龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

福島第一原発視察(その4)

2016年04月26日 21時48分00秒 | 大震災の中で
第一原発に着くと、こんな靴カバーを装着。



線量計を一人一人配布され、胸ポケットに入れておくよう言われる。そこにはこんなポスターが。



構内はバスで巡ります。

4号機はすぐそばまで行きました。脇に使用済み燃料を取り出す時につかった鉄骨の建造物があります。



凍土壁のための凍結用の媒質を循環させるパイプがこれ。既に稼働しています。



唯一震災前の壁が残っている2号機。中は大変なことになっているのでしょうが。



結局線量計は全く表示が変わらず。その3でも書きましたが、構内の線量は当初からは考えられないほど低く安全になっています。
安定的な状況ようやく実現した、というところでしょうか。

ただし、まだこれは「力づくで押さえ込んだ」という表現が相応しい状況だとも感じました。
まるでSF小説のスペースコロニーのようなのです。

火星とか月世界とか、人類が隔離的に居住している状況に近い。
小説と一緒にするな、と人はいうでしょうか。
しかし、私は「スターシップ・トゥルーパー」のように、つまり無理矢理危険な異物をマッチョにねじ伏せるB級映画のようなテイストを、ここの施設には感じました。

だって、全て人工的だからこそ、低線量に出来ているに過ぎない。
通っている国道や取り付け道路は、構内(原子炉建屋から離れた高台の作業する場所)の5倍から10倍の放射線量なのです。
まして、林や山は手つかずのまま。

原発周辺の土地は中間貯蔵地帯になっていく予定です。

確かに、廃炉作業が継続的に行われいくのですから、楢葉町や広野町、そして富岡町の一部にはその作業に当たる人たちの生活圏が形成されていくのでしょう。それはそれで大切な事業であることは間違いありません。
原発は止められても、廃炉はやめられないのですから、これほど確実に継続しなければならない事業は他にない、ともいえそうです。

けれども、これは人為の限りを尽くしたある種の「限界状況」でありつづけることもまた、疑えません。線量が低下した作業環境を仕事をする方達のために喜ぶと同時に、私はとても複雑な思いを強く抱きました。

ここまで強く放射線を強く「制圧」したとしても、これは構内に限定して、のことに過ぎないのです。周辺の大熊町は、これから長い間高線量が続いていきます。富岡町は帰還困難区域と居住制限区域、それに避難指示解除準備区域に分かれています。楢葉町は避難解除にはなったけれど、まだ6%しか帰還していません。

トリチウム汚染水の希釈後海洋放出も本格的に議論が始まりそうです。

私たちは選択できないものを選択させられている。
改めてそう感じずにはいられませんでした。

東京電力や鹿島建設、松村組、東芝、日立などの企業がタッグを組んで汚染除去や廃炉に向けて様々な取り組みを行っていることを頼もしく思うと同時に、廃炉作業でさえ、そうした超大手企業の「商売」の種になっていかざるを得ない「現実」に、いささかならずうんざりさせられます。

こんなことが起こっても、それをきちんと商売にしつつ、原発再稼働を真剣に主張する東電復興本社というのは、どういう存在なのでしょうか。

まあ、廃炉作業は不可避でしょう。しかし、レクチャーでも話がありましたが、東京電力福島第一原子力発電所は、たまたま免震棟が完成していたし、たまたま敷地が広大だったし、偶然の条件があって、現況があるわけです。

もし、別の場所でこんな事態が起こったら?

と考えたとき、私たちはこの事故からどんな教訓を導き出すべきなのかは、自ずと答えは出てくるように思われます。

悪いことは言わないから原発は止めておけ、そう改めて感じました。

と同時に、この廃炉作業を完遂するための環境づくりについては、私たちが皆で考えていかねばならないことでもある、とも強く思います。
国や東電、ゼネコンや原発メーカーだけに任せていてはいけない。

安心して忘却するのではなく、見つめ続けて注文も出していかねばならない。

そういう意味で、視察は継続されていくという話なので、またいずれ見に行こうと思います。

今回視察を企画してくれたAWFの吉川さんには感謝しつつ、みなさんもぜひ、自分の目で廃炉の状況を見て、直接説明を受けることをお薦めします。



福島第一原発視察(その3)

2016年04月25日 22時20分13秒 | 大震災の中で
富岡、大熊とバスで国道6号線を北上していくと、東電の広報センター(エネルギー館という名前だったか)や、十勝ラーメン(これは当時のまま)、TOMTOM(地元のショッピングセンター)など
、かつて訪れたことのある建物に再会した。複雑な気持ちになる。

帰還できないところは、道路以外は封鎖されているので、入り口にはこのような柵が立てられている。(どれも写真はクリックすると拡大表示できます)


当時に、除染した汚染土の置き場も目立ってくる。


途中こんな看板も。ここからは徒歩や二輪車では入れない。


6号線を走っていると二カ所に線量表示の箇所があった。

富岡町では2.9μS/h(バスの中は0.9μS/h)
大熊町では3.4μS/h(バスの中は1.1μs/h)

ちなみに、第一原子力発電所に向かって右折していく6号線の交差点では5.4μs/hぐらいあるようだ、とのアナウンス。そこから先の発電所に向かう道路には、8μs/hぐらいになるホットスポットもあるという。

ところが、第一原子力発電所の構内は、線量がコントロールされている。所内の放射線モニタは
0.9μs/hを表示していた。



構内に入ると、作業員の人は普通の作業衣で、マスクもなく歩いている。初めて視察してこんなことも言うのもなんだが、廃炉に向けて作業環境は劇的に改善されているといっていいだろう。
帰ってきてから視察の様子を知人に話すと、「あの白い服を着たの?」とか「前面防護マスクをしたんだ」とか聞かれるから、みんなもそんなイメージなのだろう。

実際は、本当にコントロールされている(もちろんあくまで人が動いて働くところは、ということであって、放射能自体がどこかに消えたのではなく、放射線量が低く抑えられた環境になったということです)。

斜面はこのようにモルタルで覆われている。



また、切り倒された立木はこのように積まれている。



放射性廃棄物は、コンクリートの箱に詰められて野積み。




福島第一原発視察(その2)

2016年04月22日 22時32分29秒 | 大震災の中で
出発前に簡単な説明を受けた。
私は事前に
AWFの吉川さんの廃炉についてのレクチャーを受けていたので、だいたい同内容だったが気になるポイントがいくつかあった。

1、トリチウム汚染水をいつ海に流すのか

2、地下水と格納容器の圧力の均衡をどう保つか。


1については、その方向だ、という意味の説明があった(検討中、という程度かな正確には)。
今回の視察での説明とは別に、こんな記事もある。

毎日新聞2016.4.19「福島・汚染水 海洋放出が最も短期間で低コスト」

http://mainichi.jp/articles/20160419/k00/00m/040/134000c

現在の技術では、水をフィルターにかけるとトリチウム以外の核種は除去できるのだそうだ。
だが、トリチウム(三重水素)は、除去可能だがきわめて高コスト。となれば、そのまま(海は広いから結果としては薄めて、ということになるが)海に放出するのが低コストってわけだ。
小学生でも分かる理屈だ。

結局そうなるのか、と思う。

たしかに、メルトダウンを起こした東京電力福島第一原子力発電所の敷地内は今驚くほど空間線量は低くなっている。福島県内のTVニュースで毎日流れる第一原発脇の港湾内の放射線量は多くが検出限界以下だったりもする。
なるほど、徹底的に人工環境を作り上げて、地上でも海底でも、埃一つ舞い上がらないようにすれば、結果として空間(水中も)線量は劇的に低下するに違いない。

しかしそれは、徹底的にコンクリートやアスファルト、モルタルなどで斜面や道路、あるいは海底を覆い尽くした結果にすぎないだろう。

それ以外のところは、相変わらず高線量だし、廃棄物はどんどん敷地内に溜め込まれたままだ。

さて、今後いつトリチウム汚染水を海に流すという方針が出されるのか、興味深いところだ。

2,については注意深く内部の水位が地下水の水位を上回らないようにコントロールしていく、という説明があった。
遮蔽すればよいというものではないとすると、その自然相手のさじ加減はけっこう難しいのではないか、とも思うが、このあたりも今後きちんと注目しておきたいところである。



福島第一原発視察(その1)

2016年04月22日 21時45分22秒 | 大震災の中で
東京電力福島第一原子力発電所の視察にいってきた(2016.4.21)。
その写真とメモをアップしていく。

その1(もうすぐJヴィレッジは復興の拠点としての役割を終了するのだそうだ)

12:00Jヴィレッジに到着。


いわき市から高速道路を使うと40分ぐらいか。
ここで簡単な事前説明を受けてからバスに乗って福島第一へ。

Jヴィレッジは楢葉町にあるので、

楢葉町→富岡町→大熊町(一部双葉町)

の順番でバスは第一原発へ向かう。

Jヴィレッジは元々サッカーのトレーニングセンターとして東電が地元に提供したものだが、この5年間原発事故対応の拠点となってきた。
最近ようやく復興本社機能が富岡町に一部移転。Jヴィレッジ自体も、来年までには元のグランドに整地して地元に返還されるという。

ここを出るとすぐ、見えてくるのがこの遠隔技術開発センター


ここには原子炉格納容器と同寸の模型が置かれていて、ロボットの遠隔操作による作業のための開発が行われるのだという。ハイテク!

国道6号線に出るところに、楢葉町の仮設商店街「ここなら商店」がある。役場の駐車場に設定されている。この日は行けなかったが、訪れてみたい。



これは富岡町に3月31日オープンされたセブンイレブン。

ちなみに写真にはないが、当日楢葉町に東邦銀行の店舗営業が5年ぶりに再開された、という脇をバスで通過した。
どちらも良かった、というべきなのだろうが、まだまだ銀行再開やコンビニ開店が話題となる状況だ、ということでもある。

帰還できるようになった楢葉町で帰還率は約6%だという。富岡町は避難指示解除準備区域/居住制限区域/帰還困難区域と町が3つに分かれている。これもまた苦しい状況だ。

帰還困難区域/居住制限区域/避難指示介助準備区域の区別はこちらを参照のこと

http://www.minyu-net.com/osusume/daisinsai/saihen.html


☆福島第一原子力発電所に着くまでのバスの中での感想。

広野町→楢葉町は、もうある意味で普通に生活を始めている区域である。
昨年試験作付けをした米からもセシウムは検出されていない。
一方で、帰還者の数はまだまだ、だ。

ふるさとに帰ることについてもいろいろな考え方や選択があるのでそれをどうこういうことは出来ないが、正直なところ、以前のままの町、あるいは以前の規模の町、を再現するのは難しいのだろうな、という印象を抱く。

後述するが、廃炉の完了までには数十年単位で時間が必要だ。

それを見通した上でどんな人たちがどんな形で改めてコミュニティを作っていくのか。

楢葉町にも診療所がオープンしたし、富岡町にもスーパーが今年再開予定だという。



新たな町づくりを注目していきたい。




写真は当日同行した「一般社団法人AFW」からの提供(以下視察記事の写真は同様)。


「負け戦」スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(『世界』3月号)を読んだ。

2016年03月04日 13時58分46秒 | 大震災の中で
雑誌「世界」2016年3月号に掲載されている

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『負け戦』という文章を読んだ。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチは『戦争は女の顔をしていない』、『チェルノブイリの祈り』の著者で、2015年ノーベル文学賞を受賞したのだが、この「負け戦」という文章は、ストックホルムで行われたその受賞記念講演の原稿である。

題名は、本人が公演中に言及している、迫害を受けつつ活動を続けたワルラム・シャラーモフというソ連の作家の言葉

「私は、人類を本当に変革しようという闘い、大いなる負け戦に参戦していた」

から取ったものだろう。20世紀に知識人を引きつけて止まなかった「共産主義」の下で起こった戦争と原発事故と向き合いつつ、庶民の生活の中から聞こえてくる声に耳を澄ませる「耳の人」としての自分が、作品群を一つの本として書き上げた過程について言及している。

「フローベールは自分のことを「ペンの人」といっていたそうですが、それなら私は「耳の人」といえるでしょう」(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ)

「赤い帝国」の中で人々が戦争にかり出され、その後帰郷してから沈黙をしいられていった女性たちの声にならないつぶやきに耳を澄ませ、またチェルノブイリ原発事故後の人々が抱えていく苦しみに寄り添いつつ、「負け戦」という言葉を単なる自嘲ではなく、本来勝つべき闘いだという意味としてでもなく、「小さな人」たちが生きていくその人生における愛を(困難とともに)指し示していく筆者の仕事は、とても貴重なものだと感じます。

同僚としゃべったら、彼は「これは『ノーベル文学賞』というより『ノーベル平和賞』じゃない?」と言ってました。なるほど、と思うと同時に、書き手自身がこんなことを言っているのも印象に残った。

「アドルノは『アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である』と書きました。私の師であるアレシ・アダモヴィチもまた二〇世紀の悪夢について小説を書くことは冒涜だと考えていんました。作り事はできない、真実をあるがままに提供するしかない、『超文学』が必要だ、証人が自ら語らなければならない、と。

個人的な思いと重ねていえば、福島の原発事故以後五年をくぐり抜けた小説が読みたい、と切実に感じる。詩は和合亮一が書いてくれた。誰か小説をかいてほしい、と感じる。
先日、天童荒太が福島の津波以後を描いた小説を読んだ(『ムーンナイト・ダイバー』)。これはこれで面白かった。しかし、私が読みたい小説ではなかった(これは書き手天童荒太の側の問題ではなくあくまで読み手=私の側の問題です)。

私が求めているのはいわゆる小説ではないのかもしれない、と彼女のこの講演記録を読んで、思い始めている。

さて、ではどうしよう。
震災・原発事故から五年。「では自分はどうする?」という問いが、人の営みを眺めていると頭の中に響いてくる。この人はこんな風に仕事をしている、ではお前はどうするつもりなのか?と。

「負け戦」という立派な抵抗にもなっていないが、勝ちいにいく「強い国」や政治ではない側の声を聴くところから繰り返していくよりほかにないのだろう。

とにかく、この講演、お勧めです。


「暮らしの視点で学ぶ『福島第一原発廃炉の状況』」に参加した。

2016年02月27日 10時03分02秒 | 大震災の中で
2016年2月25日(木)いわき市湯本で開催された

吉川彰浩さんによる「暮らしの視点で学ぶ『福島第一原発廃炉の状況』

に参加してきた。
大変参考になった。いろいろとこれから考えていくべき課題をもらった。

以下はその簡単なメモである。吉川さんにお話を伺ったわけだが、内容については私が理解した範囲のこととそれについての感想をメモしちるので、間違いがあればもちろん全て筆者の責任です。意見も全て私のものです。あしからず。

<1>汚染水対策ついて
最近(2015年秋)、トレンチにコンクリートを流し込み埋め立てて止水するという工事が終了した。

これは4年かかった。今までの汚染水対策作業としては

A汚染源に水を近づけない
B汚染水を漏らさない
C汚染源を取り除く

が三本柱(詳細は文末を参照)。

大きなポイントは、なんといっても地下水の流入が汚染水増加の原因。
これが止まらないと汚染水タンクも増え続ける。

ちなみに、1の山側の地下水バイパス汲み上げは100立方メートル/日。

全体の地下水量は400立方メートル/日だから、3/4が下(原子炉建て屋側)に来ていることになる。

汚染水タンクは1つ当たり1000立方メートル~1200メートルだから、数日(実際には2.5日~3日ぐらい)で1本分がたまる勘定になる。

凍土壁は、完成したがまだ稼働していない。これが有効かどうかはまだ不明。
これから数ヶ月先までかかる。

問題は、汚染水タンクを減らせないこと。2016年1月現在で役76万トンの汚染水がある。25mプール1500個分。

もし凍土壁が完成し、効果があれば、80万トンレベルのタンクがあれば足りる。

上にも書いたが、処理済み水は62核種を除去し、残っているのはトリチウムが数百Bq/L程度。トリチウムは三重水素。ミリタリーウォッチの蛍光塗料などに利用されたりもしている。自然界にも存在する。たとえば海水中には数Bq/L程度の濃度。百倍といえば百倍だが、毒性が少ない放射性核種ではある。

トリチウムは、原子炉を運転すると必ず生じてくるもので、震災前の基準では、
年間22兆Bqの放出が認められている。沸騰水型か加圧水型かで放出基準もことなり、50兆Bq/年の排出が認められている原子炉もあり、安全基準というより、運転する上で不可避の排出を認めているというに過ぎない。

仮に年間22兆ベクレルという基準を今の処理済み水の海洋放出に当てはめると、100年ほどかかる計算になり、現実的ではない。

ちなみに、六ヶ所村の施設では、年間京(けい)レベルの排出基準となっており、現状ではとりあえず処理済み水をためていくしかない。

さらにトリチウムを除去して低濃度にする技術は存在するが、コストがかかりすぎて非現実的。

「汚染水問題は出口がないのが問題であり、トータルシステムを確立せよ」

というのが規制委員会の考え方。

国が高レベル廃棄物と呼んでいるのは燃料のみ。それ以外は全て「低レベル廃棄物」と呼ばれる。だから低レベル廃棄物ということと、汚染度は別。幅が大きい。

<2>廃炉について

廃炉とは?
ゴミ問題の認識だが、まだ先が見えていない段階。

原型をとどめていないのは1,2,4号機。
燃料がまだ中にあるのは1,2,3号機。
この1~3号機の溶け落ちた燃料にたいしては、1つの炉当たり、1時間に家庭のお風呂3杯程度の水を入れているだけである。
1~3号機に残っている使用済み燃料(取り出してあるもの)は、水が止まっても沸騰するまでに120日かかる。心配はない。水に漬けてあるのは冷却の意味もあるがむしろ放射線遮蔽のため。

汚染水のメドがついてくると、これからようやく炉内の燃料取りだしに取り組むことになる。
今でもガレキ撤去は遠隔操作(PSPのコントローラのようなもの)で行っている。おそらく廃炉作業もそういう作業になるだろう。ゆっくりやるしかない。

ちなみに、同席した作業員の人は1日0.03msvの被爆量だという。30μSv/dayということ。これは、震災前と比較しても妥当な水準になってきた。

吉川さん自身、18歳~35歳まで放射線従事者として東京電力に勤めていたが、0.8mSV/monthが基準だった。年間10mSV以下ということ。

今は、発電所入り口では特に装備は要らない。普通の格好で入れるようになった。
これはフェイシング(表土のはぎ取りと舗装)の効果が大きい
元々雨水対策だったが、ほこり抑制と除染効果があった。

廃炉と共存する地盤が出来てきたところ。

まだ、現在の周辺海域でも 10Bq/L未満の値になってきた。これはWHOの飲料水基準まで改善した、ということ。大気中の飛散も押さえられている。

だからといってまだ処理済み水を流していいということにはならない。

現在、40代~50代の人が作業員には多いが、若い人も増えている。
事故現場から、働く場所になりつつある。
ということは、ここから廃炉を数十年スパンで考えていかなければならない。
10年間で税金の投入は2兆円と言われる。

事故直後は命がけだから給与が高かったのは当然。
だが、これからは原子力だからそれだけで給与が高いということにはなっていかないだろう。
もちろん、発電所内にはコンビニもできたし、食堂もできたが、缶コーヒーの自販機一つ存在しない。

所内で出たゴミは汚染された廃棄物扱いになるから!

むしろこれから給与水準は下げていくべきだろう。
今は原子力発電所内に7000人規模、除染で20000人規模の雇用があるが、タンクの増設がなくなり、線量低下が継続していけば、この雇用は早晩終わる。
土木工事や建築工事の出番は減り、3DのVR(バーチャルリアリティ)で内部操作をする作業になる。

求められる人材は、空間認知力があって、その3DVRシミュレーションが理解出来、かつ建て屋内部のことが分かっている人が求められていくだろう。

給与をむやみに高くするのではなく、むしろその仕事に対する尊敬が必要になるだろう。
40年回していける仕組み、ということだ。
そうなれば、地域に被雇用者も家族で定着し、廃炉と地域がリンクしていくし、そうでなければならない(吉川さんの考え方)。だから、まず廃炉に向けての現状を知ってもらうことが重要だ、というお話でした。

最後に、経産省から先週あたり、「燃料を取り出さないオプション」」についても考える余地があるのではないか、という考えが出されてきた、との指摘があった。膨大な資金をかけて燃料を取り出すのはいいが、果たしてそれが現実にできるのかどうかも分からない。そしてそれをその先どう処理するのか皆目分からないなかでは、実は取り出さないという選択肢も合理的に考えていくと「あり」なのかもしれないというお話は、考えさせられた。
だがもちろん、今それを声高に言い立てることは東電でも経産省でも、あるいは私たちでもできるはずがない。

廃炉は本当に一般的なイメージでいえば、更地に戻してほしいという理想があるだろう。
しかし、現実には更地にもどして何事もなかった、というところまでたどり着ける道筋は全くついていない。
だとすれば、現状をまずよく知って、その上でどう向き合うかを考える必要があるだろう、という吉川さんの指摘は厳しく重いが、正面から受け止めるべき言葉だと感じた。

もちろん、そのことが、東電や国の責任を見逃すことになってはならないと思う。
そのことはきちんと厳しく追及していくべきだし、個人的には原発の再稼働など
沙汰の限りだと思っている。


だが、廃炉という困難きわまりない(道筋のみえない)現実と向き合うことも、福島県に住む者として避けがたいことだ。
そしてもちろん、それは福島県以外に住む人々にとっても、正面から向き合うべきリアルなのだと思うが、それを発信していくことはとても難しい作業になるだろう。

自分に何ができるか。どう考え行動していくのか。久しぶりにじっくり考える機会を与えてもらった。吉川さんの活動に感謝と敬意を抱く。

とりあえず以上。

汚染水対策主要9項目---------(開始)------------------------------

A汚染源に水を近づけない

1,地下水バイパスによる地下水汲み上げ
(山側に穴を掘って、地下水があがってくるようにする設備)

2,建て屋周辺での井戸の汲み上げ
 (地盤が軟弱化防止のため以前から設置されていた。今は原子炉建て屋と周辺施設を繋いでいた配管のシールが津波と地震で壊れ、そこから地下水がどんどん流入しつづけているため、その水を少なくするために井戸で汲み上げ続けている)

3凍土方式の陸側遮蔽壁
 (これは原子炉建て屋周辺を1500mにわたってぐるりと一周させ、地下30mまで氷の壁で覆って地下水を遮断するもの。完成はしたが稼働はまだ。効果は未知数。ただし、これがうまくいけば地下水流入は圧倒的にすくなくなり、タンク増設などの建設は不要になる)

4,雨水の土壌浸透を防ぐ表面舗装
(施設内の地面や斜面に施工。これは結果としてほこりが立つのを防ぎ、結果としては除染効果も高かった)


B汚染源を漏らさない

5,水ガラスによる地盤改良

6,海側遮水壁
最大地下20mまで鋼板を埋設する、海側からも見えるおなじみの壁。

7,タンクの増設
(ボルト締めのタンクから汚染水漏れが起こったため、溶接型へリプレースした)

C汚染源を取り除く
8多核種除去設備による汚染水浄化
(キュリオンとサリーはセシウムを、アルプスはストロンチウムを除去)
☆残っている処理水には、トリチウムのみがある。濃度は数百Bq/l程度。
 トリチウムはいわゆる三重水素。自然界(たとえば海)に大量に存在し、放射性物質としては影響が小さいもの。これをさらに除去することはできるが、現状ではコストが膨大にかかる。

9トレンチ内の汚染水除去
(トレンチとは、配管などが入っている地下トンネル。配管と建て屋の間はシールしてあったが、地震と津波でそこが壊れたり隙間ができ、汚染水が出てくることになって、トレンチ内に高濃度汚染水がたまることになった)

汚染水対策主要9項目---------(終了)------------------------------




『女は戦争の顔をしていない』スベトラーナ・アクレシエーヴィチ(岩波現代文庫)を読み出した。

2016年02月19日 10時56分11秒 | 大震災の中で

読むべし。

第二次世界大戦中ソ連では100万人をこえる女性が従軍し、看護婦や軍医ばかりではなく兵士として武器を手にして戦った。しかし、戦後は従軍の体験を(女性たちは特に)ひた隠しにしなければならなかった。その従軍女性からの聞き書きの本である。



『戦争は女の顔をしていない』スヴェトラーナ・アクレシエーヴィチ(岩波現代文庫)


を読み出した。
こういう重い主題の本は苦手だ。読まなくてはならないという思いはある。正面から考えかつ語るために必須の「修行」だと考えもするのだが、読んでいて心がおれやすい。

実際、私は『はだしのゲン』も読み通せない軟弱モノである。

だが、この本は違う。一ページ目を開いた時から「聴き手」=「語り手」の息づかいが感じられ、読者として一瞬でこのテキストの誘いに身を委ねてみよう、という気持ちになれる。

とりあえず前書きに相当する「人間は戦争よりずっと大きい」の、

「人間は年をとってくると、今まで生きてきたことは受け入れて、去っていくときの準備をしようとする。ただ、誰にも気づかれずに消えていってしまうなんてあまりに悔しい。何事もなしにそのまま消えていくなんて。過去を振り返ると、ただ語るだけではなく、ことの本質に迫りたくなってくる。何のために、こんな事が自分たちの身に起きたのかという問いに答えを見つけたくなる。すべてをある意味では許しの気持ちで、そして悲しみをもって振り返る。死のことを思わずには人間の心の中のことは何も見えない。死の神秘こそがすべての上にある。」P9

たとえばこんな部分にも惹かれてしまう。むろん、こういう警句的な表現だけが重要なわけではない。

この文章の最も重要なポイントの一つは、「書き手=聴き手」が「語り手」に寄り添うその姿勢にある。

「男たちは歴史の陰に、事実の陰に、身を隠す。戦争で彼らの関心を惹くのは、行為であり、思想や様々な利害の対立だが、女たちは気持ちに支えられて立ち上がる。女たちは男には見えないものを見いだす力がある」P13

思わず本を手に取ったら手放せなくなってしまった。

鎮魂歌(友人 白石昭二を送る)

2016年01月30日 10時30分03秒 | 大震災の中で
私は知っている
いつも一緒に酒を飲み、チャットをし、技術を、ネットを、そして政治を論じていたときのあなたの生き生きした表情とその声を

私は知らない
あなたが本当はどれほどすばらしい仕事をしていたのかを

私は知っている
酒を飲むとかならず「そうじゃないんですよ」と異論を唱え、いつも古い慣習や法律、全ての自由を縛るものに毛を逆立てて怒る小動物のようなあなたの瞳を

私は知らない
吾妻山に登ってはどんな花や草を愛で、どんな風景をその目に焼き付けていたのかを

私は知っている
仲間からどんなに止められてもお酒を飲み続け、酔って正体を失ってもまた復活すると飲み始めるその姿を


私は知らなかった
去年の夏、最後に飲んだとき、体がそんなに悪くなっていたことを
いつもの元気がないことは感じていたはずなのに

私は知っている
キャンプにいくと海や川の岸辺に陣どって、その風貌ゆえに「地獄博士」と囃されながら、ずっと子どもたちと遊んでいたときのあなたの微笑みを

私は知らない
いつもたった一人で務所でお酒を飲みがらどんなことを考えていたのかを

私は知っている
大手の難しい仕事を受けてはその腕一本で仕事を軽々とこなし、らっきょうのように秀でたおでこの奥に、私たちには想像もつかない宝石が詰まっていたことを

私は知らない
あなたが誰を愛し、誰を憎んだかを。

私は知っている
あなたがどんな愚かさを憎み、どんな純粋さを愛したかを

私は知らない
あなたは自分について何も語らなかったから

だから私たちは知らなかった
あなたがこんな風に病気で入院していることさえ

私は知っている
病室で一人、死と向き合いながらなおも、私が握った右手をそれ以上に強く握り返してきたその力強さを

私は知らない
あなたが孤独な病室でどんなことを思い、何を願っていたかを

私は知っている
納棺の時化粧をしてもらったその顔が、まるで全てを見通し、この世とあの世を繋ぐ場所に立つ能の翁面(おきなめん)のようだったことを

私たちは知っている
小さな奥まった瞳の奥にいつも輝いている、知性と皮肉と純粋がブレンドされたまるで哲学者のように世界を愛するその精神が、いまこの世界に愛されつづけていることを。

私は知っている
元気になったら、自宅に無線のアンテナを大きな竹で建てたいともくろんでいたことを

私は知っている
私はもしかすると、あなただったかもしれない

私は知っている
あなたはあるいは私たちだったかもしれない

私は知らない
どうしてあなたが真っ先に、神に愛されなければならなかったかを

私たちは知っている
最後の一人がこの世を去り、もう一度全員が向こう側で会うことになるまで、あなたは私たちの記憶の中に生き続けることを




ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』が読めるようになったこと(続き)

2016年01月16日 23時05分15秒 | 大震災の中で
ドゥルーズのスピノザ論は、平凡社の文庫で
『スピノザ 実践の哲学』を10年ぐらい前に読んでいた。
その後、國分功一郎氏の『スピノザの方法論』を読み、さらにスピノザ講座(朝日カルチャー新宿校 全12回)を受講して、おおよその 「当たり」はついてきたのだけれど、なかなか
『スピノザと表現の問題』
は読めなかった。
ある種のテキスト(特に哲学哲学の本)は、文字を追っていくことは出来るのに、小気味良いほど意味が分からないという経験を強いてくることがある。
私にとってはこの本もそうだった。とにかくなにがいいたいのか分からないのだからしょうがない。

だが、ようやくここでドゥルーズがいう 「スピノザの表現」の意味が少し分かってきた。たとえば次のような文章。

P88 「神の本質を構成するこれらの諸属性を内含する諸様態は神的な力を 『説明したり』あるいは 『表現する』といわれる。諸事物を唯一の実体の諸様態に還元することは、ライプニッツが信じ、あるいは信じるようなふりをしたように、これらを仮象あるいは幻影とする手段ではない。むしろ逆にスピノザによればそれらを能力あるいは力を与えられた 『自然的な』存在者とする唯一の手段である。」

ここには、具体的に生命を持って生きている生物たちのリアルを、 「環境世界=自然」の中に生きる 「十全な存在」として受け止めるという、 「存在が力を持って変化し続ける様相」を、スピノザの哲学が肯定しているのだ、という 「具体的な」ジル・ドゥルーズの主張が明確に示されている。

それをようや受け止められるようになってきた。

スピノザ→ドゥルーズ→國分功一郎

という 「連鎖」の中で、適切にスピノザの哲学における 「真理に触れている」と感じられるようになった。

理解する、というのはある面ではこういうことなのだろう。

もちろんそれは幾分かは 私自身における、スピノザの 「スピノザ的=私的」理解なのであって、その内観的な理解は、
「しょせん 『私』の内面のさじ加減に過ぎない」
という批判をとりあえずば免れない。だが、おそらくもはや私はその懐疑にたじろぐことはないだろう。

きっと、スピノザ的世界像について論じきるためにドゥルーズは(ここではライプニッツと比較しつつ) 「表現」という言葉を立てたわけだし、國分功一郎は 「方法」という切り口を示したのだろう、と腑に落ちてきた(『スピノザの方法』ではデカルトと比較して論じている)、ということでもあるのかな。

結局その哲学は、その叙述においてはじめて示される、という 「当たり前」のことになるのだが。

私は60歳を目前にしてなお、哲学テキストを さえ「文学」として読むことしかできなかった、ということになるのだろうか。そうなのかもしれない。そうではないのかもしれない。

その答えを出すためには、おそらくこうやってブログやSNSに書いているだけでは足りない。
今の私と今の世界とに同時に響き合うテキスト=運動が、どうしても必要だ。

無論極めて私的な話だが、かなり面倒な、つまりはおもしろいことになってきたということか。



ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』がようやく読める

2016年01月11日 20時38分14秒 | 大震災の中で
スピノザと出会って10年。
上野修のスピノザ本を読み、ドゥルーズの『スピノザ 実践の哲学』に触れ、スピノザのテキストを通読してから5年。
この『スピノザと表現の問題』という本を開く度に、皆目分からないまま討ち死にしてきた。
國分功一郎『スピノザの方法』を読み、一年間の講座を受講してようやく『エチカ』の下巻は身近になってきたけれど、それでも『スピノザと表現の問題』は読めなかった。

それが、昨秋リリースされた日本語版『アベセデール』(ジル・ドゥルーズインタビュー)を一通り観てからお正月にもう一度この本を開いてみたところ、これがなんと読める感じがしてきたのだから正直びっくりした。

当然のことながら私にこのテキストの哲学的読解ができるはずはない。
そういうことではない。

だが、

実体(神)→属性(思惟と延長)→様態(事物、たとえば人間とか?)

という哲学的な基本さっぱり分からない概念がなぜこのようにもちいられているのか、が、國分さんの講義とドゥルーズのインタビューを脇に置きながら考えていくと、ぼんやりながらスピノザの「世界」と捉え方というか、

國分→ドゥルーズ→スピノザ

という道筋がおぼろげながら見えてきた感じがする。何が分かったというわけではなく、全くたどれなかったものが、こっちの方かもしれない、と道の端緒が見え始めたぐらい。でも幸せな夜だ。

この第一部で述べられている「無限」についての議論をもう少しきちんと理解できればもうちょっとクリアに理解できるのではないかという感触。

原稿の締切から逃避すると、本気で本が読める、といういつものことではあるけれど。


國分功一郎 「無人島をどう生きるか」

2016年01月01日 10時16分10秒 | 大震災の中で
幻冬舎のサイトに國分功一郎氏が寄稿している文章。
「無人島をどう生きるか」

http://www.gentosha.jp/articles/-/4729

いわゆる 「想像力」について考えるために必読。
また、ジル・ドゥルーズの対談 「アベセデール」の補助線というか実践編としても読める。
同時に私にとって、今のこの政治状況について考える橋頭堡の一つにもなる一文です。

栗原康『現代暴力論』角川新書が最高だ!

2015年11月30日 20時24分01秒 | 大震災の中で
栗原康『現代暴力論 「あばれる」力を取り戻す』角川新書

を読んだ。圧倒的に面白い。基本は彼の著書『大杉栄伝』をベースにしながら、そのアナーキズムがどのようなものか、そこに込められた意味を分かりやすく説いてくれる。

ここで問われているのは何よりもまず、国家による人間への暴力の理不尽さだ。
ニーチェやスピノザを彷彿とさせる(とか考えるのは私だけか?)。

国家に隷属することは「生きること」とは違う、奴隷状態でいるということは、ただ「生き延びているだけだ」「SurviveではなくLiveをつかめ!!」というアジは、今日だからこそ心に響く。

開沼氏の数字にモノを言わせる姿勢が櫻井よしこと結びついたとき、どんな絶望的な状況の「肯定」が起こるのかを、血が沸騰するほどのリアリティで示してくれている、といっていいだろう。

出てくるのは幸徳秋水、バクーニン、大杉栄、はだしのゲンなどなど。

国家の収奪システムとしての「暴力」に私たちはどうやって対抗していくのか。

アナーキズムとテロとはちょっとツボが違うのだが、筆者は「私はテロに賛成しません」なんぞという間抜けな話はしていない(笑)。

そうはいってももちろん、テロ礼賛なんぞとはもっと遠いところにある話だ。

とにかく、この2015年の年末にたった一冊読むとしたら勧めて置きたいのがこれ。


下は『現代暴力論』の出版記念トークです。

気分はもう、焼き打ち——栗原康×白井聡対談【前篇】
https://cakes.mu/posts/11519



「福島」でモノを考えることの難しさ。

2015年11月29日 23時40分00秒 | 大震災の中で
このYouTubeの話を聞いた。

毎日メディアカフェ「福島の今を知る」2015年11月26日配信

社会学者・開沼博
南相馬市立総合病院医師・坪倉正治
エイトビットニュース(元NHK)・堀潤

https://www.youtube.com/watch?v=tmK070eKdpY

なるほどそうだよなあ、と思う。
とくに、坪倉氏の嘆きには共感した。
開沼氏のプレゼンの仕方は相変わらず嫌味な「語り」だなあ、とは思うけれど、

「基本的な数字ぐらい押さえておけよ、オラオラ」

という「挑発」は、必要でもあるのだろう、と感じる。フクシマのセシウム、無知な者たちががたがた言うほど大変じゃないぜ、フクシマの課題の中心はそんなことにはない!という声が伝わってくる。なるほどと思うものの、どこかで何かが足りない、と口ごもりながら思ってしまう。彼らが口ごもらせたい者たちを口ごもらせるのはそれでいいのかもしれない。だが、開沼坪倉両氏の言葉たちは、口ごもってはならない者たちの言葉をも奪っていくのではないか。そういう思いは消えない。
いや、私のようなものはそれでも平気で言いたいことは言うから、ご心配には及ばない(笑)。そうではない人たちの声が聞こえなくなりはしないか、ということだ。

フクシマから遠く離れたところでフクシマのセシウム汚染を「メシウマ」の種にしている「輩(やから)」を叩くのはそれでいいし、フクシマの中にあって意味なく怯えている人の「愚かさ」を啓蒙する意義も大きいのだろう。しかし、言葉はそれだけの意味を持てばいい、というものでもない。


一方、今月知人から『駱駝の瘤 通信10』という雑誌が届いた。
ここには、原発事故とその被害を真正面から論じ続けてきた書き手たちの、4年半の蓄積が詰まった充実の論文や作品が並んでいる。
福島県について考えるならば、外すことのできない1冊だと思う。

その中で、

評論 農をつづけながら2015秋 五十嵐進
評論 これは人間の国か、フクシマの明日4 秋沢陽吉
評論 原発小説論(五) 澤 正宏

の三本が特に重要だと感じる。

五十嵐氏の言うポイントは大きく二つ。
1つは環境リスク学の第一人者中西準子の示す「帰還基準」年間5mSV以下という基準に対する疑問である。五十嵐氏はそれに対してこう疑問を示す。

「中西先生が『なるべく早く帰れるような条件と根拠を探』って『年五ミリSV』なら、として具体的な数字を示しました。被災者一人一人が今後の人生を決めて行くことを念頭に考えた、といいます。だが、これだと結局、政府の相双地区の原発被災者早期帰還促進政策に与するのではないか、と思ってしまいます。」

中西準子の発言は読んでいた。まあ、中西さんらしい発話だなあ、とは感じ、なるほど、と思う半面、何か腑に落ちないところも感じていた。五十嵐氏の指摘はそこをクリアにしてくれた。

開沼氏、坪倉氏もそうなのだが、中西氏の言葉も、政治的な意図を「結果」として持ってしまうのではないか、という危惧を抱く。

もちろん、正直な話、三氏の話に納得している自分もいるのだ。

だから、問題は彼らの分析や判断それ自体にあるのではないと思う。

言葉が政治的な「意味」を持ってしまうフクシマを巡る言説空間に対する態度が、「政治的な部分に触れない」という語らない身振りの中にその「政治性」が示されてしまっているのではないか?

その疑問を五十嵐氏は指摘してくれている。

五十嵐氏の言う二つ目のポイントは、「俳句新空間」NO4に掲載された花尻万博という人の「鬼」という俳句についての批評だ。「俳人の定型意識を超越する句」というテーマを体した、というその句に、五十嵐氏は全く惹かれない、というのだ。
俳句の解釈自体は私の任ではないが、五十嵐氏の求める思い、

「今この時代を見極めながら今を生きる自分の呼吸をまさぐること」

からすれば、「わが身に添うリアリティの匕首ではない」という批評に納得する。

そう、私たちは、開沼氏や坪倉氏、中西氏の示す数字や現状「だけ」を生きているわけではないのだ。彼らは彼らの仕事をしているのだろう。それは分かる。そしてそれが必要だということも分かる。
だが、五十嵐氏も言うように、それが結果として「政治的」言説に回収されていくことに対して、十分に「戦略的」なのかどうか、疑問が残るということだ。

他方、それではその「政治的な言説の空間」に対抗できるのは、文学的な言説なのか、という疑問も残る。

その点については、次の秋沢陽吉の評論が、ネガとしての「批評」の意義を示している。
内容は端的にえば吉本隆明批判だ。『反核「異論」』を唱え続けた吉本隆明の姿勢を追いつつ、欠けていたものを
『福島の原発事故をめぐって』(山本義隆2011年11月)の論を引用しつつ分析している。その原発が抱える問題点を踏まえて、秋沢は吉本をこう批判する。


「原発を政治とは関わりのない場所に置き、中立的な文明史と科学技術の本質からして必然だとしたとき、日本の原発の現状が全て肯定された。つまりは、原発が生み出す電機による便利な生活すなわち現代日本文明と資本主義の現状肯定いや礼賛する立場にたった。」

五十嵐氏と秋沢氏が指摘するのは、結果として「科学」と「政治」を分離することによって、その「空白」が政治的な結果をもたらすにもかかわらず、むしろその分離によって政治を自分の視野から排除してしまっているのではないか、という点だ。

私はエチカ福島という企画の中で、原発事故以後の福島について考えてきたが、そこでまず感じたのは、福島における「無数の分断」の存在だった。被災された方々が、それゆえに様々な分断線を人と人との間に、あるいは自分自身の中にさえ抱え込みながら生きなければならない困難がそこにある、と感じた。

4年半が過ぎ、今ここにあるのは、その分断線が分断線のまま繋がりだし、「政治」を巡って大きな溝を作り出しつつあるのではないか、という疑問だ。

開沼・坪倉両氏も、五十嵐・秋沢両氏も、福島の中にあって、福島のこの現実をリアルに感じながら思考を続け、活動を続けているリスペクトすべき福島の知性だと私は個人的に感じている。

だが、そこにもまた落としどころのない裂け目を、しかも無数の小さなそれではなく、大きく口を開けてこちらに迫ってくるような「空白」の裂け目を感じずにはいられない。

さてではどうすればいいのか。

そのためには3つめの澤正宏氏の評論を巡ってもう少し考えなければならないが、それはまた後日。


P.S.
これを書いた翌日、開沼博が櫻井よしこの講演(12/20広野町)をコーディネートするというポスターがFacebookに上がっていた。
そうか、なるほどね、と思う。

これからは安心して戦えるというものだ。