龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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今日(9/29)の朝日新聞3面に村上春樹が寄稿。

2012年09月30日 00時16分51秒 | 大震災の中で
サイトは有料なので、むしろ9/29朝刊の朝日新聞を直接読むのが便利かもしれません。

村上春樹さん寄稿 領土巡る熱狂「安酒の酔いに似てる」
http://www.asahi.com/culture/update/0928/TKY201209270753.html

かつて、村上春樹が最初『アンダーグラウンド』(オウム真理教の地下鉄サリン事件被害者へのインタビューを集めた本)を書いた時、大きな違和感を抱いた。
間違っているのではないか、とさえ言いもし、書きもした。

私の中に、そんなことを貴方(村上春樹)に求めてはいない、という気持ちがあったことも事実だ。

村上春樹という有名小説家が、オウム真理教というカルト集団の犯罪行為に対して「そんなことをしてはいけない」というメッセージを送ったところで何の意味があるのだろう、と思った。

私がその時村上春樹の本に抱いたのは、むしろ怒りに近い感情だったかもしれない。

小説家が小説の言葉以外で「勝負」しはじめたら、それこそ学者が文化人になったときのような錯誤を犯す、そんな危惧もあったろう。

今でもその違和感が全くなくなったわけではない。
だが、イスラエルの文学賞受賞のときや、今回のことを見ていると、彼が敢えて現実にコミットし、村上春樹という「有名人」がコメントする行為にも、意味はあるのかもしれない、とも感じ始めている。

「村上春樹」は、形にならない(しない)ドーナツの穴のような空虚の近傍に立ち、その何もなさ、にのみ込まれずにのぞき込みつつ、あるいは背中や脇にその感触を確かめつつ、言葉を紡いでいく「職人」の仕事に与えられる名前のようなものだ。

そのエンジンが作動するなら、いつだってそのコメントを聴いておく価値はある。

そう思う。

敢えてそこで語らねばならない、と、村上春樹という人が考えたことは、認めねばならない。

作家は、単に作品を作り出す「機能」ではないわけだしね。
現場作業員の言葉は、いつだって「言葉にならない言葉」だ。

だが、その現場作業員の一人である小説家だって、言葉はある。
いや、虚構作品を作り出す職人だって、人間だってだけの話。

もちろんそれがメディアに「ノーベル賞候補作家」の言葉として流通してしまう気持ち悪さが全くなくなっているわけではないにしても、だ。

封じ込めることはできない。それがたとえ小説家の言葉であっても!語られねばならない言葉ならば、ね。

メディア(媒体)の問題とか、流通の仕方とか、受容・消費のされ方とか、今「ことば」はほんとうに大変なことになってもいる。

山で穴を掘って、全てを遮断したいと思うことも多い。
いや、むしろ毎日そう思っている。

でも、もうそういう訳にはいかない、のだ。
村上春樹のコメントを読んでいて、ある種の「既視感」を覚えていた。
『アンダーグラウンド』から15年。

国家とは何か。権力とは何か。
フィクションとはどんな役割を果たしているのか。

「国民作家」村上春樹のコメントを、自分自身がどう扱うのか、答えの容易に出ない問いを問われている。







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