風まかせ~

自分で歩いて得た季節のきまぐれ情報です。気が向いたときに写真付きで時々出します。

鎌倉街道と思われる道を自転車で(最終)

2020-04-27 | 歴史散策

今回で「鎌倉街道と思われる道を自転車でシリーズ」は終了です。

最後の方で道が判らなくなってしまいましたが仕方のない事と思っています。人生いろいろありますから。

 

 

平方の渡し場に行くには以下の3案を考えましたが結局どの案も使いませんでした。その理由はあえて申し上げません。

1)畔吉の渡し場から引き返し徳星寺から南下してくる道に出会ったらそのまま南下する。①八枝神社の前に着きます。

2)諏訪神社(西)から南東へ向かい途中上尾丸山公園に向かうT字路を右折し、上尾丸山公園入口、上尾橘高校前を通り、②橘神社横に着きます。

3)上記の道で上尾丸山公園に向かうT字路を曲がらず進み次の信号右に行きます。この道は「桶川新道」といいます。県営上尾丸山団地前を通過しそのまま南下し平方交差点で県道51号に出たら左折しすぐ斜めに左折する旧道を行くとまもなく②橘神社前に着きます。

 

① 平方・橘神社

 橘神社の創建は明らかではありませんが、元禄7年(1694)の「平方村寺社地御改之覚」によれば文明3年(1471)銘の額(存在していない)がある旨が記載されていることから室町時代にはすでに祀られていたことが判ります。本殿の背後には樹齢800年と推定される幹回り5.75m、高さ20mにも及ぶ大ケヤキの古木(上尾市指定天然記念物)が聳えていましたが昭和54年の台風により折れてしまったため一部が切断されています。

「風土記稿」平方村の項に「氷川社 村の鎮守なり」と記されています。この様に元来は大字平方の鎮守でしたが明治40年に平方地内の村社等の7社を合祀して社号を「橘神社」と改めました。新社号の由来はかつてこの辺は「橘の里」と呼ばれていたことにちなんだものです。これを機に本殿及び拝殿を新たに創建しました。古い本殿は同じ大字内の八枝神社に移築され今も同社では本殿として使われています。

ケヤキやクスノキの樹木で囲まれた橘神社は、植物名を冠した近隣でもあまり見かけない珍しい神社名です。

 

②八枝(やえだ)神社

 創建は元禄年代(1688~1704)と伝えられていますがそれ以前から何らかの祭祀が行われていたと考えられています。

神仏混淆の時代には牛頭天王を祀っていたことから天王社と称し正覚寺という天台宗の持ちでした。文化11年(1814)銘の石製の社号額に「牛頭天王社」とあるのはそのためで今も天王社とよぶ人が少なくないということです。明治初年京都の八坂神社の枝社として「八枝神社」と社号を改称しています。

境内にある大ケヤキ・エノキは創建当初からあると伝えられ大切にされています。そのうちの2本は樹齢500年以上と推定されている古木です。

 

当社が現在のような姿になったのは明治八年のことでそれまでは神木の大ケヤキの根元に牛頭天王の石祠が祀られ、その傍に獅子頭を納めた堂があっただけでした。平方の鎮守であった氷川社が近隣の村社を合祀して橘神社となった際に社殿を新築しました。その時の古い社殿を当社に移築し、更に幣殿と拝殿も新築しました。昭和6年9月に地震の被災に遭い半壊しましたが復元し現在の形となりました。社殿は現在補修中で参拝は出来ますが外観は見ることが出来ません。

上尾市指定天然記念物の大ケヤキのほか毎年7月に行われる夏祭り「泥いんきょ祭り」は水と泥が一体となる奇祭で指定無形民俗文化財となっています。

 

③平方の渡し場(平方河岸)

 平方河岸は江戸時代から大正年代まで舟運で栄えた町でした。江戸初期から年貢米の輸送、有事の川船供給といった徳川政権を支える経済、軍事の必要性が舟運の発展に大きくかかわり一時期上尾町とは比較にならないほど発展しました。

ここは岩槻や原市方面から川越方面へ渡るための渡船場もある交通の要衝でもありました。江戸時代の初期にあたる寛永15年(1638)以前には成立していたと考えられます。平方河岸の舟運を利用した積み出しの最も古い記録である「年貢請取証文」に天和2年(1682)平方河岸の問屋甚五兵衛が大和田村(さいたま市)からの物資を江戸に運んだという記録があるそうです。

江戸時代後期に記された平方村の記述によると船の数は9艘と定められ、年貢米のほか穀類や醤油、酒などの商品を上げ下ろしされ上尾や桶川で盛んだった紅花の輸送も陸送よりも安価だったので舟運が多く利用されていました。

明治初めには船は18艘まで増え6軒の船問屋が活動していました。明治から大正にかけては下宿、上宿の町場化がより進んだ時期で銀行、レンガ工場、醸造所をはじめとしたさまざまな工場や店舗が並んでいました。明治20年(1887)には荒川流域の河岸場では最大の繁栄を誇っていた戸田河岸を上回る取引高を記録しています。

しかし明治16年に高崎線の開通に伴い次第に賑わいが廃れ始めていき、昭和初期に移ると鉄道やトラックによる陸上輸送の発達により舟運は終焉を迎えてしまいました。いまはその面影は渡し場以外は僅かに見られる程度です。渡し場は全く見られません。

 

渡し場跡

 

河岸の町並み

煉瓦造りの倉庫

 

上尾市指定無形民俗文化財 「平方のどろいんきょ」について

 八枝神社神社の夏祭りは奇祭ともいうべきめずらしい「どろいんきょ」が挙行される。その起源については不明な点も多いが八枝神社は牛頭天王社と呼ばれた江戸時代にはすでに始められていたらしい。7月中頃の日曜日に挙行されるが当日は普通の神輿のほかに白木の屋形を乗せて頑丈に作られた「いんきょ」が担ぎ出される。若者がこれを担ぎまわり、神酒所の広場でひっくり返し、終始水をかけ泥の中をこね回す。つまり「どろいんきょ」である。

まず神社の仮屋という櫓から担ぎ出され境内を練った後町内に出るがこれをオヤマダシという。いんきょは水を浴び泥まみれになって巡行する。これをワタリという。山車というのはいんきょの担ぎ棒を竪に立てそのてっぺんに扮装した人が乗りこれを綱で引くことである。また近くの荒川に放り込まれて洗われるという壮大な様も見ごたえがある。こうして最後に神社へ戻り御仮屋に納められるがこれをオオヤマオサメと呼んでいる。

当市のみならず県内でも珍しいものといえよう。 (現地案内板説明文より)


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