・今日10月24日は宇多上皇が東寺の益信に受戒し出家された日です。
宇多上皇は昌泰2年(899年)10月24日には東寺の益信のもとで受戒し出家された後、仁和寺に入って最初の「法皇」となられ「寛平法皇」を名乗られました。密教辞典によると「益信は廣澤流祖・円城寺僧正(尚待藤原淑子の病気を祈祷で治したため淑子の東山山荘を円城寺とした)なり。石清水八幡開基の行教の実弟。源仁から宗叡相伝の法全阿闍梨付属の . . . 本文を読む
「桓武天皇の奉為に太上御書の金字の法華を講ずる達親」(大師)
(先帝供養の法華講により先皇・桓武は成仏し、ひいては生類すべてにその功徳は及ぶとされています。)
沙門空海聞く、栗駄の蓮理(かりだ心)は湿凝(因果)を筌魚(経典)に貸り、大我の広神(佛の広大な知恵)は虚金を指兔に仮る(明智によって妄念を止めるべく経典を示された)。ここに爪章(長爪梵志の断見論)髪論(黄髪外道の論書)は . . . 本文を読む
尊敬する大峰顕師の動画がありました。「40歳の時、死ぬのが怖くてノイローゼ状態になった。それで京大の西谷啓治に相談すると『死ぬのが怖いのは夜だけか?そういう死ぬのが怖いという気持ちが昼も夜もでるようになれば透過できる』といわれた。それで助かった。死後がわからなくても「阿弥陀様にお任せします」という気持ちになれば救われている、ということだ。」さらに「生きていても死んでいても『なんまんだぶ』で一瞬で助 . . . 本文を読む
古来即位式の度に新天皇は、全国の神社に仏舎利を奉納されていました。 「即位儀礼に見える仏舎利信仰・・・一代一度仏舎利使について・・・大原眞弓 」という論文がありました。 「一代一度仏舎利使とは、天皇即位に際して宇佐・石清水以下全国の各名社に仏舎利使を派遣し、仏舎利を奉納する即位儀礼である。その対象となる名社は、五畿七道にわたりほぼ平安初期から鎌倉末期まで三六七年間、三一代に渡り連綿と仏舎利奉献が . . . 本文を読む
今日は高野山明王院学僧忠義の示寂された日
以下密教大辞典等に依ります。
忠義・・高野山明王院の学僧。讃岐の人。高野山明王院勝義の室に入り事相を研磨。かって御社に詣でて印言黙祈す。傍に一客僧あり、大般若経筐に踞す、忠義師は大般若経筐を拝して後、客僧に告げて言ふ、『子の踞するものは大般若経筐なり』と。客僧云く『大般若経の上に大般若経を重ぬ、何の妨げかあらん』と。忠義師即ち客僧の膝上に踞す、客僧痛に . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 12/14巻の5/6
五、僻む者は必ず罰を蒙る事
伊賀國河井と申す旁に(河合村は三重県阿山郡にあった村。現在の伊賀市の北部)藤原則春(のりはる)と云ふ有徳の仁あり。本は京都の高家の人にてありけれども乱世にをちぶれて地下に交りけるこそ本意なきことなり。されば源遠くなるままに末孫は土民の縁となる。然りと雖も一跡の地頭となるほどに公方にも知られたる人にぞ侍りける。されば心賢くして . . . 本文を読む
扶桑略記(高野春秋には二十二日となっていますが扶桑略記では道長の参拝は二十三日となっています)
(治安三年1023十月)「同十七日、入道前大相國紀伊金剛峯寺に詣ず・・二十三日払暁、廟所に詣ず。是に於いて山窟雲晴漢天雨晴なり。法華経一部般若理趣経丗部を供養す。權小僧都心誉講師となる。今事情を案ずるに弘法大師は密教の祖師、智証大師の外舅なり。今講師は智証大師の門徒、顕密に兼長す。屈す . . . 本文を読む
・今日天長元年10月22日は大師が「笠の大夫、先妣の奉為に大曼荼羅を造り奉る願文」を書かれた日です。「弟子従五位上行左衛門の権の佐笠の朝臣仲守、金剛界蓮華部の四種曼荼羅に帰命し奉る。李桑が言籍はなお二辺の泥に滞り(老子は無の一辺に、孔子は有の一辺に滞っている)、勝数が典文はなお三有の水に溺る(勝論と数論はなお三界の迷いの世界である)。小家は小感し、大演は大時なり(小乗は自利のみで小涅槃のみ、大乗は . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 12/14巻の4/6
四、灯明の功徳、身より光を放つ事
豊後の郡司の妃、宿縁多幸にして何心もなき五歳の時、御乳(乳母)が膝の上にあそびけるに客人来たりて、南無地蔵と申しけるを聞き、初めて口真似しけること日夜に止ることなし。去る程に父母不思議の思を成して地蔵の形像を造り奉りあたへけるほどに、妃いよいよ悦て礼拝し恭敬し奉る事かぎりなし。其の後灯明を奉ることを見習 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 12/14巻の3/6
三、佛の大慈は親子を念ふに似たると示し給事
上野國小原の御庄中里(現在の群馬県神流町か)と申すに古き堂舎一宇屁べり。本尊は通身の地蔵菩薩にて在す。往昔には霊験まして人の渇仰もありき。さるほどに寄附の田地も巨多なりしを近年世末代になりもてゆきて、寺領も人に給はりければ、寺舎荒廃して棟梁苔に埋もれ、人の敬ふ荘厳こそかつて絶え果て便宜のよきさまなるときは狼藉 . . . 本文を読む
今日21日は文永の役で蒙古軍が敗走した日です。文永11年10月21日蒙古軍は博多から敗走しています。(人物叢書「叡尊・忍性」、ウキぺデア等)
「八幡愚童記」によれば
元軍の撤退理由については、日本軍が逃げ去った10月20日夜、八幡神の化身と思われる白装束30人ほどが筥崎宮より飛び出して、矢先を揃えて元軍に矢を射掛け恐れ慄いた元軍は松原の陣を放棄し、海に逃げ出したところ、海から不可思議な火が燃え . . . 本文を読む
今日21日から唐招提寺釈迦念仏会です。唐招提寺ホームページによると「毎年 10月21日 14時~ 19時~ 10月22日 4時~ 14時~ 19時~10月23日 4時~ 7時~ 場 所:礼堂鎌倉時代に解脱上人貞慶が始めた、鑑真大和上請来の仏舎利を本尊とし、釈尊の宝号「南無釈迦牟尼仏」を唱えるこの法要で、800年の伝統がある行事。特に21・22日の昼の法要後には、国宝の金亀舎利塔https://ww . . . 本文を読む
高野春秋に
(延喜二十一年 922十月)「二十一日、勅。檜皮色法衣一襲、贈大僧正空海入定の庿所に贈賜せんと欲す、之を製裁せよ。天皇今暁霊夢叡感ある故也。御夢は大僧正来現して云く、帝我がために檜皮色御装束一襲を裁製し野山入定の庿所に贈賜せよ云々」とあります。
このとき大師は「高野山結ぶ庵に袖朽ちて こけの下にぞ 有明の月」と詠まれたとされ弘法大師御詠歌第二番となっています。
此 . . . 本文を読む
今日は法相宗義淵僧正の遷化された日です。義淵僧正は皇極天皇2年(643年)に生まれ 神亀5年10月20日(728年11月25日)遷化されています。以下ウキぺデア等によります。奈良時代の法相宗の僧。續日本紀には、「神亀五年(七二八)十月壬午【癸亥朔二十】》○冬十月壬午。僧正義淵法師卒。」とあり。『扶桑略記』や『東大寺要録』では、父母が長年観音菩薩に祈願して授かった子で、天武天皇により皇子とともに岡本 . . . 本文を読む
レイテ島の戦いは、1944年(昭和19年)10月20日から終戦までフィリピン・レイテ島で行われた、日本軍とアメリカ軍の戦闘。日本軍は8万人が戦死 ・餓死。
レイテ島の悲惨な全滅に昭和天皇は戦後「参謀本部は、現地の事情を知りぬいてゐる現地軍に作戦を一任せず、東京から指揮する有様であつた。」と語られたといいます。 . . . 本文を読む