60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

散歩

2009年04月21日 13時21分15秒 | 散歩(1)
8年前母が亡くなった。やはり母の死は大きく、心の中にぽっかりと穴があいたような空虚さを感じた。
生前最後に逢った時に「まだまだ子供に対して責任があるのだから、煙草をやめなさい」と言われた。
これを母の最後の言いつけだと思い、自分への戒めとして、母の死を機にタバコを止めることにした。
煙草を止るとやはり太り始める。そしてそのためには運動しようと思い立ったのが散歩の始めである。
歩くこと、歩き続けることは、母の死による心の空虚さを埋め合わせるためにも有効な手段であった。
歩き始めて1年も経つとこれが習慣になり、歩かなければ物足りなさを感じるようにまでなって行った。

それ以来いまだに歩いている。毎週土曜日を散歩の日とし、首都圏近郊を歩き続けている。 
バックにペットボトル(500ml)の飲料と、少しの食料を入れ、手にはデジカメを持って歩くのである。
どこかの駅に降り、時にはバスに乗り、3時間から時には5時間程度歩いて又駅に戻ってくる。
主に散歩の本を参考に、そのコースをたどっている。最初は西武線79駅全ての駅に降りて歩いた。
それから、東京、神奈川、千葉、茨城、遠くは群馬までも歩いている。延べ350回は超えるだろう。

歩くことでいろんな発見がある。白金も歩いた山谷も歩いた。銀座も歩いた熊谷も秩父も歩いた。
地域によって、そこに暮らす人々の生活様式や雰囲気や人情の微妙な違いを感じるようにもなった。
それぞれの街に商店街があり、学校があり、神社仏閣がある。そして何よりも人の住む住宅がある。
家々には庭木や鉢植えがあり、犬や猫がいる。洗濯物が干してあり、子供を叱る声が聞こえる。
見も知らぬ街の中にも自分と同じような生活がある。当たり前のようだが、それが新鮮で楽しかった。

歩き始めて間もなく、デジカメを持って、歩くようになった。目にとまるままにシャッターを押して行く。
山や川の流れを、海辺を、草花を、神社仏閣を、公園や庭園を、港や船や橋を、撮って歩いた。
そのうち、ただ風景を撮ることから、その地域の空気を写し込めないだろうかと思うようになって行く。
そのためには風景の中に人を写し込むことがてっとり早い。散歩する老人、無邪気に遊ぶ子供たち、
釣りをする人、ベンチで語り合う恋人、神社にお参りする人、お祭りで集う人、畑を耕す人、等々。
毎週撮りためた写真を編集し、仲間に散歩の記録としてメールで配信するようにもなった。
そんなことを続けて8年、首都圏の主だった散歩コースはほとんど歩いた。しだいに歩く所も写す
テーマも枯渇していき、散歩もマンネリになって来たように思う。

先日、家電量販店をのぞいてみる。コンパクトなデジカメの中で、マクロ1cmという製品を見つけた。
私のデジカメは10cmが限界、花など大写しで撮ろうと近づいてもピントが合わずボケてしまう。
今回見たデジカメは接写1cm、しかも薄くて、手ぶれ補正があり、顔認証があり、夜間でも明るい。
デジカメも日進月歩、今持ているものより数段高性能で、しかも価格も3万円を切っていた。
見れば見るほど欲しくなる。何よりもマクロ1㎝が魅力である。そう思うと、いてもたってもいられない
すぐに銀行へ行き、預金を下ろし買ってしまった。このあたりが自分でも衝動的だと思うところである。

翌日新しいデジカメを持って郊外の畑道を散歩する。道にタンポポが咲き、庭先に花が咲き乱れる。
畑には菜の花が咲き、ネギ坊主が開いている、雑木林は若葉が噴き出しもえぎ色になっている。
新しいカメラを花に近づける、接写1cm。ちゃんとピントは合っていて花は大写しになったくれた。
手当たりしだいに写して行く。撮りためたものを見てみると、今までとは全く違った世界が写っている。
こんなに近づいて見てみたら、今まで見えていなかったものが見えてくる。新しい驚きがそこにあった。
接写で見るマクロの世界がそこにある。「私は新しい武器を手に入れた」そんな気分である。
新しいカメラを持って、来週からまた散歩に出ていく楽しみが出来たように思う。

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