龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

本当は書きたくもない開沼博論のために(1)

2017年04月22日 10時52分27秒 | 大震災の中で
開沼博はルサンチマン(怨念)の人だ。
見ていると悲しくなってくる。
福島は大震災と原発事故以後、無数の分断線に苦しめられてきたし、今も苦しめられ続けている。
それを 「自分のため」に強化・再生産する開沼博の姿は端的に悲しいというべきではないか。

開沼博は、てつカフェ@ふくしま
にゲストとして参加したとき、
東電と国家の責任を問うことの重要性を語る参加者に対して
「私のゼミ生だったらボコボコにしていますよ」
とイヤミをいい(しかしその根拠は遅れている、という指摘のみだったが)、東京で私の話を聞いてくれる人たちは違う、と 東京の先進的な読者たちの側に身を寄せつつ、内側で悩む参加者たちを恫喝していた。
そこに見えるのはなによりも、学問的な検証性を少しも持たないまま、自分の劣等感なのか立場を守りたいという欲望なのか、その源泉はいずれであるにせよ、とにかく権力的な恫喝をするか、沈黙してしまうか、の両極端の姿勢だった。

もしかれが誠実な学者なら、一般市民にたいしても(配慮は必要であるにしても)きびしい主張を丁寧に提示すべきだ。だが彼にはそれができていない。なぜなら、彼の言説はルサンチマン(恨み)をそのエンジンとした行為になってしまっているからだ。
私の知る限り、どんな学者であろうが、意見の違う相手にこんな恫喝をする人を知らない。

それが一点。

もう一点は、彼の『はじめての福島学』の姿勢と内容の貧しさだ。数字を見れば分かる、と言う形で、風評の無根拠性を言い立てるのだが、かれが想定している 潜在的な「聞き手」は、ここでもまた自分の話を聞いてくれる人たちだけだ。

つまり、無知な人に対して 「福島を面倒くさい」と思う 「あなた」と指差し、最初から無知を貶める形で 「開沼的発話者」は語り始める。
つまり読者を予め無知の場所におき、あたかも 「客観的ででもあるかのような」数字を並べ立て、人々を 「脱政治化」して自らの読者へと繰り込んでいくのだ。

それが悲しい。

先ほどのてつカフェの場合とは逆に、ここでは 「開沼的発話者」は「内/外」の内に身を置き、外の人の無関心の無知にイヤミを言う。

もちろん、たとえば福島のお米は全量検査でクリアしているし、福島のお米は首都圏で食され続けている。そういうことを知るのは大切だし、そこには意味がある。それは認めよう。

だがこの発話行為は基本的に恫喝だ。

中の人には外を、外の人には中を振りかざしてコウモリ人間的発話を続けているだけではないか。つまり、かれの言説戦略は恫喝と沈黙の使い分けにつきているのだ。

その恫喝と政治的な沈黙はセットとなって、この大震災と原発事故によって生じた大きな課題と向き合う者たちの姿勢を、 みごとに葬り去ろうとしつづけているのである。

この本について、アマゾンのレビューには、「避難者にも読ませたい」 と、 避難者たちが風評に踊らされているかのような 「善意」を書き込んでいた人がいた。

開沼博的発話が成し遂げているのは、その程度のことだ。

なるほど、東京と田舎の植民地的な関係は、開沼博の指摘するとおり簡単には変わらないだろう。

だが、私たちは、被害を 「風評」と 「無理解」に縮減する政治家のような言葉を福島から発信し続ける 「開沼的発話」の貧しさを悲しく思う。

彼は、もっと引き裂かれた場所に立ち止まって思考を続けるべきだった。普通の市民が 「避難/帰還」 「安全/危険」の二項対立に口を噤んでいるときこそ、その隙間に身をおいて、困難な語りを語る倫理を(学者なら)抱えつつ語るべきだった、と思う。

彼の中に葛藤がないとは言わない。おそらく、抱えきれないほどの葛藤があるのかもしれない(葛藤の痕跡もなかったらただのアホだ)。

しかし、選んだのは 「風評被害」を叩くという決め打ちだった。

悪いけれど、それは政治家がすることだろう。もしくは政治家に都合よく利用される、くだらない学者崩れの。

学者が結果として政治家に利用されてしまうことはたくさんある。意見が異なって腹の立つ学者もたくさんいる。

だが、開沼博はそこまでもたどりつかない。

彼の 「知見」と言うべき学問的成果はいったいどこにあるのか?

密かになにかを企んでいるのか。

しかしそれなら、私たちフクシマの民はみな 「まつろわぬ心」を唇の奥にかみしめているよ。

開沼博のように自らしゃべっているかのように見えてじつはルサンチマンに憑かれているだけが福島の民じゃないはずだ。

私は開沼博論を書く意味などほとんど感じていない。

なぜなら私は文学の隅っこで哲学を頬張って何も語れずにいる意気地なしだから。

ただ、そんな意気地なしでも許せないことはある。
だからこれについてはいずれ生きている内に形にせねばなるまい。

今はただ学問を中途半端に扱い、福島を半面だけ守ろうとし、

「無数の分断を抱えつつ物語を語ることすらできない普通の人たち」

を抑圧し続ける開沼博の言語行為を、ただ悲しいと思うだけだ。
開沼博が櫻井よしことつるんでいる時点で、立場はあまりにも異なっていことは明らかなんだけれど、それにしてもどうなの、と思わずにいられない私が単に政治的に甘いだけ、なのだろうか。

もしそうだとしても、私はそれぞれの物語を噛み締めつつそれをことばにすることができずにいる、 「まつろわぬ者たち」の側の一人でありたい、と強く願う。

「原発を東京に」

ルサンチマン(恨み)をもしことばにするなら、かつて原発反対の政治的スローガンに過ぎなかったこの言葉を、もう一度こんどはせめて正直かつ素直に、死ぬまで東京に対して語り続けたい、と思う。
祈りにも近い叫びとして。



「今、人文学の本を書くとは」第4回が面白かった。

2016年10月27日 22時20分56秒 | 大震災の中で
人文書院のサイトの記事
  「今、人文学の本を書くとは」第4回

が面白かった。

「ナマコとヤドカリ」という題で、千葉雅也氏に、篠原雅武と言う人がインタビューしている。例えばこんな感じ。

引用開始

(千葉雅也氏)僕は、もっと豊かに関係性をとらえよという言説こそが、現状批判の主なやり方であるような人文学の状況に対し、そこから疎外される外部性を考えようとしてきました。対マジョリティのためのマイノリティの一致団結からdetachしたあり方について考えてきた、といえばシンプルでしょう。僕はそれが、ドゥルーズから読みとれる、ある種の自由の可能性だと思うのです。

引用終了

次の本が楽しみだ。

http://www.jimbunshoin.co.jp/smp/news/n16815.html

『いくつもの声』ガヤトリ・C・スピヴァクが胸に沁みる

2016年10月13日 01時11分31秒 | 大震災の中で
スピヴァクといえば『サバルタンは語ることができるか』が超有名だが、よく理解しているわけではない。
だが、語ることばを持たず、語り得ないものを抱えながら沈黙の側に立っている「幽霊」のような存在を、「こちら側」(見る側)から言語化していく行為だけではたどり着けないその場所に対する感性のことなら、少し分かる気がする。

なぜなら、原発事故後5年を経た福島では、今、本当に「語りにくさ」を抱えた人の姿が見えにくくなってきているからだ。

こんな風にブログを書いている側の「私」はもちろん「語り得ない者」ではない。スピヴァクを読んで「なるほどね」」とか思っている「私」は、その幽霊の気配すらつかみ損ねている。

さて、ではどうするか。
いったい「オレ」は、複数の声がほの聞こえる裂け目の近傍に立ちつつ、「幽霊」の気配がすると指させばいい、とでも思っているのか?

そんな「今」に必要な本が、この『いくつもの声』というスピヴァクの講演集だ。
2012年日本で「京都賞」受賞のため来日して、4つ講演をしている。その記録なのだが、実に興味深い。

P109「私には現実に精神を変えることには成功していません。つまり、三〇年ものあいだ手仕事で身を立て、知的労働への権利を否定されてきた人々の精神を変えることができていません。変えることはできませんが、それでも、動き続けなくてはなりません。なぜなら、もしかしたら一人くらいの生徒であれば変えることができるかもしれないからです。」

P101「私が建設したいのは精神であり、欲望を強制によらずに再構築することであって、上から恩恵をたえようとする慈善事業ではありません。」

P90「哲学者が私に対して『私にはわかりません』というとき、実際のところ哲学者が意味しているのは、『あなたは哲学によって学ばれる知性の諸条件を満たしていない』、ということです。つまりそれは、「私は理解しない」ではなくて、「あなたの言っていることは意味をなさない」、ということです。こうしたことが起きるとき私は、その人(哲学者)が自分の専門にとらわれていることに気づきます」

いろいろ考えさせられるわ。


ぜひ一読を。そして感想プリーズ、です。

デジタルサウンドボードで聴く宇多田ヒカル『ファントーム』ががきれいすぎて切ない。

2016年09月29日 20時10分16秒 | 大震災の中で

音楽の享受は基本的に脳内変換して聴いているわけだから、想像力の問題だ、と長いこと思っていた。あの、植草甚一もそうだったし、なんてよく知らないくせに言ってみたりして。

でも、デジタルサウンドボードの霊験はあらたかだった。

今日、宇多田ヒカルの新譜『ファントーム』が届いて、それを聞いている。

最初、間違って別のPCのドライブにCDを入れて再生させたら、あまりに声に表情がなくてびっくり。

まあ、ディスプレイのスピーカーにHDMIでつなげてるだけだからこりゃまあしょうがない。しばらくこの音でも平気だったのは、小田和正しか聴いていなかったせいか(苦笑)。小田和正はもう43年も聴いているから脳内変換完璧なんですよね。
しかし、最近の宇多田ヒカルはお久しぶりだからそうはいかない。

で、デジタル側に切り替えてまた二度びっくり。

デジタルサウンドボードSE-90PCIkaraをPCに差し込んで、そこから光デジタルファイバーで
オンキョーの小型スピーカーWAVIOGX-100HD

に出しているだけなのだが、うわ、何にも知らないで聴いていても、椎名林檎の声が出た瞬間から生々しくて、「ありゃ、コラボしてたんだ」と気づかされる。
吉田美奈子とか宇多田ヒカルとか、ボーカルを聴きたいときはこれじゃなきゃダメだ、と思う。

植草甚一はどうした!?
音楽は脳内の想像力だ、はどうした?!

いえいえ。何十万もかける必要はないんです、私の場合。数万円で死ぬまで楽しめるんだから(笑)

というわけで、宇多田ヒカル、いいよ。

いわき市の未来をどう考えるか。

2016年07月24日 12時58分48秒 | 大震災の中で
今週はじめ、地元いわき市の友人と酒飲みをした。

地元の人とではあっても、原発事故による避難してきた人のこととか、廃炉や再稼働の話などを話すことはほとんどない。
いやむしろ地元の人だからこそ話しにくい、とすらいえるかもしれない。

今回は長いつきあいだから、率直に聞いてみた。すると

「結局分からないですよね。今、いわき市は直接潤っているわけですよ。自分は平だから地元の知り合いも多くて、そういう人の中には、『これなら廃炉まで25年は食える』というやつもけっこういるわけです。人やモノ、サービスを廃炉作業に提供する仕事は安定的にある。そうなると、それで回していくことができるなら、ってこともあるわけで」

なるほど。

私は俸給生活者だから、県内どこに転勤しても給与はもらえるわ。
土地も原発事故にのみこまれたわけでもない。

だから、原発事故についても自由に発言できる。
「倫理」だの 「責任」だの 「社会は変わるか」だの、お金を稼ぐという意味での 「生活」とは無縁の視点から考えたり発話したりすることができるわけだ。

だが、現場に近くなればなるほど、語りは様々な側面を抱えるようになっていく。
イデオロギーにエコロジー、町や市、県と国それぞれのレベルでの行政の対応と政治の思惑経済効果や補償のリアルや避難の苦悩、様々な要素が絡み合ってきてもはやナイーブに語ることは不可能に近い。何かが私たちに沈黙を(結果として)強いているかのようだ。

誰も語ることを明示的に禁止したりなどしていないのに。

私は琉球新報社の人を招いて話を聴き、それをふまえて自分の思考と行動にヤスリをかけたいと願う。
だがそれは、浜通りの地元で金を稼ぎながら生きている人たちのリアルとは違ったリアリティの方向を持つだろう。

もちろんそれはや誰かを(たとえば友人の話に出てきた 「人集め」の仕事をしている 「友人の友人」を )「説得」するのが目当てではない。

今は何か一つの正解や真理を 「共有できる時間」は福島には流れてはいない、と改めて思う。
イメージで話をしてもしょうがないのだね。

それでもまだ「語り得る」ことがあるとしたら?

そういう言葉たちの基盤(前提)をもう一度探し出した上でなおも語りたいのだ。

なぜなら私たちはもはや、単に一つの物語を選択するだけでは足りない、そんな場所にもう既に立っている、と思うからだ。

9/17(土)、福島市の橘高校セミナーハウスで14:00~

よろしければ。



第7回エチカ福島、9月17日(土)に開催決定!

2016年07月22日 23時20分04秒 | 大震災の中で
エチカ福島第7回を9月17日(土)に開催します。
よろしかったらぜひおいでください。

【テーマ】 沖縄と福島から〈責任〉を問う
      ―米軍基地と原発事故の〈責任〉とは何か―

【講 師】 新垣 毅(あらかき つよし)氏
      琉球新報社東京支社報道部記者

【日 時】 9月17日(土)
    14:00 開会・あいさつ・エチカ福島の趣旨説明
    14:10 今回のテーマ趣旨説明
    14:20 報告 新垣毅氏「沖縄から責任を呼びかける―沖縄米軍基地県外移設問題」
    15:20 休憩
    15:35 渡部 純(エチカ福島)「福島で責任に応えること/福島から責任を語ること」
    16:00 参加者全体での討議
    17:00 閉会

【会 場】 県立橘高校セミナーハウス(同窓会館)
       福島市宮下町7番41号

【参加費】 300円(飲料代・資料代込み)

【申 込】 不 要 

【連絡先】 ethicafukushima@gmail.com


<開催趣旨より>

あれから5年。
原発事故がなぜ引き起こされたのかという〈責任〉について、私たちはどのように考えてきたでしょうか。
なるほど、検察審査会は事業者である東電の刑事責任を問う起訴を決定し、その審理がこれから始まります。
しかし、「復興」が喧伝される一方で、市井のあいだで原発事故の〈責任〉を問うことは、どこか語りにくさを引きずったままです。

原発政策を推進してきた政治家・官僚の政治責任。
それを支持し、受け入れてきた市民の政治的責任。
科学者、メディア、教育の責任。電力を使用してきた受益者の責任、etc…。
たしかに、これらを問い直すことはお互いの「負い目」にふれざるを得ず、そのことが「寝た子を起こすな」とばかりに、私たちにこの事故の〈責任〉の語りにくさをもたらしている面があることは否めません。
いや、むしろ私たちはその語りにくさに甘んじながら、それと向き合い、問い直すことに目を背けることに慣れ切ってしまったのではないでしょうか。

これは福島だけの問題ではありません。
被害者(社会的弱者)が「負い目」によって自らの声を抑圧するだけでなく、それに乗じて加害者(社会的多数派)が自らの〈責任〉を見て見ぬふりをするさまは、これまで様々な構造的な暴力関係下でくり返されてきたことです。
しかし、人為的に破壊された共同体の傷は、その暴力の〈責任〉を問うことなしに修復されることはありません。
その意味で、私たちは原発事故の様々なレベルにおける〈責任〉を問い直す術を、勇気をもって学ばなければならないでしょう。

今回のエチカ福島では、その手がかりとして琉球新報社の新垣毅氏をお招きし、昨今の沖縄米軍基地問題の現状と県外移設問題についてお話しいただきます。
周知のとおり沖縄では米兵による犯罪が後を絶ちません。
そして、その我慢の臨界に達した翁長雄志沖縄県知事を代表とする沖縄の声は、米軍基地引き取りの〈責任〉を本土へ訴え続けています。
その呼びかけに対し、福島に生きる私たちはどう応えるべきか。
この沖縄からの呼びかけに対する応答を考えることは、重い問いを私たちに突きつけるでしょう。
しかしながら、その問いについて考えることは、とりもなおさず私たちが語りにくくなっている〈責任〉を、いかにして言葉にして語りうるものにするのか考えるヒントが含まれています。

〈責任〉を問うとは、その相手をバッシングして殲滅することでありません。
それは人為によって破壊された側の尊厳や社会的正義を回復させると同時に、将来、同じ失敗を二度とくり返さないために人間が考え出した術です。さらにいえば、それは暴力をふるわざるを得ない加害者と、それを被らざるを得ない被害者のあいだにある構造的な暴力関係から、お互いを解放させるための術でもあります。
第7回エチカ福島では、沖縄からの〈責任〉の呼びかけにいかに応えるかを考えるとともに、そこから福島で〈責任〉を語り出す意味を考える機会とさせていただきます。

2016年7月10日の参院選以降のこと

2016年07月16日 21時12分17秒 | 大震災の中で
参院選で自公が議席数を延ばしてから1週間が過ぎた。あれ以後、政治に対してどう話をしたり書いたりすればいいのか、ちょっと途方に暮れている。衆議院選挙の時もそうだったので、同じようなことを繰り返している。
私の投票行動が別に変わったわけではないので、自分の望むような選挙結果(議席数)ではないからといって後悔したりするということはない。

だが、いわゆる「普通のヒト」たちと自分の感覚にズレがあるのだなあ、ということは感じるし、その中で少数派でありつづけるのはちょっと元気が出ない、ということもある。

とはいえ、少数派はさびしいからといって、みんなが投票する政党や人を選ぶというものでもないから、自分の投票行動の基準はそんなに大きくは変わらないだろうと思う。

さてしかし、選挙はこのままでは「自分の行為」という実感が持てないまま、虚しさが募っていく作業になりかねない。政治はやっぱり自分の中から発信していかないといかん、そう思う。

むろん私は教師だから、職業上のオンタイムに、教壇で演説を打つわけにはいかない。そこでは生徒自身が自分の考えを広げ深めて、政治的な思考と行動ができるように支援することが重要になる。国語の教師になにができるのか分からないが、そういうことをやっていくことが必要だろう。

そして実は、そこのところが充実してくれば、どの党に投票するか、とか、どの政策に賛成するかとかが互いに一致せずとも、この虚しさからは少し離脱できそうな気もしないではない。

政策とかいっても、全部白黒はっきりさせて賛成か反対かをぴたっと二つに分けられるものばかりではないし、課題はいくつもいくつもあるのだから、意見や立場など違うのが当たり前だ。ニヒリスティックになるのは、意見や立場が違っているからでもすれちがっているからでもないのだろうとも思えてくる。

自分たちの中から発生してくる身体的なエネルギーと思考のエネルギーが互いを抑圧しあったりしないように生きること。そういうことができるなら、十分なのだと思う。

おまえはなにがしたい?

と自分の肉体や思考に問いかけるように、よく分からない他者にもそれを問いかける。教師なんぞをやっている大人の代表としてやるべきことは、池上彰のようにわかりやすく世界情勢を解説することではなくて、自分の中から出てくる力に形を与える、自分を構成する表現を持てるように支援することだし、他者に対してそれができるってことは、自分のこともそうできるってことになるんだと思う。

今回の選挙の後、そんなことを考えた。
これもまた、スピノザのおかげ、なんていうと意味が分からない、かなあ。



アンドロイド演劇「さようなら」(平田オリザ作・演出)をふたば未来学園高校で観てきた。

2016年06月09日 12時21分37秒 | 大震災の中で
アンドロイド演劇「さようなら」を観てきた。
昨日、ふたば未来学園高等学校の体育館で演劇をやるというので観に行った。
演目は

アンドロイド演劇「さようなら」
平田オリザさんが昨年度からふたば未来学園高等学校で演劇の授業を担当しており、その一環として生徒に最新のジェミノイド(アンドロイド)が登場する演劇を授業で一年生全員に見せたのだという(2年生については放課後希望者を対象に)。

それを夕方、地元の人に一般公開した(3回目の)公演を観にいったのだが、これがとても面白かった。

アンドロイドが人間の振りをする演劇、ではない。アンドロイドは「アンドロイドの役」として劇中に登場する。
それは小道具(もしくは大道具、あるいは舞台セット)じゃないか、と思う人もいるかもしれないが、そうではない。これを舞台装置ということはできない。なぜなら、私たちは観ているうちに、そこはかとなくこのアンドロイドに感情移入をしていくことになるからだ。

もちろん、照明がばっちり当たっている、芝居の後の「カーテンコール」のアンドロイドは、ちょっとよくできたマネキン程度の「リアリティ」(人間らしさ)しか持たない。まあ人間に似せた人形である。
だが、演出家の平田オリザがそのアンドロイドに演出を施し、作品という物語の時間の中に配置してその演技をする、それを私たちが人間の俳優の演技と同時に観劇していくと、アンドロイドにも心が動く瞬間があるのだ。

いや、そんなことはない、という人もいるだろう。
だが、平田オリザがいみじくも言うように、演出をつけていって人間の心を動かすのに、役者もアンドロイドもCGも「原理的には」違いがないのだ。それを実感し、あるいは実感しないまでも(実感しない人はむしろアンドロイドに人間を発見しようとしすぎる人なのかもしれない、とすら思えてくる)、そのことについてさまざまに考えさせられる芝居だった。

話の筋は簡単だ。病気であまり動けない女性のために、アンドロイドが購入される。彼女(アンドロイド)は女性の求めに応じて詩を暗唱したり、話し相手になったりする。しかしアンドロイドだからできることとできないこと、分かることと分からないことがある。「すみません」というアンドロイドに「いいのよ、あやまらなくて」という女性は、自分の死を自覚しつつ、アンドロイドに「今の自分」にふさわしい詩を読んでほしい、と頼むのだ。
その詩はランボーだったり谷川俊太郎だったり、石川啄木だったりする。そのアンドロイドのチョイスは女性の気持ちに寄り添ったものなのだろうか、そうではないのだろうか。それはアンドロイドの意識の反映なのだろうか、そうではないのだろうか、そんなこともちょっと考えさせられる。

それがこのお芝居の前半。後半は双葉郡で上演されるということで新たに台本を付け加えた部分になる。先の女性が亡くなり、アンドロイドだけが残される。運送会社の男が部屋に入ってくるが、アンドロイドはずっと詩を暗唱しつづけている。男が入っていっても反応せず、止めようとしない。
会社と連絡を取りながら男は、アンドロイドにリセットをかける。すると会話が成立するようになる。
「なぜずっと詩を暗唱しつづけていたの?」と男がアンドロイドの「故障」を想定しながら尋ねると、アンドロイドは「長い間一人でいたからかもしれません」と答える。
その後アンドロイドは、人が原発事故のために入ることのできない双葉郡の海岸に据え付けられ、誰もいない浜辺で鎮魂のために詩を朗読しつづける為に運ばれていく……

そんな30分足らずの芝居である。

私たちの視線はその間アンドロイドに釘付けになっていた(と思う)。少なくても私はそうだった。

アンドロイドは思いの外人間に似てもいるが、人間そのものの動きができているわけでもない。アンドロイドそのもの、である。
だが、その人間とアンドロイドのかみ合うようなかみ合わないような会話のやりとり、ぎこちない、しかし或る種の表情を思わせる動き、そういうものが幾重にか重なって、そこはかとない感情移入が起こっていったように感じる。

終演後の平田オリザさんのトークは、かなり先端的なお話だった。


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ハリウッドや商業演劇では、今後アンドロイドの利用が急激に進むかもしれない。
なぜなら、CGの普及によって大量のスタントマンが失業したように、アンドロイドは危険に強い。もし映画制作の保険料と比べてペイするようになれば、アンドロイドが舞台やスクリーンで急激に採用されるだろう。
また、富裕層にとって、ジェミロイドの値段は十分に支払えるものだとすれば、亡くなられた家族のアンドロイドがほしいという需要は必ずある、数年以内には、アンドロイドを単なるモノとして扱うのではない法律の制定が必要になるだろう。少なくてもペットよりは大事な存在になっていくにちがいない。

ロボット工学の研究者の多くは、無駄のない動きを目指してしまう。しかし産業用ロボットのような迅速に正確な無駄のない動きは不自然なのであり、人間はかならず無駄な動きをする。それは統計的な平均化もできないし、かといって単なるランダムだと挙動不審になる。だからロボット工学だけでは自然な動きは作れない。2500年の歴史を持つ演劇の芸術的蓄積が必要だ(いまはまだ)。ではロボットに無駄な動きをさせるのはなぜか?ほぼ人間の動きは機械に比べてネガティブなところが特徴だ。
だから、そこを考えていくと芸術とか、人間的な振る舞いを求めるシーンがそれを求めるということになる(上記のような映画とか、亡くなった方を忍ぶとか)。

あるいは、案内板を見て場所を探している人に声をかけるときに、どうやったら自然に驚かれずに声をかけるロボットができるか(これはすでに実用化に向けて進んでいる)などといったことも考えられる……。

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そんなお話を伺うことができた。アンドロイドの「人間的」な研究においては、日本が「今」世界で独走しているのだそうだ。さすが「アニメ」の国だと思うが、だから『鉄腕アトム』でも描かれていたようなロボット法(単なる器物破損の器物、所有物ではない価値を認める法律)は日本で作らなければならない、という指摘も面白かった。

平田オリザ氏はさりげなく、きわめてさりげなくだが
「今双葉郡では、亡くなった人の鎮魂も満足にできないといった状況が続いている。その価値は今のところ全く補償されていない。避難の補償はある。壊れた、あるいは使えなくなったモノや土地、できなくなった事業の補償はある。しかし、魂についてはなにもない。これからその魂の価値について声を上げていかなければならない」
というようなことをいい、そのこととこのアンドロイド演劇という芸術における意義とは繋がっていると指摘していた。

いろいろ頭が爆発しそうなおもしろさだった。こういう授業を「ふつうに」受けられるふたば未来学園高等学校の生徒はすごいチョイスをしているなあ、と思うと同時に、60歳近い演劇好きの国語教師が「すごいすごい」と思うように彼らはスゴいとは思わないのかもしれないとも予想してみる。

それが当たり前のことが、スゴい。そしてそれは大人達が彼ら双葉郡で学ぶ高校生の将来に向けての確実な「投資」でもあり「支援」でもある。今、このすごさを分かる必要はない。いずれどこかで響いてくるだろう。

いや、もちろんすてきなことをやっているな、とは分かるだろう。感覚的にはすでにすべてを知っている。直感的には。

だが、その価値の全貌は、高校生にはまだ直観はできまい。
学ぶことによって全体像が見えたとき、彼らはそれを改めて「直観」するだろう。

60歳を前にした初老の引退直前の高校教師の直観は、おそらく高校生には通じない。それでいいのだ、とも思いつつ、じいさんがすげぇすげぇと言っていた、ということぐらいは伝えて死にたいものだ、とも思う昨日の夜だった。

これから世界中で公演をしていくとのこと。機会があったらぜひ一度観劇を。

ちなみにマツコロイドも漱石ロイドも同型機とのこと。

ただし、見せ物として性能や似ていることを見るのではなく、物語の中でアンドロイドの演技を見てほしい、というのが平田オリザさんのスタンスのようだが。

つまり、人は物語の中でこそ人間になる、そういう意味ではアンドロイドも俳優も、その物語において「人間的」たりえるのだ、という平田オリザらしい、そしてそれは現代にふさわしい視点がある、ということだろう。

それを感じたことが、昨晩最大の収穫だった。




スピノザのこと(湯本高校図書館報原稿2016年2月)

2016年05月19日 22時00分07秒 | 大震災の中で

雑感 「スピノザのこと」

 12年ほど前のある日、息子の通う大学から「取得単位が足りず進級できない」と連絡がきた。本人に聞くとどうも不登校らしい。その時は「もう大人なんだから」と暢気に構えていが、時間が経っても状況は好転せず、年末「ダメ元」で転勤願いを出す。するとたまたま希望が通り翌年4月から息子との共同生活が始まった。
 息子が再び世界への扉を開いていくにはそれから約3年の月日が必要となるのだがそれはまた別の話。

 息子との共同生活を始めたちょうどそのころ、私はスピノザ(注)を読み始めたのだった。

 スピノザ哲学の主な特徴は次の3つ。

①スピノザは『エチカ』冒頭で「神は世界で唯一の実体である」と証明する。その神は人格を持った超越存在ではなく、自然そのもの、自然の法則・摂理自体のことを指している。スピノザ哲学が汎神論とも無神論とも言われるのはここに関わる。「神即自然」であり、今この世界自体が神、なのだから、外部すなわち「超越」概念は存在しない。唯一の実体とはそういうことだ。

②スピノザは人間の自由意志を否定した上で、あらためて「人間は自由だ」と論じる。つまり自然の摂理(神)に則って生きることこそが自由なのだ、と主張するのだ。例えばテニスが自由にできるというのは、勝手にラケットを振り回すことではなく、法則に従って練習をした結果初めて「自由」になると。だからスピノザにとって「学ぶ」ことは非常に重要だった。この脱構築的な言葉の使い方もスピノザ的だ。

③スピノザにとって「分かる」ことは体験・行為である。デカルトが方法的懐疑によって論理を遡行し、疑って疑ってその極限で「考える私」をつかみ取ったのとは対照的だ。スピノザは「なぜ」を問わない。証明・説得ではなく、うまく行った状態を「描写」しようとする。「分かるときには分かることが分かっている」「分かるときには外部の指標を必要としない」など、内在的理解が重要なのである。スピノザは、デカルトの検証可能な誰でもわかる「(科学的)真理」を中途半端だと批判している。「懐疑」という方法は不十分だ、むしろ真理は体験だ、というのだ。それはある面で仏教の悟りに似ている。親鸞の言う「今ここが浄土」という考えに近いと指摘する研究者もいる。

 当時私は、実際には息子のことでさほど深刻に悩んではいなかった。彼は彼の道を行くのだろうし、20歳を過ぎていちいち父親の言うことをきいていてもしょうがない。ただ彼の傍らに立って飯をつくったり酒を飲んだりしながら、父親には父親なりの(ということはおまえにはおまえなりの)真実はあるよということは伝えたいと思っていた。
 スピノザは、デカルトと違って明晰判明(科学的・公共的)な誰にでも納得できる真理を提示したり啓蒙したりはしない。真理は体験であり、適切な体験によって真理を内在化する、というのがスピノザの考え方だ。
 だからスピノザの説得は弱い。そして学びの内容や方法は、知識として提示しにくい。なにせ体験しなきゃ分からないのだから。
 今にして思えば、私は息子と共同生活を続けながら、デカルト的な科学的・公共的な学びよりも、スピノザ的な弱い説得、傍らに立って体験を誘うような哲学の方が、むしろ本当に「他者」と出会うための道筋だ、と肌で感じていたのかもしれない。
 スピノザは20代でユダヤ教会から破門され、1ヶ月後には暗殺されそうになる。破門の時、ユダヤ教の先生に「私が先生に弟子の破門の仕方をお教えしましょう」みたいなことを書いたそうだから、かなり薄ら生意気な学生だったらしい。
 しかし同時に彼はレンズ磨き職人として質素な生活をしながら哲学的研究をしていた。持っていたのはシャツ2枚、パンツ5枚、ハンカチ7枚、暗殺未遂の時ナイフで刺されたコート1枚、と記録にある。名誉も権力もお金も求めずひたすら真理を探求するというスピノザの姿勢は、むしろそうだからこそ周囲から「危険人物」扱いされることになったのかもしれない。

 その後近代は、明らかにデカルト的な世界観の方向に舵を切る。精神と物質(自然)を二元的に分離してその上位に精神を配置し、自然を支配する科学主義・進歩主義・合理主義の枠組みを準備していくことになるわけだ。そして、誰でもが分かる「明晰判明」な知識だけが(科学的)真理とされるようになっていく。
 だが、この17世紀の異端の哲学者スピノザの考え方にはもう一つの近代の可能性が胚胎していた。近年の脳科学やIT分野でスピノザの哲学が再認識され、重要視されつつあるともきく。21世紀を生きる私たちにとって、スピノザはもう一度じっくり読み直す価値のあるテキストではないか。
 確かにスピノザの真理は一見神秘体験に似ているし説得力も弱い。けれど、スピノザを読んでいると合理的な認識にできることはまだある、と思えるようになってくる。元気が出てくるのだ。私は、怒濤の如くに世界を席巻し続けている資本主義の論理とは別の可能性を、スピノザの後をたどり直しながら、もう少し探ってみたいのである。

 ちなみに20世紀を代表する科学者の一人アインシュタインは、「あなたは神を信じますか」という記者の質問にこう答えている。

「もちろん信じていますよ、スピノザの神をね」

(注)スピノザ:17世紀オランダのユダヤ人哲学者。合理主義の立場に立ってこの世界の自然そのものが神だと唱え、当時のキリスト教勢力と鋭く対立した。強い弾圧を受け、生前は主著『エチカ』を出版できないまま死去。しかし熱烈な支持者たちの努力でその直後に遺稿集が発行された。

福島県立湯本高等学校 図書館報56号「雑感」原稿

感想:本deてつカフェ「わがままに生きる哲学」

2016年05月08日 08時08分09秒 | 大震災の中で
てつカフェ@ふくしまに行ってきた。
(2016年5月7日)

今回はこんな内容。
第8回本deてつカフェ
課題図書は 「多文化工房『わがままに生きる哲学』(はるか書房)

http://blog.goo.ne.jp/fukushimacafe/e/d46198345e0dcdb4d3079188414326cc

これが実に面白かった。
本を読んだり映画を観たり、絵を鑑賞してからのてつカフェはこの 「てつカフェ@ふくしま」で何度か経験しているが、今回は本当に楽しかった。
まず、題名がいい。

題名をつけるときに 「わがまま」という言葉をカッコに括るかどうか迷ったが、付けなかった、と著者の一人(佐藤和夫さん)がいっていたことがとても腑に落ちた。

わがまま、はどちらかといえばネガティブな意味を含んで受け取られることの多い言葉だから、カギカッコをつければそこに含みがあることは読者にもすぐに分かる。
「メタ的な使い方をしていますよ」という信号になるからだ。
しかし同時にカギカッコを付けて 「わがまま」と表記すると、わがままという言葉が持つ言葉の行為の範囲は少し狭まる。著者の意図にパッケージされて流通する限定感覚が生じるからだ。

ここで考えられているのはある面では自己決定することができる力と、それを実際の場面で使うことについてでもあり、漱石が引用されていることから分かるように 「自己本位」の問題でもあり、それは 「自由」の問題でもある。それは自分の中だけで起こる内面の話ではなく、自分と世界=他者にまたがって広がる出来事なわけだから(わがままってそういうことですよねえ、基本)、簡単にカッコに括ればいいってものでもない。


哲学の専門書がどういう記述の約束を持っているのかは皆目見当分からないけれど、この題名におけるカギカッコなしの  わがまま という表現は、そういういろいろ面倒なところを横断的に考えかつ生きることを推奨している。

だから本書にとってふさわしいのだ、と感じた。

次に中身をめくると、一応Q&Aの形式を取っている。だから、この本は一見 「どう生きたらいいか」の相談、つまり人生相談のようにも見える。

が、これもまた一筋縄ではいかない。

一つの問題に複数の著者がそれぞれ回答している。だからまず、答えは一つじゃないんだ!と形式は主張している。
ところがそのてんでな回答者の答えは、その思考の 「基盤」においては一致している。つまりは実にわがままな答えが並んでいる!

(特にその中でも 「田舎の世界市民」の答えは、そんなことをこんな 「人生相談」の形式で書いちゃっていいのか、というぐらい 「わがまま」な回答だ。)

詳細は読者が本文に当たることをオススメするが、どの回答者も自分のわがままな答えを書いているから、私たちは一つ一つの答えが答えになっているのかどうか戸惑い、あるいは突っ込みつつ、それぞれの回答の隙間にある(ようにみえる)自分のわがままと、いつの間にか向き合わされていく仕掛けになっているのだ。

この複数性を抱えた形式は、形式であると同時に、わがままという行為の実際例にもなっている。
もし回答者が一人だったなら、それはその回答者だけの 「正解」=「勝手」として受け取られかねない。だが、この本を読む読者は、回答者がてんでにかつ 熱心にわがままな自分の回答を叙述を辿っていくなかで、結局どの回答に 「依存」することも赦されず、どの答えに同一化することもできず、否応なくじぶんのわがままのありかとその実情、そしてじぶんがわがままであり得たり有り得なかったり、抑圧されていたり、踏みとどまっていたりするリアルと、向き合わされていくのである。

差異、とかズレ、とか、隙間とかいったレトリックはもちろんたいした話ではない。複数性というのもどーでもいい。だが、6人の著者=回答者がよってたかって一生懸命にわがままな回答を組み立てている様子を読んでいるうちに、読者も 「のっぴきならないところ」に立たされていることに気づく仕掛けがここにある、ということが、それだけが重要だ。

みなさんの感想でほとんど唯一共通していたのは、 「身近なことはあきらめられない」という感触だったことからもそれは分かる。
この本は幾重にも成功しているのだ。

加えて、回答者の世代も20代から60代と世代を意識した構成になっている。そのことを著者も意識していたに違いないのだが、驚くべきコトに(あるいは極めてこの本がそのことをうらぎるように)結果としてその意図は無効だった、と著者(の一人)が語っていた。
「世代によって異なるのは向き合っている問題が違うということにすぎない」
というのだ。先ほど共通の 「基盤」のことを書いたが、その 「基盤」の話は、おそらくここにも係わっている。

わがまま、私なりの理解で言い換えると、それぞれがめいめいてんでに 「より良く生きたい」という衝動は、各自の意図や目的、人生観や意識に止まらず、むしろ彼等複数の回答者の回答する行為の複数性の中=間にこそ見えてくる。それが生の基盤だ!
ということなのだろう、ということになる。

もちろんこれは私の神様にもとづく個人的な解釈だ。だが昨日のてつカフェふくしまは、まちがいなくそんな個人的なわがまま(な解釈)も許容しつつ、決定的な答えは、回答の中ではなく、遂行的になされる回答たちの間に生じるし、だからこそ私たちはその隙間でノッピキナラナイわがままのありかを発見もし、戸惑いもしながら、哲学的な問い(もちろん単純な正解ではなく)を問い始めさせられる、そんな面白さに満ちていた。

読者たちは、多く 「肝心な(自分にとって身近な問い)は読み進めにくかった」とこたえていた。

素敵な時間に感謝。本deてつカフェの面目躍如だった、と文学的にしみじみした翌朝でした。

第6回エチカ福島「金山町で未来を、日本を考える」のお知らせ。

2016年05月01日 18時33分47秒 | 大震災の中で
第6回エチカ福島というイベントを、5月21日(土)に開催します。

「金山町で未来を、日本を考える」

日 時:2016年5月21日(土)14時~17時
場 所:福島県大沼郡金山町生活体験館
発表者:押部邦昭さん(金山町役場復興政策科の方です)
申 込:不要
費 用:資料・飲み物代100円
連絡先はethicafukushima@gmail.com

です。