60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

堤 清二

2013年12月06日 08時36分23秒 | Weblog
 先週11月29日の朝刊に、「堤清二氏が肝不全のため、都内の病院で死去、86歳」という記事があった。堤清二氏は西武グループ創業者で衆院議長も務めた故堤康次郎の次男として生まれ、議長秘書を経て、西武百貨店、西友ストアー(現西友)などの社長を務めた。堤義明・元西武鉄道会長は異母弟になる。80年代から90年代初頭にかけて、西武百貨店、西友、パルコを中核とした流通グループを、生活総合産業を掲げ幅広い事業を手がけるセゾングループに育てた。進出した事業は、ホテル事業やマンション販売、リゾート開発、金融サービスなど多岐にわたった。しかし、金融機関からの借入金に頼った拡大路線がバブル崩壊で破綻し、ホテル事業、リゾート開発などから撤退。2000年には不動産会社の西洋環境開発を清算する際に、私財提供を余儀なくされた。グループ企業の経営から退き、セゾン文化財団理事長を務めた。
 また、詩人・辻井喬として61年の「異邦人」で室生犀星詩人賞、92年の詩集「群青、わが黙示」で高見順賞のほか、00年には日本の敗戦や戦後と向き合った長編詩「わたつみ 三部作」で藤村記念歴程賞を受けた。小説家としては69年、婚外子としての自身の複雑な出生などをつづった自伝的作品「彷徨の季節の中で」でデビュー。経済人で歌人だった川田順をモデルにした小説「虹の岬」で谷崎潤一郎賞を受けた。03年から04年にかけて朝日新聞に新聞小説「終わりからの旅」を連載した。04年に「父の肖像」で野間文芸賞。07年に芸術院会員、12年に文化功労者。朝日新聞文化財団理事を務めた。

 私は1943年東京に出てきて、堤清二率いる西武流通グループの会社に入社した。時代は高度成長時代である。特に流通各社の延びは大きく、流通革命と呼ばれて古くからの商店街にとって変わって急速に拡大していった。西武流通グループも、西武百貨店、西友から始まって、パルコ、ファミリーマート、無印良品と次々と新業態を打ち出していく。当時の覇権争いは激烈でダイエー、西友、ヨーカ堂と全国に店舗網を広げ戦国時代の様相であった。各社の社長は戦国時代の殿様のように、企業の旗頭であり絶対君主でもあった。そしてその差配や戦略は企業の浮沈を大きく左右していた。堤清二の率いるセゾングループは勢いに乗って流通以外にも不動産、ホテル、保険とその展開は多岐渡り、最盛期にはグループ企業は100社以上、従業員数は4万人を超えていたと思う。マスコミも時代の寵児として取り上げ、我々従業員にとって、堤清二をトップに持つことを誇らしくも思っていた時代である。

 そんな大所帯の企業で、我々社員が堤清二と直接話す機会はほとんどない。せいぜいエレベーターの中で挨拶をするか、品揃え内見会等で質問を受けて答える程度である。だから我々が直接社長の話を聞く機会は、年始のマイク朝礼での挨拶か、上期下期の年2回の幹部集会に話を聞く程度である。私も40歳を越す頃から幹部集会に出席するようになった。そんな中でいまだに記憶に残っている堤清二の言葉がある。
 それはある時の集会の冒頭に突然、「滅私奉公はするな!」と言い始めたことである。言葉の端々に怒りが入り、相当激しい口調だったように記憶している。(多分直前に何らかの布石があったのであろう)。「滅私奉公することが働く人の鑑だと考えている社員がいたら、そういう社員は即刻辞めてもらいたい!」、「会社とは自己発現の場である。自分を生かす場である。そんな場で自分を滅する(殺す)のであれば、それは働くに値しない!」、そんな内容だったと思う。その話を聞いた私は、改めて堤清二の真髄を感じたように思った。

 飛ぶ鳥を落とす勢いのあったグループも、バブルの崩壊から大きく傾き始めてくる。 インターコンチネンタルホテルの買収、各地でのリゾート開発、マンション販売と小売業から離れた部分が大きな負担となって、やがてグループが離散の運命をたどることになるのである。西武百貨店はセブン&アイへ、西友はウォルマートへ、ファミリーマートは伊藤忠商事へ、パルコはJ・フロント(松坂屋、大丸グループ)へと売られることになった。当然マスコミは堤清二の無軌道ぶりを叩き、栄枯盛衰を面白おかしく報じることになる。その後堤清二はマスコミには表立って出ることはなくなり、ペンネームの辻井喬として時々見かけるぐらいであった。

 察するに堤清二にとっては悔いの残る人生だったのかもしれない。しかし私の知る限りセゾングループに働いた社員で、堤清二を悪く言う人をほとんど聞いたことがない。グループのリーダーとして我々社員に夢を見させてくれ、働くとは何なのかを教えてくれ、その超人的な活躍に羨望のまなざしを持ち、自分達の人生の中で鮮烈な想い出を作ってくれた。そんな堤清二に感謝こそすれ、結果に対して恨むことはない。若い頃は共産党員であり、資本家であり、経営者であり、詩人であり、小説家であった堤清二、やはり昭和の時代を駆け抜けていった鬼才である。安らかなるご冥福を、心からお祈りしたいものである。合掌







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