塩竃→松島→志津川→気仙沼→陸前高田
と、宮城県沿岸部を先週末、クルマで北上した。
大変な状況でした。
志津川町の病院跡
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こちらは有名な防災無線を最後まで発していた建物。
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陸前高田では、こんな風にまだ道路脇に巨大な船が置いてありました。
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こうして写真に撮ると、それだけが凄い状態みたいですけれど、石巻から北の南三陸にかけては、沿岸部の町は本当に大きな被害を受けているのが分かりました。
志津川町も、気仙沼も、陸前高田も。
そして海に面した町には、人の居住は難しい面もあって、住宅も病院もお店も役場も、高台に避難したまま仮設のプレハブやアリーナでなんとかやりくりしている状況が続いています。
志津川町はそれでも、役場機能や病院の機能が、4/1から仮設から少し広い専用の建屋(仮住まいに変わりはないのでしょうが)に移転する、というお話でした。
陸前高田は瓦礫の撤去が志津川や気仙沼よりも進んでいる印象で、それだけに沿岸部の市街地がいっそう「がらん」とした感じを受けました。
とにかく、私がクルマで走った沿岸部数十キロに限っても、南三陸鉄道はほとんど波にやられて寸断状態ですし、海に面したところはほとんど全てにおいて人間の営みが無に帰してしまっていました。
旧に復することはほとんど不可能に近いかもしれない、そんな想いさえ抱きます。
復興は町の再現ではあり得ない。
また津波が来るかも知れないというリスクを無視して、それはできるはずもありますまい。
では、どうすればいいのか。
復興の計画は進んでいるのでしょうが、1年経って、ようやく主な瓦礫の片付けができた、という程度の進捗状況です。
プレスもかけていないのに潰れた自動車の置き場が町にはまだ何カ所も残っていますし、コンクリートや鉄骨の建物はそのまま崩れるにまかせたままです。写真にある大きな船などは道路にそのまま横たわっています。
私が復興ファンドに出資した気仙沼のお店跡にも立ち寄りましたが、きれいに片付けられていました。
果たしてどこにお店が出せるのか、それも分からないです。
私自身、福島はそれに加えて原子力発電所の事故があるから、また別の話だ、と無意識にこの一年考えてしまっていたところがあったかもしれない。
確かに「同じ」ではない。
でも、比較できないほど、それぞれに甚大な被害をうけた深刻な状態である、ということにおいては変わりないし、その衝撃についていえば、
「人為の裂け目」
が延々と海岸線沿いに続くこの光景は、原発事故とはある意味正反対でありながら、人の営みの「裂け目」を示してしまった、という意味では、その表層において通底している。
見たことも聞いたこともない津波に備えることの難しさを改めて思う。
被災地ツアー(びっくりしましたが志津川の現地にはそういうのがあるんです!)の語り部の方の話によると、志津川町では津波の発生は不可避だと認識し、一〇年以上前から5メートル級の津波に備えた町作りをしてきたのだそうだ。
写真の防災センターもそれに備えたものだったとか。
しかし、実際に届いた波の高さは15メートルにも達した。
こういう種類のものは、コントロールや対処が非常に難しい。
というか、この震災以前には、仮に予想する人がいたとしても、1000年に一度の規模の災害は、果たしてコストの計算や予測において人々を説得する材料になり得たのかどうか。
原発においてはコストが優先された。
最も危険な原発すらそうなのだから、経験論的な「想定」の域を超えていると見るべき「事件」だったといえそうだ。
だからしょうがない、とは無論思わない。
しかし、この一年後の状況を目の当たりにすれば、1000年に一度の地震や津波がコントロール可能だ、とたやすく信じることもまた、到底不可能だろう。
難しい。きわめて難しい。
できるのは、これからどうするか、を考えて行動する、ことに尽きる。
不完全な情報の中でゲームのプレイヤーとして振る舞わねばならない神ならぬ身の私達は、「それでも海端に住む」、というような究極の選択をも含めて、「開かれた」=「裂け目の中に示された自然」と向き合って行く以外にない。
快適に整備されたインフラに守られ、ライフラインを無条件に共有されて生活する、ということが当たり前ではなくなったこれらの「町」の実質的中心である沿岸部は失われてしまった。
原発事故で住めなくなった「町」と同様、そのある種「架空の町」を、意識の中だけでなくどう保持し、更新しつづけていけるのか。
答えの見つからない問いが、いつまでもアタマの中をグルグルとかけめぐっている。
と、宮城県沿岸部を先週末、クルマで北上した。
大変な状況でした。
志津川町の病院跡
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こちらは有名な防災無線を最後まで発していた建物。
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陸前高田では、こんな風にまだ道路脇に巨大な船が置いてありました。
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こうして写真に撮ると、それだけが凄い状態みたいですけれど、石巻から北の南三陸にかけては、沿岸部の町は本当に大きな被害を受けているのが分かりました。
志津川町も、気仙沼も、陸前高田も。
そして海に面した町には、人の居住は難しい面もあって、住宅も病院もお店も役場も、高台に避難したまま仮設のプレハブやアリーナでなんとかやりくりしている状況が続いています。
志津川町はそれでも、役場機能や病院の機能が、4/1から仮設から少し広い専用の建屋(仮住まいに変わりはないのでしょうが)に移転する、というお話でした。
陸前高田は瓦礫の撤去が志津川や気仙沼よりも進んでいる印象で、それだけに沿岸部の市街地がいっそう「がらん」とした感じを受けました。
とにかく、私がクルマで走った沿岸部数十キロに限っても、南三陸鉄道はほとんど波にやられて寸断状態ですし、海に面したところはほとんど全てにおいて人間の営みが無に帰してしまっていました。
旧に復することはほとんど不可能に近いかもしれない、そんな想いさえ抱きます。
復興は町の再現ではあり得ない。
また津波が来るかも知れないというリスクを無視して、それはできるはずもありますまい。
では、どうすればいいのか。
復興の計画は進んでいるのでしょうが、1年経って、ようやく主な瓦礫の片付けができた、という程度の進捗状況です。
プレスもかけていないのに潰れた自動車の置き場が町にはまだ何カ所も残っていますし、コンクリートや鉄骨の建物はそのまま崩れるにまかせたままです。写真にある大きな船などは道路にそのまま横たわっています。
私が復興ファンドに出資した気仙沼のお店跡にも立ち寄りましたが、きれいに片付けられていました。
果たしてどこにお店が出せるのか、それも分からないです。
私自身、福島はそれに加えて原子力発電所の事故があるから、また別の話だ、と無意識にこの一年考えてしまっていたところがあったかもしれない。
確かに「同じ」ではない。
でも、比較できないほど、それぞれに甚大な被害をうけた深刻な状態である、ということにおいては変わりないし、その衝撃についていえば、
「人為の裂け目」
が延々と海岸線沿いに続くこの光景は、原発事故とはある意味正反対でありながら、人の営みの「裂け目」を示してしまった、という意味では、その表層において通底している。
見たことも聞いたこともない津波に備えることの難しさを改めて思う。
被災地ツアー(びっくりしましたが志津川の現地にはそういうのがあるんです!)の語り部の方の話によると、志津川町では津波の発生は不可避だと認識し、一〇年以上前から5メートル級の津波に備えた町作りをしてきたのだそうだ。
写真の防災センターもそれに備えたものだったとか。
しかし、実際に届いた波の高さは15メートルにも達した。
こういう種類のものは、コントロールや対処が非常に難しい。
というか、この震災以前には、仮に予想する人がいたとしても、1000年に一度の規模の災害は、果たしてコストの計算や予測において人々を説得する材料になり得たのかどうか。
原発においてはコストが優先された。
最も危険な原発すらそうなのだから、経験論的な「想定」の域を超えていると見るべき「事件」だったといえそうだ。
だからしょうがない、とは無論思わない。
しかし、この一年後の状況を目の当たりにすれば、1000年に一度の地震や津波がコントロール可能だ、とたやすく信じることもまた、到底不可能だろう。
難しい。きわめて難しい。
できるのは、これからどうするか、を考えて行動する、ことに尽きる。
不完全な情報の中でゲームのプレイヤーとして振る舞わねばならない神ならぬ身の私達は、「それでも海端に住む」、というような究極の選択をも含めて、「開かれた」=「裂け目の中に示された自然」と向き合って行く以外にない。
快適に整備されたインフラに守られ、ライフラインを無条件に共有されて生活する、ということが当たり前ではなくなったこれらの「町」の実質的中心である沿岸部は失われてしまった。
原発事故で住めなくなった「町」と同様、そのある種「架空の町」を、意識の中だけでなくどう保持し、更新しつづけていけるのか。
答えの見つからない問いが、いつまでもアタマの中をグルグルとかけめぐっている。