福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

愚管抄巻七 その3/6

2022-11-18 | 法話

愚管抄巻七 その3/6

ををきにこれをわかつに漢家に三の道あり。皇道・帝道・王道也(伏羲・神農は皇道、黄帝・堯・舜は帝道、禹湯文武は王道とされる)。この三の道に、この日本國の帝王を推知して擬あてて申さまほしけれど、それは日本國には、日本記已下の風儀にもをとり、つやつやとてなき事にて中々あしかりぬべし。その分際はまたしりたからん人は、みなこの仮名の戯言にもそのほどよなどは思あはせられむずる事の器量をしる道にはよき物語にて侍れ。秦代に孝公(始皇帝の天下統一の基礎を作った)よき臣をもとめ給ひしかば、景監(孝公の寵臣)と云もの衛鞅(法家思想の商鞅)をもとめてまいらせたり。見参にいりて天下を治めるべきやうを申。孝公きこしめして御心にかなはずとみゆ。又参て申す。うちねぶりてきこしいれず。第三度『まげて今一度見参にいらむ』と申て参らしめて申けるたび、居よりよりせさせ給ひて(座ったままちかよりたまい)いみじくもちいられけり。さてひしと天下を治めてけり。(衛鞅こと商鞅は孝公の性格を見極めるため、わざわざ三度謁見を取り次ぐよう希望した)。それは一番には帝道をときていさめもうしけり。次は王道をときてをしへ申けり。この二たび御心にかなはず。第三度のたびこの君かなはじとみまいらせて、覇業をとき申て用られにけり。秦の始皇と申すきみも覇業の君とこそ申なれ。後に又魏の斉王の時に、范叔と云臣の世をとりたる。(范叔は秦の昭襄王に対して遠交近攻策を進言して秦の優勢を決定的なものとした)。衛鞅をいみじき者と云けれど、蔡澤といふ者いできて(史記 「范睢蔡澤列傳」に衛鞅の部下となった蔡沢は衛鞅に功極まったので引退しないと危ないと進言し衛鞅は引退し蔡沢を後継者とした。蔡沢も讒言をおそれて数か月で宰相を引退したが後剛成君と号し、昭襄王・孝文王・秦王政に仕えた。)「衛鞅はいみじかりしが、後に車裂にせられたりなど申すぞかし。王臣も一期生無為無事にこともなくてすぐるこそはよけれ」と論じて、范叔は蔡沢に論まけて、さらばとて世の政を蔡沢にゆずりていりこもりにければ、蔡沢うけとりて誠に王臣一生はをだしくて(おだやかに)やみにけり。あはれこのもしき(好もしき)者どもかな。蔡沢がめでたきよりも、范叔が我世を道理にをれて、去てのきけるこころありがたかるべし。漢家の聖人賢人のありさまこれにてみなしらるべし。唐太宗の事は貞観政要にあきらけし。佛のさとりにも、菩薩の四十二位(https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjYiI7mtZ37AhVPHnAKHefBAogQFnoECBIQAQ&url=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ffukujukai%2Fe%2F6d7685e5f11b78ca1713c6d66b01aba3&usg=AOvVaw2RHSjRk-pKilsoVsLWqO-C)までたつるも、善悪のさとり分際みなをもひしらるる事なり。

今神武以後、延喜・天暦までくだりつつ、この世を思ひつつ゛くるに、心もことばも及ばず。さりながらこの代にのぞみてをもふに、神武より成務まで十三代は、王法・俗諦ばかりにていささかのやうもなく、皇子皇子うちつつ゛きて八百四十六年はすぎにけり。仲哀より欽明まで十七代は、とかくをおちあがりて(おちたりあがったり)安寧・武烈の王もまじらせたまひて、又仁徳・仁賢(二十四代。父の市辺押磐皇子が雄略天皇に殺された際、弟の袁祁命(おけのみこと)とともに丹波へ逃れ、さらに播磨に身を潜めたと記す。清寧天皇なきあと、弟の袁祁命(顕宗天皇)が即位し、ついで王位を継承した。)めでたくてすぎにけり。三百九十四年なり。十三代より十七代は少なし。

さて欽明に仏法わたりはじめて、敏達より聖徳太子のをさなくをはします五つ六つよりわたるところの経論、ひとへにをさなき人(聖徳太子)にうちまかせて、みとき(見解き)王に申させたまひて、敏達・用明・崇峻三代はすぎぬ。その次に女帝の推古にひしと太子を摂政にて、仏法に王法はたもたれてをはしませば、この敏達より桓武まで二十一代、この平安の京へうつるまで一段にとらば、その間は二百卅六年、これ又十七代の年のかずよりもすくなし。このやうにて世の道理のうつりゆく事をたてむには(表すには)、一切の法はただ道理と云二文字がもつなり。其の外にはなにもなきもの也。ひがことの道理なるを、しりわかつことのきはまれる大事にてあるなり。この道理の道を、劫末より劫初へあゆみのぼるなり。これを又大小の國國のはじめよりをはりざまへくだりゆくなり。この道理をたつるに、やうやうさまざまなるを心得ぬ人にこころゑさせんれうに(為に)せうせう心ゑやすきやうかきてあらはし侍べし。

一、冥顕和合して道理を道理にてとをすやうははじめなり。これは神武より十三代(成務天皇)まで。

二、冥の道理のゆくゆくとうつりゆくを顕の人はゑ心得ぬ道理、これは前後首尾のたがひたがひして、よきもよくてもとをらず、わろきもわろくてもはてぬを人のゑ心得ぬなり。これは仲哀(十四代)より欽明(三十四代6世紀)までか。

三、顕には道理かなとみな人ゆるしてあれど、冥衆(神仏)の御心にはかなはぬ道理なり。これはよしと思てしつることのかならず後悔のあるなり。その時道理と思てする人の、後にをもひあはせてさとり知る也。これは敏達(三十代。6世紀)より後一条院(六十八代、道長の孫。11世紀。)の御堂の関白までか。

四、當時さたしぬる間は、我も人もよき道理と思ほどに、智ある人のいできて、これこそいはれなけれと云とも、まことにさありけりと思返す道理なり。これは世の末の人のふかくあるべきやうの道理なり。これまた宇治殿(藤原頼道10世紀)より鳥羽院(七十四代12世紀前半)などまでか。

五、初めより其の儀両方にわかれてひしひしと論じてゆりゆくほどに、さすがに道理は一つこそあれば、其の道理へいいかちてをこなふ道理なり。これは地體に道理をしれるにはあらねど、しかるべくて威徳ある人の主人なる時はこれを用る道理也。これは武士の世の方の頼朝までか。

六、かくのごとく分別しがたくて、とかくあるいは論じ、あるいは未定にてすぐるほどに、ついに一方につきてをこなふ時、わろき心のひくかたにて、無道を道理とあしくはからひて、ひがごとになるが道理なる道理なり。これはすべて世のうつりゆくさまのひが事が道理にて、わろき寸法の世々をちくだる時どきの道理なり。これ又後白河(12世紀)よりこの院(後鳥羽上皇)の御即位(1180年)までか。

七、すべてはじめよりもひくわだつるところ、道理と云ものをつやつやわれも人もしらぬあいだに、ただあたるにしたがひて後をかえりみず、腹寸白(回虫)などやむ人の、当時をこらぬとき、のどのかはけばとて水などをのみてしばしあれば、そのやまいをこりて死行にもをよぶ道理也。これはこの世の道理なり。されば今は道理いふものはなきにや。

このやうを、日本國の世のはじめより次第に王臣の器用果報をとろへゆくにしたがひて、かかる道理をつくりかへつくりかへして世の中はすぐるなり。劫初劫末の道理に、仏法王法、上古中古、王臣万民の器量をかくひしとつくりあらはする也。さればとかく思ともかなふまじければ、かなはでかくをちくだる也。かくはあれど内外典に滅罪生善といふ道理、遮悪持善といふ道理、諸悪莫作、諸善奉行といふ仏説のきらきらとして、諸仏菩薩の利生方便といふものの、一定またあるなり。これをこのはじめの道理どもにこころへあはすべきなり。いかに心得あはすべきぞといふに、さらにさらに人これをおしふべからず(教えることはできない)。智慧あらん人のわが智解にてしるべきなり。ただしもしやと心のをよびことばのゆかんほどをば申ひらくべし。大方ふるき昔のことは、ただかたはしをきくに皆よろつ゛はしらるる心ばへの人にて、しるしをく事きはめてかすかなり。これをよみて申さむことは、ひとへのすいりょうのやうなれば、又此ころの人は信をおこさぬことにて侍らんずるれば、こまかに申がたし。をろをろは(不十分に)又やがて事のけつ゛らいをば(趣向)さやうにやと云ことはかきつけ侍ぬ。

 

 

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