『不思議なキリスト教』の著者の一人橋詰大三郎と、『キリスト教入門』の著者島田裕巳が巻頭対談している。
道具的理性=foxydog的には「理性1」
と
世界の秩序を思考する理(ことわり)=foxydog的には「理性2」(秩序=神がアプリオリに存在するかどうかはまた別として)
のうち、前者の限界を大震災以降露わに感じ取った私たちが、後者の「理性2」について考え始めるのは、必然性があるというものだろう。
だから、キリスト教にも改めて関心が高まってくるのも納得。
少なくても、私はそういう道筋で、改めて一神教的世界観を参照しておこうという気持ちになっている。
「宗教」を内面化し、「回心」するかどうかは別の話ですが。
結局ムラの掟は前者(「理性1」)に属する。
小さいところで整合性を持たせ、その小さいところをさらに突き詰めていってなんとか解決策を見いだしたり、ある時にはブレイクスルーしたり、「小さな」ところからのイノベーションをもたらしたりさえしてきたのかもしれない。
自民党や民主党の総裁・代表選びを見ていると、そういう意味では「懐かしい」。
しかし、ほんの少し前「原子力ムラ」に批判が集中したというのに、業界内のみに通用する「理性1」をいまだに使い回し、駆使しようとしている政治家の言説には、正直うんざりさせられる。
また、それを批判しようとするとき、それ以上に「定見」を持たず、「間違いを改めるのには素早い」サーフィン型の政治的言説を駆使する政治家に将来を委ねるのも躊躇われる。
結局、学問の業界も、経済の業界も、政治の業界も、その小さな箱庭における整合性を究極的に求める「理性1」に命を賭けてきた。一方、その箱庭的理性1を批判する側もまた、
・原理主義に陥って硬直化する
か、
・理性2(ことわり)を持たずに言説の流動に乗り続ける
か、の二択になってしまっている。
この辺りで、私たちが今ここで拠って立つ世界を可能たらしめ続けている「可能性条件」について、徹底的に見つめ直し、考え続ける世界秩序=ことわりについての粘り強い思考=理性2を求めていきたい、のだ。
「経済成長」という例外的な真空状況、「バブル」というその延長線上の離陸。
それらがしぼんで以後、就職がないから膨大な手間暇のかかる博論に従事する「学問従事者」が登場したように、大震災以後、「理性2」おける根本的な問いを、「理性1」のリミットを超えて探究しえる人材がようやく出てこようとしているようにも思う。
もちろん、キリスト教の理(ことわり)それ自体の中に、答えが容易に発見できるわけではあるまい。
だが、たとえかつて暗黒と呼ばれた中世キリスト教会の「理性」についてであっても、私たちが「理性2」について考える時に必要な参照点が多数存在するのではないか?
「キリスト教から世界が見える」というのは、そういうことで「も」あるだろう。
正直いうと、島田裕巳の「キリスト教入門」(扶桑社新書)自体よりも、この週刊読書人の対談の方が面白かったのですがね。
☆「理性2」を、日本の震災に合わせて「理性1」の中で道具的に「利用」しようというということではない。
☆それじゃキリスト教を日本的「理性1」が再度消費するって話で終わってしまう。
☆「世界」の裂け目=差異という暴力の現れと、どう向き合うか(「理性2」)、っていう話です。
道具的理性=foxydog的には「理性1」
と
世界の秩序を思考する理(ことわり)=foxydog的には「理性2」(秩序=神がアプリオリに存在するかどうかはまた別として)
のうち、前者の限界を大震災以降露わに感じ取った私たちが、後者の「理性2」について考え始めるのは、必然性があるというものだろう。
だから、キリスト教にも改めて関心が高まってくるのも納得。
少なくても、私はそういう道筋で、改めて一神教的世界観を参照しておこうという気持ちになっている。
「宗教」を内面化し、「回心」するかどうかは別の話ですが。
結局ムラの掟は前者(「理性1」)に属する。
小さいところで整合性を持たせ、その小さいところをさらに突き詰めていってなんとか解決策を見いだしたり、ある時にはブレイクスルーしたり、「小さな」ところからのイノベーションをもたらしたりさえしてきたのかもしれない。
自民党や民主党の総裁・代表選びを見ていると、そういう意味では「懐かしい」。
しかし、ほんの少し前「原子力ムラ」に批判が集中したというのに、業界内のみに通用する「理性1」をいまだに使い回し、駆使しようとしている政治家の言説には、正直うんざりさせられる。
また、それを批判しようとするとき、それ以上に「定見」を持たず、「間違いを改めるのには素早い」サーフィン型の政治的言説を駆使する政治家に将来を委ねるのも躊躇われる。
結局、学問の業界も、経済の業界も、政治の業界も、その小さな箱庭における整合性を究極的に求める「理性1」に命を賭けてきた。一方、その箱庭的理性1を批判する側もまた、
・原理主義に陥って硬直化する
か、
・理性2(ことわり)を持たずに言説の流動に乗り続ける
か、の二択になってしまっている。
この辺りで、私たちが今ここで拠って立つ世界を可能たらしめ続けている「可能性条件」について、徹底的に見つめ直し、考え続ける世界秩序=ことわりについての粘り強い思考=理性2を求めていきたい、のだ。
「経済成長」という例外的な真空状況、「バブル」というその延長線上の離陸。
それらがしぼんで以後、就職がないから膨大な手間暇のかかる博論に従事する「学問従事者」が登場したように、大震災以後、「理性2」おける根本的な問いを、「理性1」のリミットを超えて探究しえる人材がようやく出てこようとしているようにも思う。
もちろん、キリスト教の理(ことわり)それ自体の中に、答えが容易に発見できるわけではあるまい。
だが、たとえかつて暗黒と呼ばれた中世キリスト教会の「理性」についてであっても、私たちが「理性2」について考える時に必要な参照点が多数存在するのではないか?
「キリスト教から世界が見える」というのは、そういうことで「も」あるだろう。
正直いうと、島田裕巳の「キリスト教入門」(扶桑社新書)自体よりも、この週刊読書人の対談の方が面白かったのですがね。
☆「理性2」を、日本の震災に合わせて「理性1」の中で道具的に「利用」しようというということではない。
☆それじゃキリスト教を日本的「理性1」が再度消費するって話で終わってしまう。
☆「世界」の裂け目=差異という暴力の現れと、どう向き合うか(「理性2」)、っていう話です。