聖徳太子が薨去されたのは御年四十九歳推古天皇の三十年二月二十二日夜半でした。日本書紀には人々が嘆き悲しんだ様子が書かれています。
(日本書紀推古天皇)廿九年春二月己丑朔癸巳(二月二十二日)、半夜、厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮。是時、諸王諸臣及天下百姓、悉に長老、愛兒を失うふが如く而も鹽酢之味在口不嘗(あぢはひ口に在れども嘗なめず)、少幼、如亡慈父母以哭泣之聲滿於行路(少幼者わかきは慈うめる父母かぞを亡うしなふが如くて、哭なき泣いさつる声、行路みちに満てり)。乃耕夫止耜(乃すなはち耕夫たがやすものは耜すきを止め)、舂女不杵(舂女つきめは杵きおとせず)、皆曰「日月失輝、天地既崩。自今以後、誰恃哉。(皆曰いはく、日月輝ひかりを失ひて、天地既に崩れぬべし。今以後、誰か恃む哉。)」
是月、葬上宮太子於磯長陵(是の月、上宮太子を磯長陵に葬る)。當于是時(是の時に当たりて)、高麗僧慧慈、聞上宮皇太子薨、以大悲之、爲皇太子請僧而設齋(高麗の僧慧慈、上宮皇太子の薨ることを聞きて、大きに悲しび、皇太子の為に、僧を請ひて設斎す)。仍親說經之日、誓願曰(仍りて親ら経を説く日に誓願して曰く)「於日本國有聖人、曰上宮豐聰耳皇子。固天攸縱(日本国に聖人あり。 上宮豊聡耳皇子と曰す。固(まこと)に天に縦(ゆる)されたり。)、以玄聖之德生日本之國(玄聖の徳を以ちて日本国に生まれり。)。苞貫三統、纂先聖之宏猷、恭敬三寶、救黎元之厄(三統を苞み貫き、先聖の宏猶を纂ぎ、三宝を恭敬して、黎元の厄を救ふ)。是實大聖也。今太子既薨之(是実に大聖なり。今太子既に薨る。)、我雖異國心在斷金(我、異国にありと雖も、心は断金にあり)、其獨生之何益矣。我以來年二月五日必死、因以遇上宮太子於淨土、以共化衆生。(其れ独り生くとも何の益か有らむ。我、来年の二月五日に必ず死なむ。因りて上宮太子に浄土にて遇ひて共に衆生を化さむ)」於是、慧慈、當于期日而死之。是以、時人之彼此共言「其獨非上宮太子之聖、慧慈亦聖也。」(是に慧慈、期(ちぎ)りし日にあたりて死す。是を以ちて、時の人、彼も此も共に言はく 「其れ独り上宮太子の聖にましますのみにあらず。慧慈もまた聖なり」といふ。)