今日11月13日は道興大師実慧上人の入滅された日です。実慧上人は大師十大弟子の一人、「檜尾口訣」を著す。承和14年(847年)11月13日自ら創設した河内観心寺側の法禅寺にて入滅。享年62。檜尾山に葬られる。安永3年(1774年)8月、道興大師の諡号を賜っています。承和十年十二月十三日の承和灌頂(於東寺)では実慧大徳が大阿として堂内に入り三昧耶会場の西方を進まれたとき、大師が高座に影現されたといい . . . 本文を読む
今日は高倉天皇が中宮平徳子無事御産の御礼の宸筆を守覚法親王に賜った日。今日治承二年1178十一月十三日は高倉天皇が中宮平徳子無事御産の御礼の宸筆を守覚法親王に賜った日。守覚法親王と高倉天皇は兄弟。以下「宸翰英華」等によります。「治承二年十一月中宮徳子の御産に當り皇兄喜多院御室守覚法親王は六波羅邸にて孔雀経法の修法を以て霊験を示された。守覚法親王は承安二年十月にも孔雀経法で霊験を示されており重ね重ね . . . 本文を読む
今日11月13日は慈恩大師基の誕生日です。慈恩大師基(631~682)は、17歳で玄奘三蔵の弟子となり、瑜伽唯識を究め法相宗を開かれました。大慈恩寺に住したので、慈恩大師と尊称されています。法相(ほっそう)とは、あらゆるものの根本のあり方を指す言葉で、「一切の存在現象はただ識による」(唯識)としています。これによるとわれわれの苦しみもすべて自分の過去から積み重ねてきた心の一番深いところにある「阿頼 . . . 本文を読む
今日は大師が入定に備えて「穀味を厭い、専ら禅定を好まれ」始めた日です。天長7年11月12日から、大師は穀味を「厭い、専ら禅定を好ま」れるようになっています。(御遺告に「・・われ去んじ天長九年十一月十二日より深く穀味を厭ひて専ら坐禅を好む。皆是令法久住の勝計、幷びに末世後世の弟子門徒のため也。・・われ入滅せんと擬するは今年三月二十一日寅刻なり・・」とあります。) . . . 本文を読む
1948年(昭和23年)11月12日は東京裁判結審の日です。途中で日本語通訳が行われなかったところがあります。
このような背景で押し付けられた憲法を半世紀以上後生大事に守っているのです。
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今日は後水尾天皇の第一皇女文智女王が圓照寺住職となられた日
後水尾天皇の第一皇女文智女王は、寛永十七年(1640)、22歳で仏頂国師を師として出家、大通文智尼となる。大通文智は翌寛永十八年(1641)、京都の修学院の地に草庵を結んだ。これが圓照寺の始まりであり、寛文九年(1669)十一月十二日現在地に移転とのこと。
円照寺は、三島由紀夫の『豊壌の海』では『月修寺』のモデルと言われています。
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今日は守覚法親王の孔雀経法により、安徳天皇が出生された日です。仁和寺諸師年譜に「喜多院御室法親王守覚。後白河院第二皇子なり・・・勅請に応じ、修法すること十三箇度、効験これ多し。就中治承二年十月二十五日、宮中御産所に二十口の伴僧を引率し孔雀経法を修す。同年十一月十二日皇子誕生、翌日御感あり。勅書にいわく、先に三条殿においてこの法を修するの時、霊験殊勝なり、いままたかくの如し。謝する所なし云々。今に至 . . . 本文を読む
崇光天皇御願文に「 敬白 伊勢太神宮 立願の事 右心中の祈請成就の為、奉納する所の仏舎利一粒なり。即ち是 髻中の寶杲、身内の極秘なり。尊廟哀愍納受、須らく悉地円満ならしめ給へ。仍って立願すること件の如し。永和二年十一月十一日 太上天皇 興仁敬白」永和二年(北朝の年号)は1376年。この時代の天皇は、北朝方が後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。このころは鹿児島の島津氏が南朝についた . . . 本文を読む
今日は花園法皇崩御の日
以下ウキぺデア・宸翰英華等に依ります。
花園天皇は第九十五代天皇。延慶元年(1308年)8月25日、大覚寺統の先帝後二条天皇が急死したために翌26日に12歳で践祚、11月16日に即位。在位の前半は父の伏見上皇が、後半は兄の後伏見上皇が院政を布いた。文保2年(1318年)2月、大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位。
禅に傾倒し宗峰妙超と関山慧玄を師とし . . . 本文を読む
今日は静観僧正増命遷化の日です。
以下ウキぺデア等に依ります。
増命は承和十年(843年) - 延長五年927十一月十一日。平安時代前期の天台宗の僧。父は左大史桑内安峰。死後に静観僧正の号を下賜(『師元年中行事』には「静観大師忌日」とあります)。第十代天台座主。
円仁から天台教学を学び、円珍から灌頂を受け智証大師流を伝える。貞観十年(868)には清和天皇のために『宗論御八講』 . . . 本文を読む
明算中院流祖、高野山中興。一に中院御坊と言ひ、俗姓は佐藤氏。紀州那賀郡田中庄神崎邑の人。治安元年誕生。長元四年1031十一歳の春、祈親上人に伴はれて高野山に登り東室に入り、翌五年上人に随って薙髪修学す。長久元年春中院に移住し、永承四年1049八月釈王寺頼尋に就いて伝法灌頂を受け、天喜五年1057四月始めて御影堂に十六口の山籠僧を申置し、御影供を始行す。同六年七月小野曼荼羅寺に至り、成尊に謁して大日 . . . 本文を読む
「太神宮諸雑事記」「天平十四年749十一月三日、右大臣橘朝臣諸兄卿、伊勢大神宮に参入、其の故、(聖武)天皇御願寺建立されるべき之由宣旨に依ると祈り申される所なり。而して勅使帰参之後、十一月十一日夜半、天皇の御前に玉女示現し給ふ。坐りて即ち金色光を放ちて、宣ぶ、『本朝は神国なり。神明を欽仰し奉るべきなり。而して日輪は大日如来也。大地は廬舎那仏也。衆生之を悟り當に佛法に帰依すべきなり』 . . . 本文を読む
今日は天台座主増命示寂の日。増命は、承和10年(843年)生まれ -、延長5年11月11日(927年12月7日)没。日本往生極楽記(慶滋保胤)「延暦寺座主増命は左大史桑内安峰が子なり。父母子なし。祈って和尚を生む。和尚天性慈仁。少にして児戯なし。夢みらく、梵僧あり、来りて摩頂して曰く「汝、菩提心を退く莫れ」。この如くなること数(あまたた)びなり。受戒後、未だかって臥寝せず。智証大師に就きて三部の大 . . . 本文を読む