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道元禅師伝 その1

2024-02-10 22:56:48 | Weblog
記載

2月10日(土)晴れ【道元禅師伝その1】

自分の勉強として、道元禅師様の伝記を、ざっと学んでみました。

一、 ご生誕と幼少年期

①生誕: 1200年旧暦1月2日(陽暦1月26日、以下全て旧暦で示します)。

②父親:源(久我)通親(みちちか)(1149~1202)説、またはその子の通具(みちとも) (1171一~1227)説がある。
『建撕記(けんぜいき)』には「村上天皇九代苗裔(びょうえい)、後中書王八世の遺胤(いいん)」とあるので通親になってしまうのですが、『永平広録』巻五363上堂の中に「育父源亜相」、巻七524上堂「源亜相忌上堂云、報父母恩」の表現から、私は通具説をとっています。しかし、「育父」の育の字が悔しいところです。この「育」さえなければ、すんなりと道具が父親で決定と言えるのですが。しかし実の父にも「育」をつける例が他にあると、百科事典のような友人に聞いたことがあります。また通親については、どこにも道元禅師様は言及していませんから、やはり通親ではないといえるのではないでしょうか。

*源(久我)通具:堀川大納言。はじめ藤原俊成の娘と結婚。後、土御門天皇の乳母と結婚。和歌所寄人、『新古今和歌集』の撰者。後鳥羽天皇の後宮在子(承明門院)とは義理の姉弟。(土御門天皇は在子の子、後嵯峨天皇は孫。道元禅師の縁戚)

*『建撕記』:道元禅師の伝記。永平寺十四世建撕(1415~1474)著。永平寺在住中(1465~1474)に書かれた。道元禅師の伝記として基礎的資料。

*『永平広録』:道元禅師の上堂・小参・法語・頌古(じゅこ)・真讃などを、門弟の詮慧(せんね)・懐弉(えじょう)・義演(ぎえん)等が編集したもの。

①母親:藤原基房(もとふさ)(1145~1231)の娘、三女伊子といわれていたが、現在では不明とされる。しかし、いずれにしても藤原基房の娘であるという説が有力。

三女伊子の夫は通親だそうですが、通具の妻は四女なので、こちらではないでしょうか。

*藤原基房:関白藤原忠通の次男。松殿家の祖。六条天皇の摂政(せっしょう)、高倉天皇の摂政・太政大臣・関白を勤める。一時平清盛に敗れて都落ちをする。この時、在家のまま剃髪(1179年。善観)、松殿禅定尊閣(禅閣)といわれる。清盛の死後、再び都に戻り、子どもの師家(もろいえ)を後鳥羽天皇の摂政、内大臣に昇進させる。公事(くじ)・故実(こじつ)に通じた博識。

④生誕地:関白基房の松殿の山荘(木幡)か。

⑤母の死:1207年、八歳のとき。母の死後、基房の養子として松殿で養育される。

⑥幼名:文殊丸。(これは不明)
⑦幼少期の勉学:四歳で『李嶠百詠(りきょうひゃくえい)』を学び、
七歳にして『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』を学ぶ。
九歳で『倶舎論(くしゃろん)』を読む。

非常に幼少期から頭脳明晰、優秀な方だったのですね。

*『倶舎論』:『阿毘達磨倶舎論』、世親(せしん)の著。仏教教理学の入門書。法の種類、業、煩悩、悟りの段階、智慧や禅定についてなどが説かれている。

*ちょっとどこかに明確に、ご両親のお名前をお書きくださっていたら、後世の研究者をなやませなかったのではないかしら、と、当初思いましたが、後の者を楽しませようと、記載を「やめておこうか」と、洒落で遥かにほほえんでいらっしゃるのでは、と思います。



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