角田さんの「第11回目の江戸三十三観音・東京十社巡拝記録」・・4
この日最後の札所、高野山東京別院に向います。午前11時50分。目的地に着きました。
江戸三十三観音霊場第29番
高野山東京別院(東京都港区高輪3-15-18)
本尊 弘法大師
札所本尊 聖観世音菩薩
宗派 高野山真言宗
「生かせ命、高野山真言宗」と白地に墨で書かれた、塀代わりの看板が目に着く東京別院。高野山だけあって、広大な敷地の境内に、重厚な木造建築の仏殿や、コンクリート造りの拝殿。明神社と扁額のある神社もある寺名にふさわしい豪壮、優美な寺院です。本堂の拝殿は、黒塗りの太柱が走り、高い天井と広い空間に圧倒される思いです。
祭壇には沢山の明かりが点いていて、荘厳な雰囲気が漂っていました。入場者は私たちだけでしたので、心行くまで、読経しました。
「高野山東京別院は、高野山真言宗総本山高野山金剛峰寺の東京別院です。慶長年間(1596~1615年)、江戸に徳川幕府が開かれた時、高野山の宝門・寿門の学侶方の在番所の寺として、浅草の日輪寺に寄留して開創されました。明暦元年(1655年)芝日本榎の地を下賜され、延寶元年(1673年)に、「高野山江戸在番所高野寺」として、正式に建立されました。明治になると、在番所は、廃止され、葛飾・牛島の長寿寺から名跡を移しました。長寿寺は、推古天皇25年(617年)備後国世羅郡に勅願寺として創建され、行基が、信濃国深瀬に移し、寛文4年(1664年)、葛飾に移つたという古刹です。昭和2年、高野山東京別院と改称して寺法を改め、住職は、総本山金剛峰寺座主が兼摂しています。現在の別院は、昭和63年春に本堂が創建されました。御本尊である聖観世音菩薩は、東京別院第四世増舜大阿闍梨が高野山青厳寺から奉持して奉祀されました。」(同寺縁起より)
東京別院境内内には「明神社」(みようじんじゃ)があります。
立て札より転記します。
「この「明神社」は、平成27年、弘法大師の高野山開創1200年を記念する各種事業が本山で行われましたが、本山の各種事業成満を待って別院の記念事業として、神社建立の発願をしました。平成27年10月、丹生都比売神社(にうつひめ)の宮司と管長猊下により、奉祝祭と開眼法会が神仏一体で奉修しました。参拝する時には、「南無大明神」とお唱えしてお参りして下さい。
弘法大師は、高野山の土地を嵯峨天皇からご下賜いただきましたが、高野山の鎮守の神である丹生都比売大神(丹生明神といいます)に、霊地を授かり、そのお子さんである高野御子大神(高野明神・狩場明神)の案内で高野山上に至りました。弘法大師は、高野山を開くにあたり,先ず明神社を祀り、その後、伽藍の建築を手掛けたといわれています。高野山には明神社が立派に祀られ諸行事はすべて明神社参拝から始まっています。当、別院にもかつては明神社があましたが、明治維新の神仏分離令により排されました。このたびの記念事業として再建をいたしました。社殿と鳥居は弘法大師ゆかりの四国産で石材としては最高級の庵治石で、木造部分は、高野山の霊木檜を使いました。
「第一殿」丹生明神・気比明神
「第二殿」高野明神・厳島明神 (以上を高野山の四明神という)
「第三殿」十二王子・百二十番神 (高野山の周囲を守る)
「第四殿}高輪神社の御祭神 (東京別院の氏神社) 」(全文、案内立て札より)
また境内の中に、黒石に刻まれた碑文と傍に立てられた石燈篭がありました。いい碑文でしたので、再掲してみます。「灯篭建立由来の辞」です。 「灯明は,迷い、苦しみの闇にさし込む仏の智慧のシンボル。灯明は、我が身を燃やし手回りを照らす。「生かせ、いのち」の象徴。
高野山奥之院では「貧女の一灯」が、不滅の法灯として輝き続けています。そこから採火されたともしびが、全工程570キロ、弘法大師の御心をわが心とする神奈川県の青年僧侶の団体(青年教師会)の徒歩行脚により、平成14年10月21日、ここ高野山東京別院萬燈萬華会の灯明として点じられました。国境、人種、民族の壁を越えた、この世界のすべての人々、これから、この世界に、生れ出る子孫たちへの、限りなき栄えの願いが込められた聖なるともしび、その「点灯台」として建立されたのが、この燈篭で、以後、大きな行事の
際、灯がともされます。 願わくは、この光業によって自他を抜済せん。同じく共に一覚に入らん(弘法大師・高野山萬燈会願文) 南無大師遍照金剛 平成15年春。高野山東京別院(碑文より)」
また、東京別院は、「高輪結び大師」とも言われています。「高輪」の地名は、戦国時代の「高縄原」の名に始まり高縄とは、「高縄手道」=高台のまっすぐな道、の略語に由来するそうです。高台のまっすぐな道が、「しめ縄」に見えたといいます。お大師様のみ教えで、仏さまと人、人と人を「結ぶ」場所、「高輪結び大師」といわれる所以です。
東京別院の地下に、東京電力高輪変電所が、設けられているのをご存知でしょうか。別院の地下に、7階建て、延べ面積19,800平方メートルの広さの変電所が設けられています。地中送電線で275,000ボルト電気を受電しておりこれを、66.000/22,000ボルトに変圧して送電しています。
東京電力では、当時、都心部で新たに変電所を設けるだけの用地の確保が難しかったため、広い境内を持つ、東京別院の地下に、変電設備を設置する場所を求めたといいます。平成元年(1989年)に、この変電所が完成して、稼動を開始しました。
御詠歌 ありがたや 高野の寺の 観世音 大慈大悲に すがるうれしさ
(続)
この日最後の札所、高野山東京別院に向います。午前11時50分。目的地に着きました。
江戸三十三観音霊場第29番
高野山東京別院(東京都港区高輪3-15-18)
本尊 弘法大師
札所本尊 聖観世音菩薩
宗派 高野山真言宗
「生かせ命、高野山真言宗」と白地に墨で書かれた、塀代わりの看板が目に着く東京別院。高野山だけあって、広大な敷地の境内に、重厚な木造建築の仏殿や、コンクリート造りの拝殿。明神社と扁額のある神社もある寺名にふさわしい豪壮、優美な寺院です。本堂の拝殿は、黒塗りの太柱が走り、高い天井と広い空間に圧倒される思いです。
祭壇には沢山の明かりが点いていて、荘厳な雰囲気が漂っていました。入場者は私たちだけでしたので、心行くまで、読経しました。
「高野山東京別院は、高野山真言宗総本山高野山金剛峰寺の東京別院です。慶長年間(1596~1615年)、江戸に徳川幕府が開かれた時、高野山の宝門・寿門の学侶方の在番所の寺として、浅草の日輪寺に寄留して開創されました。明暦元年(1655年)芝日本榎の地を下賜され、延寶元年(1673年)に、「高野山江戸在番所高野寺」として、正式に建立されました。明治になると、在番所は、廃止され、葛飾・牛島の長寿寺から名跡を移しました。長寿寺は、推古天皇25年(617年)備後国世羅郡に勅願寺として創建され、行基が、信濃国深瀬に移し、寛文4年(1664年)、葛飾に移つたという古刹です。昭和2年、高野山東京別院と改称して寺法を改め、住職は、総本山金剛峰寺座主が兼摂しています。現在の別院は、昭和63年春に本堂が創建されました。御本尊である聖観世音菩薩は、東京別院第四世増舜大阿闍梨が高野山青厳寺から奉持して奉祀されました。」(同寺縁起より)
東京別院境内内には「明神社」(みようじんじゃ)があります。
立て札より転記します。
「この「明神社」は、平成27年、弘法大師の高野山開創1200年を記念する各種事業が本山で行われましたが、本山の各種事業成満を待って別院の記念事業として、神社建立の発願をしました。平成27年10月、丹生都比売神社(にうつひめ)の宮司と管長猊下により、奉祝祭と開眼法会が神仏一体で奉修しました。参拝する時には、「南無大明神」とお唱えしてお参りして下さい。
弘法大師は、高野山の土地を嵯峨天皇からご下賜いただきましたが、高野山の鎮守の神である丹生都比売大神(丹生明神といいます)に、霊地を授かり、そのお子さんである高野御子大神(高野明神・狩場明神)の案内で高野山上に至りました。弘法大師は、高野山を開くにあたり,先ず明神社を祀り、その後、伽藍の建築を手掛けたといわれています。高野山には明神社が立派に祀られ諸行事はすべて明神社参拝から始まっています。当、別院にもかつては明神社があましたが、明治維新の神仏分離令により排されました。このたびの記念事業として再建をいたしました。社殿と鳥居は弘法大師ゆかりの四国産で石材としては最高級の庵治石で、木造部分は、高野山の霊木檜を使いました。
「第一殿」丹生明神・気比明神
「第二殿」高野明神・厳島明神 (以上を高野山の四明神という)
「第三殿」十二王子・百二十番神 (高野山の周囲を守る)
「第四殿}高輪神社の御祭神 (東京別院の氏神社) 」(全文、案内立て札より)
また境内の中に、黒石に刻まれた碑文と傍に立てられた石燈篭がありました。いい碑文でしたので、再掲してみます。「灯篭建立由来の辞」です。 「灯明は,迷い、苦しみの闇にさし込む仏の智慧のシンボル。灯明は、我が身を燃やし手回りを照らす。「生かせ、いのち」の象徴。
高野山奥之院では「貧女の一灯」が、不滅の法灯として輝き続けています。そこから採火されたともしびが、全工程570キロ、弘法大師の御心をわが心とする神奈川県の青年僧侶の団体(青年教師会)の徒歩行脚により、平成14年10月21日、ここ高野山東京別院萬燈萬華会の灯明として点じられました。国境、人種、民族の壁を越えた、この世界のすべての人々、これから、この世界に、生れ出る子孫たちへの、限りなき栄えの願いが込められた聖なるともしび、その「点灯台」として建立されたのが、この燈篭で、以後、大きな行事の
際、灯がともされます。 願わくは、この光業によって自他を抜済せん。同じく共に一覚に入らん(弘法大師・高野山萬燈会願文) 南無大師遍照金剛 平成15年春。高野山東京別院(碑文より)」
また、東京別院は、「高輪結び大師」とも言われています。「高輪」の地名は、戦国時代の「高縄原」の名に始まり高縄とは、「高縄手道」=高台のまっすぐな道、の略語に由来するそうです。高台のまっすぐな道が、「しめ縄」に見えたといいます。お大師様のみ教えで、仏さまと人、人と人を「結ぶ」場所、「高輪結び大師」といわれる所以です。
東京別院の地下に、東京電力高輪変電所が、設けられているのをご存知でしょうか。別院の地下に、7階建て、延べ面積19,800平方メートルの広さの変電所が設けられています。地中送電線で275,000ボルト電気を受電しておりこれを、66.000/22,000ボルトに変圧して送電しています。
東京電力では、当時、都心部で新たに変電所を設けるだけの用地の確保が難しかったため、広い境内を持つ、東京別院の地下に、変電設備を設置する場所を求めたといいます。平成元年(1989年)に、この変電所が完成して、稼動を開始しました。
御詠歌 ありがたや 高野の寺の 観世音 大慈大悲に すがるうれしさ
(続)