくもない開沼博論のために(その2)もしくは『植民地主義の時代)を生きて』を読む(その2)

2017年04月24日 12時44分10秒 | 大震災の中で
開沼博さん本人(個人)にはいささか申し訳ない題名で始めてしまったが、開沼博の名前で展開されている言葉たちの特徴について考える必要があるので、ちょっと仕方がなくこの項を続ける。

まず、
「ほんとうは書きたくない、論じたくない」のなら止めておけって話なのたが、それがそうもいかないという事情を書く。

それは、今読んでいる
『植民地主義の時代を生きて』西川長夫
に示されている「課題」というか問題点と重なっている。

どういうことか。

「国民が国民であることを一度受け入れてしまえば、徴兵反対や徴兵忌避を正当化する根拠は見出しがたい。残された問題は(中略)現実といかに折り合いをつけるかであって、戦争と軍隊の本質にかかわる問題が問われる機会は失われる」(『植民地の時代を生きて』P31)

ここで指摘されていることが、今の福島の 「復興と絆」が抱える問題にそのまま当てはまる側面がある、と考えずにはいられない、から、ということだ。

国民国家の「植民地主義」が「中央に対する地方」と「宗主国に対する植民地」という二重の構造を持ち続けてきたとするなら、アジアの国の宗主国として振る舞う経験と同時に、アメリカの「植民地」として振る舞うという二重性の中で原発政策が展開されてきたことを無視するわけにはいかないだろう。
つまり、 「東京と田舎」は 「宗主国と植民地」の関係だ、という、開沼も指摘している問題だ。
高橋哲哉氏のいう「犠牲のシステム」、という概念を重ねてもよい。

もちろん

P2「権力は常に抑圧的であるが、抑圧の形態と対象はつねに同じとは限らない」(同P27)

わけだし、その中で現実と折り合いをつけながら生きていくことはとても大切。

しかし、「植民地主義」論理の内部に取り込まれる前に 「ふと」感じる庶民の 「直感」はもっと大事だ。

それは、気の迷いなんかじゃないだろう。

むしろ、いったん権力の論理の内部に入ってしまうと、いくら考えても 「無思考」の枠組みから離れられなくなる。その意味では、論理的に思考し続ける上で、取り込まれる前の 「初期衝動」はむしろ思考の基盤であり、エンジンであるかもしれない。

ただし、その契機はつねにすでにここにあるのだけれど、論理の内部からは見えない。

国家が示す論理が、果たして 「この道しかない」のかどうか、ちゃんと考えてみたいと思うのは当たり前だ。

「書きたくもない開沼博論」のモチーフはここにある。

論理の内部に入ってしまうと 「無思考」から逃れられなくなる典型例を開沼博的発話に見て取ることができる。

内部の論理に入った発話者は 「分かっているのは私だ」という主張はできる。だから正しさは論じられるだろう。だが、考え続けるためのエネルギーにおいては決定的に劣る。つまり、決め打ちしか出来ないということだ。

他方、ややこしいのは、自分は全くの「外部」いると勘違いして、「開沼博的発話」を批判しようとする者たちもまた(私も含めて)、相手を

「非国民=わかっていない人」

呼ばわりするという決め打ちをし、結果として、基準の符号は違っていても結局は決め打ちの「無思考」の応酬にとどまってしまいかねないという点。

そうでなくても、分断や格差は、構造的な「決め打ち」のコトバを再生産しやすい。

でもそういう種類の決め打ちのコトバは、世界を「善と悪」や「正解と誤答」に分けて、そのどちらか半分だけを取り出そうとする「貧乏」な身振りを、身の回りに招き寄せるだけだ。

にもかかわらず、これからしばらくは
「決め打ちの時代」(ヤな時代だ)
がつづきそうだ。

決め打ちで自分達の生きる範囲を「縮減」して生き延びようとするのは、ある意味人間が危機に際して採る態度としてむしろ「自然」なのかもしれない。

だが、結果だけを握りしめて環境に反応する感情を基盤とした選択は、結局のところ、外部に振り回されるばかりになってしまうのではないか。

外部の環境が激変している今だからこそ、しっかりと精神の「身体的」な準備運動をしておく必要がある。

そのための体操の一つが、もしかすると「もう一人の自分」が立っていた場所だったかもしれない「開沼博的発話」について考えること、というわけだ。

その思考ををとりあえず今日支えてくれ、「決め打ち=無思考」から精神の身体をズラしてくれているのが

『植民地主義の時代を生きて』西川長夫

だ、ということか。


ちにみに、西川氏が元々は国際関係の専門家ではなくフランス文学が専門で、それを脱-構築していく中で編まれたのがこのスタンスだということを知って、なるほど私にとって読みやすいわけだ、と個人的には納得。

思考が単なる「縮減」に終わらないために出来ることを考えて、その考えを形にし続けなくては、と思う。

『植民地主義時代を生きて』西川長夫は本当に必読かも。

2017年04月24日 08時26分33秒 | 大震災の中で
今日は月曜日だけれど、仕事の代休がはいったのでぽっかり空いた一日。
友人が勝手に 「必読」と推奨していた

『植民地主義時代を生きて』西川長夫

を朝から読み始める。

かなりのボリューム(600ページ超)だが、冒頭の序論、幸徳秋水・田山花袋・永井荷風3人の引用からぐいぐい引き込まれる。筆者の思うつぼ、つまりは、想定された 「なるべく多くの読者」の一人、ということか。

一世紀前、1900年代から 「国民国家と植民地主義」に歩んでいく日本の道程を、100年後の今と重ねて論じていく姿勢の、ぶれのない的確さがその冒頭の瞬間からひしひしと感じられる。

確かに友人の言うように、今の時代必読かもしれない。

「戦争が国民と国民国家を作り、帝国主義戦争が帝国を作り出す」(P33)

そういうことだ。

今日はこれ一本、かな。


共謀罪のこと。

2017年04月22日 23時25分03秒 | 大震災の中で
このテロ等準備罪?共謀罪?って、アメリカとかオーストラリアとか、軍事的同盟の方を向いて作られたものなのかなあ、と思う。

長期的にはアメリカの存在感が希薄になるであろう極東は、中国の支配下に置かれていくことになる可能性が高い。それが実現してしまえば、日本は今までアメリカの動きを忖度していた姿勢を変えて、中国の意向を中心に考えるようになるのかもしれない。だがそれは10年単位の未来のことで、実際にどうなるかは神のみぞ知る、だ。
で、もちろん今の時点で日本がすぐに中国の軍事的圈域に自ら進んで参加するわけにはいかない以上、しばらくはアメリカと、そして中期的にはアメリカ以外と組んで極東のバランスを取らなくてはならない。
そうなると、アメリカの諜報網に連結するためには、それに近いシステムを作る必要があり、だからそのための前提として 「準備」を罪に問える法律整備がある、ということなのではないか。

加えて、大臣は法務大臣も防衛大臣もよく分かっていない人を当てているのは、その方が実はやりやすいと考えているからじゃないか、とすら思えてくる。

さらに言えば、日本固有の重要事項として存在するのは、もちろん朝鮮半島有事とそれにともなう軍事的なテロだろう。


戦時中に苛烈な弾圧を受けた創価学会が母体の公明党がここまで唯々諾々と現状を傍観しているこの態度は、対外的な軍事事情を想定しないと、到底理解できない。

さて、問題はここからだ。
上記のようなことだけを想定している人はきっと、取り越し苦労だよ、と笑うのかもしれない。私の周囲にも 「感心ないよ、私は関係ないし」というオーラを出している人は多い。まあ、生活すると言うことは善し悪し以前にそういうものだろう、ということも分かる。

けれど、私はこの法律が成立したら日本はかなり 「変質」してしまうと思う。

この手の法律はいったん成立してしまったら、為政者にとってこんな便利な法律はない。それが誰であっても(左翼だろうが右翼だろうが中道だろうが)、二度と手放せるとは到底思えない。

だからこの法律は天下の悪法なわけだ。 

ジル・ドゥルーズが『アヴェセデール』で、

左翼とは、遠くのことを思考するということだ。だから政権を取り、権力を持った左翼というものは存在しない、というような意味のことを語っていたのを思い出す。

権力を握ると、遠くにいるもの(弱者やマイノリティ)ことを考えられなくなる。権力の側からしか思考できなくなる、という指摘だろう。

共謀罪、成立するのかな。
ぜっっったい反対、だけどね。