福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

苦しみ、悲しみ、悩みは、仏様がすでに「OKだ」とされているものを自分が受け入れないところに出る。

2013-09-27 | 法話
「・・・仏様は、こちらが救いを求める以前に、すでに何もかも許し、受け入れ、承諾し、慈悲で包んでいてくださっているのたが、この救いは、こちらが苦しみ、悩むところにのみ、はじめて実感できる。

苦しみ、悲しみ、悩みは、仏様がすでに「OKだ」と受け入れ済みのものを、自分が受け入れないところに成立している。つまり悩み、苦しみは、仏への反発である。仏教では、この反発のことを「破法」、「謗法」とか、「五逆罪」だと言っている。道徳的罪のことではない。物事に優劣を幻想するところからくる一切の誤りのことである。道徳的罪を超えた、人が人として生きる時、必然的に犯す絶対的悪のことである。
この罪があるゆえに地獄必定の身であり、凡愚である。この五逆の罪を深々と感じるところに、「五逆の罪を犯した私がそっくり許されている」と感じるのである。そこが喜びであり、救いである。
この五逆の意識こそ慚愧である。だから慚愧は人であるための条件である。「人とは、救われ得るもの」と言う意味である。
反対に、「自分が何か良いことを行っている」と言う意識のところには、「許され、受け入れられている」と言う実感は表れない。罪の意識から許しを請うところに、許しが嬉しいのである。「何々して上げた」、「何々してやる」と自惚れているところには、許しは感じられない。だから、「無慚愧は畜生」だと言われるのである。畜生とは、「救いの喜びを味わうことのできない生物」と言う意味である。
ここが、親鸞聖人の言われる「悪人正機説の根拠だ」と思う。
善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
歎異抄
したがって、罪を深く感じる者には、それだけ許しの喜び、救いは大きく、罪意識の少ない者には、喜びはその程度しかない。罪意識の大きさ、つまり苦しみの大きさによって、救いの大きさも決まる。
罪障功徳の体となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし
親鸞(高僧和讃)
この身が地獄必定の身であるが故に、救いは最上限である。底下の凡愚である故に無限の喜びがある。最初に述べたように、人類を破滅に導くような医にたずさわっている故に、この上なく有難く感じるのである。
ああ、何と言う阿弥陀仏の周到な心くばりだ。地獄必定、底下の凡愚、人類の破滅が全て、この私を救うための必要条件であったとは。私の悪性は、私が救われるための必要条件であったとは。仏は全ての条件を整えて、私一人をめがけて、救いの手を差しのべてくださっていた。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとへに親鸞一人がためなりけり。
されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、
たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ
歎異抄
嬉しいではないか、このひどい身が、すっかり許されでいる。それどころか、許され、弥陀に抱かれていながら、私はまだ反発し続けている。私には、仏に反発する自由が与えられている。悩む自由、悲しむ自由が与えられている。この自由がまた嬉しいのである。
この喜びを感じるところが浄士である。浄士は今、ここにある。他のどこにあるものでもない。私は浄士にいる。
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実の我が身にて
清浄の心もさらになし

無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたもふ

この浄土では、仏に反発し、救われていることを忘れていても、仏の側では、しっかりと私を抱いていてくださる。何と安心なことか。何と有難いことか。
我また彼の摂取の中にあって
煩悩、眼を障わひして
見ること能はずといへども
大悲ものうきことなくして
常に我が身を照したもふ

われまたかの摂取のなかにあれども、
煩悩、眼を障へて、
見たてまつることあたはずといへども、
大悲倦むことなくして、
つねにわが身を照らしたまふ。・・・」
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