愚管抄巻七 その2/6
今かなにて書くことたかき(周知のこと)やうなれども、世のうつりゆく次第とを心うくべきやうを、かきつけ侍意趣は、惣じて僧も俗も今の世をみるに、智解のむげにうせて学問と云ことをせぬなり。学問は僧の顕密を学ぶも、俗の紀傳・明経をならふも、これを学するにしたがひて、智解にてその心をうればこそをもしろくなりてせらるることなれ。すべて末代には犬の星をまもる(諺で、犬は星を見てもそも意味を分からない)なんど云やうなることにてゑ心へぬなり。それは又学しとかくする文は、梵本よりをこりて、漢字にてあれば、この日本國の人はこれをやはらげ和詞になして心うるも、猶うるさくて知解のいるなる。明經に十三経とて(易経・詩経・書経・周礼・儀礼・礼記・春秋左氏伝・春秋公羊伝・春秋穀梁伝・論語・孝経・爾雅・孟子)孝経・礼記より孔子の春秋とて、左傳・公羊・穀など云も、又紀傳の三史(史記・漢書・後漢書)、八代史(晋書・宋書・斉書・梁書・陳書・周書・隋書・唐書)乃至文選・貞観政要これらをみて心えん人のためには、かやうの事はをかしごとにてやみぬ。本朝にとりては入鹿が時、豊浦の大臣(入鹿の父、蘇我蝦夷)の家にて文書みなやけにしかども(『日本書紀』に「蘇我蝦夷等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、船恵尺(ふねのふびとえさか)、即ち疾く焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る」)、舎人親王のとき清人と日本記をなほつくられき(天武天皇の皇子の舎人親王・紀清人や三宅藤麻呂らが「日本書紀」を編纂した)。また大朝臣安麿(おおのあそんやすまろ)など云説もありける。それよりうちつつ゛き続日本記五十巻をば初二十巻は中納言石川野足(石川名足。奈良時代の上級官僚。年足の子。天平宝字5(761)年1月に正六位上から従五位下,下野守となり,以後備前守,陸奥鎮守将軍,陸奥守など地方官を歴任。この間,備前国藤野郡(岡山県和気郡)の民力の充実のため同郡の拡張を行い,伊治城(宮城県築館町)築城の功をあげた。宝亀2(771)年からは主として中央官僚として昇進し,『続日本紀』の編纂にも携わった。死去のときは中納言従三位兼兵部卿皇后宮左京大夫大和守であった。記憶力がよく,利口で決裁に滞ることがなかったが,度量が狭く,気に入らないと相手を罵ったため,事務に携わる者は名足を避けたと伝える。)、次十四巻は右大臣継縄(藤原継縄)、のこり十六巻は民部大輔菅野真道、これら本體とはうけ給てつくりけり。日本後記は左大臣緒嗣(藤原緒嗣)、続日本後記は忠仁公(藤原良房)、文徳実録は昭宣公(藤原基経)、三代実録は左大臣時平、かやうにきこゆ。又律令は淡海公(藤原不比等)つくらる。弘仁格式は閑院大臣冬嗣、貞観格は大納言氏宗(藤原氏宗)、延喜格式は時平つくりさしてありけるをば、貞信公(藤原忠平)つくりはてられけり。この外にも官曹事類(法制書。 30巻。菅野真道らの撰書。延暦 22 (803) 年成立。現存しない)とかや云文もあれども、持たる人もなきとかや。蓮華王院の寶蔵(三十三間堂)にはをかれたるときこゆれど、取出してみむと云事だにもなし。すべてさすがに内典外典の文籍は一切経などもきらきらとあむめれど、ひは(マヒワ鳥)のくるみ(胡桃)をかかへ、となりのたからをかぞふると申すことにて學する人もなし。さすがにことにその家にむまれたるものはたしなむと思ひたれど、その義理をさとることはなし。いよいよこれより後、當時ある人の子孫をみるに、いささかもをやのあとにいるべしと見ゆる人もなし。これを思ふに、中なかかやうの戯言にてかきをきたらんは、いみじがほならん学生たちも心の中にはこころへやすくて、ひとりゑみして才學にてもしてん物をとをもひよりてなかなか本文などもしきりにひきて才學気色もよしなし。まことにもつやつやとしらぬ上にわれにて人をしるに物の道理をわきまへしらん事はかやうにてや、すこしもそのあと世のにのこるべきと思て、これは書きつけ侍るなり。これだにもことばこそ仮名なるうへに、むげにをかしく耳ちかく侍れども、猶心はうへにふかくこもりたること侍らんかし。それをもこのをかしくあさきかたにてすかしいだして、正意道理をわきまへよかしと思て、ただ一すじをわざと耳ときを事をば心詞にけずりすてて、世中の道理の次第につくりかへられて、世をまもる、人をもる(守る)事を申し侍なるべし。もし萬が一にこれに心つ゛きてこれこそ無下なれ、本文少々みばやなど思ふ人もいでこば、いとど本意に侍らん。さあらん人はこの申したてたる内外典の書籍あれば、かならずそれを御覧ずべし。それも寛平遺誡https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjrtc6GldL5AhUPQfUHHZmvDyEQFnoECAkQAQ&url=https%3A%2F%2Fja.wikisource.org%2Fwiki%2F%25E5%25AF%25AC%25E5%25B9%25B3%25E5%25BE%25A1%25E9%2581%25BA%25E8%25AA%25A1&usg=AOvVaw2Afjuh4aRxC6iTxVSKzbHh、
二代御記(醍醐天皇の延喜御記)・村上天皇の天暦御記)、九条殿の遺誡https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiY-sTZldL5AhXPU_UHHWGxCb8QFnoECCcQAQ&url=https%3A%2F%2Fja.wikisource.org%2Fwiki%2F%25E4%25B9%259D%25E6%25A2%259D%25E6%25AE%25BF%25E9%2581%25BA%25E8%25AA%25A1&usg=AOvVaw3j2FqHQSg6YZ-qNyBCBw6s、
又名誉の職者の人の家々の日記、内典には顕密の先徳たちの抄物などぞ、すこし物の要にはかなふべき。それらをわが物にみたてて、もしそれにあまる心つきたらん人ぞ、本書の心をも心へとくべき。左右なくふかたちして本書より道理をしる人は定めて侍らじ。むげに軽々なる事ば共のををくて、はたと・むずと・きと・しやくと・きよとなど云事のみをほくかきて侍る事は、和語の本體にてはこれが侍べきとをぼゆるなり。訓のよみなれど、心をさしつめて字尺(字義の解釈)にあらはしたる事は、猶心のひろがぬなり。真名の文字にはすぐれぬことばのむげにただ事なるやうなることばこそ、日本國のことばの本體なるべけれ。そのゆへは、物をいひつずくるに心のをほくこもりて時の景気をあらはすことはかやうのことばのさはさはとしらする事にて侍る也。児女子が口遊とてこれををかしきことに申すは詩歌のまことの道を本意にもちひる時のことなり。愚痴無智の人にも物の道理を心のそこにしらせんとて、仮名にかきつくるお、法のことにはただ心をゑんかたの真実の要を一つとるばかりなり。このをかし事をばただ一すち゛にかく心得てみるべきなり。その中に代々のうつりゆく道理をば、こころにうかぶばかりは申しつ。それを又をしふさねてその心の詮を申あらはさんとをもふには、神武より承久までのこと、詮をとりつつ、心にうかぶにしたがひてかきつけ侍ぬ。