福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

釈雲照師「十善業道経講義」から・・その3

2018-03-03 | 諸経
「一切衆生心想異なるがゆえに業を作ることもまた異なる。むかしからよくいう、『心同じからざることその面の如し』という如く顔つきは十人十色、百人は百人、たとえ兄弟といえども傍らへよせてみるとちごうておる。それは心が違うからその貌も違う。一切衆生の心想すなわち心得ようが違うから十善十悪の業がみな違っておる。同じ善をしても百通り千通りちがう。同じ悪をしても百通り千通りちがう。一口にいえば悪の事業をなせば地獄にいき、餓鬼、畜生、と無量無辺に異なる。よいことをすれば極楽に行くのみならず人間、天、欲界・色界・無色界と種々無量に差別がある。
依って官吏を勤めても農商をしても同じことをする様じゃが心が違う。業が違う。心が善心ですると善政になり、また世の中、国家を益することになる。心が悪ですると悪政になる。国益を計る善心をもってすれば現に国家を益し将来天道浄土の種になる。これに反して悪心をもって利己主義のみにしむければ現に奸商となって後、地獄の種を植え付けて、国家を紊すことになる。依って心想異なるがゆえに業をつくることも亦異なりというのである。・・『涅槃経』には『諸々の悪をなすことなかれ、衆の善を奉行し、自ら其の意を清めよとは是諸仏の教えなり』とあって、仏教広しといえどもただこの心を清むるの外にないのである。」

(心が清いかどうかということがすべてですが、我々の心は時々刻々と変化しています。常に汚れたり清まったりしています。この汚れを何度も拭わないと垢がたまるのかもしれません。北宋禅神秀の詩、「身はこれ菩提樹 心は明鏡台の如し 時時に勤めて佛拭し 塵埃を有らしめること莫れ」のとおりです。
また、心が違う故に業も違い、業が違う故に運命も違う、ということになるのでしょうが、われわれは心がもたらした最後の結果たる運命の違いのみをとりあげて歎き騒ぎます。ただ現世だけでみるとどうみても心がまがっている人の方が安楽な人生をおくっているように見えるときもあり、天道是か非かと歎く時もあるのは古今東西同じなのでしょう。)
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