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中国と台湾の政治と経済:2008年6月

日本の台湾統治について(日治時期大事回顧)(2009年のテレビ番組 大話新聞)
 日治時期大事回顧 了解台湾的歴史 0113 日本統治期の主要事を回顧して台湾の歴史を理解する
 日台戦後比一比 戦勝国反不如戦敗国 0213 日本と台湾の戦後を比較する 先勝国が戦敗国に及ばなかったのはなぜか
 日治台湾再尋根 重視歴史真実面貌 0513 日本の台湾統治を再び検証する 歴史の真実を重視する 落地生根
統治心態看償値 日人KMT大不相同 0713
 治台心態求長久? 日人未当自己過客? 0813 台湾を治めるには長期的心構えが必要
 治台建設 歩快 日人奠定现代基础 1013 日本人が現代の基礎を固めた

1.中国(本土)の政治(2008年6月稿)
 2001年までの中国は江沢民主席President Jian Zemin(1926-)、朱鎔基首相の時代。江沢民は、愛国教育を進め反日運動の要因をつくりだした点で、それまでの中国の指導者と対日姿勢に違いがあると日本側には映っていた。また上海出身で上海を特別扱いしたことから、景気引き締め政策などの面で上海が中央政府の指導に従わない要因を作ったことには中国内にも批判もあった。
 2002年に胡錦濤President Hu Jintao(1942-)、温家宝首相Prime Minister Wen Jiabao(1942- 首相就任は2003)というコンビに移ると、江沢民派の上海をいかに制するかは中央政府の大きな課題となった。胡錦濤は清華大学出身で共産青年同盟を経た英才とされるが、1980年代末から1990年代にかけての難局に反乱の危険のあるチベットに対する統治にあたった経験をもつ。2006年9月に胡錦濤は上海市党委書記の陳良宇Chen Liangyuの解任を行い、江沢民派の上海閥との政争が表面化した。陳は現代中国の指導者には珍しいことだが英国バーミンガムに留学経験がある。しかし社会保障基金の不正流用などの問題があったとされている。その後2007年3月には陳の後任に改革派で知られまた次世代の中国政府幹部候補の一人習近平(堅実な生活ぶりで知られ清華大学出身 法学博士 浙江省党書記)を任命した。習は江沢民に近いとされ、やはり上海は江沢民派から切り離した人事はむつかしいようだ。しかしわずか7ケ月後の2007年10月に習は政治局常務委員(党務=書記)に転出。代わって上海市党書記には兪正声湖北省党書記が就任した(ハルビン軍事工程学院卒で実力者として知られる)。兪氏は習氏とともに江沢民と近いとみられている。2007年4月に来日した温家宝は天津の南開大学出身でさらに北京地質学院の大学院で学んだ。勤勉誠実な人柄が知られる。なお2007年10月の常務委員人事では、胡錦濤と同じ共産主義青年団出身の李克強も常任委員に選ばれている。李は北京大学経済学院卒の経済学博士。習にせよ李にせよ、中国の次世代の指導者が押し並べて中国のトップ大学で博士号を取得した高学歴の人たちで固められつつあることは注目されてよい。なお政治局常務委員は総書記を含め9人。習と李が50歳代前半であるのを除くとほかの7人は60歳代である。
 中国では周恩来と毛沢東が1976年に相次いで亡くなったあと中国内の権力争いは熾烈になった。1月の周恩来の死後、周恩来を追悼する動きの中で天安門広場で騒動が生じ(第一次天安門事件)、小平が事件の責任をとって失脚させられる。9月に毛沢東がなくなるといわゆる4人組とこの4人組に反対する人々との抗争は激化した。そして華国鋒が主席になるとともに4人組の逮捕に踏み切り、1960年代半ばから10年近くに及んだ文化大革命はようやく終息をみた。文化大革命は、革命後の経済政策がうまく行かず、権力を次第に失いつつあった毛沢東の復権運動だったというのが、今日の大方の評価であろう。文革初期に権力を追われ、1973年に復権したものの1976年に再度失脚した小平が1977年に復権したことにも、この点は伺える。つまり文革は、毛沢東の退場を確定するプロセスに対する毛沢東サイドのゆり戻しだった。小平はその後一貫して中国の開放政策を推進し、1997年に亡くなった。なお小平は経済的に開放政策を取ったが、1989年6月の第二次天安門事件への武力鎮圧方針に見られるように政治的に党の支配を弱めるもの(政治面での近代化要求)には弾圧を加える側面もあった。結果として、自ら登用した、胡耀邦(1915-1989)や趙紫陽(1919-2005)を、相次いで失脚せしめ、残した李鵬についてもその経済政策の保守性を嫌って政権中枢からは排除した。
 このような経済の開放性と党支配の重視という政治手法は1990年代に入っても続き、魏京生(1950-)や王丹(1969-)らの政治の近代化などの主張を中国国内では抑え込む面があった。1992年の第12回中国共産党大会は小平の理念である「中国の特色のある社会主義」を指導理念とすることを明確化。経済面で中国は解放・改革へカジを切ったが、政治面での保守性は維持された。このような小平ら党の政治的保守派の意向を受けて、趙紫陽失脚のあと、経済開放政策の推進と一党支配の継続という矛盾した政策を続けたのが、江沢民、朱鎔基であった。2002年の第16回党大会では、社会生産力の発展、文化前進、幅広い人民の利益など3つを、共産党は代表するという「3つの代表論」が党規約に盛り込まれた。これは経済成長を優先させてきた江沢民理論を正当化するもので、すでに経済成長優先の中での矛盾が拡大していた中国国内には批判もあった。
 中国は急速に近代化した反面、中国内部の地域的なまた国民内部の所得や資産の格差は深刻になっている。生み出される様々な矛盾や不満が公開の政策論争や法律的諸制度を経て解決されるシステムが明確でないことは大きな不安定要因になる。また賄賂や汚職なども絶えない。それは中国への投資を考える外国資本にとっても大きなリスクとなっている。2007年10月の中国共産党第17回党大会は、胡錦濤総書記の指導理念である「科学的発展観」を党規約に盛り込み、経済成長優先路線を修正し貧困や環境の問題に配慮した持続的成長を目指す考え方を明確にした。しかし中国的な民主化があるにせよ、政治面・思想面での一層の自由化・開放化なしに、路線の修正が円滑に可能かは、予断を許さない。中国社会の円滑な民主化・経済の発展は日本にとっても重要であり、中国社会の変化を私たちは常に注視する必要がある。
 なお文化大革命についてのいくつかの映像をみている。一つは池谷薫監督の延安の娘Daughter from Yan'an」(NHK2002)。延安の下放した青年の間に生まれた少女海霞が、辿った困難と真実を明らかにするための北京への旅が描かれる。この映画はその後各地で自主上映が続いている。もう一つは文化大革命のとき黒龍江省でカメラマンだった李振盛が保存していた写真。そしてその写真の被写体の現在と出会う旅の様子を写した文化大革命40年目の証言」(NHK2006)である。
ひたむきに前に向かって進んでいる一人一人の中国人の姿は尊い。それを映した何本かのドキュメンタリーも記憶に残る。小留学生」(2000)は民放のフジテレビが放送したドキュメンタリーで中国からの小さな留学生張素をめぐる物語。フジテレビが2000年5月に放送。製作は張麗玲(1967-)そして協力者たち。このドキュメンタリーシリーズに出てくる中国の人たちはみな前向きで他人に甘えず自立して必死に生きている。日本人はこのようなひたむきさを中国人から学ぶべきではないかという反省がこみあげる。また製作に奮闘する張麗玲と彼女を支えた家族の姿は「中国からの贈りもの」として2002年12月に放送された。シリーズ最後との触れ込みで2006年11月3日夜家在我心中」(1999)がフジテレビから「泣きながら生きて」と題して放送された。

2.台湾(中華民国)の政治と経済(2008年6月稿)
 台湾(中華民国)では2000年に第二次大戦後初めて国民党が下野し、独立志向がある民進党の陳水扁Chen Shui-bianが政権を取った。そもそも台湾では大陸から台湾に渡ってきた外省人と1945年以前から台湾に住む本省人の反目は激しいものがあった。なかでも有名な事件は1947年2月28日に起きた暴動に対する国民党政府による弾圧事件で、本省人1万ないし2万人以上が虐殺されたとされる。この暴動の背景については未解明な点があるが、暴動を台湾独立を目指した反乱とする情報に対して国民党が正規軍を投入し本省人を一方的に連行し虐殺したとされる。この事件は現在でも台湾社会に深い傷を残している。その後1949年に蒋介石は南京にあった国民党政府を台湾に移すが、この虐殺事件は国民党によるその後の統治に暗い影として残ることになった。
 その後、台湾は蒋介石(1887-1975)の息子の蒋経国(1910-1988)総統時代(1978-1988)の1987年にようやく戒厳令が停止され、本省人(臺灣出身)である李登輝総統の時代(1988-2000)に入り、ようやく民主的議会制度が定着するに至った(1996年に総統直接選挙導入)。なお1987年は韓国で民主化宣言が行われ、軍事政権に終止符が打たれた年でもある。しかし李登輝総統の時代に台湾の独立志向が高まったことから、中国政府は李登輝をことあるごとに露骨に批判してきた。そしてこのような中国政府の態度は陳水扁にも向けられてきた。
 他方、国民党は堅い組織票とともに中国との人的パイプを武器に、台北市長でもある馬英九Ma Ying-jeou主席のもと2008年の選挙で再び政権への復帰を狙った。中国の民主化を条件に中台の統合を主張する馬の主張はよく知られている。
 これに対し民進党は2004年の立法院選挙で過半数取得に失敗。2005年末の地方選挙でも敗北した。背景には台湾経済界が独立志向の陳総統に失望して距離を取り始めていることがあるとされる。2006年に入ってなお「積極管理、有効解放」など独立志向の言動を繰り返す陳総統に対し、身辺のスキャンダル事件を契機に、陳総統辞任要求が高まった。民進党でも蘇貞昌行政院長は中台の関係拡大に前向きとされ陳総統の求心力は急速に低下した。こうした中で行われた2008年1月の立法院選挙で、民進党は大敗。国民党は6年ぶりに単独過半数を制した。定数225議席を113議席に半減した上で争った今回の選挙で国民党は81議席全体の72%を占めた。民進党は27議席24%で退潮は明らか。中国との関係で緊張を高める民進党の対中政策が台湾の民心の多数を得ていないことは否定できない。台湾住民の多数は、台湾にとっての利害を中心に問題をたてているのではないか。利益があれば大陸とも付き合うのだ。
 もちろん台湾の経済界にも中国に傾斜した投資リスクへの警戒感はある。中国へは比較的簡易な生産と人手による組み立て工程が移り、技術的に高度な部品に限って台湾で生産して中国で組み立て輸出する形となった。台湾で受注・設計して中国で製造・輸出する形である。これは数字の上で台湾の輸出が減り、中国の輸出を増やすことになった。台湾のメーカーはEMS(electronic manufacturing service:電子機器の受託製造サービス)、ファウンドリ-サービスfoundry service:EMSのうち半導体の受託製造サービス)に特化することで日米欧のメーカーとの関係を強化し規模を拡大し、生産コストの引き下げを実現してきた。代表的な企業としては、半導体LSIでは台湾積体電路製造(TSMC、ファウンドリーの世界最大手)、聯華電子(UMC、ファウンドリ-で世界2位)、電子機器OEM*の鴻海精密工業(EMSで世界最大 広東省新線圳市に生産子会社 iPodの製造代行で有名 アップルのLSI受託生産で有名)、液晶パネルで世界第3位の友達光電(AU Optronics)、奇美電子、パソコン最大手が宏碁(エイサーAcer)、ノート型PCのOEMでは世界最大手の広達電脳(Quanta)、同じくOEMの仁宝電能(Compal パソコン受託生産大手)など。工学レンズ供給の大立電子。このほか素材産業に台湾塑膠工業集団(台塑石化、台湾塑膠工業など)、中国鋼鉄。また食品最大手の統一企業は中国に進出して業績を伸ばしている。
 大陸における国内半導体産業の育成は衰えている。国内最大は上海市の中芯国際集成電炉製造。売上高で見て中国企業の10分の1どまり。
 たとえばソニ-の注文はQunataで富士通の注文はQuantaやCompalで受注している。ただし台湾の生産は中国に移っているので、輸出は中国から行われる。
*orginal equipment manufacturerとは相手先ブランドによる生産を受け負うメーカーを意味するが、そうした生産方式を指すこともある。受け負うもののデザインについてこのメーカー側の機能が高まると、OEMはoriginal design manufacturer:ODMに発展する。また生産者側と利用者側がデザイン段階から協力する方法をデザインインと呼んでいる。下請の技術者がデザイン段階から協力することで生産性やコストで改善しやすいことが背景にある。
AUOはサムソン、LGフィリップスとほぼ互角の液晶パネルメーカーである。2006年10月に台湾の広輝電子を合併し世界3位世界シェア19%となった。
 パソコン大手Acerは2007年8月27日、米国のGateway買収で合意したと発表した。買収金額は約7.1億ドル(約824億円)。Lenovoを抜いて再び世界シェア3位となった(シェア8.1%)。なお1位はHewlet-Packard。2位がDellである。
中国への先端工場進出抑制策もあって、台湾内に先端工場が集積し、その集積による素材調達効率が上がるようになった。集積効果の具体的中身としては、調達あるいは輸送経路が短いこと(=納入期間コストの低さ)、研究開発における連携の容易さなどがある。他方で中国本土での人件費上昇で技術者の確保がむつかしくなってきたことなどから新たな中国投資に自然な形でブレーキがかかりつつある。他方では先行して進出している台湾企業は利益を中国で再投資して投資規模を増やしている。
 また内外の進出企業には法人税の減免措置や研究開発費の補助など、手厚い施策が取られている。これを受けてたとえば日本のエルピーダメモリは、力晶半導体と組んで瑞晶半導体(レックスチップスエレクトロニクス)を設立、台湾に工場を新設した(2007/7量産開始)。
 他方で国民党は2005年4月そして2006年4月に歴史的な国共会談を北京で実現。合せて中国政府は、台湾産果物の輸入品目拡大、一部の野菜や魚への関税免除など優遇策を打ち出した。一時、民進党にも流れたもともと国民党寄りの台湾の経済界は、急速に国民党支持に戻りつつある。中国は他方で2005年3月の全人代では反国家分裂法(反分裂国家法)を制定。台湾との平和的統一の可能性が失われたときには非平和的方法による統一を辞さないとした。硬軟組み合わせた政策で、台湾に親中国の政権が生まれることを期待しているといってよい。
 ところが馬英九主席の金銭スキャンダルが発覚、馬は2007年2月に党主席辞任に追い込まれ2008年3月の総統選の行方は再び不透明になった。ただ馬氏は歴史認識や尖閣列島の領有権問題などで中国の共産党政権に近い認識をたびたび表明しているため、日本の自民党政権は必ずしも馬氏を歓迎していなかった面もある。他方で2007年5月に民進党は総統選挙候補に謝長廷前行政院長(首相)を内定している。なお2007年8月14日台北地裁は馬氏に対して、資金使途は公的なものであり市にも損害を与えていないとして無罪を言い渡した。検察側控訴の可能性はあるものの、再び馬氏が攻勢を強めるとみられる。
では逆に国民党は敵対していたはずの中国共産党と見解はすべての面で同一なのか。実は台湾の独立を否定する点では国民党は中国共産党と立場は重なる。しかしそれも台湾住民多数の意思とは離れているようだ。台湾の多くの人は独立については民進党を支持し、中国(大陸)との緊張を和らげる点では国民党を支持しているのではないか。
 そして中国の民主化を、中国の嫌う内政の問題を堂々と主張できる点で、国民党が果たすべき役割は大きい。

Written by Hiroshi Fukumistu. You may not copy, reproduce or post without obtaining the prior consent of the author.
originally appeared in June 22, 2008
attached with new contents and reposted in January 16, 2013
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