少年への死刑の適用争点 差し戻し審始まる 光母子殺害(朝日新聞) - goo ニュース
昨日この事件の差し戻し控訴審が広島高等裁判所で行われた。この事件の発生の4月14日が来るたびに香を手向けてより八年になる。本村洋氏の会見が報道されるたびに一貫して、父として夫としての氏の切実な主張に耳を傾けてきた。
今は26才になるこの犯人について、本村氏が極刑を望む姿勢に一点の曇りもない。それに比してこの度21人も付いたという弁護人は、なにを主張したいのか。この事件を通して死刑廃止を訴えたいのか。筋を違えていることも分からないのであろうか。
死刑廃止を訴えたいのなら、違う手段があるだろう。自分の主張を世に訴えたいとしてこの事件を利用しているにすぎないのではないか。この犯人の更正を真に望んでいるとは思えない。
さていつもは新聞を読まないのだが、今朝は駅のスタンドで新聞を買った。読売新聞を選んでみた。この事件に対してどのような報道が為されているか読んだ。
今朝テレビの報道を観ていて、あまりに呆れてしまった弁護側の主張を再検討してみたいと思ったのであるが、それについては記載がなかった。
記憶に頼って、弁護側の主張を書いておきたい。
「この少年は母親を失っており、母親にあまえるようなつもりで抱きついて殺してしまった。(強姦は)生き返らせようとして姦淫し、生をいれるつもりであった。(夕夏ちゃんの)首に紐を締めたのは蝶々結びをしてあげようとしたのだ。」
正確ではないかもしれないが、このようなことを弁護士が陳述したのである。この言葉にたいして、私がなにかコメントをつける必要はないだろう。
世の中はおかしくなってしまったのだろうか。弁護士ともあろう者がこのような事を述べるとは、世も末とはこのことだろう。
本当はこのような弁護士の汚れた言葉を我がログ上に載せたくはないのだが、これをご存じないかたの為にあえて書いた。
しかし文字で伝えるのが命の新聞報道であるが、このようなことまで報道してもらいたいものだと、これは別の問題であるが、たまたま読売新聞を購入して感じたことである。余計なことを多く報道するマスコミだが、必要なことは報道が足りない面もあることをこの事件であらためて知った。
あらためて本村弥生さんと夕夏ちゃんのご冥福を心より祈ります。そして本村洋さんのご健闘を祈らずにはおれません。
昨日この事件の差し戻し控訴審が広島高等裁判所で行われた。この事件の発生の4月14日が来るたびに香を手向けてより八年になる。本村洋氏の会見が報道されるたびに一貫して、父として夫としての氏の切実な主張に耳を傾けてきた。
今は26才になるこの犯人について、本村氏が極刑を望む姿勢に一点の曇りもない。それに比してこの度21人も付いたという弁護人は、なにを主張したいのか。この事件を通して死刑廃止を訴えたいのか。筋を違えていることも分からないのであろうか。
死刑廃止を訴えたいのなら、違う手段があるだろう。自分の主張を世に訴えたいとしてこの事件を利用しているにすぎないのではないか。この犯人の更正を真に望んでいるとは思えない。
さていつもは新聞を読まないのだが、今朝は駅のスタンドで新聞を買った。読売新聞を選んでみた。この事件に対してどのような報道が為されているか読んだ。
今朝テレビの報道を観ていて、あまりに呆れてしまった弁護側の主張を再検討してみたいと思ったのであるが、それについては記載がなかった。
記憶に頼って、弁護側の主張を書いておきたい。
「この少年は母親を失っており、母親にあまえるようなつもりで抱きついて殺してしまった。(強姦は)生き返らせようとして姦淫し、生をいれるつもりであった。(夕夏ちゃんの)首に紐を締めたのは蝶々結びをしてあげようとしたのだ。」
正確ではないかもしれないが、このようなことを弁護士が陳述したのである。この言葉にたいして、私がなにかコメントをつける必要はないだろう。
世の中はおかしくなってしまったのだろうか。弁護士ともあろう者がこのような事を述べるとは、世も末とはこのことだろう。
本当はこのような弁護士の汚れた言葉を我がログ上に載せたくはないのだが、これをご存じないかたの為にあえて書いた。
しかし文字で伝えるのが命の新聞報道であるが、このようなことまで報道してもらいたいものだと、これは別の問題であるが、たまたま読売新聞を購入して感じたことである。余計なことを多く報道するマスコミだが、必要なことは報道が足りない面もあることをこの事件であらためて知った。
あらためて本村弥生さんと夕夏ちゃんのご冥福を心より祈ります。そして本村洋さんのご健闘を祈らずにはおれません。
法律のことは素人ですが、犯罪人を裁くのは、本人が更生して再犯をしないようにすると言うことではなく、犯した罪の償いをさせて、その償いの重さを大衆に示すことにより、他者による次なる犯罪の発生を防止することにあるのではないでしょうか。よって私は復讐法に賛成です。
人を殺意を持って殺したら、当然死刑。一人かそれ以上かなんて関係なし。ましてやその人間に更生の可能性があるかないかなど、関係ないと思います。
この頃は人権尊重の履き違えのようなケースが多いのでは。犯罪人の人権ばかり問題になり、肝心の犯された被害者の人権は議論の外になっていませんか。
もう一つ問題なのは、死刑が確定したのに執行されないで、無駄飯を食べている人数が、何と100人以上いると言うではないですか。まさに税金の垂れ流し。死刑執行のはんこは押さないと言って、法務大臣は物議をかましましたが、中国のように死刑が確定したら即刻執行すべきです。死刑廃止論はそれはそれで別の議論すれば良いのです。
被害者の知る権利や、簡単に釈放してよいのだろうかという問題があると思います。
あの淳君を猟奇的に手にかけた犯人は、本当に更正しているのか。御手洗ひろみちゃんを手に掛けた少女は、何年かしたらまた釈放されるのだが、本当に更正しているのか。
犯人の方が守られている法律には、もし自分が被害者になったと考えたとき、許し難い思いを持つであろうと、想像に難くありません。
彼等についての報告の書も読んでみましたが、彼等の更正については疑問があります。
死刑という刑罰については、悩むところですが、社会にたいしての歯止めとして、現在の世相を見るとき、必要であると、悩みつつも考えざるを得ません。
光市裁判の経過に関しては、近隣に住む私としては、特に注目して見守っております
。
ご主人の痛いほど強い信念の会見をテレビで拝見する都度、このたび21人もの弁護士が名乗りを上げたことで、この日本社会で、ある一定以上の水準へ達する「はず」である高学歴層(いわゆる知識人とでも申しましょうか)へ対する懐疑心が、再びふつふつと沸いて参ります。
この裁判に関しましては、私は死刑以外に道はないものと考えております。
事件が利己的な思惑を持つ人間の恰好の餌食となってしまい、奥様と子供さんを亡くされた木村さんが、2次被害、3次被害にあわなければならなくなってしまっている現状を慮れば、申す言葉はございません。
しかしながら、これは非常に表現に御幣があって欲しくないのですが、ヒトがヒトを罰し「死刑」(つまりは合法的殺人)を望まざるを得ない状況もまた、同じように無常なことであるかと思われるのです。
このたびの事件で、死刑が確定しました暁に、わたしは「当然であろう」と思うでしょう。それ以外であれば納得できないほど、犯人の言動は、慎みを欠いております。
それでも、私は、人の生命を人が絶たなければならない世情もまた、やはり大罪に値する気もいたします。
かく言う私も、人を殺めたことこそありませんが、決して、決して、人に胸を張って善人であるなどとは申せませんし…。
願わくば、犯人である元少年が、その生あるうちに、少しでも、生に対する尊さ、死に対する恐れを、その胸に真から芽生えさせてはくれまいかと思うのです。
意味のない散文をすみません。
木村様がいつの日か、心が休まる平穏な日々を回復できることを祈ります。
本当にこのような事件に対して、社会はどのように向き合っていったらよいのか、考えさせられます。
この少年に対してくだして欲しい判決は、「死刑」をもってするしかないであろうと考えます。僧侶である私がこのように考えることに責任はあると思います。
お釈迦様は人間は変わりうることを説かれました。この少年にも更生のチャンスは無いとは言えません。
「死刑」の判決はくだされても、その執行に猶予が欲しいとは思います。しかしあの弁護士たちでは、彼に更正のチャンスをくれるようなことは望めません。
しかるべき弁護士さんがいたら、(そのような弁護士さんも日本にはいます。)彼を更正に導いて欲しいとは願います。
私も本村さんの生活が正義に守られて欲しいと切望します。姿さんのような方の支援の声が彼にはどんなにか有り難いことでしょう。
陰ながらそう思っている人も、私を含め、日本には多いと思います。その反面あの弁護士団のような輩もいますし、この社会は善意だけではありませんから、お互いに気をつけて生きなくてはならないでしょう。
私も決して善意だけの人間ではありませんが、人を害さないだけの自然の能力は有り難いことに持っています。
いろいろなことがある世の中ですが、自分を大事にお互いに生きて参りましょう。