龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

プロの言葉の凄みを感じる

2009年12月28日 20時38分27秒 | 教育
 2009年12月27日・28日の両日、NHKの千代田放送会館で行われた放送講座に初めて参加してきた。

 びっくりしたのは講師が豪華だったことだ。

 NHKアナウンス室次長の渡部英美さん。
 NHK日本語センターエグテティブアナウンサー 榊寿之さん。
 NHK制作局第一制作センター 青少年・教育番組制作部 チーフ・プロデューサー 市谷壮さん。

 放送のプロであり、話すことのプロであり、制作のプロであり、一流でありつつ指導者でもある層が直に教えてくれるそれはそれは贅沢な講座でした。

 普段、現役で一流の仕事をしている人と接する機会があまりない仕事をしているから余計なのかもしれない。

現場に立ち続け、今も成果を出しつつ、後進の指導もしつつ、っていう現場の先頭に立つ人の魅力は、やっぱり凄い。
どんな球でも対応して打てるだけの準備をし続けてきて、しかも「昔話」じゃなく今も現役でそのボールが打てる人の「指導」って、細部と全体が響き合っていて、その場にいられるだけでとても快楽的でした。

軸がぶれなくて、柔軟で、最適例が瞬時に出せて、大きな視点と、具体的で小さな現場のポイントとを同時に示してくれる。
そしてこちらが無意識に感じていることを、適切に、難しくないことばでぱっと展開してくれ、しかもその向こう側まで指し示してくれること、とでもいえばいいだろうか。
技術的な中身の話はこれからゆっくり復習するとして、その「臨場感」がまずもって大きな収穫だった。忙しい中の出張で、行くまでは気重だったけれど、意外な年末のプレゼントでした。

 



センター試験が近くなると

2009年12月25日 21時28分15秒 | 教育
「先生、点数が取れすぎて怖いんです」

国語の場合センター試験が近くなると、少なからずこういう生徒が出てくる。
そしてそういう生徒の場合、本当に本番では思ったように点数が取れないことがある(必ずってわけじゃないんだけどね)。

国語のセンター試験の問題演習は麻薬のようなもので、やりはじめたら、間をおかずに続けていかないと不安になるし、感覚も鈍る。
感覚でセンター試験の国語問題を解いている限り、そこから逃れられないのだ。

自分の理解した筋道で問題を解いていると、最初は点数が伸びない。
だたし、その時点ではただ分からないだけだから、不安にもならない。
ところが、点数が取れだしてからが問題だ。

本文と設問に即して答えるのではなく、自分で理解した道筋がそれなりに精緻になってくると、時々、本文と自分の読解とがぴったりと重なる時がある。
そうすると、当然のことながら高得点が取れるようになる。
そして、実はそこから不安が始まる。

テキストと設問に寄り添って、その論理展開に沿って答えを出したわけではなく、あくまで「自分」の「理解」をなぞっただけだから。

本文と自分の読みがずれたとき、こういう生徒はなすすべを持たない。

自分の読んだ結果を「読んでいる」だけでは、間違いはいつも自分の主観の外にある。

だから、ここから先いくら練習を積んでも、感覚が鋭敏になるだけで、自分の読みの「外部」に出られないのだ。

この恐怖は、味わった人でないと分からないかもしれない。

本当はここからほんのちょっと先に、安定した読解があるんだけどね。
やり方は二つ。 一つはイチローのように読解に必要なルーティンワークをしっかりやって、「自分」の「読み」の水準のぶれをなくすこと。

もう一つは、自分の読みを相対化して、もう一度テキストや設問に近づけて検証してやること。

どちらかができれば80%は堅くとれる。両方できれば90%が狙える。
もちろん、言うは易く行うは難し、なんだけど。 さらにもう一つ余計なことを言えば、実はそのルーティンワークをしっかりやることと、自分の読みを相対化することとは同じことの表裏になっている。ただ相対化しただけでは、混迷を深めるだけだし、ただ決まり切った手順をなぞるだけで点数が伸びるはずもない。一方で基準をたしかなものにするためにルーチンをしっかりとやって、その上で自分自身と対象の距離を測り直す。プロのやることは結局そういうことなんだろうなぁ。

息子が来た

2009年12月23日 14時41分50秒 | 教育
息子が卒論を終えて帰省してきた。帰省と言っても実家ではなく、単身赴任の私のところに遊びに来たのだ。

私が新しく買ったPS3のソフトを届けがてら、卒論終了の息抜きに。

週末は温泉にいって10割蕎麦をたぐり、酒飲みをして一緒にゲームをし、文学談義を交わす

年の離れた、気心の知れた友人とのひととき、のようだった。

ということは、「普通」の親子の関係とは違う、ということでもあるだろうか。
友達ではなく、友人ってところがポイントなんだけどね。

ヤツも私も、頑固で人のいうことを聞かない。そのくせ周りのことばかり気になる。

どんな性格であれ、親子なんだから(環境&遺伝子の共有)似ていてなんの不思議もないのだけれど、家族っていうのは似ていると同時に人間関係ないのポジショニングの必要上、対抗的だったり対蹠的だったり、反対に大きく振れることも少なくない。


そういう意味(どういう意味だ?)で、そのスタンスの共通性と差異をいちばん近いところで検証できるのは、もしかしたら親子なのじゃないかなあ。

まあ親子関係なんて、自分たちには最後まで分からないのかもしれないけれど。 とにかく楽しい週末だった。
家族だからといってわかりあえると思うなよな、というのが基本スタンスであることは、家族全員が共有している。そういう意味では「ことばなんていらない」家族よりはよほど「孤独」なのだろう。
でも、言葉にすることで生まれる距離を自覚できない「家族」も辛いだろう。距離を自覚できないことは、一体であることとは違うから。

不幸になっても言葉にしたい、という衝動は、いくぶんか「確認小僧」的症例でもあり、それは自閉的な自己の組み立て直し作業、にも似ている。そういうお互いの「飼い慣らし」を、家族同士の言葉のやりとりで行っている、ということもであるのだろう。

「家族とそんなに話すことがあるのか」

代ゼミの東北大入試研究会に行ってきた

2009年12月07日 20時13分48秒 | 教育
今日、代ゼミの東北大入試研究会に行ってきた。

全体会1時間、分科会2時間。分科会は当然国語に参加。

いろいろ印象的なことはあったけれど、
 漢文は用字や句法ばかりではなく、結局のところ構文(主語を画定し、述語をしっかりと押さえる)じゃないか、という指摘は生徒に早速還元しなければ、と。
 ある意味句法や用字は当然として、結局最終的には構文を正確に把握できるか、ってことだよね。

入試問題の古文単語は、すべてを含めても500語レベルで十分。実質的な「単語」としては200を切るぐらいだろう、とも。

また、現代文では、傍線部の引き方や設問の誘導を丁寧に見ていくと、必然的にどんな「採点基準」になるのかも見えてくるのではないか、という話も印象的だった。

難関大受験者ぐらいになると段落を大づかみにするのは割と得意だから、むしろ細かい答案の表現で減点しやすい基準が設定できる「解答」が、出題者の方に想定されているのではないか?という指摘もありましたね。

あとは「想像力」の問題、かな。基本的に受験国語では、「想像力」を駆使して「読む」ことは求められていないのは周知だが、これからそこに踏み込むのか?東北大の小説問題は、所詮踏み込めないだろう、とは国井先生の予想。

実際、センター試験もそうだが、書いてあること、設問の意図の範囲を超えた「想像力」は、「誤読」として扱われかねない(予備校講師の秘術を尽くした解答もまた、減点対象ではないのか、という指摘も興味深かったが)。

実はその前に代ゼミの偉い方の挨拶があって、首都圏のサピックスという中高入試の塾?を吸収合併したとの話があったのも興味深かった。
業界再編と改革は、教育産業も急務なのね。公立高校もぼーっとしてはいられないのだろうなぁ。

高校での書類出願ミスのこと

2009年12月06日 13時54分35秒 | 教育
今年もまた、高校での書類出願ミスの報道があった。

今回はA0入試の出願書類を生徒から預かって、期限を思い違いして間に合わなかったミスだとか。

「生徒の人生を変えてしまうようなミスを、どうして簡単にできてしまうのか信じられない」

というのが当たり前の感想だろう。でも、正~直に言ってしまえば、現場にいると「ヒヤリ」とすることは少なくない。
今回の問題は、たいした覚悟もない(だから結果的に間違えた)のに、AOの書類を学校が預かったのはなぜか?という疑問が残る。
AO入試は、大学当局と学生が双方直接アクセスして互いに吟味しあうシステムだったはずだ。

だからなぜ高校がそのプロセスに関与したのかが解せない。進学校なら、責任を持つのは学校長が推薦する推薦入試のみであるべきだ、というのは、少し前までの常識だったはずなのだが。

守れもしないサービスを背負えば、顧客に償えない不利益を与えることにもなりかねない。

抱え切れない仕事を漫然と抱え、それを「善意」かなにかのように考えていては、生徒も教師自身も、学校も立ちゆかない。

徹底的に責任を持ってやるべきことと、守備範囲外なのに安易な「善意」や気弱な「同意」をはびこらせることとは違うはずだ。

では何をどこまでやり、何を学校の業務から排除すべきなのか?

「人間」という漠然としたしかし強力な近代概念に寄り添っているだけでは、もはや学校は保たない。今はやりの「仕分け」じゃないけれど、仕事の仕分けが急務だろう。公務員の給料はもっと下げてもいいから、コストに見合った仕事の量と質を、プロの側もアマの側も真剣に考えなければ。
教育は現況、あたかもパンドラの箱みたいなものだからね。

もし仮にそれが「政治的」な意味での「緩衝材」になっているのだとしたら?まあ、またそれは別の話か。