開沼博はルサンチマン(怨念)の人だ。
見ていると悲しくなってくる。
福島は大震災と原発事故以後、無数の分断線に苦しめられてきたし、今も苦しめられ続けている。
それを 「自分のため」に強化・再生産する開沼博の姿は端的に悲しいというべきではないか。
開沼博は、てつカフェ@ふくしま
にゲストとして参加したとき、
東電と国家の責任を問うことの重要性を語る参加者に対して
「私のゼミ生だったらボコボコにしていますよ」
とイヤミをいい(しかしその根拠は遅れている、という指摘のみだったが)、東京で私の話を聞いてくれる人たちは違う、と 東京の先進的な読者たちの側に身を寄せつつ、内側で悩む参加者たちを恫喝していた。
そこに見えるのはなによりも、学問的な検証性を少しも持たないまま、自分の劣等感なのか立場を守りたいという欲望なのか、その源泉はいずれであるにせよ、とにかく権力的な恫喝をするか、沈黙してしまうか、の両極端の姿勢だった。
もしかれが誠実な学者なら、一般市民にたいしても(配慮は必要であるにしても)きびしい主張を丁寧に提示すべきだ。だが彼にはそれができていない。なぜなら、彼の言説はルサンチマン(恨み)をそのエンジンとした行為になってしまっているからだ。
私の知る限り、どんな学者であろうが、意見の違う相手にこんな恫喝をする人を知らない。
それが一点。
もう一点は、彼の『はじめての福島学』の姿勢と内容の貧しさだ。数字を見れば分かる、と言う形で、風評の無根拠性を言い立てるのだが、かれが想定している 潜在的な「聞き手」は、ここでもまた自分の話を聞いてくれる人たちだけだ。
つまり、無知な人に対して 「福島を面倒くさい」と思う 「あなた」と指差し、最初から無知を貶める形で 「開沼的発話者」は語り始める。
つまり読者を予め無知の場所におき、あたかも 「客観的ででもあるかのような」数字を並べ立て、人々を 「脱政治化」して自らの読者へと繰り込んでいくのだ。
それが悲しい。
先ほどのてつカフェの場合とは逆に、ここでは 「開沼的発話者」は「内/外」の内に身を置き、外の人の無関心の無知にイヤミを言う。
もちろん、たとえば福島のお米は全量検査でクリアしているし、福島のお米は首都圏で食され続けている。そういうことを知るのは大切だし、そこには意味がある。それは認めよう。
だがこの発話行為は基本的に恫喝だ。
中の人には外を、外の人には中を振りかざしてコウモリ人間的発話を続けているだけではないか。つまり、かれの言説戦略は恫喝と沈黙の使い分けにつきているのだ。
その恫喝と政治的な沈黙はセットとなって、この大震災と原発事故によって生じた大きな課題と向き合う者たちの姿勢を、 みごとに葬り去ろうとしつづけているのである。
この本について、アマゾンのレビューには、「避難者にも読ませたい」 と、 避難者たちが風評に踊らされているかのような 「善意」を書き込んでいた人がいた。
開沼博的発話が成し遂げているのは、その程度のことだ。
なるほど、東京と田舎の植民地的な関係は、開沼博の指摘するとおり簡単には変わらないだろう。
だが、私たちは、被害を 「風評」と 「無理解」に縮減する政治家のような言葉を福島から発信し続ける 「開沼的発話」の貧しさを悲しく思う。
彼は、もっと引き裂かれた場所に立ち止まって思考を続けるべきだった。普通の市民が 「避難/帰還」 「安全/危険」の二項対立に口を噤んでいるときこそ、その隙間に身をおいて、困難な語りを語る倫理を(学者なら)抱えつつ語るべきだった、と思う。
彼の中に葛藤がないとは言わない。おそらく、抱えきれないほどの葛藤があるのかもしれない(葛藤の痕跡もなかったらただのアホだ)。
しかし、選んだのは 「風評被害」を叩くという決め打ちだった。
悪いけれど、それは政治家がすることだろう。もしくは政治家に都合よく利用される、くだらない学者崩れの。
学者が結果として政治家に利用されてしまうことはたくさんある。意見が異なって腹の立つ学者もたくさんいる。
だが、開沼博はそこまでもたどりつかない。
彼の 「知見」と言うべき学問的成果はいったいどこにあるのか?
密かになにかを企んでいるのか。
しかしそれなら、私たちフクシマの民はみな 「まつろわぬ心」を唇の奥にかみしめているよ。
開沼博のように自らしゃべっているかのように見えてじつはルサンチマンに憑かれているだけが福島の民じゃないはずだ。
私は開沼博論を書く意味などほとんど感じていない。
なぜなら私は文学の隅っこで哲学を頬張って何も語れずにいる意気地なしだから。
ただ、そんな意気地なしでも許せないことはある。
だからこれについてはいずれ生きている内に形にせねばなるまい。
今はただ学問を中途半端に扱い、福島を半面だけ守ろうとし、
「無数の分断を抱えつつ物語を語ることすらできない普通の人たち」
を抑圧し続ける開沼博の言語行為を、ただ悲しいと思うだけだ。
開沼博が櫻井よしことつるんでいる時点で、立場はあまりにも異なっていことは明らかなんだけれど、それにしてもどうなの、と思わずにいられない私が単に政治的に甘いだけ、なのだろうか。
もしそうだとしても、私はそれぞれの物語を噛み締めつつそれをことばにすることができずにいる、 「まつろわぬ者たち」の側の一人でありたい、と強く願う。
「原発を東京に」
ルサンチマン(恨み)をもしことばにするなら、かつて原発反対の政治的スローガンに過ぎなかったこの言葉を、もう一度こんどはせめて正直かつ素直に、死ぬまで東京に対して語り続けたい、と思う。
祈りにも近い叫びとして。
見ていると悲しくなってくる。
福島は大震災と原発事故以後、無数の分断線に苦しめられてきたし、今も苦しめられ続けている。
それを 「自分のため」に強化・再生産する開沼博の姿は端的に悲しいというべきではないか。
開沼博は、てつカフェ@ふくしま
にゲストとして参加したとき、
東電と国家の責任を問うことの重要性を語る参加者に対して
「私のゼミ生だったらボコボコにしていますよ」
とイヤミをいい(しかしその根拠は遅れている、という指摘のみだったが)、東京で私の話を聞いてくれる人たちは違う、と 東京の先進的な読者たちの側に身を寄せつつ、内側で悩む参加者たちを恫喝していた。
そこに見えるのはなによりも、学問的な検証性を少しも持たないまま、自分の劣等感なのか立場を守りたいという欲望なのか、その源泉はいずれであるにせよ、とにかく権力的な恫喝をするか、沈黙してしまうか、の両極端の姿勢だった。
もしかれが誠実な学者なら、一般市民にたいしても(配慮は必要であるにしても)きびしい主張を丁寧に提示すべきだ。だが彼にはそれができていない。なぜなら、彼の言説はルサンチマン(恨み)をそのエンジンとした行為になってしまっているからだ。
私の知る限り、どんな学者であろうが、意見の違う相手にこんな恫喝をする人を知らない。
それが一点。
もう一点は、彼の『はじめての福島学』の姿勢と内容の貧しさだ。数字を見れば分かる、と言う形で、風評の無根拠性を言い立てるのだが、かれが想定している 潜在的な「聞き手」は、ここでもまた自分の話を聞いてくれる人たちだけだ。
つまり、無知な人に対して 「福島を面倒くさい」と思う 「あなた」と指差し、最初から無知を貶める形で 「開沼的発話者」は語り始める。
つまり読者を予め無知の場所におき、あたかも 「客観的ででもあるかのような」数字を並べ立て、人々を 「脱政治化」して自らの読者へと繰り込んでいくのだ。
それが悲しい。
先ほどのてつカフェの場合とは逆に、ここでは 「開沼的発話者」は「内/外」の内に身を置き、外の人の無関心の無知にイヤミを言う。
もちろん、たとえば福島のお米は全量検査でクリアしているし、福島のお米は首都圏で食され続けている。そういうことを知るのは大切だし、そこには意味がある。それは認めよう。
だがこの発話行為は基本的に恫喝だ。
中の人には外を、外の人には中を振りかざしてコウモリ人間的発話を続けているだけではないか。つまり、かれの言説戦略は恫喝と沈黙の使い分けにつきているのだ。
その恫喝と政治的な沈黙はセットとなって、この大震災と原発事故によって生じた大きな課題と向き合う者たちの姿勢を、 みごとに葬り去ろうとしつづけているのである。
この本について、アマゾンのレビューには、「避難者にも読ませたい」 と、 避難者たちが風評に踊らされているかのような 「善意」を書き込んでいた人がいた。
開沼博的発話が成し遂げているのは、その程度のことだ。
なるほど、東京と田舎の植民地的な関係は、開沼博の指摘するとおり簡単には変わらないだろう。
だが、私たちは、被害を 「風評」と 「無理解」に縮減する政治家のような言葉を福島から発信し続ける 「開沼的発話」の貧しさを悲しく思う。
彼は、もっと引き裂かれた場所に立ち止まって思考を続けるべきだった。普通の市民が 「避難/帰還」 「安全/危険」の二項対立に口を噤んでいるときこそ、その隙間に身をおいて、困難な語りを語る倫理を(学者なら)抱えつつ語るべきだった、と思う。
彼の中に葛藤がないとは言わない。おそらく、抱えきれないほどの葛藤があるのかもしれない(葛藤の痕跡もなかったらただのアホだ)。
しかし、選んだのは 「風評被害」を叩くという決め打ちだった。
悪いけれど、それは政治家がすることだろう。もしくは政治家に都合よく利用される、くだらない学者崩れの。
学者が結果として政治家に利用されてしまうことはたくさんある。意見が異なって腹の立つ学者もたくさんいる。
だが、開沼博はそこまでもたどりつかない。
彼の 「知見」と言うべき学問的成果はいったいどこにあるのか?
密かになにかを企んでいるのか。
しかしそれなら、私たちフクシマの民はみな 「まつろわぬ心」を唇の奥にかみしめているよ。
開沼博のように自らしゃべっているかのように見えてじつはルサンチマンに憑かれているだけが福島の民じゃないはずだ。
私は開沼博論を書く意味などほとんど感じていない。
なぜなら私は文学の隅っこで哲学を頬張って何も語れずにいる意気地なしだから。
ただ、そんな意気地なしでも許せないことはある。
だからこれについてはいずれ生きている内に形にせねばなるまい。
今はただ学問を中途半端に扱い、福島を半面だけ守ろうとし、
「無数の分断を抱えつつ物語を語ることすらできない普通の人たち」
を抑圧し続ける開沼博の言語行為を、ただ悲しいと思うだけだ。
開沼博が櫻井よしことつるんでいる時点で、立場はあまりにも異なっていことは明らかなんだけれど、それにしてもどうなの、と思わずにいられない私が単に政治的に甘いだけ、なのだろうか。
もしそうだとしても、私はそれぞれの物語を噛み締めつつそれをことばにすることができずにいる、 「まつろわぬ者たち」の側の一人でありたい、と強く願う。
「原発を東京に」
ルサンチマン(恨み)をもしことばにするなら、かつて原発反対の政治的スローガンに過ぎなかったこの言葉を、もう一度こんどはせめて正直かつ素直に、死ぬまで東京に対して語り続けたい、と思う。
祈りにも近い叫びとして。