てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

「てつがくカフェ@ふくしま」の歩み 2024年度

2024年09月23日 16時55分44秒 | 「てつがくカフェ@ふくしま」について
・04月20日(土)  「常識ってなに?」→告知 →記録

・05月18日(土)  「宇宙開発」→告知  →記録

・06月22日(土)  「わたしの子育て」→告知  →記録

・07月20日(土)  「モノの価値」→告知  →記録

・08月24日(土)  「正しい決め方ー多数決は平等かー」→告知  →記録

・09月21日(土)  「あの東京都知事選挙は何だったのか?」→告知  →記録

・10月19日(土)  シネマdeてつがくカフェ『君たちはどう生きるか』→告知  →記録

・11月23日(土)  「生きづらさ」→告知  →記録

・12月21日(土)  「笑い」→告知  →記録

・01月18日(土)  「無駄とは何か?」→告知  →記録

・02月15日(土)  「プロフェッショナルー職業倫理についてー」→告知  →記録

・03月08日(土)  「『住む』とはどういうことか?-東日本大震災と能登半島地震を手がかりに-」→告知  →記録

てつがくカフェ@ふくしま2024.9.21.「あの東京都知事選挙は何だったのか?」

2024年09月02日 15時38分37秒 | 開催予定
今回は急遽予定していたテーマを変更し、

今年の7月に行われた「東京都知事選挙2024」について問い、考え、語り合います。


てつがくカフェ@ふくしま2024.9.21.
【テーマ】「あの東京都知事選挙は何だったのか?」
【日 時】2024年9月21日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us06web.zoom.us/j/86536603950?pwd=cJB11NwtFSdGzrKqfYX7L7bsRlQuJg.1
        ミーティングID: 865 3660 3950
        パスコード: 7r45wW

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp




今回のテーマは久しぶりに時事的な問題について皆様と語り合いたいと思い

告知していたテーマを変更して開催いたします。


今年の7月7日に東京都で行われた知事選挙(第22期)について

連日ニュースや新聞等で報道されておりましたので、

皆様のご記憶にも新しい出来事かと思います。

世話人自身もリアルタイムでX(旧Twitter)を確認したり、

過熱するメディアの報道ぶりを見ておりましたが、

あの出来事については「一体何が起こっているのか?」と思うほど様々な事がありました。



予想の斜め上を行くような

これまでの常識では考えられない不可解な事件や事象があり、

起きた出来事を自分の中で理解する間にまた新たな出来事が生じるといった

単なる「選挙」という枠組みでだけでは語る事が出来ないほど、

あの選挙は「混沌」とした状況にあったかと思います。



現職東京都知事である小池百合子氏の任期満了(期日:2024年7月30日)に伴い実施され、

都知事選挙における立候補者の人数としては、歴代最多の56人が立候補しました。

候補者数の増加やポスターを巡るトラブル、政見放送を巡るトラブル、

殺害・爆破予告、公共物へのシール無許可貼り付けなど挙げればキリがないほど

選挙期間中、物議を醸す事態や公職選挙法が想定していない問題が多数生じておりました。

告示日までの動きから選挙結果を含め、

当日の参加者の皆様と一緒にあの「東京都知事選挙」について語り合いたいと思います。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま2024.8.24.「正しい決め方-多数決は平等か?-」

2024年07月31日 16時42分31秒 | 開催予定
「安易に多数決に頼るのは残酷な行為である」
         渋沢栄一(1840~1931)


てつがくカフェ@ふくしま2024.8.24.
【テーマ】「正しい決め方-多数決は平等か?-」
【ゲストスピーカー】齋藤正臣さん(福島市議会議員)
【日 時】2024年8月24日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/82210245329?pwd=oU8IfDTuB9MnCDml0vzSFVqNb0hS15.1
        ミーティングID: 822 1024 5329
        パスコード: 2JCRZZ

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp






今回のテーマも1月にリクエストのあった「多数決」となります。

今更ながら説明するまでもない言葉かと思いますが「多数決」とは、

ある集団において意思決定を図る際に、多数派の意見を採用する方法です。



英語では「majority decision」や「majority rule」と表現されますが、

この賛成者の多さで物事を決めるやり方は

単純明快であり誰しも一度は経験したことがあると思います。

そして、その決定した事項が自分が望んでいないものとなった場合、

多数決という一見平等公平なようで、何か腑に落ちない決め方に

納得できずにモヤモヤしたことがある人もいるかもしれません。

そんな言語化できずに心の中で沈殿していた想いについて

答えは出ないかも知れませんが

皆で考え語り合いたいと思います。



今回はゲストスピーカーとして齋藤正臣さんをお招きしています。

齋藤さんはサイトウ洋食店のオーナーシェフであり、

2011年5月に開催された第1回てつがくカフェ@ふくしまに参加してくださった後、

お店をてつカフェの会場として提供してくださる等、

本会とはたいへん縁(ゆかり)の深い方ですが、

その後、福島市議会議員にもなられ、

地方政治の現場で物事がどのように決められていくかを、

間近に目撃していらっしゃいます。

今回のテーマをお伝えしたところ、

それに関しては日頃から思うところが多々あるとのことで、

ゲストスピーカーとして話題提供していただくことにしました。

今回は、はじめに齋藤さんから問題提起していだいた上で、

「正しい決め方 ―多数決は平等か?―」について自由に話し合っていきたいと思います。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.7.20.「モノの価値」

2024年07月26日 20時15分50秒 | 定例てつがくカフェ記録
7月20日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には16名、オンラインでは5名の計21名の方にご参加いただきました。





下記に発言の一部をご紹介致します。

・それでは本日の対話に入って行きたいと思います。今回は「モノの価値」というテーマです。これも1月に何もテーマ決めずに、皆さんからテーマを出して頂いて、その時に出たテーマの内の一つ「モノの価値について」というか、「どうやってモノの価値は決まるのか?」というような話だったかな。ちょっと今誰がどういう経緯で言ったのか覚えてないし、なんでこのテーマになったのかよく覚えてないんですけど、とにかく「モノの価値」について語りたいという事で。いわゆる骨董品の価値とかもあるでしょうし、そういうのじゃなくても良いので、今日は「モノの価値」という事について考えていきたいというふうに思っております。それでは。どなたからでもどうぞ。

・「モノの価値」は時代と共に、または時を重ねて、また人によって変わるものかなっていうふうに思いました。

・世話人からこのテーマについて1月に決まったということなんですが、テーマについて議論する場合、言葉の定義というのをはっきりさせる必要があるのかなと思います。ただ完全にはっきりはさせる事は難しいと思うんです。それで、このテーマで私思ったのは「モノとはなんだろう?」「価値とは何か?」という事。「目に見えるもの」なら分かり易いんですけど、そうでない「目に見えないもの」があるだろうと。「目に見えないもの」は一杯ある訳ですよね。ある意味で「愛情」とか「約束」だとか、見えないですよね。それも「モノ」かなと思う。それから「価値」という事なんだけど、分かり易いのは「値段」ですよね。物品商品が溢れてるわけだけど、それは皆値段が付いてるから「価値」とはそういうものかなと思いやすいんです。例えば、今我々生きて空気を吸ってる訳だけど、空気なんて値段付けてないんだけど、これは非常に命をを確保する為に欠かせない訳だから、「価値」としては絶大なものだと思うんですよね。あとは「価値とは何か?」という事をある程度明らかにしていければいいかなと思って出席をしております。

・テーマの「モノ」というのを「物」ではなくて、カタカナで表現しているという事で、幅の広い捉え方でいいのかなというふうに思うんですが。「物」というのが物体ですね、対して「モノ」はカタカナで広い意味に捉えれば、物体だけではなくて抽象的な「モノ」も含まれる。または物体ではないんですけれども、人間の体の一部あたりもだと思うのというふうに言えるのかな。私、二ヶ月ほどちょっと病気になりまして、左目が緑内障になって手術しまして、入院して二ヶ月程来れなかったんですけれども。それで「目の価値」としては、私個人としてはものすごい価値がある「モノ」なんですけれども、他の人にとっては「私の目」なんてどうでもいいという風な感じで。でも、買える「価値」は物体にしろ抽象的なものにしろ、身体的な「モノ」にしろ、価値というのは、皆が認める価値と、その人自身が持っている「価値」とに分かれると思うんです。だから、私自身の「体の価値」は私自身にしか分からない。それで、大勢の人が認める「モノ」が本当の価値があるもんじゃないのかなというふうに思いますね。例えば「金(ゴールド)」という品は、どなたでも価値があると思いますけれども。それはお金に換えられるという事もあるけど、貴重な「モノ」で、皆がそれには価値があると認めているからではないのかなと思います。金本位制てのが本来なんですけど、今は貨幣経済なので通貨の価値が一番という事なんで。後は証券類というか抽象的な「モノ」で、今大分上がってますがそういう「モノ」がある。また、資産も価値がその時折で色々な資産の「価値」は変わると思うんですけれども、Windowsを作られた方とか色々な「価値」が今はありますけれども、そういった「モノ」で色々分かれるんじゃないかなと思います。

・「モノ」の価値で、値打ちがあってもそれに気づかないという事があると思います。小学校の家庭科で生きて行くために必要な「モノ」として、衣食住と教わったんですけれども、空気とか水はどうなのかと。そっちの方が大事じゃないかと思ったりしたんですが。ありふれて手に入りやすい物だといくらあっても「価値」があると意識されないという事があるんじゃないかというふうに思いました。震災の時とか水とか電気とか、普段はあまり値打ちがあるというふうに思って無いものでも、欠乏すると必要性に気づいたりいって事があると思います。さっきの話にもありましたけれども、状況によって「モノの価値」は変わってくるし、見る人によって変わってくるものだというふうに思います。

・人それぞれ個人個人で「モノの価値」はそれぞれあると思いますし、時代時代で物の価値もそれぞれ変わると思います。やはり失ってから初めてその時の「価値」が分かるというか失って初めて分かるんですよね。ある時はそんなに一々意識はしてないですから。そして、結局失ってから初めて気が付くと思います。あと「見える価値」と「見えない価値」の話で、先ほど金本位制度とか証券の話が出ましたけど、今お札が変わりますよね、一万円と五千円と千円が。これの「価値」を考えた時、お札そのものは紙ですね。元々の価値は紙そのものの価値しかなくて、それに印刷されて数字が一万円、五千円、千円と価値が付く。ある意味では、経済的な価値の目安が表示されているだけ。ただ、それでもその価値は社会的に認められる訳じゃなくて、やっぱり政府なり公的機関がそれを補償するというという事があって、お札の価値が出てんのではないかなというふうに思います。

・「価値」は必ずしも公的な誰かが決めるような気がしていて、例えばポイントカードで「全部ポイント貯まったらどうなりますよ」というやつが成立する場合に、それで何か特典が凄いものだから値段が跳ね上がるというのは、お互いに欲しい人がそうだからというだけで値段が決まっているとこもありますよね。なので、誰か欲しい人がいたら決まるけれども、その中の決め方の一つとして「国が決めたら大丈夫でしょ」とか、「誰々が決めてるから大丈夫でしょ」というのも一つのそのなんだと思います。それに対して、価値があるということの保障があるという事は、より多くの人が「じゃあ、それそれを使いましょう」とか、「それを選びましょう」という事に選択する時、よりインセンティブになるかもしれないけども、なんかそれぐらいじゃないのかなと思いました。

・最近新しい紙幣が発行されましたけれども、あの紙幣の価値というのは、その国の力を表してるんじゃないかなと。国同士の関係で円高円安、ドル高ドル安が決まってるんで。今ドル高円安という事は、日本の国力が弱まっているという証明じゃないかなと。だからもうちょっと頑張って、国力を上げてもらいたいなという気がしますね。あと、先ほどのポイントの話ですけど、皆さんがこれは使えると認めているものがポイントなんじゃないかな。認められないのはポイントになりませんよね。勝手に「ポイントを付けます」とあちこちでやってもそれが認められないんでは通用しないという事が言えるんじゃないかなと。

・先程のお札の例で政府なり公的機関が認めたということを言ったんですが、要するに最終的には国民ですよね。政府と言ったって国民が選挙で選んで、国会議員が法律を作って、それに基づいて法による行政だから、政府がそれに基づいてやってると言うことで。だけど結局、国民がそれを信用するかっていうと、やっぱりそういう国会での法律の制定とか、政府の政策の執行だとか、そういうのを見てて信頼すればこそなんですよ。だから仰る通り、根本は国民が認めたと言うことだと思う。それと、お札は国力を表しているというのはその通りだと思うんですが、だからと言って貨幣やお札の価値が国との関係で動くというのは当然なんですけど、価値が生み出されるという過程は同じかなと。アメリカだって米ドル札を発行してる訳で、その米ドル札と日本円、国力といえば国力かもしれないけど、要するに物価に反映して変わってくるだけの話だと思ってます。

・価値というのが今なんか貨幣価値の方だけに話がいっているような気がしていて、そっちのほうに流れてる気がしていて、必ずしもでもそれだけが価値ではないのではないかなというのが、また論点の一つで。あともう一つその先ほど、「失って初めて価値が分かる」ていう言い方をしたけど、そういう面もあるかもしれないけども、逆に失う前から価値に気が付いているから、めちゃくちゃ儲けてる投資家みたいな人達もいて、多分価値を定義するに当たって、失ったから分かるものというふうに定義してしまうと、恐らく世の中のぼろ儲けしてる人達がやってるもの、彼らの行動規範にある価値というものは含まれなくなってしまうような気がして、なのでそういう場合もあると価値の一面は確かに表している気がするんですけども、じゃあ価値とは何かっていうより、本質的な所を何か探そうと思った時には外れてるのかなという気がしました。

・価値を値段とか人気とかだと考えるとすれば、権威のある人がそういったからという事で価値が増えたりすることがあると思います。古くは「千利休がこう言ったから、この茶道具はもの凄い値段だ」とか。今だったら「マツコ・デラックスが褒めたからこの食品は売れるんだ」とか。というふうに、権威付けというか軽い言い方をすればミーハー的に値段が値打ちが変わっていくという側面もあるかと思います。

・今の方のお話で色々なSNSのプラットフォームが出来て、そこで「いいね」を押すと投稿が拡散されたり、色々な現象が起きる訳なんですけど。確かフェイスブックの黎明期だったと思うんですが、うちの娘が「そのうち貨幣は価値がなくなって、多分いいねみたいなものが、価値を持ってくる時代になるかもしれないね」という風に言った事があって。私はもうそれについて行けなかったんですけど。正に今その「いいね」の数が価値になる時代になってきてるんですよね。インフルエンサーと呼ばれる人がどんどん「いいね」で拡散して行くという、そういう価値に変わりつつあって。色々な人によって見方で変わる、時代によって変わる価値というのが色々あるんですけど、私的には今どんどんこう流れが追いついていけないのが、アナログからデジタルになって物の価値がもの凄く変わってる気がするんです。デバイスが変わる度、プラットフォームが変わる度にどんどんどんどんデジタルになって。もう元々そのコンテンツが持ってた価値というものがどんどん薄くなってる気がするんですよね。だから本来のその価値をこのままデジタルの世界が進んで行ったら、もう無くなっちゃうんじゃないかという風な危惧すら覚える今日この頃でした。

・価値はその値段だけじゃないんじゃないかと仰っていて、その通りなんですよね。「価値」は分け方だと思うんですけど、今値段だとか商品の経済的価値、その他技術的な価値だとか、あとは技術的な価値だとか、道徳的な価値だとか、学術的な価値だとか。宗教的な価値とか、様々種類がある訳ですね。だから、色々な価値があるんだけど、それを経済価値だけで議論すると、ちょっと不足になってしまうのではないかなというふうに思います。それと「いいね」の話がありました。また、お金なんてその内使われなくなるんじゃないかと。要するにペーパーとしての効果が恐らく要らなくなるのかもしれない。今もスマホ決済どんどんどんどん進んでますけど、そういう形でのお金はデジタルで処理をするという事が起こっているんだと思います。先程アナログとデジタルの比較みたいな話でありましたけど、仮にデジタル化したとしても価値というのはランク付けされちゃうんですね。沢山値段付けされるんですよね。その他、研究学術的な研究だって「これはクリエイティブで非常に価値があるな」とか、「これはたいした事ないな」とかランク付けする。その最も良い例がノーベル賞。最高の研究だとランク付けされる。まあ、そういうふうに色んな種類もあるし、ランク付けもある。あと価値は言葉と非常に関係していて、言葉でモノや事でもいいんですけど、モノを現さないと価値付も出来ないと思うんです。金や経済、競争でそういう日本の国はそういう時代があって、もう必死で経済成長してきた時代がありましたけれども、これからの20代や30代がだんだん中年になってきますけども、そういう若い子は我々が「稼げ、稼げ」という時代を過ぎて、ある程度豊かになって落ち着いた時に生まれてきた子供達ですよね。ですから、今度結局我々「稼げ、稼げ」と思ってた人達は金の方に価値を見出しますけれども、これから中年になる方は時代がどんどん変わりつつありますから、金もありますけれども、文化や芸術に価値を見出す人もいれば、教育に見出す人もいれば、皆それぞれこう価値の感じられ方が、個人個人で変わると思います。金だけが価値だという時代は段々薄れてきて、皆分散的に芸術に見出す教育に見出すと。それぞれ平均的なそういう時代がなってくればまた変わるんじゃないかなと思います。

・「モノの価値」というのは、個人の物の価値に対する個人の価値の集合体のような気もしますね。その個人個人にとって何が価値があるのかと。例えばですね、私、今日「てつカフェに行く」と家内に言ったら、「「そんなのに何の価値があるの?」と言われましたけれども、私にとっては重要な場でありますので、それを無視してやってきました。それとですね。私は音楽が大好きなんですけども、あのYouTubeあたりからじゃんじゃんダウンロードして今多分データとして一テラぐらいになってると思うんですが、それは私にとって価値があるもので、他の人が例えばですね、昔からの歌謡曲から今のJpop、それからハードロックに色々好きな物があるんですけども、それ私にとって価値があるもので、私が亡くなってしまったらば、それらは誰も聞きませんし。また、それを死ぬまでに全部聞けるのかと言う意味では、全然価値が無いのかなと。

・価値についてなんですけど、先ほど教育とか経済と色々な事に価値を見出して行くというお話をされたと思うんですけど、自分にとって価値がある例えば自分がそれを知ったことによって助かったとかというものの、価値や宗教なり、教育なりあると思うんですけど、そういうものが自分にとっては信じる者は救われるじゃないですけど、そういうものが自分が価値あると思ったものは周りの人にこう進めたりもするように、自分と同じタイプの人とかとそういう感じでかけて分かる人には分かるし、分からない人には分からないんじゃないかなって思いました。

・最終的にお金で払えない、表せないものに価値があるかどうかというのも、最近ちょっと微妙だなと色々考えていて、例えば芸術的な価値というのも、結局そのオークションでいくら売れたかとか、そういうような形で必ず貨幣に換算して価値付をしてランク付けするというような傾向ありますよね。また学術的価値に関しても、発明とかの場合、それで結局特許としていくら稼げるかとか、そういうような所に換算されてしまう場合が、特に理工系にいるから、そういう所に対してなんとなくそう見えてしまっているだけかもしれませんけれども。なんか、学術的価値と言われるようなものに関しても、結局の所は貨幣的に換算した上で、それがどれくらい凄いものなのかというふうに見られるものが多いように思いますし。ノーベル賞を見ていても確かに何か根源的な発見をして、宇宙物理とかでそれで貰っている方もいるにはいるけれども、何か結局薬品とかとして、凄い皆が使ってるようなものを開発して、それで賞を貰っているというケースもあったりして。考えようによって、それで一旦貨幣価値に置き換えようと思ったら置き換えるわけですよね。そういう風に考えると、「じゃあ、なんでも貨幣的な価値を変えるんだろうか」と考えた時に、少なくとも今の時点で一個だけ、貨幣的価値に置き換えるのが少し難しそうだなと思ったのは、道徳的に価値があるというもの、それを貨幣に置き換えることはできるのかなと思って。他のものはなんとなく無理やり、何かひねり出したらお金の価値に変換できそうな気がするんですけど。道徳的価値はもしかすると、それから離れて、お金に換算できない価値として何か主張できないだろうかと思って、ほのかな期待をちょっとだけしているんですけど。

・「モノの価値」というのは極論すると、心の中にあるもので全て相対的だと思って見たんですけれども、「いや、そうじゃない。これは絶対価値がある。これは絶対価値がないというものはなんだろう?」と思ってみたんですが、絶対的価値があったり絶対価値がなかったりするものって、すぐには思いつかなかったんですけれども。「これは絶対価値がある」「これは絶対価値がない」というものを思い付く人がいたら教えてほしいなと思いました。「絶対これが価値がある」と言うふうなものを思い付いたら教えてほしいです。

・それはそれこそ「価値」というのは個人的にあるものを価値あるものと考えるかどうかというのと、社会的に価値づけられているものと私は二つあると思います。要するに、個人がこれは価値があると、神様がいて神様が絶対価値が個人にあると固く信じれば、それは絶対的な価値になると思います。だからと言って、それが全人類共通な価値観となるとは必ずしもそうは言えない。それと道徳性の価値については世話人が仰っていたけど、例えば朝起きたら、家族や友達だったら「おはよう」あるいは「こんにちは」と言いましょうと。これは中々経済的な評価は難しいのではないかなと思います。小さな一つの例ですが、人それぞれ個人個人で考えが違いますので、見えないものに凄く価値を感じる人もいれば、見えるものに多くの価値を感じる人もいれば、人それぞれ個人、個人で好みも色々あると、そういうことだと思います。

・先ほど道徳的価値は金銭に変えるというお話があったと思うんですけど、今思ったのが学術的価値と似てるんですけど、例えば道徳とか価値観とかネットを使ってサービスを受けるとか、そうした際に金銭が発生するだろうなというふうなことを考えていて。ちょっとそれはどうなのかなというふうにちょっと思ったので言いました。

・絶対的価値があると言われている道徳とか、神様とかって「モノ」ではないですよね。「モノ」で絶対価値があるというのはあるのかなというのがさっきの私の疑問でした。

・絶対的価値が有る無しで思い浮かぶシーンが一つあって、民主党時代に仕分け作業というのがありまして。その時に蓮舫さんがスーパーコンピューターのパソコンを審議してる時に「二位じゃダメなんですか?」という言葉があってですね、それは「一位じゃなきゃ価値がないんだ」という風な流れの中で、蓮舫さんが多分「二位じゃダメなんですか」と言ったと思うんですが。それがかなり曲解されてですね、そのシーンをマスメディアが何回も「二位じゃダメなんですか?」というふうに質問しているシーンだけをどんどん流しちゃったもんですから。蓮舫さんの真意というのは伝わらなかったんですよね。開発者としてはどうしても一位を取りたい、アメリカと中国に負けちゃうから。日本が一位を取りたいんだという思いで言った時に「一位だけが価値が有るのか」と「スピードが速いだけが価値があるんですか?」という意味で問いかけたのが真意らしかったんですけど。だからスピードだけが早いのが価値じゃなくて、総合的に使いやすさとか、正確さとか様々な要素があって、スピードだけが価値があるもんじゃないでしょという意味で蓮舫さんが問い詰めたらしいんですけど、それが未だにこう揶揄されてるネタになってるというのが、本当に「モノの価値」はどこを見て位置づけるんだろうなというのを思いましたよね。蓮舫さんが持つ価値と、「何が何でも一位のスピードを取るんだ」という開発側の価値の視点が、そこだけを切り取られてしまって流されて未だに言われてるというこの悲劇は本当に嫌だなと思います。

・先ほど道徳的な価値について仰っていましたが、倫理にも通じると思うんですけど、倫理や道徳的な価値というものは認められると思うんですけれども、それに対する対価というのは表彰状なり感謝状、また称賛の声でこれには変えられないと言うの私は思いました。

・今蓮舫さんの話が出てきたんだけど、僕もあんまり詳しくは知らないんですが、「№2ではダメなのか」という話ですよね。それはその当時、彼女が考えられた№2は良くないかと、それが周りにも伝播したと。ただそれもまたそういうことを言う人も彼ら自身のポイントであると、それが価値があると思って言っている人も沢山いるという事で。もし、それが政治的な戦略かも分かんないしでそういう事もあると。まあ良い悪いではなくただ政治的な戦略で言ってるんで、そう思えばそんな気になるような事でもないんじゃないかと。ただ、言ってる方もそんなに気にはしておられないんじゃないかとか思ったりします。

・私も蓮舫さんの演説よく理解している訳では無いですけど、今仰ってた蓮舫さんの本当の裏事情が伝わらないで叩かれてんじゃないかと仰っていたんだと思うんだけど、世の中そういう事一杯ありますよね。要するに表現をして分かってもらうには情報を発して、それが相手に伝わってどう解釈されるかによってコミュニケーションが行われている訳だけど、だから情報というのは解釈されないと生きてこない。だからその聞く方も、実は価値観を持っている訳で、価値観を持っている訳だから、その辺はずれちゃうということは、世の中一杯あるだろうと思います。だから真意を分かってもらうというのは非常に難しい。だから私はしょっちゅう女房と喧嘩をする。女房の真意は私は分かってると思わないし、私の真意を分かってくれてる人も、だからそのすれ違いがそういう争いに発展すると言う事が起こって来ちゃうのかなと思います。それともう一つ、先ほど絶対的な価値あるものはあるのかなと仰っていたんだけど、そんな事はありえないというのは私の感想です。だって「モノ」というのは、コレをテーブルなんて言ってるけど、これはこれだけの「モノ」でしかないですね。これを価値づけるから価値が出てくる。一般的には経済的になんぼとか、ホームセンターで売ってたり、家具屋で売ってるからそういうふうに価値づけられていると思うんだけど、これものそのものは別に価値付けられてる。初めから価値付けられている訳ではないというのが私の考えです。だから、「モノ」が絶対的に存在する事で価値があるという事は有り得ないというのが私の考えです。

・人それぞれ価値というのはありますが、先ほど蓮舫さんの話出ましたけれども、私もあの時テレビで見ました。「二番目はだめなんですか?」と言ったのをテレビで見ましたね。それで結局、それが今でも言われてるという事は、世界的にも世間的にも社会的にもやっぱり一番が貴重なんだろうね。一番に価値があるという、そういう流れなんでしょうね。今オリンピックでメダルの色に金銀銅ありますけども、やっぱり「銀メダルが欲しい」と言う人はいない。金メダルの№1を取らないと意味がないという。それだけでも凄いんじゃないかと言っても、やっぱり金なんだって。だから世間的にも社会的にも、世界的にも全て何て言ったって№1が貴重で価値があるというそういう流れなんでしょうね。皆それぞれ個人で色々な価値感は違いますけれども、もう社会的には流れで一番が良いというそういう流れなんだろうと思います。

上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2024.7.20.「モノの価値」

2024年07月06日 18時15分02秒 | 開催予定
価値は、お金でできているわけではない。期待や憧れが、絶妙に調和してできている。
ーバーバラ・キングソルヴァー(作家、1955~)ー


てつがくカフェ@ふくしま2024.7.20.
【テーマ】「モノの価値」
【日 時】2024年7月20日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
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        ミーティングID: 834 7690 6831
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【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回のテーマもリクエストにあった「価値」となります。

TV番組の一つに「開運!なんでも鑑定団」という

30年続いている長寿番組があります。

番組を知らないという方に向けて解説しますと、

毎回様々な方が持参する「お宝」を、専門家達が鑑定し、

番組独自の見解に基づいて値段付けを行うという番組です。

意外な物が高価な鑑定結果を得たり、

高価だと思われていた物が偽物などで安価になってしまうという意外性や

鑑定物に対するうんちくが堪能できるのが大きな特徴です。



また、コレクターと呼ばれる収集家の代表的な収集物の中に

「切手」や「古貨幣」などがあります。

「切手」は特に興味がない人であれば、ただ郵便物を送るために必要な物に過ぎませんが、

下記の様に、「切手」の中には高額で取引される希少価値のある物もあります。

(参考HP:https://www.valuation-postagestamp.com/premium_ranking/)

・竜銭切手(一銭第3版)…発行日:1872年 平均的な相場:60万円

・旧高額切手10円…発行日:1908年~1914年 平均的な相場:17~20万円

・琉球切手(沖縄切手)改訂加刷100円…発行日:1952年 平均的な相場:10万円~


さらに、「古貨幣」についてもオークションサイトを見ると、非常に価値が高いことが分かります。



詳しくない方にとっては、

処分に困る絵や家具であっても、

古美術品やアンティークショップの経営者といった見識のある人にとっては、

喉から手が出るほど欲しい一品という事もあります。

逆に家宝として大事にしていた物も

実は二束三文にしかならないガラクタだったという場合もあり得ます。



現代は経済成長や技術革新によって、

モノがあふれる時代と言われています。

ネット通販や物流の整備によっていつでも手軽に、高品質のモノが入手できるようになりました。

そんな便利な時代に生きる一消費者として

改めて、「モノの価値」について

参加者の皆様と一緒に問い、考え、語り合いたいと思います



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.6.22.「わたしの子育て」

2024年07月01日 22時30分05秒 | 定例てつがくカフェ記録
6月22日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には16名、オンラインでは5名の計21名の方にご参加いただきました。







会場の発言の一部をご紹介致します。

・それでは今日は「私の子育て」というテーマで、まあ、これもあの1月にノンテーマでやった時に皆様から出していただいたテーマの内の一つになっております。どういうテーマにしようかと考えたんですけど、問いの形にしないで、かつもう「子育て」だから。まあ、皆さんの話を聞ければいいかなという事で、さっき言ったように「どう子どもを育てるべきか?」みたいな、そういう「あるべき論」にはしないで、「私の子育て」という形でお互いの経験とかを共有しようかなというふうに思っております。最初に言わせていただくと、まだ自分の子供がいなかった頃に、もう大分前なんですけども、ジブリ映画で「思ひ出ぽろぽろ」という作品があって。あれが現在の女性と、それから小学生時代の女性を行ったり来たりしながらという小学校時代の彼女の経験が普通に色んなエピソードで語られるんだけども。初めてその映画を見た時に、物凄く「えっ‼」て思って。何ていうかその主人公があまりに可哀想で。親の言動とかお姉ちゃんの言動とか、あまりにも可哀想でそれをブログに書いた事があるんですね。昭和の話だから昔の話なんだけども、今の常識から考えて、あまりにも酷く可哀想だったみたいなふうなことを書いたら、物凄い炎上しましてそのブログ記事が。皆さんから色んなふうに「何言ってるんだ」みたいな。「これでいいんだ」みたいなジブリファンの方々から、物凄くお叱りを受けるみたいな、炎上した事があって。その記憶もあって、この哲学カフェでもう一度その映画「思ひ出ぽろぽろ」を題材に話した事もありました。それも皆さんだったらどう思うかというのも伺いたいなと思っておりますが。とにかく皆様の「子育て」について、ご自分の経験であれ、考え方であれ、なんでも自由に発言していただければというふうに思います。

・私三人子供居るんですけど、育てあげてずっと葛藤してる事があって。「子育て」は愛情と教育の葛藤みたいな。常に迷いながら、その愛情と教育のバランスをその都度その都度考えていたんですけど。これってもう本当に人それぞれ千差万別、色んな家庭だったり、ご両親だったり、まあ、あの母親だったりのその人独自のレシピみたいなものだと思うんですよね。そのブレンドの仕方というのは。常にもう迷って迷って、もう今だに何か「これは!」という確信が持てない、とても難しい事だと思うんですよね。私実はワインが好きでして、ワインのブドウを育てる時に、あんまり良い土地、肥えた土地にブドウを植えても良い物が育たない。実が沢山なりすぎちゃったり、薄い味の水ぶくれしたようなブドウになったり、あんまりおいしいブドウが出来ないんです。それはなんでかというと、根っこがですね栄養をすぐ取れる様な状態にしておくと、表面の栄養しか取らなくて、中に根が伸びないんですよね。それってその土地の特徴とか、固有の養分とかを自分から取りに行かないんですね。あんまり栄養を与えないと、その根っこはずっとずっと地下の奥深くにこう潜って、そこからその土地にしかない養分を自分から吸い取るんですよ。だからボルドーとかだともう表面砂利だらけで痩せた土地ですよね。そういう所に良いブドウが育って、本当のその土地を表現する味わいを持つブドウになるんですね。だからそれを考えると、ブドウは天地人のそのバランスでなせる技なんですけれども。「子育て」というのも、その家に伝わる歴史とか親から教えてもらったものとか、そういう縦の軸もかなり影響する訳ですよね。平面的にその時代、時代の社会も勿論影響するし、環境も影響する。だから、とてもそのバランスというのは難しいなといまだに答えが出ない。ずっと多分答えが出ないし、どんどん変わっていくものじゃないかなと思います。

・今の話を聞いて、最近の話と重なるなと思ったんですけども。やっぱり偉い人が子どもをダメにするのはすぐ手に入るようにしちゃってるんではダメにしちゃうんだって。やっぱりある程度忍耐とかそういうのも覚えさせなきゃなんないと、本当に子どもの為にはすぐ与えちゃう事だって。手に入れるものは全てすぐ与えちゃう事がそれが一番子どもを駄目にするんだって。今のもブドウの話も全部すべて整ってる良い土地には出ないっていうので、それと共通するなと思ってね。今の話を聞いてて感じました。

・今日のテーマは「私の子育て」となってるんですが、私は「子育て」一応は終わってるというふうに思いますけど。思い出して振り返ってみると、私の場合は現役の時は仕事、仕事、仕事。女房は専業主婦という事で任せっきりだったというふうに思います。だからなのか、子供達がなんか母親の方にくっついてて、私とあまり親しく無い感じを思ってて。未だに私に対して反抗期を脱していないというか、反抗的な所があると。という事からすると、今になって反省しきりというのが実態です。それと息子はいわきで家庭を持ってるんですが、子供が生まれて孫ですね。この7月に二歳になるんですが、特に目立つのは「スマホ」ね。子供はまだ二歳なのに、もうそれポコポコ打って凄い訳ですけど。そうすると将来「どうなっちゃうのかなと。スマホ依存症になっちゃうんじゃないかなというような気もして気掛かりな所です。

・私の場合はですね、今にしてというか大分前から思ってたんですけど、大分愚かな母親だったなと自分で思うんですけども。子供は親の作品だと言う考えがあって、それで私は長女が生まれた時に「この子を天才にしよう」と。子供を天才にする本とかを買ってそれを実践したりして。そうするとですね、結構案の定賢い子になっていって、「この子天才かな?」と2~3歳ぐらいまで思ったりして。でも、どの子も2~3歳ぐらいまで天才なんですね。そういう事から私は子どもを自分でコントロール出来るもんだと思ったフシがあって。無意識に子供に色んな事をやらせたり、あとこれがいいんだと思えばそれを与えたり教育的に良い事を与えるという事をずっとしてきたんですけれども、後々考えたんですけども、子供は親にそんな事を求めてはいない。ある人が言ったんですけど「子供は愛で育つ。与えるのは愛だけでいい」と。それは大分子供がもう成人した後に聞いた話でもう時既に遅しなんですね。そうこうしている内に三人子供がいて、上二人が娘で、十歳離れて男の子だったんですけど、その子が小学校四年生から不登校になりまして、もう本当にもうアンコントロール。私のコントロール下にはいなくなってしまって。それから色んな葛藤があったんですけれども、私の「子育て」がもうこのままじゃダメだという事を感じまして、色んな教育機関に行きますと「コントロールはもう止めてください。子供との信頼関係が結べてません」と言われてしまって。こんなに一生懸命教えたのになんて事言うんだと思ったんですけど。結局子供が望んでる事を、私は子供にしていないという事だと思いまして。紆余曲折あって、今はもう成人して自立して働いてますけれども、そこに至るまでは凄い大変な思いをしました。それで先ほどちょっと気になったのが、子供に忍耐させることが重要だという話なんですけれども、それはちょっと私的にはどうかなという部分がありまして。「背負わされた荷物は重い、背負った荷物は軽い」という言葉があるんです。自分から自ら進んでやる事には、どんな忍耐でも耐えられる。だけど、与えられた忍耐は耐えられない。誰でもそうだと思うんですけど、だから不登校になった息子を育てる時に気づいたのは、子どもは自分で決めた事はどんなに辛くてもやり遂げるという事。だから今の子供は駄目だというのは、不登校なんかもダメだと言うのはちょっと違うかなっていう感じがします。

・私は三人の子供を育てたんですが、二年ぐらいで転勤を転々としながら三人を生み育てたので。振り返ると、それぞれの子供にかける時間がどうだったのかなという所が反省にあって。それを真ん中の娘についこの前話しましたら、「一人ひとりにかけるエネルギーや時間が少なくて、子供が三人だったっていう事もあって、申し訳なかった」みたいな事を言いましたら、娘が「それでよかったんじゃないの」と言うんですね。「私一人にお母さんのエネルギーがドッとかかってきたら、それはそれで負担だったかもしれないし、嫌だったかもしれないし、三人兄弟がいてちょうどいいバランスだったかもしれないよ」と言われて。ある意味ホッとしたような、そういう事かという気付きを得られたという事がありました。なので、何が正解かというのは全く子育ては無いと思えますので、それぞれの子育て、それぞれの家庭の状況やらがそれはそれで良いのかなというふうにも思えた瞬間でした。

・私も今子供が男の子三人いまして。私が気をつけている事は、浪人してた時に、一緒に浪人してた友達がいて、ソイツの言葉を覚えているんですけども。先生に「お兄ちゃんは出来が良くて、お前は出来が悪いな」と言うことを結構言われてショックというか、偶々同じ母親から生まれてきただけであって、その兄貴と比較されるのは本当腹立たしいという事で。その人はずっと言ってたので、その事を私も出来るだけ三人男なんですけど、三者三様で全くやっぱ違うんですね。生まれる順番も違うんだなという事を感じていて、そこをやっぱり比較をなるべくしないように、でもやっぱり出来が良かったり、きちっとしてたり、真ん中はバランスが良くて。私も二番目なんですけど、そんな所に行ってるなと感じつつ、なるべく比較しないように意識しています。あと、「子育て」なのか、やっぱり親である前に一人の人間なので、自分の人生を楽しむ。うちの連れはあんまり楽しめてない気がするんですけど、やっぱり自分をきちんとしっかり生きているお父さんは「今日、友達と自転車に行くから」「遊びに行くから今日は遊べないよ」
とか。「今日は予定が無いから行けるよ」という事で。私の意識してるのはちゃんと自分の時間を持つ、いずれ子供も離れていくと思うのできちんと自分の楽しみとか、やりたい事をやらないといけないのかなと思って。まだ奥さんの方もあんまり言わないんでしょうね。「私ばっかり我慢して」と言って、私とは全然タイプが違うので「貴方は何が楽しくて生きてるのかな?」と思う感じもするんですね。子供をそんなに好きでもないような感じで、いつも怒ってばっかりで。それを聞いて、私はもう本当苦痛でしかないと。ここで愚痴を言ってもしょうがないんですが、そんな所で私は比較をしないという事と、自分の人生をきちんと生きる事が、子供もそれを見て、どんな風に育つか分かりませんが、そんなふうな所を意識しています。

・今の話を聞いて奥様が子供を怒ってばかりいるみたいな状況の時もあると言うような事でしたけど。それは私の経験からするとね、仕方がない事もあるなと思います。とにかく「子育て」は大変なんです、大変でした。結婚する前は「子育て」がこんなに大変かというふうにも思わなかったし。している最中はもう毎日一日を終わらす事で精一杯だったので。とにかく自分に時間を取れなくて当たり前だったので。三番目下の子が小学校一年生になって帰りの学校帰りが二時頃になった時に、「あー、私の時間が来た」とやっと思えたんですね。その時に「じゃあ、私何やろうかな」と思った時に、あれやりたいな、これやりたいなって言うのが偶々あったので、そこからの勝手に自分のドアが開いたなんて勝手に思ってるんですけど。それまでは、とにかくもう三人でしたので、自分の事は二の次、三の次、四の次、五の次ぐらいしか出来なかったんですね。近所に頼れる親とか知り合いとか兄弟がいれば別だったと思うんですけれども、先ほども話したように二、三年で転勤しながらの子育てだったので、中々そういう状況になれなかったので。自分の時間が取れる人が、取れるという事も人それぞれ違うんだなという事も思いますし。時期とかタイミングとか時間とかも皆違うでしょうし、それはそれぞれの人生の中の学びの一つなのかなとも思うし。この前、偶々子どもの番組を子育ての番組を見ていたらば、専門家の方がお母さん方、お父さんも含めてですけど「子育ては大変なんだから30%出来てれば上等と思う。それぐらいでいいんですよ」というのを聞いて、もう過去の自分を振り返って、なんか肩の荷が下りたというか、楽になったという事がありました。

・「子育て」はやっぱり親は自分の事はもう二の次、三の次って今聞いてその通りと私もそう思ってたからね。もう自分は二の次、その通りだなと思ってね。あたしも三人子供いますけども、三人とも性格違うからね。この子はこのようにやり方が通用したけど、次の子は通用しないし。頭を回転させていかないと。私は羨ましいなと思ったのは、祖母がいる人はね。結構孫の御守だなんだってしてくれるでしょ。私はあれ見てて何程羨ましかったか分からない。私は全部自分でやったから。だからもうね、目の前の事必死になってやってるから、もう子育ての理想がどうのよりも、がむしゃらがむしゃら。自分は一日一日それでも必死になって。その一生懸命さがね、やっぱり「親の背中を見て子供は育つ」と言うけどね。その通りだなと思ってね。「子育て」でこうやってとか、そんな事も考えても、目の前の事で。祖母がいる人は本当に、たっぷり自分の時間を取りたければ取れるしね。だから、どれ位羨ましかったが分かりません。でも、背中を見て育って、三人ともまともに育ってね。「子育て」は全然何の本を読む訳でもなんでもないけども、その必死さその一生懸命さを見てそうだったのかななんて思いました。

・先ほどこちらの方ですけれども、あの「自分の子育て」についてお話しされた時に、自分の人生も楽しいも、それから子供を一緒にしない。そういう事を仰ったんですけれども、とっても良い考えだなと思いました。しかも男の子三人ですよね。やっぱりお父さんがモデルになるので、お父さんが人生を楽しく過ごしてるのを見ると、自分の将来はこうも明るいものと、大人になってからなんか楽しいんだなと大人になるって楽しいんだなというものを感じる事が出来ると思うんですよね。だから、凄く良い子育てをしていらっしゃると思いました。私もそうやって子供を育てる事をもっと楽しめば良かったなと思うんですけれども、ただお母さんの場合は、どうしても「この子を幸せしなくちゃ」とか「きちんと躾をしなくちゃ」とか、「良い子にしなくちゃ」とか、そういうのに結構縛られてて。何が大変って、その躾けとか、そういうものに気持ちを取られがちだった。私の場合はだったと思うんです。お陰様で皆さんから子供はとても良い評価を得られる事になったんですけれども。そうすると本当にその子は自分の生きたいように生きてるのかなという、そういう心配も無きにしも非ずなんですね。だから、別にいい子に育てる必要はなくて、先ほど仰ったように、自分の生きたいように自分の人生を生きるという。親は見守るという、そういうサポートする立場でいれば、そんなに苦しくもないし、大変でもないような気がするんですよね。よく見ると子供は色んな事に興味もって、色んな事をしたりして、凄く親を楽しませてくれる存在なのに、「あれしちゃ駄目」とか「あれは駄目」とか言ってなんか余計な事で忙しい気持ちになって、子供にも良くなかったかなと思う所です。自分の人生を頼んで楽しんで、しっかり生きている姿を見せるっていうのは素晴らしいなと思いました。もう一つ、奥様がキリキリしてるという所は、やっぱりご主人の思いやりが必要なのかなと思うんですね。何かにつけて感謝の気持ちを表したり、「大変だね」とかちょっとした言葉かけとか、そういうものでも大分穏やかになるんじゃないかなと老婆心ながら思いました。

・今のピリピリで思い出したんですけれど、日本はとても日本の社会全体がとても働きすぎだという風な考えがありまして。確かにそうだなというふうには前から思ってたんですけど。ちょっと前に本の紹介でオランダ辺りだったと思うんですけども、労働時間が日本よりは短いんですね。かつ日本だと正社員の様々な社会保障が付きますけれども、その国では日本で言うパートのような短い時間で働いても、ちゃんとそうしたの保障は同じように付くので。給料体系も同じなのでそれぞれが休暇を取りやすいので、「子育て」も「じゃあ、今日私が休み午後から取るから、お父さん明日午後休暇取ってね」というような事も出来るらしいというような事が紹介されていたので。それであればお互いにキリキリする度合いも減るなというふうに思いました。働く時間にゆとりがあるので、どこかに行こうかとか、キャンプに行こうかという事も計画もできるし、心にゆとりができるというそういう社会であってほしいなというふうに、その本の紹介を読んで思いました。

・日本はいつからなんでしょうかね。明治からか戦後からなのか分かりませんが、とても長く働く、働いて当たり前みたいな。最近は変わってきましたけれども、男性が働いて女性が子育てをみたいな時間が結構長い期間ありましたので、それを引きずっている部分もあるし。日本の社会構造的な事も、日本の「子育て」の難しさ、やりづらさみたいな所や、辛さみたいな所にも繋がっているかなというふうに思います。

・私は前の結婚の時は子供は出来なかったんですけど、でも結婚する時には「もしも、子どもが出来たら家事と子育ては半々にしようね」というふうに言ってたんですね。再婚しても「やっぱり家事と子育て半々で行こうね」というふうに言っていて、まあまあ半分ぐらいやってんじゃないかなと思ってこの間妻に今日に向けて聞いてきたんですけども。「半分やっていると、この場で言ってきても大丈夫でしょうか?」と言ったら、「量的にはね」と言われましたね。「量的には寧ろ八割ぐらいやってると言ってもいいよ。ただ、色々気に食わない事が沢山ある」とかという風に言われましたけども。でも、それが出来るのは僕が偶々恵まれてるというか、仕事が凄く時間が割とフレックスというか自由になるという所があって、時間が決まってないという所があるのが一つあるのと。妻も働いて、だから子供を保育園に預ける事が出来たというのも、今は小学校で学童に預けているというのがあって。そうやって預かってくれて、一日の大半はそっちで見てもらってるというのは凄くありがたい事で。やっぱり、それがあってこその半々なんだろうなというふうには思う所があって。やっぱりでも働いていると、どうしてもこう子供優先に出来ない事もあるので、そうするとこう本当に半々と言っても、結局どっちかがやんなきゃいけない。大抵そういう時は女性にみたいになってしまいがちだけど、それをせずに済んでるのは偶々かなというふうには思っています。

・茶々を入れるような話になってしまうかもしれないけれども、今世話人が「保育園」というキーワードを言ったので思い出したんですけれども。仙台市の鳥が「カッコウ」なんですね。あの「カッコー、カッコー」と鳴く。2000年ぐらいに仙台の鳥がその「カッコウ」のままでいいのかというの話が、議会で真面目に議論されていて。その時の論点が「カッコウ」というのは、自分で子供を育ててない托卵する。そのような子育てのあり方を象徴としていいんだろうかと。それを真面目に議論した時期があるというの議事録を読んで初めて知ったんですけども。なので、「さあ、どうやって子育てをするのがいいのか」と言うのは多分、市議会議員やってる方というのは、相対的に年齢が高い男性の方が多くて、やっぱりそういう男性目線の意見が強かったりしているのを見てると、まぁそういうような議論が未だに残ってるんだなあとふと思いました。



上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2024.6.22.「わたしの子育て」

2024年06月11日 19時14分17秒 | 開催予定
「親の愛情は子供の心に永遠の足跡を残す」ーパブロ・ピカソー

てつがくカフェ@ふくしま2024.6.22.
【テーマ】「わたしの子育て」
【日 時】2024年6月22日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/86312079445?pwd=bWst9pg206SKO5Ydw5fOEgRcjGkQgh.1
        ミーティングID: 863 1207 9445
        パスコード: 4Fk8QX

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回のテーマもリクエストにあった「子育て」となります。

「理想の子育て」について語るも良し、

これまでどう育てられてきたかといった「生育歴」について語るも良し、

考える時間もたっぷりありますので

思いついたままを話したい時に話してもらって構いません。



もちろん、現在子育て真っ最中という方のご参加もお待ちしております。

日ごろ子育てに忙しく、自分の時間を設けることが難しい方も

イベントを通して子育てに役立つヒントを見つけたり、

「子育てをしている」「子どもを持つ親」という共通項を持つ方々へ向けて

交流する場を提供することによって

心の充足を得られるかもといった想いで開催しておりますので、

ご参加の程、是非ご検討ください。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.5.18.「宇宙開発」

2024年05月19日 12時41分22秒 | 定例てつがくカフェ記録
5月18日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には17名、オンラインでは7名の計24名の方にご参加いただきました。






・今日は「宇宙開発」というテーマです。1月にテーマ決めずに、皆さんからテーマ出していただいて、そのテーマの中から決めて話すなんてことやってるんですけども、その1月に出たテーマを参考に一年間の計画を立てていまして。何年も前からずっと「宇宙開発」「宇宙」について話し合いたいと仰っていて。本当申し訳ないですけど、私が何の興味も無くてですね、ずっと先送りしていたんですけども。その都度毎回毎回言われるのでもう早くやっちゃおうということで今日この「宇宙開発」というテーマにさせて頂きましたが。今日はテーマを出した方と僕しかいないんじゃないかと思って心配していたんですけども。結構ここ最近で一番人数いるんじゃないかなと思って、実は待望されていたテーマだったのかなと。皆とこのことを考えたかったんだなと思ってですね、本当に反省しております。本当申し訳ありません。今日は「宇宙開発」というテーマで考えていきたいというふうに思っておりますので、後はもう皆様に任せますので、発言のある方は挙手をお願いいたします。では始めていきましょう。

・「宇宙開発」という言葉を聞くと「開発」というのが、明るい未来があるような気がするんですね。で、それはきっとそういうものも沢山含まれてるいるだろうと思うんですが、アポロ11というのが月に到着して2人の人を宇宙飛行士を降ろして戻ってきて。で、その後に「月の石」を持って帰って、それが万博で非常に賞賛を受けたみたいなとこありますよね。近い所だと「はやぶさ」という日本の衛生ロケットがどっかの石の欠片を持って帰った。ほんで、最初のアポロが降りた頃は僕も「すげえな」と思ったんです。まあ、その程度という感じだけど、ここ最近「開発」というものの、疑問と言うか。ある意味では、どっかの石を盗んできて、その石には何が入ってるのか、それが役に立つものがあるんじゃないかとか、それをいかに持って帰るかみたいな研究をしているとこもあると思うんですけど。それが僕が割と最近気になる事でして。短く言ったら、「地球をここまで潰しといて、宇宙までそれを持って行くのか?」という気がするんですよね。ところが「宇宙」というと、皆「はやぶさ」みたいにもう新聞には大きな記事が出る。僕の知ってるほとんどの人は褒めてたけど。だから、そういう具合に騙してるのかどうか分かんないけど、そういう見方も出てくるんじゃないかと。「宇宙は広いから何してもよろしい」なんて言う人も居るみたいね。で、それは別にそれでいいんじゃないかと思うんですが、ただ僕は地球をここまでのものにして宇宙まで潰すのかというのに気掛かりなんです。

・言葉の確認なんですけれども、今の話を聞いてる限りだと、「宇宙開発」を「宇宙という場所を開発する」というような意味で使っていて、「宇宙に行くための技術を開発する」という話ではないっていう理解で良いですかね。

・勿論宇宙まで行く、乗り物をこしらえるということで含んでいると思ってます。

・あの「宇宙開発」というのが、「どこまで現実的なの話なんだろうか?」というのを考えた時に、要するに「宇宙を開発していく」というような話だと、まだ具体的にはほぼ何もできないのかなというふうに考えていて。かつだからその宇宙が誰のものであるのか自体もよく分からない。それこそ「宇宙人は本当にいるのか」論争みたいなもので。結局、誰から搾取することになるのか、よく分かんないなと思っていて、それに対して「宇宙に行くための技術の開発」という意味であるのならば、すごく世の中住進んでいるのかなと。で、多分それだけの話をしても、なんかすごく時間かかりそうだし、勿論、その前者の話だけしてもすごい時間かかりそうで、どこに焦点がおきたいのかなと。勿論皆の意向で決まってくると思うんですけれども、どういう所に力点を置いて考えればいいんだろうと、ちょっとあやふやだったので質問してみました。

・「宇宙」という言葉ですが、マスコミなんかでは「宇宙開発」という言葉使われるし、宇宙船に滞在している人を宇宙飛行士と言っている訳です。で、その「宇宙」という言葉の問題はともかくとして、私は最近の新聞報道なんかによると、ついこの間中国が月に探査衛星を発射したと。狙いはなんか月の「極北」と言うのかな、月は一面しか見られないんだそうですけど、その裏側。非常に寒冷な所に水があるのではないかと言うようなことを言われてるし、それの確認とかというようなことを言ってるわけですよね。でまあ、月についても今探査衛星なんかやってるのは、アメリカとロシアと中国ぐらいだろうと思うんですが。ただ、気になるのは例えば、どこかに着陸させて、そこをその国の領土にしようというような魂胆もあるのではないかというふうに思います。要するに地球でのアメリカ、中国、ロシアの覇権争いが月にまで持ち込まれつつあるのかなという、そういう心配を私がちょっとしてるし。それと人類は未知のこと絶対に追求して行くという事はもう抜けられないと言うふうに思うんです。「宇宙開発」という言葉を使って言えば、「月への衛星探査の発射」なんて言うのも、要するに宇宙へもっと先に広がっていく手始めみたいな。次の段階は火星ですよね。火星に行ってどういう居住ができるかという真剣に、技術者、政治もそうですけど考えている訳で。月の場合は何十日間で到達するらしいですけど、火星だと五年ぐらいかかかると。そうするとどういう風にしてそこまで到達するか。まあ、衛星だけだと火星にも行っている訳で。ただ、人間を載せた宇宙船を到達させるためにはまだまだ時間がかかるのかなと言う風に思います。それと、もう一つ気になってるのは、今の月への探査衛星の発射なんか、私は地球の14 5世紀の頃、大航海時代があって新大陸を発見した。あの時はスペインやポルトガルが新大陸で領土争いをした訳ですけど。それが今レベルが違うけど、味わっているのかなというような気がしております。

・今の意見で「覇権争い」というのは本当にそう思います。「宇宙開発」と言う以上「開発」と言うと難解なんだけども、結局人間が「住める」か「住めないか」を見てるような気がするね。「開発」なんて言ってて、最終的に人間がそこに行くというのが目的のような、ゆくゆくはそれが目的で覇権争いで早い者勝ち、そんな感じ。それが本音のような気がします。

・「宇宙開発」はなんて言うのかな、イーロンマスクみたいな金儲けが好きな企業家みたいな人がなんかどうも宇宙が好きなんですよね。僕の友達の起業家みたいな人も宇宙だとか言ってて、なんでそうなんだろうというのは不思議なんですけど、まぁそれは置いといてですね。さっきも仰っていてたように、地球上の問題をそのまんま宇宙に持っていく。例えば覇権争いみたいなことであるとか。まぁ「宇宙に核兵器を置きます」とかね、あるいは「月の土地は俺のもんだ」みたいな。そういう風に地球上の問題を宇宙に拡大していくという方向はですね、本当にダメで全く意味がないと思うんですけれども。そうじゃないやり方もきっとあるんじゃないのかなというか、そうじゃない方向に希望が持てるんじゃないのかなという気がします。政治的・経済的に例えば、エネルギーだって太陽光のエネルギーが地球にいっぱいありますけども、なんかどっかで読んだんですけども、上手い事そういうのを利用すればかなり地球のエネルギー問題が解決するんじゃないかと。素人で分からないですけども、そんな話もありますし。なんで、まぁ否定することなんじゃないかと思います。で、それよりも僕は思ったのは、さっきの世話人が「宇宙開発に全然興味ない」と仰っていて、文系の人で特に人文系の人間は、「宇宙開発」と言っても全然ピンとこない人が意外と多いのだろうなと思うんですけど。僕が思ったのは、例えば今人間は地球に住んでるから重力がある訳ですね。それの中で生活せざるを得ないし、空気があるから音が聞こえるわけですよね。それで、そういう意味で僕らの「人」の認識っていうのが、地球上の環境に支えられてる訳ですよね。それで、この中でしか我々の今の認識の形というのはありえない訳ですよね。なんで、例えばそういう意味で宇宙に出るという事は、我々の認識がどういうふうに認識するのかという事が、多分色々変わってこざるを得ない。まぁ、環境が地球上に近い様にされた宇宙ステーションの中とかでさえもですね、そこは明るくて空気があるけれども、重力がほぼないとかですね。あるいは放射線ががんがん来てるとかですね。色んな事がありますので、我々のモノの見方が変わるし、そうすると生き方も変わらざるを得ないということが絶対あると思います。なので、ちょっとそういう意味で「哲学」という事を考えた時に、何かそこで変えなくちゃいけないとか、何とかじゃなくて、もし宇宙に人が出てくるようになるとすると、変わらざるを得ない所が出てくるんではないのかなという気がしました。

・話聞いたら私も本当に同じの感じで。「宇宙開発」というテーマを挙げたのは、ちょっとびっくりしてて、「宇宙は開発できるんですか?」と。宇宙開発は人間には出来ないのではないかと思います。地球でも出来ていないのに、なんで「宇宙開発」が出来ると思っているのかと逆に聞いたんですね。「宇宙」とは結局じゃあ何なのかと皆よく知ってますかと、「宇宙って何?」と。例えば重力のない空気もないというそういう所で人間はどうやって暮らして行くんですかと。同時に開発となると、それが私には理解できません。もし、そのような開発力があったなら地球に回した方がいいと思います。結局「宇宙開発」というのは私は出来ないと思います。

・僕もですね「興味がない」と言いながら、とは言え、今僕がここでGPSを使えばここにいるという事が分かるというのは、人工衛星があって、宇宙が既に開発されているからな訳ですよね。だから、まぁ「開発」と言うのは全ての意味を含んでいると思っていて、やっぱり「行く」技術がなければ「開発」は出来ないから、「行く」技術と「開発する」というのはセットだと思っていて。だから、先ほど「新大陸の発見」の話がありましたけれども、海を越えてどこでも行けるという技術が出来たからこそ、新しい領土を取るという植民地化するみたいな話も出てきた訳で、それが今度宇宙に行くという事はもう可能になった所で、そこから「じゃあ、どうするんだろう」「どうしよう」という話は当然問題として出てくるんだろうなとは思っている所です。

・基本的に人間は幸せになる為に生まれてきて生きてるんだと思うんですね。だけれども、宇宙を開発する事とか、宇宙に移住するとか、そういうこと人間にとって幸せなことなのかなというふうに思うんですね。もう既に宇宙には宇宙のゴミとかがすごい本当に小さなゴミが一杯地球の周りを回ってるって聞いた事があるんですけれども。それがいつ何時、どういう事が起こるか分からない状況というのも聞いたことあるんですね。私は「宇宙開発」とそれから科学とか医学もそうですけど、学者のエゴがあると思うんですよ。さっきどなたか仰っていたように、知らない事を知りたい。出来かった事を出来るようにしたい。だから。宇宙に行きたいとかというのをやれそうだからやりたいと、歯止めがきかないというのは私は怖いと思うんですね。今、地球の温暖化とか色んな問題がある。それを誰も止められないし、なんのいい対策も出してないじゃないかと。先ほどの方もお仰っていましたけど、人間にとっては地球が一番居心地がいい場所だし、そういう生き物はな訳ですよね。私達はそれなのに、地球を捨てて移住をしようとか、とんでもないことだと私は思うんです。それよりも、私たちのこの地球をもっと住み心地の良い安心できる場所にどうしたらできるのか。エネルギーもそうですけれども、原子力に頼らないでもっと自然のエネルギーを活用するとか、もっともっと考えるべき事が沢山あるのにもう地球を捨てて火星に移住とかとんでもないと私は思いました。

・そちらの方も仰っていましたけど、「宇宙開発」はとてつもなく、行くにしても乗り物を開発するにしても、もの凄い時間がかかるっていうふうに仰っていたんですけど、私もずっとそう思ってたんですね。もうとんでもない技術を開発しなきゃなんないし、もの凄い時間がかかるもんだというふうに思ってましたけど、最近のAIは爆速で発展してますよね。それがちょっと、こんなにあっという間に開発されてしまうものなのかというふうに思った時に、これは宇宙を開発するスピードというのがもうどんどんどんどん早くなってくんじゃないかなという。もう地球に住んでいる私達が宇宙に行って、そこのリソースを掘り尽くしてしまうような、そういう時代というのは、もう何年も後の事ではないのかなというふうに私は思ってたんですけど。それがどんどんどんどんそのAIの発達によって、なんかもうあれよあれよという間に開発されちゃったらどうしようというふうに思うように最近なってきて。彼女が仰るようにそういう守るべき地球も守らずに開発を急ぐというのに凄い多分女の人は特にそうなんだと思いますけど凄く危機感、むしろロマンよりも危機感を感じるこの頃です。

・今日は「宇宙開発」がテーマになってるんですけども、「宇宙」と「開発」というのちょっと分ける必要があるんじゃないかなと僕は思います。なぜかというとですね、「宇宙」と言っても非常に広い空間。「開発」というのは何らかの人為的な作為をするというのが「開発」であって、「宇宙」というのはもしかすると無限かもしれない。あるいは「宇宙」と地球というのはどういう関係で存在するのかという、そういう非常に難しい空間のような気がするんですね。実はちょうど1週間ぐらい前に、私の大切な友人が若くして亡くなってですね。で、その亡くなった事によって、「人間の生存とは一体なんだろうか?」というふうに考えた時に、宇宙における人間の存在みたいなのもちょっと感じたもんですから。今日参加させてもらいました。「宇宙」という無限あるいは存在という空間で捉えるのか、あるいは手が届く宇宙空間という月とかですね、そういうふうな手が届き得る開発エリアと捉えるかによってだいぶ違うんじゃないかなという気がします。私は今の「開発」という言葉の前に、例えば宇宙探索とかですね、探検とかが昔僕等の子供時代にあって。宇宙探検があってこそ今、人工衛星もある。あるいはGPSもあると言う事態に至ってるんで、どういう空間なのかという事を考えることが必要なんじゃないかなと思います。

・「宇宙の問題」と私もこうやって提起されるまで、本当に勉強不足でして。ただ、提起されてみて、やっぱりちょっとかじると、これはもの凄い問題なんですよね。私達人類が生きれるかどうかというような軍事的な問題も絡んできてるいう事が言えるので、もの凄く大切なテーマだなというふうに思いました。それで宇宙法というのが、国際法としてありまして。それは誰の物でもないというね。月なんかも誰の物でもないという事が決まってるんですね。ところがですね、アメリカとかが法律の一部を変えて月で採れた物というのは、その企業がそれを取ったとすればそれは売買も出来る。それで商売が出来るという法律を勝手に作ってるんですね。それで日本も、「宇宙資源法」というものを作って同じような事をやってるわけなんですね。そうすると、「宇宙法」にこれは違反しているのではないかという事がやはり問われる訳なんですね。

・今の話聞かせてもらって、「宇宙開発」が凄いギャンブルみたいなものだなと思って。宇宙に出れば、宇宙という環境が人の環境として広がってくるから、それで人の認識というのも変わってくるというようなところの話が出てきたんですけど、果たして本当に宇宙に出て認識が変わるのか。認識が変わるとして、今まで出てきた問題の領土化とか、あとエネルギー問題や所有権の問題とか、環境の問題とかが、果たして解決に向かうようなものになるのかなと。そこで思うのが今凄い地球の方に目を向けた話が一杯出てきたんです。結局、私達の地球というのも、全然全く今だに解明できて無くて。地下の話もそうだし、海中の話であったりとか大気圏の話とか。更に言うと、凄い私達自身の体や細胞とか、細胞を形作る原子の話とかというのも未知な部分というのは多いにもかかわらず、そうした未知が私達の前に現われた時に、そんなに何か大きくどこ認識が変わったのかと。確かに歴史的に見ると人の考えで変わってるかもしれないけど、結局、領土問題、エネルギー問題とかって昔だと食糧問題になってきますけど、そういうのがずっと(問題として)停滞し続いているようにも見える。果たしてそれを覆すだけの環境というのが宇宙の広さにあるのかなというのは、私は懐疑的ではあります。なので、私が考える宇宙というのは、宇宙が私たちの認識や問題を解決できる程に至るような空間的な広さとか、後は未知というのを持っているのかなというのが、今話を聞いて思いました。


・大分前に戻るんだけども、さっき世話人が「人工衛星が宇宙開発だ」みたいなことを言っていたけれども、本当なんだろうかというのは疑問に思っていて。宇宙を利用してるけれども、要するに例えば船を使って船がその辺を浮いていて、何か我々が使ってる時にこれは「海洋開発」は言わないですよね。海を使ってる、で同じように考えると宇宙と分かってはいるけれども、宇宙自体は開発されていなくて。例えば、月から何か何か持ってきたと。それは開発の方に入るのか入りかけている可能性はあるなと思うんだけれども、本当に開発と言えるようなものなのかと。単に海とかだったら利用としか言わないもの。それとの間のその辺の差とのは考えた方がいいのではないかなという気がしました。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2024.5.18.「宇宙開発」

2024年05月06日 19時00分59秒 | 開催予定
秒速8キロ―― 宇宙(ここ)ではネジすら凶器になる

ー幸村誠『プラネテス』(講談社)ー


てつがくカフェ@ふくしま2024.5.18.
【テーマ】「宇宙開発」
【日 時】2024年5月18日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/85860605211?pwd=HZA8XQaluZYDoRRrna76zszCDy2WXi.1
        ミーティングID: 858 6060 5211
        パスコード: 5t8V5M

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回のテーマはリクエストにあった「宇宙開発」となります。

宇宙開発(英語: space exploration)とは、

宇宙空間を人間の社会的な営みに役立てるため、

あるいは人間の探求心を満たすために、宇宙に各種機器を送り出したり、

さらには人間自身が宇宙に出て行くための活動全般の事を指す言葉だそうです。



日本では、9月12日が「宇宙の日」と定められているそうで、

1992年に毛利衛さんが日本人として初めて

スペースシャトルで宇宙に旅立った日を記念して制定されたとの事です。



宇宙空間を探索・利用・開拓する人類の活動を

描いた作品は映画や小説にも数多くあります。



冒頭で紹介した文言は

漫画家の幸村誠氏の『プラネテス』という作品に登場するとあるキャラクターのセリフです。

この作品は、2075年の近未来を舞台に、あまり顧みられることのない

宇宙開発によって生まれたスペースデブリ(宇宙ごみ)問題を取り上げており、

その回収業者(サラリーマン)が主役のSF漫画ですが、本作の特徴のひとつに、

作者の愛好する宮沢賢治の詩や物語が、時折引用される形で作品に登場します。



「宇宙人とコンタクトするとしても、そこでどう行動すべきか」「火星を開発するのは良いことか?」

といった「宇宙倫理学」という分野もあるそうですが、

そうした倫理的指針についての考えを宇宙にまで規模を広げて問う議論などを

参加者の皆さんと一緒に行っていければと思います。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.4.20.「常識ってなに?」

2024年05月05日 13時31分50秒 | 定例てつがくカフェ記録
4月20日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には17名、オンラインでは5名の計23名の方にご参加いただきました。






・それでは本日のてつがくカフェに入って行きたいと思います。本日は「常識ってなに?」という事で、これは1月にテーマを決めずに話し合いした時に話し合いたいテーマという事で、皆さんから出していただいた中の一つが、「常識について問う」というか「常識について考えたい」という事で。「常識」は良い意味でも使うし、上司とかに「常識に縛られるな」というふうな使い方をされたり、「常識に縛られちゃいけない」みたいなそういうふうにも使います。色んな意味で使うんですけども、ブログの方では「交通ルールを守らない=常識の無い行動」をする人がいるなみたいな例を出していたかと思いますけれども、それらも含めて「常識って何なんだろうか?」あるいは「常識は身に付けるべきなのかどうか?」とか「常識って良いものなのか?それとも常識じゃダメなのか?」とか。そういったような事も含めてですね「常識」について今日は考えていただければと思っております。

・取り敢えず皮切りにありきたりな話ですけど、ウィトゲンシュタイン(1889年~1951年)の「論理的な判断能力」に基づいて行われる理論形成とか、言語とかコミュニケーションのやり取りにおける前提を判断して行く能力みたいなものが、まず具体的な表現として挙がるのかなと思って挙げさせていただきます。

・「論理的前提の判断能力」と言うことですね。

・まぁ「常識」と言っても、「誰にとっての常識か?」というのが一番大本にあると思うので個人の「常識」、その人一人の「常識」というのはその人に限定されると。「社会の常識」というのは、個人個人が集まった社会のそれぞれの人が全て納得するようなものが「常識」であるというように思うんですが。結局、「社会規範」というものが「常識」ではないかなと。社会規範が文(文字)として現れたのが法律では無いのかなという感じで思いますがいかがでしょうか?

・今の発言についての質問ですが、「個人一人ひとりの方は常識ではない」というふうな捉え方でよろしいでしょうか?

・私の考えとしては個人の考えというのは「常識」ではなくて、あくまでも個人個人の考え方、それは「常識」と呼ぶものではないのかと。その人の「常識」と言えるかもしれませんけれども、社会的な「常識」とはかけ離れていると私は思います。

・「常識」という言葉なんですが、これいつ頃からできたのかなと思ったんです。勝手に考えたんですけど、多分明治維新頃、色んな言葉(外国語)を漢字化(日本語化)したんですが、これもその一つかなという感じがします。つまり、「コモンセンス(common sense)」という事から来てるのかなと。「コモン」ということは「共通」という意味で、「センス」は感覚。共通感覚あるいは共通認識と訳された。どこで「共通」かと言うと、コミュニティという共通な一体化された団体というか。ある地域なりコミュニティに行って、共通に認識されるあるいは感覚されるものということが「常識」というものの理解で良いのかなと私は考えたんです。

・いくつかあるんですけど、一番最初の方の仰ってた「論理的前提の判断能力」でしたっけ?えっと、ちょっとこれが良く分からないんですけど。僕が理解するに「論理的前提」というのは、例えば三段論法みたいなものがあったとしたら、それは正しいですよとか。あるいは色々ありますけど、「理学的な功利」みたいなものとか。要は「論理語」で「且つ」や「または」とか、そういうものを使った時にこうなりますよという論理計算をした時の筋道みたいなものだと理解しているんですけれども、そういう意味でしょうかというのが一つ。それから二番目の方と仰っていた「個人の常識は常識では無い」というのは、その通りであって、個人の思ってることを「常識」というのは、それは「常識」と呼べないものだと端的に思います。それは三番目の方も仰っていたんですけれども、「個人の常識」というのは言葉の誤りで「常識」というのは常に「共有されている」という事が前提の話だと理解しています。もう一つ、三番目の方の仰っていた「コモンセンス」の「センス」というのがどういう意味でという所で、一つはやっぱり「感覚」というのがありまして。「コモンセンス」に関して言うと、要するに我々が一般的に言う「常識」、例えば社会的な規範のような意味での「常識」だったりという事ではなくて、ものの感じ方、空を見たら大体皆青く見えますよとか、そういう感覚が人々に共通しているというような意味での「コモンセンス」だと思うんですね。そうすると、それは我々が今、日本語で「常識」と言って問おうとしているものとはちょっと違うのかなという気がします。以上です。まず、「論理的な云々」というところ、もうちょっと詳しく知りたいなと思うのですが、いかがでしょうか?

・僕の件で恐縮ですが、お答えいたします。というのは、今仰ったように論理手段としての論理、三段論法であるとか「且つ」「ならば」とか集合的な関係を整理するにあたって、「ある目的に対しての手段が使えるか?」「ある目的を使ってその論理を使った時、どういう結果が導き出せるか?」というような所を判断していく能力なんじゃないかなと。その目的と結果の因果関係を整理することによって、前の方が仰った「コミュニティの共通認識」というものが出来上がってくる。その「コミュニティの共通認識」を作るにあたって、論理という手段を使っていく。その目的をどう選んでいくかという能力が「常識」になるんじゃないかという考え方です。

・すごく難しくなってて、皆さんぽかんとしてるんじゃないかな?

・ちょっとよく分からないですが、取り敢えずまた機会があれば伺います。

・僕は、「常識」とか「当たり前」という言葉をあまり好きじゃないんですよ。というのは、教師とか上司といった上の立場の人が「お前、これ常識だろ?」とか「それが当たり前なんだよ」みたいな感じで結構𠮟られてきたというか、怒鳴られたという経験があるんです。なので、あんまり好きな言葉じゃ無い訳ですが。自分は言われた際に「これ、当たり前なんですか?」とか「それが常識なんですか?」というふうに聞くと「いや、そうに決まってんだろ!」みたいな感じで答えられて、結局何の説明も無く、具体的な説明も無いままで。「常識だ!」と言ってくる側の語彙力が無いのか、上手く説明できないのか理由は分かりませんが、とにかく「常識」だと言ってくる側から納得いくような説明を受けた経験が無くて。「つまり、こういうことですか?」とか聞くと、「それは、自分で考えろ」というふうに突き放されるという経験が結構ありまして。「常識だろ!」というふうに言ってしまえば、そこで説明終了の免罪符というか、水戸黄門の印籠という感じで、「常識だろ!」と言われた側は黙っちゃう。でも、それって言われた側の自分には共有されていない認識ですから、その部下(先生)と上司(生徒)の間で共有されていないんだから、最早それは「常識」という事にはならないんじゃないかな?ということを先ほどまでの話を聞いていて考えました。改めて「常識って何だろうな?」「どういう事なんだろう」というのが僕の意見です。

・私は「常識」は場所とかコミュニティによって変わるものだと思いました。

・「常識」はですね「破るもの」もしくは「破られるもの」。最初にその常識に触れるのは、決まってる物を受け入れる所から「常識」が「常識」として成り立つんですよね。元々自分がそこに参加した時には、もう常識が決まってて自分が参加して何かを「常識」を決める訳ではなくて、自分が順応するしかない。だから、その先ほど言われたように疑問を持つ訳ですよ。かつて疑問を持って常識を打ち壊して生きてきましたけれども、流石に今の社会に自分が常識に捉われているようになって、誠に残念だなというふうに思っています。

・「常識」が個人の中にあるかどうかという問題なんだけれども、僕は基本的に「常識」というのは個人の中でしかないと思っていて。個人がある社会に参加した時に、その社会を皆がこのように考えているであろうと考えているものという形でしか存在し得なくて、その皆が「これが常識だ」というふうに、皆で共通に決めたものは多分有り得なくて、そもそも無いのではないかとしか思えないところがあり。だから「これ、常識でしょ」というような「常識論争」が起きてしまうのは、誰一人としてその「常識を作る」というところに、積極的に参加して「これが常識だ」ということを作り上げる場に参加したことが無く、ただ皆で「多分こんな感じだよね」「相手もきっとそう思ってるよね」みたいな中で何となく出来上がってしまったものに過ぎないから。恐らくそのような問題があるんだろうと思って。一方で、その「常識」とするものはやはり必要なんだろうなと思うのは、例えば学術的な場で何か議論する時に、皆で共通に「この言葉は常識と認めた上じゃないと話できないよね」ということを無視して、誰かが話し始めたら完全におかしなことが起きてしまうというのは実際起こる話で。その時に、このコミュニティで何かやるのであれば「まぁ最低限これぐらいは共通認識として持ってるとか良さそうだ」というのも、これも別に皆で作った訳ではないような気がするけれども、少なくとも例えば自分が学会に行く時に「これが常識です」なんて決める会議なんて見たことないし。そのようなものであるけれども、でもなんとなく皆がそういうのがあるということを前提にして議論するから、だから議論がまとまる。まぁ、その程度のものなのかなと思ってます。

・「集団」という問題が出てきますと、これまた別なテーマになってしまうので、今のご意見も検証したいんですけれども、私個人としましては、簡単に言えば「常識」というのは皆が知っている事でいいんじゃないかなと。皆さん、この間ちびまる子の声優の「TARAKO(タラコ)」さんが亡くなったのを皆さんご存知ですか?「タラコ」とか「イクラ」とか言ったら、食べる物と通常は思いましたよね、まぁ「常識」として。私、音楽ユニットの「YOASOBI (ヨアソビ)」が好きなんですけれども、そのボーカルが「ikura(イクラ)」だと知ってましたか?音楽好きな方にとっては「常識」ですよね?私ついこの間まで知らなかったんです。あの「YOASOBI(ヨアソビ)」は好きなんですけども、ボーカルが「ikura(イクラ)」だっていうことを知らなかったんです。結局、それは「常識を知らなかった」ということにもなるのかな?だから、「常識」というのは、それぞれの分野とか文化で変わる可能性があるので、皆が知っているか知らないかということもあると言うことを思い出しました。

・私は「常識」については三つに分けて考えてるんですね。まず一つ、例えばこの社会で生活して行くの上で「環境」についての「常識」。二つ目は、この社会で働いていく上での「社会としてのルール」。色んな会社に行くとそこには色んなルールがあって、そのルールに対しての「常識」ではないかなと思っています。三つ目は、人と人の「コミュニケーションを取る」上での「常識」になるかなと思います。「常識」について皆が知っている、ただ知っているということだけでなくて、やはりそこには評価や価値観というものが含まれているのではないかなというふうに思います。だから、「常識」は元々変わりうるもので、時代や社会や人の中で。それらのことを要素として成り立っているから、それらは当然変わる訳で。当然そこで出来上がった「常識」というものが変わっていくであろうということになるんだというのが私の考えです。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






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