60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

庭木

2013年05月10日 09時42分32秒 | Weblog
 ゴールデンウイーク前半の27日は友人に誘われて、足利のフラワーパークに藤の花を見に行った。そして29日は毎年恒例になっている青梅の塩船観音のツツジを見に行く。さて後半の4連休はどうしようと考える。歳を取ってくると混雑の中に出て行くのが極端に億劫になる。人人人そんな中に身を置くと、自分の神経が分散し対象に気持ちが向かない。そして大勢の人の気配が迫っくるようで、いたたまれなくなってくるのである。そんなことからゴールデンウイーク後半は、ほったらかしになっていた庭木の手入れをすることにした。

 手入れといえば聞こえは良いが、生い茂ってきた樹木の伐採である。今の家に移ってきた時、庭には杉とハナミズキの2本の木しかなく、いかにも殺風景だった。そこで目隠しの意図もあって、近くの園芸店から苗木を買ってきて家の周りに植えていった。今になって思えば木々の特性も知らずに無計画に植えことを、軽率だったと反省している。苗木はせいぜい1m、だから道路や隣家との境から30~50cm離して植えていく。たぶん5年や10年であればそれでも良かったのであろう。しかし20年30年経過すると樹の大きさは自分の想定をはるかに超えて成長してくる。樹木の枝葉が道路側に大きくはみ出し、隣家の境界に植えた木は枝が越境しないように、常に気を配らなくてはならなくなった。

 植えた樹木は30本ぐらいだろうか、それぞれの木が成長するにしたがって、狭い庭の中での生き残り競争が激しくなっていく。戦いに負けた木は衰え、やがて枯れてしまう。強いものが勝つ掟は植物の世界も同じで、生命力の旺盛な木は我が物顔に小さな庭の中にのさばっていく。我が家の庭で一番強いのは南天の木だろうか、地下茎だからいつの間にか庭のあちこちから伸びていって藪を作っていく。それから成長の早いのは梅の木、縦横無尽に枝を伸ばし、隣接の木の上に覆いかぶさって日照権を奪っていく。木々は大きくなるにしたがって成長のスピードは加速度的に増していき、びっしりと葉を茂らせ、直射日光が届かないほどに鬱蒼とした庭になってしまった。

 最初の日はノコギリと刈込みバサミで枝を掃う。高い枝は脚立に上がってノコギリで切るのだが、これが思いのほか重労働で遅々として進まない。「これでは何時までたっても終わらない」。 2日目はホームセンターへ行って小さな電動式のチェーンソーを買ってきた。刃渡り30センチのチェーンソーは意外に強力で、うなりをあげて幹や枝を掃ってくれる。見る間に伐採した枝葉で庭に大きな山ができあがった。3日目はこの切った枝葉の始末である。枝についている葉をハサミで切り落としてゴミ袋に詰め、枝は1m程度に切りそろえて束にして紐を掛ける。最終的に90リットルのゴミ袋12袋と、枝の束が8つ出来上がった。これである程度はスッキリした。(上の写真の状態)。しかし最後に10m近く伸びてしまった杉の木が残る(下の写真の木)。これが難問なのである。

             

 ここまで高くなると下から切るわけにはいかない。どちらの方向に倒しても、隣家や電線に被害が及ぶ。業者に頼めば、「クレーン車を使い道路を一時封鎖して伐採するから100万円近くかかる」と友人に脅かされた。やはり自分で切るしかない。木に登り上から順番に切り落としていくしかないだろう。チェーンソウをロープで吊り上げ、幹に体を縛って両手を使って切断する。木の上部にロープを結んで落とす方向をコントロールする。どう考えても年寄り一人で出来る範囲を超えている。結局息子に電話をかけて息子の休日に手伝ってもらうことにした。

 ペットにしても樹木にしても、生きているものを管理するにはエネルギーもお金もかる。それが好きで楽しみながら継続できれば良いが、そうで無ければやがて手に負えなくなってしまう。「歳と共に自分で管理できる範囲を狭めていかなければいけない」、庭の手入れをしながら、つくづくそう実感したしだいである。


足利フラワーパーク

      

      

      

      

青梅 塩船観音




      

      

      




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