今日は後白河法皇が初めて熊野詣をされた日
・「梁塵秘抄口伝集」「我(後白河法皇)、永暦元年1160十月十七日より精進を始めて、法印覺讚を先達にして、二十三日進発しき。二十五日むまやどの宿に、為保左衛門尉にてありしに、それがぐしたりし先達のゆめに此度参らせ給ふはうれしけれど、ふる哥をたばぬこそはおしけれと、見たる由を申す。元より王子にてはする事をばすなるに、御哥などはあるべき物をなどいふ者有しかど、餘り下臈がちにて、けんぞにやなど云ふ者もありて、有しほどに、かくゆめの事を聞きて、さうなく歌はむとて、馬やどを夜深くたちて、長おかの王子に夜のうちに参りぬ。
相ぐしたりしかば、太政大臣清盛大弐と申しし折なるべし。参りあひてありしに、此夢をいひあはせしかば、さる事候はば、さにこそ候なれ。さらにをよび候はぬよしを返事に申して、心のうちいたく雑人など數多ありて、いかがと思ひける程に、きとねいりたりけるに、束帯したるごぜむぐして、唐車に乗りたるもの、御幸のなるやらむとおぼしくて、王子の御前にたてたり。此歌をきくにかと思ひて、きと驚きたるに、今様を或人いだしたりけり。其歌にいはく、
熊野の権現は
名草の浜にぞおり給ふ
わかの浦にましませば
としはゆけども若王子
これを驚きて、資賢卿に語りて、あざまれける。夢に思ひ合せられて、人々けんてうなる由を申あひたりき。霜月二十五日奉幣して、経供養御神楽などをはりて、禮殿にて、我音頭にて古柳より始めて、今様ものの様まで、數をつくすはざまに、やうやうのことびわ、舞、猿楽をつくす。初度の事也。
・源平盛衰記
「法皇熊野山那智山御参詣事」
「法皇(後白河法皇)は御出家の思出に熊野御参詣あり、三山順禮の後、瀧本に卒塔婆を立られたり、智證門人阿闍梨龍雲坊の行眞と銘文には書かれたる。さまでなき人の門流を汲だに嬉きに、昔は一天の聖主、今は三山の行人、御宸筆の卒塔婆の銘、三井の流れの修験の人、さこそ嬉しく思けめ。書傳たる水莖の跡は、今まで通らじ、昔は平城法皇の御幸有りける山、那智山日記にとゞまり、近くは花山法皇参詣、瀧本に三年千日の行を始メ置せ給へり。今の世まで六十人の山籠とて、都鄙の修行者集りて、難行苦行するとかや。彼花山法皇の御行の其間に、様々の驗徳を顯させ給ける其中に、龍神あまくだりて如意寶珠一顆、水精の念珠一連、九穴の蚫貝一つを奉る。法皇此供養をめされて、末代行者の為にとて、寶珠をば岩屋の中に治られ、念珠をば千手堂のへやに納られて、今の世までも先達之を預かり渡す。蚫をば一の瀧壺に放ち置かれたりと云。白河院御幸時、彼蚫を見られんが為に、海女を召て瀧壺に入られたりければ、貝の大きさは傘ばかりとど奏し申ける。参詣上下の輩、萬の願の満事は、如意寶珠の驗なり、飛龍の水を身にふるれば、命の長キ事は彼蚫の故とど申傅たる。花山法皇の御籠の時、天狗様々妨げ奉りければ、陰陽博士安部清明を召されて含め仰せければ、清明狩籠の岩屋と云所に、多の魔類を祭り置。那智の行者不法解怠のある時は、此天狗共嗔をなして恐しとぞ語傅たる。
「熊野山御幸事」
「平城法皇、花山法皇、三山五箇度。
堀河院、三山一度。
鳥羽法皇、三山八度。
後白河法皇、本宮三十四度、新宮那智十五度。」