8月27日(月)曇り(ある日の空と雲)
おうい、雲よ、と山村暮鳥は雲に語りかけた。
私はボーッと雲を眺めているある日。
皆さんお元気ですか。私は元気です。仕事にも励んでいます。
あー、しかし、こんな雲の上に乗って、風の吹く空を飛んでみたいものだ。
*因みに山村暮鳥の詩を調べてみました。
雲
おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきじゃないか
どこまでゆくんだ
ずっと磐城平の方までゆくんか
おうい、雲よ、と山村暮鳥は雲に語りかけた。
私はボーッと雲を眺めているある日。
皆さんお元気ですか。私は元気です。仕事にも励んでいます。
あー、しかし、こんな雲の上に乗って、風の吹く空を飛んでみたいものだ。
*因みに山村暮鳥の詩を調べてみました。
雲
おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきじゃないか
どこまでゆくんだ
ずっと磐城平の方までゆくんか
ブログの書き込みをされたとのことですが、反映されていません。懲りずに試してみてください。誰でも書き込みできるようになっています。
それにしても暑いですね。法幢師さんのお寺の施食会も無事に随喜がすみましたので、ホッとしています。
のんびり空を見る時間が一番大切な時間です。私にとっては。
飛ぶ夢を見始めた切っ掛けは、若い頃に見た洋画だったと思います。宇宙の何処かの星が戦争か何かで崩壊し、宇宙人が地球に逃げてきています。田舎で地球人に悟られないよう、なるべく接触しないように生活しています。この宇宙人は飛ぶことが出来るのですが、子供には飛べることを悟られないよう、すり足で歩くことを義務付けていました。普通に歩くとその弾みで飛び上がってしまう恐れがあるからです。しかし子供達は飛べることを知ってしまい、森のはずれで手をパタパタさせて、飛び上がって遊んでいます。子供は小学校に行かなければなりません。絵を描かせると、宇宙人の子供は暗い、何か悲惨な絵を描きます。失われた星の記憶なのでしょうか。これに疑問を持った先生が、宇宙人だと知ることになります。後のことはどうなったか忘れました。
この映画を見て以来、私はずっと飛ぶ夢を見てきました。あるときは高いところからダイビング。そして滑空、地上に落ちそうになると、手でばたばたしてまた上空うに舞い上がる。またあるときは映画のごとく、立った状態から手でばたばたして上空に舞い上がります。
話は少し横道にそれますが、夢は毎晩見ます。昔は夢日記をつけたこともあります。見ているときは小説になると思っても、書きとめようとすると、つじつまが会わないのが夢です。また思うのは夢を見る人は、感受性の豊かな人か昼間ストレスの掛かる人ではないかと言うことです。
毎晩見る夢ですが、分類するといくつかのパターンがあります。その一々を説明したいところですが自重します。ここで言いたいのは、その一つにつに追いかけられる夢があることです。
私は世間から裁かれるような生き方はしていないつもりですが、何故か追いかけられる夢を見続けました。昼間にストレスを受けたせいでしょうか。
私は足に自信があります。追いかけられても逃げおうせるはずですが、夢の中は別物で、どうにも足が運びません。追いかけてくる人が背後に迫り、苦しくて、辛くて、怖くてそして目が覚めるのです。何故かそこで飛びさえすれば良いのに飛びません。変ですね。
夢の中で飛ぶことは、拘束からの開放、自由を求めているのではないでしょうか。開放されないから一方では追いかけられる夢を見るのでしょう。
私は年を取ってやっと本来の自己を見出しました。その時期に見た飛ぶ夢は、それはそれはすさまじいものでした。真っ青な空の下、白銀のアルプスの上を、ジェット機のごとくものすごいスピードで飛びます。アトムや鉄人28号になったごとくです。
その夢で何かの憑き物が落ちたように思います。その後飛ぶ夢をほとんど見ないのは、まずまず安楽な生活を送れているからなのでしょう。
フロイトは、確か、空を飛ぶ夢は、なにか不満足な状態であるときにそんな夢を見る、と分析していたでしょうか。
光泊さんの場合は、映画からの刺激らしいですね。空を飛ぶ夢なんて、いかにも少年の夢のようで、楽しいですよね。フロイト的に分析する
ことは、私は好みません。
追いかけられる夢は辛いです。私はあまりありませんが、遅刻しそうになる夢はよく見ました。
ストレスから解放されて空飛ぶ夢を見なくなったというのも、〈私は年を取ってやっと本来の自己を見出しました。その時期に見た飛ぶ夢は、それはそれはすさまじいものでした。〉というように、そのときの空飛ぶ夢は、自由になれた喜びの心の開放感だったのでしょうか。
見ない方が安定している状態ということになりましょうか。
ところで、私の夢は空飛ぶ白昼夢なのです。
飛ぶ夢、追いかけられる夢が出ていますが、おそらく人が見る夢はいくつかのパターンに分類でき、それが昼間の生活の何かを反映していると言えるのではないでしょうか。
私はきちんと勉強したわけではありませんが、フロイトは夢は性的なコンプレックスの現れとして分析したのではないでしょうか。
私は夢はもっと幅広い人の性格、感情、生活に根ざしていると感じています。そこで風月さんの見ると言う遅刻の夢です。私も未だに見るのです。遠足に遅刻する、勿論試験の日に遅刻する。
これと同系統の夢が、準備ができていない夢。具体的には受験勉強の夢です。受験日が迫っているのに、何故か私が得意であったはずの、世界史、化学がおさらいできていなくてあせります。
更にこの系統の夢があります。受験勉強をしていますが、うまくいっていません。しかしこの夢は、何だ私は既に合格、卒業していると言う事実に気付き目が覚めます。
またこれと同じ系統の夢。既に大学に入りましたが、授業にはほとんど出ません。これは私の学生生活の通りです。夢の中ではこれはいけない、授業に出なければと焦ります。しかしその気になった今日、どの教室で、何の授業があるか分らないのです。探しあぐねて、学食で昼食をとるところで夢は終わります。こう言った苦しい夢を未だに見なければならないのは何故かと思います。
勿論私の夢はこんなものばかりではなく、楽しい、嬉しい夢もあります。しかしそう言った夢も何故か「ああ、もうちょっとっだったのに」で目が覚めます。
ところで「ところで私の夢は、空飛ぶ白昼夢です」の風月さんのコメントは同解釈すれば良いのでしょうか。ハングライダー、気球等に乗って空を飛びたいのですか。
色気もありませんね。共通しています。
フロイトのように性的欲求不満だとか、すぐそのように分析されるのは、適わないですね。それはやめましょう。
私は、この頃の夢は朝起きてほとんど覚えていません。白昼夢です、という意味は、たんに昼間、雲を見ながら、この雲に乗って空を飛んでみたい、と思っていた、と言う程度の意味です。
それにつけても、雲は芸術家である、とつくづく感服しています。雲と空を眺めることは、私の趣味であり、生活そのものです。今朝も一瞬、空は朝焼け、そのあとすぐに曇りました。アッというまの早変わりです。
雲が好きだというのは、ユング的にいうと、やはりなんとかだと河合隼雄先生が述べてましたが、忘れました。あまり分析して欲しくないですね。