・「平家物語・高野槇」「瓦に松生ひ垣に苔生むして、星霜久しく思えたり。昔延喜の帝の御時、御夢想の御告げあつて、檜皮色の御衣を参させ給ふに、勅使中納言資澄卿、般若寺の僧正観賢を相具して、この御山に上り、御廟の扉を押し開き、御衣を着せ奉らんとしけるに、霧厚う隔たつて、大師拝させ給はず。ときに観賢深く愁涙して、「我悲母の胎内を出でて、師匠の室に入つしよりこの方、いまだ禁戒を犯ぜず、さればなどか拝み奉らざるべき」とて、五体を地に投げ、発露啼泣し給へば、やうやう霧晴れて、月の出づるが如くに、大師拝まれさせ給ひけり。その時観賢随喜の涙を流いて、御衣を着せ奉り、御櫛の長う生ひ伸させ給ひたるをも、剃り奉るぞあり難き。勅使と僧正は拝み給へども、僧正の御弟子、石山の内供淳祐、その時はいまだ童形にて供奉せられたりしが、大師を拝み奉らずして、深う嘆き沈しづんでおはしけるを、僧正手を取つて、大師の御膝に押し当てられたりければ、その手一期いちごが間あひだ、香しかりけるとかや。その移り香は、石山の聖教に残つて、いまにありとぞ承はる。大師、帝の御返事に申まうさせ給ひけるは、「我昔薩に会ひて、まのあたりことごとく印明を伝ふ。無比の請願を起こして、辺離の異域に侍べり。昼夜に万民を憐んで、普賢の悲願に住せり。肉身に三昧を証じて、慈氏の下生を待つ」とぞ申させ給ひける。かの摩訶迦葉の鶏足の洞に籠つて、翅頭の春の風を期し給ふらんも、かくやとぞ思えける。御入定は、承和二年三月二十一日、寅の一点のことなれば、過ぎにし方は三百余歳、行く末すゑもなほ五十六億七千万歳の後、慈尊の出世、三会の暁を待たせ給ふらんこそ久しけれ。」
・「神皇正統記」に「(観賢)僧正は高野に詣でて大師入定の窟を開きて御髪を剃り、法服をきせかへ申し人なり。其の弟子淳祐(石山の内供と云)相伴はれけれどもつゐ見たてまつらず。師の僧正、その手を取りて御身にふれしめけりとぞ。淳祐罪障の至をなげきて卑下の心ありければ、弟子元杲僧都に許可(許可灌頂)ばかりにて授職をゆるさず。勅定によりて法皇の御弟子寛空にあひて授職灌頂をとぐ。・・」
・「今昔物語巻十一弘法大師始建高野山語 第廿五」に「・・・亦、入定の所を造て、承和二年と云ふ年の三月廿一日の寅時に、結跏趺坐して、大日の定印を結て、内にして入定す。年六十二。弟子等、遺言に依て弥勒実号を唱ふ。
其の後、久く有て、此の入定の峒を開て、御髪剃り御衣を着せ替奉けるを、其の事絶て久く無かりけるを、般若寺の観賢僧正と云ふ人、権の長者にて有ける時、大師には曾孫弟子にぞ当ける。彼の山に詣て、入定の峒を開たりければ、霧立て暗夜の如くにて、露見えざりければ、暫く有て霧の閑まるを見れば、早く、御衣の朽たるが、風の入て吹けば、塵に成て吹立てられて見ゆる也けり。
塵閑まりければ、大師は見え給ける。御髪は一尺許生て在ましければ、僧正自ら水を浴び、浄き衣を着て入てぞ、新き剃刀を以て、御髪を剃奉ける。水精の御念珠の緒の朽にければ、御前に落散たるを拾ひ集めて、緒を直ぐ揘(すげ)て、御手に懸奉てけり。御衣、清浄に調へ儲て、着奉て、出ぬ。僧正、自ら室を出づとて、今始て別れ奉らむ様に、覚えず無き悲れぬ。其の後は、恐れ奉て、室を開く人無し。
但し、人の詣づる時は、上ぐる堂の戸、自然ら少し開き、山に鳴る音有り。或る時には金打つ音有り。様々に奇き事有る也。鳥の音そら希なる山中と云へども、露恐しき思ひ無し。坂の下に丹生・高野の二の明神は、鳥居を並べて在す。誓の如く山を守る。
「奇異なる所也」とて、今に人参る事絶えず。女、永く登らず。「高野の弘法大師と申す是也」となむ、語り伝へたるとや。」