六歳日には天皇陛下も御精進されていたこと。
「年中行事御障子文」(太政大臣藤原基経が仁和元年885に衝立障子に宮中の年中行事を列記して書き出し光孝天皇に献上したもの。内裏の清涼殿に置かれた。)に「毎六歳日(8日・14日・15日・23日・29日・30日)、御精進幷殺生禁断の事。毎十八日、二間観音供事」とあります。 . . . 本文を読む
印融法印の時世の歌
高野春秋に「(永正十六年)秋は八月十五日夜、印融闍梨、武州烏山観護寺(また三會寺)に入寂。融師とは武州久保の人也。幼若に登山。事教業成。無量光院に入る。開講撓はず。議論玄に入る。筆記勝計すべからず。晩年関東に遊説。談林を興し論場を創る。平生書籍を捨てず、恒に烏山三會寺に居し時々隣里他山講義の毎に小牛に乗る。而して其の牛角に巻帙を架し行々熟覧焉。辞世歌に曰く「生まるるも阿字(梵 . . . 本文を読む
今日は親鸞聖人ご入滅の日です。「弘長2年(1262年)11月28日 、押小路南 万里小路東にある実弟の尋有が院主である「善法院 」にて、享年90(満89歳)をもって入滅。臨終は、親鸞の弟の尋有や末娘の覚信尼らが看取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた」(ウキペヂア)とされます。東本願寺では21日から28日まで報恩講を営んでいます。不十分な知識ながら、親鸞聖人はわれわれに『業』のどうしよう . . . 本文を読む
日本紀略 / 応和二年(962)十一月廿七日辛未条
「廿七日辛未 (中略) 今日 綿調布等を以て東西京(の困窮民)に賑給す」
天皇は村上天皇。『後撰和歌集』の編纂、『清涼記』の著者とも、平安文化を開花させ「天暦の治」として後世景仰される。この「天暦の治」もこうした天皇の貧民へ賑給する等の陰徳あって花開いたといえましょう。 . . . 本文を読む
「本朝皇胤紹運録」(第九十九代後亀山天皇)「応永四年(1397)十一月二十七日尊号および兵仗を辞退、その後御出家、法名金剛心」
後亀山天皇は第九十九代・南朝第四代。南朝最後の天皇。後村上天皇(第97代天皇南朝第2代天皇)の皇子。在位1383〜1392。足利義満に応じ、神器を北朝の後小松天皇に伝えて譲位、南北朝合一。 . . . 本文を読む
三島由紀夫の檄文われわれは戰後の日本が、經濟的繁榮にうつつを拔かし、國の大本を忘れ、國民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと僞善に陷り、自ら魂の空白狀態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、權力慾、僞善にのみ捧げられ、國家百年の大計は外國に委ね、敗戰の汚辱は拂拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と傳統を瀆してゆくのを、齒嚙みをしながら見てゐなければならなか . . . 本文を読む
以前NHKBsの「大戦国史」で、戦国時代にスペイン等がキリスト教によりアジア諸国を植民地化した姿が改めて浮き彫りにされていました。日本は秀吉・家康等の禁教令に依り辛うじてキリスト教から日本を護ることができましたが、明治維新以降は宗教的には戦国時代と同様の危険な状況が現出され、敗戦でさらに一層混迷の度を深めています。皇室にまで深くキリスト教が入り込んできています。
日本人は無宗教を表明することをイ . . . 本文を読む
今日は高野山八傑の一人尚祚入寂の日。尚祚は高野山心南院の学匠。高野山八傑の一人。字は覺體、または覺禅。気象俊徹、神手卓異、夙に覺海の室に入り、密教の奥義に到達。正智院道範と互に稟授請益する所あり。後に心南院を剏建して化を啓き、阿弥陀二像を安じ、密誦の外兼ねて浄行を修す。嘗て弥陀三昧を修するに行道衆忽ちに一人を増す。乃ち弥陀像なり。師曰く、二像の中いずれぞや、一像即ち一像を指す。爾来一尊を指佛といひ . . . 本文を読む
梁塵秘抄口伝「我(後白河法皇)、永暦元年(1160)十月十七日より精進を始めて、法印覺讚を先達にして、二十三日(熊野詣に)進発しき。二十五日むまやどの宿に、為保左衛門尉にてありしに、それがぐしたりし先達のゆめに此度参らせ給ふはうれしけれど、ふる哥をたばぬこそはおしけれと、見たる由を申す。元より王子にてはする事をばすなるに、御哥などはあるべき物をなどいふ者有しかど、餘り下臈がちにて、けんぞにやなど云 . . . 本文を読む
「吾妻鏡」
「建久三年(1192)十一月小廿五日甲午。白雲飛び散り。午以後霽に屬す。
早旦、 熊谷次郎直實 与 久下權守直光、 御前に於て一决を遂ぐ。是、武藏國熊谷と久下の境相論の事也。直實武勇に於て者、一人當千之名を馳せると雖も、對决に至りて者、再往知十之才に不足。頗に御不審を貽すに依て、將軍家、度々尋問令め給ふ事有り。時に直實申して云はく。『此の事、 梶原平三景時、直光を引 . . . 本文を読む
百練抄(康和五年(1103)十一月二五日)「公家高野大塔を(再建落慶)供養す。」
高野春秋にも「(康和五年癸未年)十一月二十九日。大塔落慶焉。御導師検校明算師」とあります。
壇上伽藍は正歴五年(994)の落雷で諸堂が焼失、寛治二年(1088)白河上皇が登拝、大塔再建の宣旨を下していました。 . . . 本文を読む
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満済准后日記 / 永享三年(1431)十一月廿四日条
「廿四日 幕府 不動護摩ヲ三宝院ニ修シテ (三宝院門跡・醍醐寺第座主の満済が)変異ヲ祈禳ス」
天皇は後花園天皇。室町幕府は足利義教。
醍醐三宝院満済は義満・義持・義教が帰依 . . . 本文を読む
・宝亀四年773十一月二十四日は良弁僧正の遷化された日。八十四歳。続日本紀に「宝亀四年十一月甲子。僧正良弁卒。遣使弔之。」良弁は日本華厳宗第二祖。近江または相模の人。金鐘行者。義淵に法相を、新羅僧審祥に華厳を学び、東大寺建立に尽力、初代別当。のち僧正。幼少期鷲にさらわれ義淵拾われたとか様々の伝説に富む。なお東大寺では毎年12月16日に良弁忌を行っている。 . . . 本文を読む
今日は天台大師智顗ご入滅の日です。天台大師智顗は開皇17年(597)11月24日未時天台山西門の石城寺(新昌大仏寺)にて 享年60歳で入滅されています。延暦寺で、天台大師智顗(ちぎ)の忌日(11月24日)を中心として行う法華十講の法会を霜月会といいます。天台大師智顗microについて . . . 本文を読む