角田さんの「江戸三十三観音霊場・東京十社巡拝記録第10回 」その1
福聚講(高原耕昇講元)は、2月7日(日)、第10回江戸三十三観音・東京十社巡拝行を行いました。この日の前夜、東京地方は、都下郊外地区には、淡雪が降り、家々の屋根や庭木には、薄っすらと雪化粧が施されていましたが、都心に入ると、降雪はなかったようでした。青空が映える、好天気でもありました。午前10時、この日一番目の巡拝所である、日枝神社に集合しました。参加者は、7人(婦人2人)。首都・東京。国政の中枢たる永田町。その緑深き星ヶ岡の高台に「、皇城の鎮」として山王日枝神社は、鎮座する。と、由緒書きに記されているように、地下鉄赤坂見附の駅を出て、大通りの両側は、高層ビルが立ち並んでいますが、ビルの裏側の岡に、日枝神社があり、喧騒賑わう一角に一転、こんな荘厳静寂な極楽世界があること自体に、先ず、驚かされます。
第一番参詣所 東京十社 日枝神社「山王さま」(東京都千代田区永田町2-10-5)
御祭神 主祭神 大山咋神(おおやまくいのかみ)
相殿神 国常立神(くにのとこたちのかみ)
伊弉冉神(いざなみのかみ)
足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)
社格 官幣大社
日枝神社は、鎌倉時代初期に秩父重継が、居館のうちに奉祀した山王宮に始まります。文明年間(1469~86年)、太田道灌が、江戸城を築城する際、川越山王社を勧請、天正18年(1590年)徳川家康が、江戸城を居城にした時,城内の紅葉山に、社殿を造営、「城内鎮守の社」などとして、崇敬されました。二代将軍、徳川秀忠が、江戸城を大改修したとき、半蔵門外、現在の国立劇場付近に、遷座。明暦3年(1657年)振袖火事の大火に襲われ、社殿は焼失しました。時の将軍家綱は、赤坂の溜池を望む松平忠房の邸地を官収して、社地として、権現造りの社殿を造営し、江戸の都を守護する祈祷所としました。明治維新の東京奠都によって、江戸城は皇居となり、日枝神社は、皇城鎮護の神として、皇室の崇敬を篤く戴きました。大正天皇ご即位の時には、官幣大社の極位に列せられました。昭和20年5月、東京大空襲で、国宝であった社殿はじめ、境内の建物は、山王稲荷神社を残して、すべて、灰燼に帰しました。しかし、氏子崇敬者の”赤誠”の奉仕によって、「昭和御造営」の大事業が始められ、昭和33年6月、本殿以下の建物が完成、昭和24年に、復興後援会が、発足してから、10年の歳月をかけ、山王台に、大社の威容を拝することが出来たのです。昭和53年7月、江戸城御鎮座500年奉賛会が、結成され、翌53年6月、500年祝賀式年大祭を厳修しました。この時を記念して造営された寶物殿があります。徳川歴代将軍が奉納した太刀や、数多くの歴史的記念物の宝物が収蔵されています。他に、山王祭の山車人形、錦絵などは、当時の山王大権現に対する、信仰の篤さを窺わせる宝物と言われています。
日本三大祭と江戸三大祭の筆頭として知られる「山王祭」は、例年6月に行われ、江戸時代には、神幸行列が、江戸城内に入り、将軍自ら上覧したことから天下祭とも言われました。隔年に、行われる神幸祭では、二基の鳳輩と一基の宮神輿が、古式装束を纏った500余人の供奉列と共に、東京の中心地を巡行するのは、壮観です。このとき、獅子頭という、三大将軍家光の手習草子。習字に使った冊子を貼って作られたといわれ、山王祭で、民衆が、この獅子頭を目にすると、土下座をして向かえたといいます。「土下座の獅子頭」と呼ばれていたもので、寶物として寶物殿にあります。
江戸の歴代将軍が篤い崇敬を寄せたという神社だけあって、神域の広さに驚きます。この神域にたどり着くまで、赤坂見附のビルの林立する裏に当たる所に位置する広大な岡があり、神域に昇るコンクリートの階段が三方から作られており、相当の段数があります。このため、一箇所の階段には、エスカレーターが、運行しています。人工モダン都市・東京ならではの趣でしょう。
流石に、社格を誇る神社であるだけに、この日は、大勢の参拝客で賑わっていました。神殿の参拝も、4人横列で、行をなしているほどでした。
神社の境内というか神域は、神殿などの建造物は、鮮やかな朱色の柱と真っ白な壁のコントラストが、清浄で荘厳な雰囲気を漂わせ、私たちは、極楽浄土に佇んでいるような、清らかな心に誘われる思いがします。これは、寺院では、余り、感じられない、不思議な感覚です。
今日、2月11日は、建国記念日です。新聞・テレビなどのマスコミは、紙面などの隅に、ただ小さく、日本政府が、どうして堂々と、日本の建国を祝う式典を挙行しないのか?と掲載するだけでした。恐らく、いまの日本人の殆どの人は、日本の建国の謂れや歴史事実を知らないのではないかと思います。建国の意義を知らない日本人とは、自分の誕生日を知らない人間に等しい。どこか、狂っているような気がします。
私が、小学生の頃は、この建国記念日という日は、「紀元節」といわれてました。満州国の国民学校(小学校)でしたが、この日は、全員、登校し、日の丸の旗
と満州国の旗を交又させて掲げ、奉安殿に集合して、昭和天皇陛下と満州国溥儀皇帝陛下の御真影に最敬礼をしたものでした。その後、校長先生と、関東軍の軍人が、登壇して、神武天皇の話など、日本の建国の謂れを諄々と説き聞かされたものでした。そのあと、紀元節の唱歌の斉唱です。この歌の歌詞は、高原講元様の「建国記念日」のブログに、掲載されています。そして、教室に戻ると、「修身」の教科書の第1ページを開き、神武天皇が高天原に降り立った絵が描かれてある、天孫降臨の記紀神話を聞かされたものです。終始、厳粛に行われ、しわぶき一つ聞こえませんでした。「八紘一宇」「大東亜共栄圏」などの言葉が飛び交い、「金鵄輝く日本の栄えある光、身に受けて、今こそ祝えこのあした、。。。中略。。。嗚呼、一億の誇りなれ。」と合唱して儀式は終わりました。
当時は、確かに、日本軍国主義のイデオロギーで支配された時代でしたが、幼少の頃に、叩き込まれた知識や感覚は、インクを素早く吸収する吸い取り紙のようなもので、吸収したら、絶対忘れないという作用があるようです。幼少時代の記憶力というのは、大人になってからの記憶力より数倍の力を持っているようです。私の場合は、いろいろありますが、やはり、軍歌・中国語・ロシア語(単語400語ぐらい)。ロシア語は、満州では、日本が敗戦する前に、ソ連軍がなだれをうって、満州に攻め込んできたのです。そして、小学校では毎日、ソ連軍の将校が来て、一日中、ロシア語を詰め込まされたものでした。人間の才能が発達し伸びるのも、この頃が一番大切だ、というようです。
午前10時30分、高原講元様の合図で、急いで、都バスの停留所「赤坂四丁目」に行き、都バスに乗り、「西麻布」下車。約10分。この日、第二番参詣所である氷川神社に来ます。途中、通りに面した、タイル壁で立てられた邸宅のまえに、「勝海舟邸跡」と書かれた角棒が立っているのを、横目で眺めて、急ぎます。
福聚講(高原耕昇講元)は、2月7日(日)、第10回江戸三十三観音・東京十社巡拝行を行いました。この日の前夜、東京地方は、都下郊外地区には、淡雪が降り、家々の屋根や庭木には、薄っすらと雪化粧が施されていましたが、都心に入ると、降雪はなかったようでした。青空が映える、好天気でもありました。午前10時、この日一番目の巡拝所である、日枝神社に集合しました。参加者は、7人(婦人2人)。首都・東京。国政の中枢たる永田町。その緑深き星ヶ岡の高台に「、皇城の鎮」として山王日枝神社は、鎮座する。と、由緒書きに記されているように、地下鉄赤坂見附の駅を出て、大通りの両側は、高層ビルが立ち並んでいますが、ビルの裏側の岡に、日枝神社があり、喧騒賑わう一角に一転、こんな荘厳静寂な極楽世界があること自体に、先ず、驚かされます。
第一番参詣所 東京十社 日枝神社「山王さま」(東京都千代田区永田町2-10-5)
御祭神 主祭神 大山咋神(おおやまくいのかみ)
相殿神 国常立神(くにのとこたちのかみ)
伊弉冉神(いざなみのかみ)
足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)
社格 官幣大社
日枝神社は、鎌倉時代初期に秩父重継が、居館のうちに奉祀した山王宮に始まります。文明年間(1469~86年)、太田道灌が、江戸城を築城する際、川越山王社を勧請、天正18年(1590年)徳川家康が、江戸城を居城にした時,城内の紅葉山に、社殿を造営、「城内鎮守の社」などとして、崇敬されました。二代将軍、徳川秀忠が、江戸城を大改修したとき、半蔵門外、現在の国立劇場付近に、遷座。明暦3年(1657年)振袖火事の大火に襲われ、社殿は焼失しました。時の将軍家綱は、赤坂の溜池を望む松平忠房の邸地を官収して、社地として、権現造りの社殿を造営し、江戸の都を守護する祈祷所としました。明治維新の東京奠都によって、江戸城は皇居となり、日枝神社は、皇城鎮護の神として、皇室の崇敬を篤く戴きました。大正天皇ご即位の時には、官幣大社の極位に列せられました。昭和20年5月、東京大空襲で、国宝であった社殿はじめ、境内の建物は、山王稲荷神社を残して、すべて、灰燼に帰しました。しかし、氏子崇敬者の”赤誠”の奉仕によって、「昭和御造営」の大事業が始められ、昭和33年6月、本殿以下の建物が完成、昭和24年に、復興後援会が、発足してから、10年の歳月をかけ、山王台に、大社の威容を拝することが出来たのです。昭和53年7月、江戸城御鎮座500年奉賛会が、結成され、翌53年6月、500年祝賀式年大祭を厳修しました。この時を記念して造営された寶物殿があります。徳川歴代将軍が奉納した太刀や、数多くの歴史的記念物の宝物が収蔵されています。他に、山王祭の山車人形、錦絵などは、当時の山王大権現に対する、信仰の篤さを窺わせる宝物と言われています。
日本三大祭と江戸三大祭の筆頭として知られる「山王祭」は、例年6月に行われ、江戸時代には、神幸行列が、江戸城内に入り、将軍自ら上覧したことから天下祭とも言われました。隔年に、行われる神幸祭では、二基の鳳輩と一基の宮神輿が、古式装束を纏った500余人の供奉列と共に、東京の中心地を巡行するのは、壮観です。このとき、獅子頭という、三大将軍家光の手習草子。習字に使った冊子を貼って作られたといわれ、山王祭で、民衆が、この獅子頭を目にすると、土下座をして向かえたといいます。「土下座の獅子頭」と呼ばれていたもので、寶物として寶物殿にあります。
江戸の歴代将軍が篤い崇敬を寄せたという神社だけあって、神域の広さに驚きます。この神域にたどり着くまで、赤坂見附のビルの林立する裏に当たる所に位置する広大な岡があり、神域に昇るコンクリートの階段が三方から作られており、相当の段数があります。このため、一箇所の階段には、エスカレーターが、運行しています。人工モダン都市・東京ならではの趣でしょう。
流石に、社格を誇る神社であるだけに、この日は、大勢の参拝客で賑わっていました。神殿の参拝も、4人横列で、行をなしているほどでした。
神社の境内というか神域は、神殿などの建造物は、鮮やかな朱色の柱と真っ白な壁のコントラストが、清浄で荘厳な雰囲気を漂わせ、私たちは、極楽浄土に佇んでいるような、清らかな心に誘われる思いがします。これは、寺院では、余り、感じられない、不思議な感覚です。
今日、2月11日は、建国記念日です。新聞・テレビなどのマスコミは、紙面などの隅に、ただ小さく、日本政府が、どうして堂々と、日本の建国を祝う式典を挙行しないのか?と掲載するだけでした。恐らく、いまの日本人の殆どの人は、日本の建国の謂れや歴史事実を知らないのではないかと思います。建国の意義を知らない日本人とは、自分の誕生日を知らない人間に等しい。どこか、狂っているような気がします。
私が、小学生の頃は、この建国記念日という日は、「紀元節」といわれてました。満州国の国民学校(小学校)でしたが、この日は、全員、登校し、日の丸の旗
と満州国の旗を交又させて掲げ、奉安殿に集合して、昭和天皇陛下と満州国溥儀皇帝陛下の御真影に最敬礼をしたものでした。その後、校長先生と、関東軍の軍人が、登壇して、神武天皇の話など、日本の建国の謂れを諄々と説き聞かされたものでした。そのあと、紀元節の唱歌の斉唱です。この歌の歌詞は、高原講元様の「建国記念日」のブログに、掲載されています。そして、教室に戻ると、「修身」の教科書の第1ページを開き、神武天皇が高天原に降り立った絵が描かれてある、天孫降臨の記紀神話を聞かされたものです。終始、厳粛に行われ、しわぶき一つ聞こえませんでした。「八紘一宇」「大東亜共栄圏」などの言葉が飛び交い、「金鵄輝く日本の栄えある光、身に受けて、今こそ祝えこのあした、。。。中略。。。嗚呼、一億の誇りなれ。」と合唱して儀式は終わりました。
当時は、確かに、日本軍国主義のイデオロギーで支配された時代でしたが、幼少の頃に、叩き込まれた知識や感覚は、インクを素早く吸収する吸い取り紙のようなもので、吸収したら、絶対忘れないという作用があるようです。幼少時代の記憶力というのは、大人になってからの記憶力より数倍の力を持っているようです。私の場合は、いろいろありますが、やはり、軍歌・中国語・ロシア語(単語400語ぐらい)。ロシア語は、満州では、日本が敗戦する前に、ソ連軍がなだれをうって、満州に攻め込んできたのです。そして、小学校では毎日、ソ連軍の将校が来て、一日中、ロシア語を詰め込まされたものでした。人間の才能が発達し伸びるのも、この頃が一番大切だ、というようです。
午前10時30分、高原講元様の合図で、急いで、都バスの停留所「赤坂四丁目」に行き、都バスに乗り、「西麻布」下車。約10分。この日、第二番参詣所である氷川神社に来ます。途中、通りに面した、タイル壁で立てられた邸宅のまえに、「勝海舟邸跡」と書かれた角棒が立っているのを、横目で眺めて、急ぎます。