福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

阿字秘釈和訳 興教大師 其の二

2013-11-02 | 阿字秘釈和訳
第二に表徳の義とは此に無量の義あり。仏すら説き尽くしたまはんこと難し。いかにいわんや余人おや。故にしばらく略して十義を出ださん。

一には如実知自心の義なり。故に即身成仏義にいわく、諸法の不生際を見るを如実知自心といふといへり。またウン字義に云はく、若し本不生際を見るは、これ実の如く自心を知るなり。実の如く自心を知るは即ちこれ一切智智なりといへり。疏もまたこれに同じ。これらの文の意のいわく、三密不二の一心は本来本有にして始めて生するものにあらず。生相を遠離するが故に住異滅の相も亦無し。四相を離るるが故に一如不動なり。かくのごとく自心の性は本来不生不滅の無為の法なりと知るを如実知自心の仏と名ずくといはんとぞ、すべて心性の無きに依って本不生といはんとにはあらず。心性は本有常住にして全く物の為に出生せらるること無きが故に本不生とは云ふなり。

二には本不生とは、これ一切衆生はもとよりこのかた常にこれ佛なりといふ義なり。故に即身成仏義にいわく、衆生究竟じて是れ佛なりと見るを諸法の本不生際を見ると名ずくといへり。疏もまたこれに同じ。文の意の曰く、一切衆生は本よりこれ佛なるが故に本より生ずるにはあらずと云ふなり。不生とは謂はく衆生に非ずと云はんとぞ、生とは四種の生なり胎卵湿化なり。或は四種の相(生住異滅)なり。しばらく初の一をあげて後の三を摂するがゆえに或るひは二種の生死(分段生死、変易生死)なり。かくのごとくの三種の生にはあらずといはば、必ず是れに佛こそはあわすなれとこそは心得して佛ならぬ人のこれらの生にあらぬか、あらばこそあらめ。

三には本不生とはウン(梵字)字義によらば即ちこれ一実境界の義即ちこれ中道の義なり。意のいわく一切の顕教には未だ普く一切事理の諸法に遍じて本不生不滅の義を説くことあらず。故いかんとなれば、異生人天の三種の住心は一向有生有滅の心なり。声縁の二乗は未だ法空の理不生不滅の義を知らず。法相三論天台華厳の四乗は人法において不生不滅なりといへども尚皆一心を能生とし、諸法を所生として能所二生の義、建立す。わずかに真如一心の法こそ不生不滅の理なれ、一切の色法ならびに妄想等は皆これ有生有滅の法なりいうて尚心性を離れて事の縁起の法について直に、無為常住の法とは得いはぬなり。ここに真言宗は恣に理の故をからねども、事事の諸法は本より是れ不生不滅の法なり。事も心理より生ぜず。これ佛の身語の二密なり。理もまた事より生ずるにあらずして即佛の意密の智なりといふまり。生ありといふも滅ありといふも皆これ遍執なり。故に今不生不滅を中道の義と名ずく。不生とは略語なり、具には不生不滅といふなり。これ即ち真実究竟不二大乗の境界なり。故に一実境界といふなり。
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