8月23日(火)晴、また暑くなる【宗教の風光(二)肉屋の店先で悟った盤山宝積】
「宗教の風光」についてまた本師の著作から、抜粋してみてみます。
達磨様から三代目の僧粲という祖師が遺された『信心銘』の冒頭の句に「至道は無難なり、唯揀択(けんじゃく)を嫌う」と示される。至極の道理、最高の道は、それほど困難というわけではないが、一つの条件があって、それさえできれば至極の道理は領会(りょうえ)できるのである。
それは、揀択をするなということである。揀択ということは「よりごのみをする」、「比べあう」というような意味合いである。私どもの日常を考えてみると、それは揀択の世界ということができる。価値の世界、値段表の世界を生きているのである。それは人間のすがたである。人間の尺度の世界である。浄と不浄、善と悪、美と醜、損と得というような対峙の世界である。
盤山宝積という人は、肉屋で客と主人公の対話を聞いて悟ったといわれているいる人である。馬祖道一(ばそどういつ)様のお弟子である。ある日肉屋にて、お客がよい肉をくれと言うのを聞く。肉屋の主人は「わしのところには悪い肉は置いていない」と言う。
盤山はなるほどなと会得するところがあったという。どういうふうになるほどなと会得したかといえば、肉屋の店頭に、肉が並べてある。肉を並べる序列は、やわらかくて美味しいのは値段が高いのである。かたくてうまくないのは、安いのである。人間が食べるのであるから、それは当然のことであり、なんの不思議もないことである。
されどそこに並べてある肉が、牛や豚の身体についているときには、上等も下等もないわけである。それぞれの場所にあって、肩の肉も、背中の肉も、お尻の肉も、それぞれのはたらきをしているのであって、上中下の序列はないのである。肉に 上中下の序列をつけるのは、人間の舌の加減である。そういう人間の寸法を離れてみると、序列値段表のない世界があることに気づく。天地の寸法というべきか。人間の間だけで通用する寸法を離れたところが宗教の風光である。人間の寸法は、法律道徳の世界の風光である。
★「人間の間だけで通用する寸法を離れたところが宗教の風光である。」人間の世界のこともけっして無しにはできないことですが、その寸法を離れた世界があることを知った上で、人間の世界をみれば、人間の世界の尺度だけに振り回されないで生きていけるといえましょう。
ルナがハチに刺されました。向かって右の手が腫れています。病院で消炎剤注射を打ってもらいました。ベランダには出しているのですが、朝、大きな鳥を生け捕りにしてきたり、活躍していたのです。そのうち、猫パンチをしたな、と見ていましたら、慌てて中に駆け込んできました。ハチにでも刺されたのでは、と直感的に思いましたら、体が小刻みに震えて、前足(手と言いましょうか)が腫れだしました。 今年は蚊も多いし、ハチもよく見かけます。皆さんもご用心。
帰庵する前のひととき、例によって寺院巡りを敢行しましたら、龍慶禅寺という曹洞宗のお寺がありました。
正保三年(1646年)の創建だそうです。
歴住の墓所を探し、お香を手向けてきましたが、七世の住持が「劫外鶚林」(がくりんと読むのでしょうか)という方だった、と墓誌に刻まれておりましたので、思わず嬉しくなってしまい、帰庵したら早速師のブログにコメントを、と思いながらいそいそと帰って参りました。
この顎林、「がくりん」でよいと思います、の場合は劫外は法号で、法名は顎林、私の場合は法名が劫外です。
「枯木花開く劫外の春」という、たしか枯木法常禅師の偈頌に因んで、その後の禅僧にある名ではないかと思っています。
簡単に意味を言えば、「無限の時を越える」というようなことでしょうか。
龍慶禅寺七世劫外顎林大和尚という方がかつてこの世にいらっしゃったこと、お教え頂き有り難うございました。