第三六課 ハムレット
ハムレットは、叔父に父を殺され、殺した叔父に母は嫁ぐ。自分はその叔父すなわち彼の恋人の父を殺さねばならない。しかも恋人はそのために狂死する。およそ世界の悲劇を一人で背負ったような青年です。それから彼はいちいち几帳面に仇敵に、それ相応の復讐を遂げ、自分はわざと恋人の兄の刃にかかって死にます。因果応報の道具にだけこの世に生れて来たような青年です。彼が台詞の言葉で言うように、これだけでは彼にとっては全くこの世の中は懐疑です。何もかも因果応報ずくめのこの芝居の中で、ハムレットだけには、骨折りばかりあって褒美の方が足りないようです。しかし、さすがは作者の沙翁シェクスピア、実は褒美は幕の外からハムレットに与えるようになっています。何かというと、見物の深い同情です。
以上で、この芝居は、外観には非常なもつれが行われて見えますが、中身は不増不減で、よく収支決算がついています。そこがちょうど現実の縮図を見ることになるのです。この芝居の何となく、いつの時代でも人をひきつける力があるのは、そういうところから来ております。日本の忠臣蔵もおなじことです。
仏教の言葉で、これを「実相平等因果差別じっそうびょうどういんがしゃべつ」と言います。実相平等とは善因は善報を受け、悪因は悪報を受けて、ちゃんと割り切れるという、物事の実体方面で常に不増不減のところを指します。因果差別とは、物事の表面の現れ方で、一波万波を呼び、善悪相闘い、目まぐるしい凹凸のある方面を指します。
(しかし我々は実相でなくて因果(表面の姿)が平等であってほしいと常に願います。・・どうしてこうも他人と運命が違うのか?どうして社会的不公平があるのか?どうしていい人が苦労したり先に死ぬのか?・・因果面であらわれる姿は不条理極まりないものです。しかし同時にわれわれは薄々因果は平等にはならないことも感じてはいます。私も求聞持行で満天の星空の下で瞑想しているとき仏様から「衆生は満天の星空のような無限の福徳をそれぞれ有しておるぞ」と啓示を頂きましたが今から思えばそれは実相面のことだったのです。それが因果の面では大変な差別相として日々顕れて来るのです。これが凡夫には耐えられない事なのです。しかし、華厳経巻十の「夜摩天宮菩薩説偈品」では『心・佛・衆生是三無差別(自分の心は仏と一体であり、他者とも一体である)』と説いています。自他供に仏として一体であるというのです。そうすると個人個人の個別の運命は実はないことになります。なお密教では加持により実相面の真理の世界と個別の因果の世界を一体化させます。)