龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

東浩紀『一般意志2.0』を読む、を書きました。

2011年12月28日 18時50分12秒 | 評論
東浩紀『一般意志2.0』 について書きました。

http://ryuuunoo.jugem.jp/?PHPSESSID=68f60e1e149d4031c96898199dd496f4

正直、どう評価してよいかまだわかりません。
でも、全体とか世界を見通す「公共性」が構想困難で「公共性」が「共有不可能」状態にある「今」においては、東浩紀がいうことも無視できないな、と感じます。
ネットワーク上の有象無象の言説を総体として適切に処理すれば、コミュニケーションなんてものを経由しない一種の「政治的」な基盤がそこに可視化される、というのですから。
あながちほら話といって冷笑するわけにはいかないように思います。

具体例がツイッターとグーグル程度じゃあ海のものとも山のものともわからない。

ただ、東大の3.11以後の公共哲学を考えるシンポジウムに参加したとき、ニコ生のコメントが画面にはだらーと流れている中でシンポジウムが進行していて、そのときネットでライブを見ているだけの感じとはまた違うものを感じました。
私も福島からの参加ということで時間のないなか発言させてもらったのですが、そのとき自分の質問が、パネラーと会場の人に受け止められるというリアクションだけではなく、無責任極まりない垂れ流しであることは百も承知、二百も合点なのに、ネット上の観客からライブで書き込まれるコメントによって受け止められた手ごたえは間違いないものでした。

こちらの気持ちというか思考が緊張と集中、そして快楽をもたらしたのは事実だったのです。

そのときの充実感を踏まえて考えると、可能性はあるかもなあ、とも思うのです。
「選良」を抑制する大衆的無意識の力、みたいな?
ただ単純に、同意はできません。
結局「適切なアーキテクチャ」ってところが心配なんだよねえ。
グーグルに悪意はない。アマゾンはサービスの向上を考えているだけ。ツイッターはその基盤を提供しているだけ、といえばそのとおり。
でも、可視化された情報の総体をきちんと共有し、開かれたものにしつづけるのはけっこう難しいのじゃないか?との疑問もわいてきます。

たくさんの方の意見を聞きたいところです。

個人的にはルソーのテキスト自体に当たったり、アーレントともう少し対話したりしながら考えていきたいですけどね。