十二門論・觀作者門第十
(「観作者門」では,苦の不生起を主題とする。苦は自ら作るのでもなく、 他者が作るのでもなく、 共作(自分と他者共に作る)のでもなく ・無因作(因無く作られる)のでもない、つまり苦は「空」であることが説かれている)
「復次に一切法は空なり。何以故。自作・他作・共作・無因作は不可得なるが故なり。如説。
自作及び他作・共作・無因作、如是は不可得なり 是れ則ち苦は有ること無し。
(また、次に、すべての存在は空である。なぜなら、苦が自作・他作・共作・無因作なることは求めても得られないからである。次にあげる詩頌(中論観苦品)の如し。苦は自身によって作られる、他によって作られる、両者によって作られる、原因なくして作られる、とこういう主張はどこまでいっても解が得られない。つまり、苦は存在しないのである 。)
苦の自作なるは然らず。何以故。若し自作ならば即ち自ら其の體を作るなり。是の事を以て即ち是の事を作すことを得ず。識の自ら識を知ること能はず、指が自ら觸ること能ざるが如し。是故に自作と言ふを得ず。
(「自作の否定」。苦が自身によって作られるというのは正しくない。なぜなら、もし自身が作るのであれば、自身でその存在を作ることになりありえない。ちょうど、識が自らを認識できず、指が自らに触れることはできないように。それゆえ、苦が自作と言うことはできない。)
他作も亦た然らず。他は何ぞ能く苦を作らん。
問曰「衆縁を名けて他と爲す。衆縁は苦を作るが故に名けて他作とす。云何んが他より作られずと言はん」。
答曰「若し衆縁を名けて他と為せば、苦は則ち是れ衆縁の作なり。是の苦は衆縁より生ぜば則ち是れ衆縁の性なり。若し即ち是れ衆縁の性ならば云何んが名けて他と為さん。泥と瓶との如し、泥は名けて他と為さず。又た金と釧との如し、金は名けて他と爲さず。苦も亦た如是なり。衆縁より生ずるが故に、衆縁を名けて他と為すを得ず。
復た次に是れ衆縁も亦た自性有らざるが故に自在を得ず。是の故に衆縁より果を生ずと言ふを得ず。中論中に説くが如し。
「果は衆縁より生ずるも 是の縁は自在ならず。若し縁、自在ならざれば 云何んぞ縁は果を生ぜんや。(中論観因縁品第一)。」
如是に苦は他より作るを得ず。
(「他作の否定」。苦が他によって作られるということも正しくない。他者がどうして苦を作ることができようか。
反対者が問う「さまざまな条件を他と名付ける。さまざまな条件が苦を作るから、他によって作られるとするのである。どうして苦は他から作られることはない、と言えるのか」。
答える「もし、さまざまな条件を他と名付けるのであれば、苦は、さまざまな条件によって作られたものとなる。この苦は、さまざまな条件より生起したのであるから、さまざまな条件を本性としている。もし、さまざまな条件そのものを本質としているのであれば、どうして他と名付けることができようか。たとえば、泥でできた瓶の場合、泥を他者とは見なさない。また、たとえば、金製の腕輪の場合、作られている金を他とは名付けない。苦の場合もまったく同じで、さまざまな条件から生起するからといってさまざまな条件を他と見なすことはできない。
また、次に、これらさまざまな条件もまた本質として存在しているものではないので、それ自身から成立したものとはいえない。それゆえ、「さまざまな条件から結果は生ずる」ということはできない。『中論』の中で説いているように。「結果はさまざまな条件から生起したとしても、それらさまざまな条件はそれ自身から成立したものではない。もし条件がそれ自身から生起したものでなければ、どうして条件が結果を生起させることがあろうか」(中論観因縁品第一)」。
このように、苦が他から作られることはありえない。)
自作他作も亦た然らず。二過有るが故に。若し自ら苦を作り、他も苦を作ると説かば、則ち自作他作の過あり。是の故に、共作苦も亦た然らず。若し苦は無因生なるも亦た然らず。無量の過あるが故に。
(「苦の共作及び無因作も否定」。苦は自身と他の両者によって作られる、ということもまた正しくない。二つの過があるからである。もし、「自身が苦を作り、また他者も苦を作る」と主張するのであれば、先に「自身が作る」とした場合の間違いと「他が作る」とした場合の間違いの二つの過があることになる。それゆえ、「自身・他者の両者が作る苦」というのも正しくない。又もし、「苦は原因なくして生起する」とするなら、それもまた正しくない。無量の過があるからである。)
經説の如し。裸形迦葉、佛に問ふ「苦は自作なり耶」。佛默然として答」ず。「世尊よ、若し苦は自作にあらざれば、是れ他作なり耶」。佛亦た答へず。「世尊よ、若し爾らば、苦は自作他作なり耶」。佛亦た答へず。「世尊よ、若し爾らば、苦は無因無縁作なり耶」。佛亦た答へず。如是の四問に佛は皆な答へざるは、當に知るべし、苦は則ち是れ空なることを。
(苦が空であることの典拠
たとえば、ある経典は次のように説いている。「裸形迦葉が仏陀に質問した。『苦は自身によって作られるのでしょうか』。仏陀は黙したままお答えにならない。裸形迦葉が仏陀に更に質問した『世尊よ、もし苦が自身によって作られるのでなければ、それは他者によって作られるのでしょうか』。仏陀はまたお答えにならない。裸形迦葉が仏陀に更に質問した『世尊よ、もしそうであるなら、苦は自身によって作られそして他者によっても作られるのでしょうか』。仏陀はまたお答えにならない。裸形迦葉が仏陀に更に質問した『世尊よ、もしそうであるなら、苦は原因も縁もなく作られるのでしょうか』。仏陀はまたお答えにならない」。このように四つの質問に仏陀はすべてお答えにならなかったのであるから、「苦は空である」と理解しなければならない。)
問ふて曰く「佛は是の經を説くも、苦は是れ空なりとは説かず。度すべき衆生に随ふが故に是説を作す。是の裸形迦葉は、『人は是れ苦の因なり』と謂ひ、有我者の説の、「好醜は皆な神の所作なり、神は常に清淨にして苦惱あることなく、所知所解悉く皆な是れ神にして、神は好醜苦樂を作りて還た種種の身を受く」との是の邪見を以ての故に、佛に「苦は自作なり耶」と問ふ。是の故に佛は答ず。
(問う 「仏陀はこの経典をお説きになられたが、苦は空であるとは説かれていない。導かなければならない人たちにあわてせて、このような説をなされたにすぎない。この裸形迦葉は、人は苦の原因である、という。なぜならアートマンの存在を主張する人の説に、『姿形の良し悪しは、すべてアートマンの仕業である。アートマンは常に清浄であり、苦悩がない。知覚したり理解したりするのはすべてアートマンである。アートマンは姿形の良し悪し、苦と楽を作り、ひるがえってさまざまな身体を受けさせる』 とあるからである」と間違って考えたのである。このような間違った考えゆえに、裸形迦葉は仏陀に「苦は自身によって作られるのでしょうか」と質問したのである。それゆえ、仏陀はお答えにならなかったのである。)
苦は實に是れ我が作に非ず。若し我にして是れ苦の因ならば、我に因りて苦を生ず、我は即ち無常なり。何となれば
若し法にして是れ因、及び因り生ずる法ならば皆な亦た無常なり。若し我は無常ならば則ち罪福果報皆な悉く斷滅し、梵行を修する福報も是れ亦た應に空なるべし。若し我にして是れ苦の因ならば、則ち解脱なし。何を以っての故に、我、若し苦を作らば苦を離れて我無し。能く苦を作る者は身無きを以ての故に。若し身無くして而も能く苦を作らば、解脱を得る者も亦た應に是れ苦なるべし。如是なれば則ち解脱なし、而も實には解脱あり。是故に苦の自作なることは然らず。
(苦は、実際に、アートマン(我)が作るものではない。もしアートマン(我)が苦の原因で、アートマン(我)によって苦が生起するのであれば、アートマン(我)は無常である。なぜなら、もしある存在が原因となり、その原因から別の存在が生起した場合、いずれも無常ということになるからである。もしアートマン(我)が無常であるならば、罪福果報はすべてすっかり消減してしまい、梵行の果報もまた空になってしまうであろう。またもし、アートマン(我)が苦の原因であるならば、解脱はない。なぜなら、アートマン(我)がもし苦を作るのであれば、苦を離れてはアートマン(我)は存在しないからである。というのも苦を作ることができるのは、それ自身に身がないからである。そのようにもし執着なくして苦を作ることができるのであれば、解脱を獲得した者も苦を自身に与え続けることになり、いつまでも苦しむことになってしまうだろう。以上のようであるなら、解脱はない。ところが、実際には解脱はある。それゆえ、苦が我によって作られたとするのは正しくない。)
他作の苦も亦た然らず。苦を離れて何ぞ人ありて而も苦を作りて他に與へんや。復た次に若し他の苦を作る者は則ち是を自在天の作と為す。此の如き邪見を問ふが故に佛亦た答へず。
而も實には自在天より作られず。何以故。性・相違するが故なり。牛の子は還た是れ牛なるが如く、若し萬物、自在天より生ぜば皆な應に自在天に似るべし、是れ其子なるが故に。復た次に、若し自在天、衆生を作らば、應に苦を以て子に與ふべからず。是の故に應に自在天、苦を作ると言ふべからず。
(他者によって作られるという苦もまた正しくない。苦を離れて、どうしてプドガラ(人)というものがあって、しかもそれが苦を作って他に与えることがあろうか。また、次に、もし他によって作られる苦であれば、それは自在天(造物主)によって作られたものであろう。このような間違った考えに基づいて質問したがゆえに、仏陀は、これにもま
たお答えにならなかったのである。
実際に、苦は自在天によって作られたのでもないのである。なぜなら、自在天(造物主)とその被造物とでは、現実には本質が異なっているからである。
もし、万物が自在天から生じたのであれば、牛の子ははやり牛であるように、被造物たる万物はその造物主たる自在天の子なのであるから、みな自在天に似ているはずである(しかし実際には似ていない)。
また、次に、もし自在天が衆生を作ったのであれば、子(衆生)に苦を与えるはずがない。それゆえ、自在天が苦を作ったと主張することはできない。)
問て曰く「衆生は自在天より生じ、苦樂も亦た自在天の所生なり。樂因を識らざるを以ての故に其れに苦を與ふ」と。
(ある人が質問する。「人間は自在天から生まれ、苦・楽もまた自在天から生じたのである。人間は楽の原因を自覚していないので、それを知らしめるために彼等に苦を与えるのだ」と。)
答て曰く「若し衆生、是れ自在天の子ならば、唯だ應に樂を以て苦を遮すべく、應に苦を與ふべからず。亦た應さに但だ自在天のみを供養せば則ち滅苦得樂すべし、而も實には爾らず。但だ自ら苦樂の因縁を行じて而も自ら受報す。自在天の作にあらざるなり。
(この問いに対してはこう答える、「もし衆生が自在天の子であるなら、自在天は楽を与えることによってこそ苦をさえぎるはずであって、楽を知らしめるためとして苦などを与えるはずではない」と。また、自在天に対してのみただひたすら供養を捧げれば、苦を滅し楽を獲得できるはずだ。ところが、現実にはそうならない。人間は自分で苦や楽の原因になることを行じて、その結果としての苦や楽をみずから経験するに過ぎない。したがって、万物は自在天が作ったものではない。)
復た次に、彼れ若し自在ならば、應に須(もちふ)る所あるべからず。若し須ふる所ありて自ら作らば自在と名けず。若し須ふる所なくば何ぞ變化を用ひて萬物を作ること小兒の戲の如くならん。
(また、次に、もし彼(自在天)が自在(全能)であるなら、(万物を創造する際に、材料、道具、その他)所用なものなどないはずだ。もしそのような材料を必要とし、それによって万物を作るのであれば、「自在」などとは呼べない。もし、いかなる所要物も必要としないのであれば、神力 によって思い通りに万物を作るのであろうが、それでは子供のごっこ遊びと同じではないか。)
復た次に、若し自在が衆生を作らば、誰ぞ復た是の自在を作らむ。若し自在が自ら作らば則ち然らず。物は自ら作る能はざるが如し。若し更に作者有らば則ち自在と名けず。
( また、次に、もし自在が人間を作ったのであれば、誰がその自在を作ったのか。もし、自在が自分で自分を作ったとすれば、それは不合理だ。どんなものも自分で自分を作ることはできない。もし、自在の作者というものが別にいるのであれば、「自在」とは呼べない。)
復た次に若し自在が是れ作者ならば、則ち作の中に於いて障礙あることなく、念ずれば即ち能く作らん。自在經に説くが如し。『自在、萬物を作らんと欲し、諸苦行を行じて即ち諸腹行蟲を生じ、復た苦行を行じて諸の人天を生ず』と。若し苦行を行じて初めに毒蟲を生じ次に飛鳥を生じ後に人天を生ず、とせば當に知るべし、衆生は業因縁より生じ苦行より有るに非ず。
( また、次に、もし自在が万物の作者であるならば、作ることに何の障害もなく、念じた瞬間に即座に作ることができるであろう。ところが、『自在経』 には、「自在は万物を作ろうとして、さまざまな苦行を行った結果、地上を這う動物が生まれた。さらに苦行を行って、さまざまな人間や神々が生まれた」と説いてあるように、もし、自在が苦行することによって、最初に毒蟲(地上を這う動物)が生まれ、次に鳥類が生まれ、最後に人間・神々が生まれたのであれば瞬時に生まれたのではないから、「それぞれの生き物たちは自らの行為を原因とし条件として生じたのであって、自在の苦行によって生じたのではない」ということがわかるはずだ。)
復た次に若し自在が萬物を作らば、何處に住して萬物を作るや。是の住處は是れ自在の作と為すや。是れ他作と為すや。若し自在の作ならば何處に住して作と為すや。若し餘處に住して作らば餘處は復た誰が作なるや。如是に則ち窮むる無きなり。若し他の作ならば則ち二の自在あらん。是の事然らず。是故に世間の萬物は自在の所作に非ず。
(また、次に、もし自在が万物を作ったのであれば、どこに住して万物を作ったのか。その場所は自在が作ったものなのか、自在とは別のものが作ったものなのか。もし自在がその場所も作ったというのであれば、さらにどこに身を置いて
その場所を作ったのか。もし、自分が作ったのではない別の場所で作ったというのであれば、ではその別の場所を作ったのは誰なのか。このように、いずれの場合も無限に遡及することになってしまう。もし自在以外の別のものが
作ったというのであれば、自在が二人いることになってしまう。これは、不合理である。したがって、この世の万物は自在が作ったのではないこととなる。)
復た次に若し自在の作ならば何故に苦行して他を供養し歡喜せしめて從って所願を求めんと欲するや。若し苦行して他に求めば當に知るべし自在ならず。
(また、次に、もし自在が萬物をつくったとせば、何故に苦行することによって自分以外のものに供養し喜ばせて、願いを聞き届けてもらおうとするのか。もし苦行して自在が他者に求めるのであれば、そのようなものは自在ではない、とわかるはずだ。)
復た次に若し自在、萬物を作らば初作は便ち定んで應に變あるべからず。馬は則ち常に馬、人は則ち常に人ならん。而して今、業に隨ひて變あり。當に知るべし自在の所作にあらず。
(また、次に、もし自在が万物を作ったのであれば、最初に作ったときのままでそれ以降は萬物は変化しないはずだ。馬はずっと馬であろうし、人はずっと人であろう。ところが、今では、それぞれの業にしたがってその果報として地獄に堕ちたり動物に生まれたりと、変化している。まさに、自在が作ったのではない、ということを知るべきである。)
復た次に若し自在の所作ならば即ち罪福無からむ。善惡好醜皆な自在より作らるるが故に。而も實には罪福あり。是の故に自在の所作に非ず。
(また、次に、もし自在が万物を作ったのであれば、罪福・善悪・美醜等の差別は存在しないはずだ。すべて自在によって作られたものなのであるから。ところが実際には、罪福等の差別が存在する。したがって、萬物は自在が作ったものではない。)
復た次に若し衆生、自在より生ぜば皆な應に敬愛すること子の父を愛する如くならん。而も實には爾らず。憎あり愛あり。是の故に當に知るべし自在の所作に非ず。
(また、次に、もし衆生が自在より生まれたのであれば、みな、作り主である自在を、子が父を愛するがごとくに、敬愛するはずだ。ところが、実際には違う。自在を憎む者もおり愛する者もいる。したがって、衆生は自在が作ったもの
ではない、ということがわかるはずだ。)
復た次に若し自在の作ならば、何の故に盡く樂人を作り、盡く苦人を作らざる。而も實には苦者あり樂者あり。當に知るべし憎愛より生ずるが故に自在ならず、自在ならざるが故に自在の所作に非ず。
(また、次に、もし自在が作ったのであれば、どうして全員が幸福な人ばかりであったり、あるいは全人が同じように苦しい人ばかりであったりしないのか。ところが、実際には 苦しむ人と幸福な人とが混在している。そうすると衆生は自在の憎愛から生まれたことになるから、そのような憎愛の感情を持っている存在は「自在」ではないとわかるはずだ。「自在」でない以上、衆生は自在が作ったのではない。)
復た次に若し自在の作ならば衆生は皆な應さに所作あるべからず。而も衆生は方便して各の所作あり。是の故に當に知るべし自在の所作に非ず。
(また、次に、もし衆生は自在が作ったのであれば、どの人間にも自らの意志に基づく行為というものがあり得なくなってしまう。ところが実際には人間はそれぞれの行為というものがある。それゆえ、衆生は自在が作ったのではないということがわかるはずだ。)
復た次に若し自在の作ならば善惡苦樂事を作らずして而も自ら來らん。如是ならば世間の法を壊し持戒し梵行を修するも皆な所益無らむ。而も實には爾らず。是の故に當に知るべし、自在の所作に非ず。
( また、次に、もし自在が衆生を作ったのであれば、人間は善悪・苦楽のもとの行為をしなくても、本人の行動とは無関係に善悪・苦楽がやって来るであろう。そうであれば、世間の道徳を破壊してしまい、また梵行を実行したところで、すべて無駄なことになってしまうであろう。ところが、実際にはそうではない。修行した人・善行を積んだ人は解脱し、そうでない人はいつまでも輪廻の苦にさいなまれる。したがって、萬物は自在が作ったのではない、ということがわかるはずだ。)
復た次に若し福業因縁の故に衆生中に於いて大ならば、餘の衆生の福業を行ずる者も亦復た應に大なるべし。何を以って自在を貴ばんや。若し因縁なくして而も自在ならば、一切衆生も亦た應に自在なるべし。而も實には爾らず。當に知るべし、自在の所作に非ず。
( また、次に、もし、福徳ある行為が因縁となっているから衆生の中で自在は偉大だ、というのであれば、福徳ある行
為を実践する彼以外の別の生き物もまた偉大でなければならない。どうして自在だけを特別な存在として尊崇することがあろうか。もし、そのような因縁がなくても自在であるというなら、全ての生き物もまた自在でなければならない。
ところが、実際にはそうではない。衆生は自在が作ったのではない、ということがわかるはずだ。)
若し自在が他に従りて而も得ば、則ち他は復た他に從らん。如是なれば則ち窮むることなし。窮むることなくば則ち因なし。如是等の種種の因縁により當に知るべし、萬物は自在の生に非ず。亦た自在あることなし。如是の邪見にて他作を問ふが故に佛亦た答へたまはず。
(もし、自在が他に依存して成り立ち得るのであれば、その他なるものもまた他に依存していることになってしまう。もしそうなら、これも無限遡及ということになる。無限遡及なら因などない、ということだ。以上のようなさまざまな理由から、万物は自在から生じたのではない。また自在そのものもまた存在しない、と理解すべきである。ところが、裸形迦葉は以上のような間違った見解にもとづいて「衆生は他によって作られる」ことを質問したがゆえに、仏陀はお答えにならなかったのである。)
共作も亦た然らず。二過あるが故なり。衆因縁和合して生ずるが故に無因より生ぜず。佛も亦た答へたまはず。
(萬物が自身と他者の両者によって作られるということもまた正しくない。自身によって作られるとする場合の過と他者によって作られるとする場合の過との二つの過があるからである。一方さまざまな原因や条件が集合して生起するのであるから、原因なくして生起することもない。それゆえ、これらの問いにもまた、仏陀はお答えにならなかったのである。)
是の故に此の經は但だ四種の邪見を破し苦を説きて空と爲さず。
((反論者のいうには)それゆえ、この経典は、ただ裸形行者迦葉の4 つの誤った見解を否定しているだけであり、苦が空であることもでも説いたものではない。)
答て曰く「佛は如是に衆因縁より苦は生ずと説き、四種の邪見を破すと雖も、即ち是れ空を説く。苦は衆因縁より生ずと説くは即ち是れ空の義を説くなり。何以故、若し衆因縁より生ぜば則ち無自性なり。無自性ならば即ち是れ空なり。苦の空なるが如く當に知るべし有爲無爲及び衆生は一切皆な空なり」。
(答える「仏陀は確かにそのように、「さまざまな原因・条件から苦は生起する」と説いて 四つの誤った見解を否定しておられるが、それこそが空を説いておられることなのである。「苦はさまざまな原因・条件から生起する」と説くこ
とそのことが、空の義を説くことなのである。なぜなら、もしさまざまな原因・条件から生起するのであれば、自性はなく、自性がなければそれが空だからである。)