てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

本deてつがくカフェ報告2022.1.23. 『友だち幻想』

2022年01月31日 22時21分34秒 | 本deてつがくカフェ記録
1/23(日)に開催された本deてつがくカフェについて

世話人の石井が報告させていただきます。



今回も会場&オンラインの同時開催となりました。

当日の会場には12名、オンラインでは3名の計15名の方にご参加いただきました。








今回からいつもより早めの15時からの開催となりました。

ここで今回参加いただいた方の発言の一部をご紹介いたします。

【本の感想】
・読んだ感想として、時代性で友達の感覚が異なるのかなと思った。自分が子どもの頃、当時は子どもが病気で死ぬのが頻繁で。自分が判断を誤れば死ぬという状況。そういう時代に生きてきた人間にとっては、本に登場する人たちが希薄な生き方をしていると感じる
→なぜ希薄と思ったのか、もう少しお聞きしたいかなと。出版された年が2008年で、ちょうど(中高生にあたる)自分たちの世代のことかなと思いながら読んでいて。自分はこの本に納得感はあった

・(改めて)「友だち」って何か?と思って。身近にいる人というか、今の感覚の友だちってなんだろうなと

・若い方が(この本を読んで)どう感じたのかお聞きしたい
→今学生なんですが、「分かる」と感じることが多かった。自分も(友だちとの)「距離感」に引っかかったというか。以前友だちが初対面で嫌いになった人の話をしていて、理由が「いきなり呼び捨てにされた」というもので。(本を読んで友だちとの)距離感の詰め方を教えてくれたなと

・ここのサブタイトル「人と人のつながりを考える」というのが、苦しまなくてもよいと教えてくれるというか。日本はなんというか「楽をしよう」という人が少ないのかな。(自分が)若い頃に読んでいたら変わっただろうなと思った

・今の人向けに書いているようで、(自分たちの世代でも)共感・共通することがあるなと

・自分が成長することで(友だち関係に)開き直った、楽になった部分もあったなと

・自分以外が「他者」というのがしっくりこなかった。(自分が)突き放した友だち関係をしてこなかったからか、難しいテーマと感じた

・本の最後の方に「楽しても、楽しくない」という言葉があって、それがこの本のメインと思って読みました

・年齢とともに(自分は)友だち関係が楽になった。若い時、学生の時は難しかった友だち付き合いも、(段々と)意識を変えられたのかなと思いました

・楽って感じるのは、多くの人が(同じように)感じることもあるが、自分一人で「何もないのに楽しい」と思うことはあると思う

・「楽」は難しい概念かなと。地域社会では(人それぞれ)様々な役割があるので、(楽をするには)調整して脱却するしかないのかなと

・第8章の「言葉によって自分を作り変える」で、(ムカつく、ウザいなどの)「簡単な言葉」「楽な言葉」で表現するという部分は、まさに(人との)コミュニケーションに溝を作る行為だなと。もっときちんと表現しようよと思う。そういった若者言葉が特に目立つようになったと感じたのは、80年代の漫画『ドクタースランプ』からじゃないかと思っていて。そこから語彙が少ないというか、語彙力が減ったなと感じるようになって。あの頃ぐらいから人間関係が変わったのかなと
→言葉の網の目の粗さというか。「ヤバい」という言葉は、現実を置き換えるものではないのかなと。あまり(そういった簡単な)言葉を信じないほうがいいと思っている

・人は一人で生きていけるがそれは虚しいと思う。また第3章の「同調圧力」の話だが、自分はこの本の2章と3章の繋がりに違和感を覚える。2章は幸福や自己実現、3章は子どもたちの話で共同性を押し付けられる、自分たちでも同調圧力をかけるという話なのだが、話が繋がってるように思えない

・(話も)まとまっていて良い本だと思った。本で書かれた時代状況の中で、自分がそこ(中高生)に当たるだろうと。友だち付き合いに悩んでいる人は多いと思う。ただ(今は)あまりにも人がばらばらでどうかと思う。21世紀の問題提起だけであるように感じる

・著者が解決策として、『友だち幻想』を出しているが寂しくはないのだろうか?というのが、どうしてもあって。なにか他に(解決策は)ないのかな?と思った
→結論が寂しいとおっしゃっていたが、この人(著者)はそうだったんだなと。この本の対象者は人との距離に近すぎて苦しんでいる人に向けた本かなと。共感したのは2章、交流することが喜びというところ

・基本の読者は小中高校生かな。あとはその周りの教員とか。ただ学校のクラスに(『友だち幻想』の教えを)求めるべきではないのかな。「友だちは作るものではなく、大人になったら残るもの」で、節目節目で淘汰されるから、心配しなくていいという苦しんでいる人へのメッセージだと思う


【『友だち幻想』の教えを実践できるか?】
・気になったところが、第6章の「君たちには無限の可能性もあるが、限界もある」というところが、自分は納得いかなかった。夢を奪いすぎると挑戦すらしないのでは?と思ってしまった
→著者の別の本の『教育幻想』は、副題が「クールティーチャー宣言」で教師が自分の理想を子どもたちに投影するのはダメというのが書かれていて。友達百人できるかなは嘘だと思っていて、無理して友だちを作るべきではない。先生がクラス全員を「友だち」と言うが、それは(厳密には)「友だち」ではない。そんな訳がない。(みんな友だちという)幻想は大人の側にある。ただ(みんな仲良くは)できっこないけども、この(学校という)場で学ばなければならないと思う

・現職の教員ですが、私は「夢」を教え続けて教え子の結婚式に呼ばれると楽しい。(夢を教えるのは)先生のパワーもあるが、(現状は)法律でがんじがらめで、それができるかどうか先生による。それを突破すると楽しい世界があるが、縛りが厳しい。学期末に先生が評価され、管理職で夢を捨てていく人もいる。校長の存在を無視すれば楽しいと思う

・小学校の担任の先生が校長に反発して、田んぼを作ったりなどの授業は自分にとって大きな経験で、学んだことも多い。校長の言う通りにしていたら、周りの大人の顔色を伺った子になるのでは?

・良い教師を覚えていないが、悪い教師は覚えている。今は教師に希望を持っている人が少ない。自分は「一人じゃない」という歌詞が大嫌いで、人は孤独だとなぜ言わないんだ!と。そうした歌詞が蔓延しているというか。方向性としては(自分以外は)他者だと割り切っている

・自分は『友だち幻想』を先生が教えるべきなのか疑問で、第6章でもあるように、子どもに考えさせることが大事で、「限界がある」と大人が教える必要があるのかと。孤独だから考えられることもあると思う

・限界の話で言えば例えば、スポーツ選手として挫折してもトレーナーやコーチなどの道もある。また「ベタベタするのが友だち付き合いだけではない」というのが大人に求められている事かなと思った


【ルール関係とフィーリング共有関係】
・ルールには色んなもの、明文化されたものや内々なものがあって。その中には理不尽さ、非合理さ、根拠があるわけではなく皆がこうしているからというものもあって。それはおかしいと思うものもある。また自己と他者の話で、どこまでいっても他者は自己にはならないと思う

・ルール関係とフィーリング共有関係だが、果たしてその分け方でいいのかな?と思う。色んな(分け方の)種類があるのに(その区別の仕方では)無理がある気がしないでもない

・他者同士が共存するにはルールが必要で、お互い守りあう必要がある。それとは別に友だちは他者より近い関係で、学校のクラスでフィーリングを共有することができない相手でも、守りあわなければならないルールがあって。ただ(クラスでは現状)フィーリング関係を強要する形になっている

・友だちかどうかの判断というか、認識がある気がして。(友だちかそうでないか)他の境界というか別な区別もあるのではと思った
→37ページに「幸福」の本質的なモメントが鍵というか、「親友」と「友達」と「メイト(同僚)」に分ける必要がある

・一人で生きていても繋がりを求めるというところは、ビックリした。同意したが、それは自分が寂しがり屋だからで必ずしもそうでない人もいると考えていたのでみんな繋がりを求めているというのは驚いた

・コロナで人と疎遠となって、孤独だからこそ人とつながっていないと寂しいと感じるというか、相手がいてこそ生かされるのかなと

・自分は他我問題に興味があって。いわゆる他人に心があるかという問題で、あろうがなかろうが自分にはわからない。それをどうやって証明するのか。この問題に悩まない人が分からないというか。それを疑わずに生きている人が不思議に思う

・「みんな仲良く」は雑な言葉だと思う。その場合の「仲良く」はどういう意味かと。「仲良く」は皆とはならないよね。礼儀正しくというか、しちゃいけないことにいじめや窃盗、殺人などが含まれるが、「仲良く」は(色々と子どもたちに)求めすぎでは?と思う


【友だちとは?】
・みんな仲良くは正しいとは思うが、もし学生の頃に『友だち幻想』を読んだとしたら、すごい難しいからいいやとなりそう。皆が(友だちは幻想だと)そう思ってないとつらい状況になってしまうのかなと。また同調圧力に屈すると楽な部分もあって。小中学生で意見を変えるというのは大変

・言葉一つとっても「みんな」という言葉自体も変わっていいのでは?と思う。赤ちゃんはつながりを求めるのは当たり前で、「みんな」という言葉は、幼児期に大人から言われて覚える理解の仕方。そんなこと言ってもわからないし、せいぜい幼児同士の考える言葉の理解で。育っていく過程で言葉を理解する。周りが説明や説得なりすると思う

・自己と他者でいうと、赤ちゃんは親以外の別の他人が入ってきた経験で認識するのでは?自己と他者はセットの考えで、自己があればこそ他者は前提にしているはず。小さい頃は認識が不十分かと

・併存性だけに走ると宗教に走るのでは?と思う

・友だちの存在について考えたとき、今はいろんな人と対話できる環境で、このイベントでのzoomのやり取りも新しい関係性といえる。参加者も友だち同士という訳ではないし、違う人間関係も考えると楽しく生きられるのでは?

・実際に目と目があっている状態でなくても関係性を築けるというか。lineやTwitterなどのSNSなどもあるので、一概には言えない。もう一層(友だちの)意味合いが広がっているので、結論が出せない

・仲良く出来ない人もいて、(その人が)今まで生きてきた全部を受け入れる必要もなく、その人のある部分で流して関係性を作るしかない。友だち関係はある程度の狭い範囲を認めるというか、そうしないと友だち関係は成り立たないのかなと

・(友だちか否かは)無償の行為というか。自然の中に入って自分ですべて見つけていくようなもので。そうした(友だちかどうか)自分で見つけるのは非常に大切かなと



上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓







さて、次回のてつがくカフェは、

2月12日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターで行います。

テーマは当日の参加者同士の話し合いで決めます。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンラインによる参加をご希望の際は、

てつがくカフェのメールアドレスまでご連絡ください。


そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

第8回本deてつがくカフェ報告―『わがままに生きる哲学』―

2016年05月08日 18時39分06秒 | 本deてつがくカフェ記録
今回は、この4月に出版されました、多世代文化工房著『わがままに生きる哲学』(はるか書房)を課題図書とした哲学カフェを開催しました。
参加者は24名。
その中には、著者である佐藤和夫さんと片山南美子さんにも参加していただき、「わがまま」な議論が展開されました

●僕はわがままな人が嫌いで、職業上わがままな人に振り回されているんですが、皆さんは「わがまま」を好意的に受け取っているのか、そうではないのか。そこをまず確認させてもらえばなと思います。

●なんで嫌いなの?

●常にわがままな人にはふりまわされて、結局その人の「わがまま」を追認させられるというか、そんな否定的なイメージしかないです。

●僕も大人の「わがまま」は嫌いですが、子どもの「わがまま」は、まぁ受け入れられます。今回の哲カフェに参加するにあたって、「わがまま」っていったいどういうことなんだろうと始めから考えて読みましたが、僕も人生相談を読むのは好きで、新聞なんかではお気に入りの人の時しか読みません。この本の場合、三人くらいが回答者となっていてこれまでの人生相談とは異なるなと思いました。実践人生経験が豊かな人ばかりが描いているのが印象的です。「わがまま」について、現代社会における問題を扱いながら各々が回答しているスタイルがよかったなと思います。結局は、「わがまま」とはあるがままに生きるということなのかな、というのが結論です。

●この本を一読してみて、読みやすかったところと、読みにくかったところに分かれました。自分に関係がなく、割と客観視できるところは読みやすかったけれど、自分自身の問題と重なって身につまされて苦しかったところは、一気に読めなかったです。外で読んだり暗くしたり読んだりしました。自分に当てはまるところが読みにくかったのは、知りたいけれど知りたくないという感情が生じるからなのだと思います。自分の悩んでいる内容について回答を読むと、理屈ではわかるけれど、「でもさ」って言いたくなるところもある。その葛藤の中で読みにくかったのだと思います。

●冒頭にいきなり「暗い時代だ」という言葉があるけれど、この言葉についてどうなのかと考えました。私が小さい頃は貧しいのが当たり前の時代で、高度成長の時代は先が開けてきたという感じがあったんですね。でも自分の子供なんかを見ていると将来が見えない。これからの若い人たちにとっては暗い時代だというのは頷けると思いました。本の最後の方を読むと、けっきょく「わがまま」に生きるということは、いろんなユニークな生き方をしなさいということなのだろうなと思いました。皆が同じ方向を目指しすぎているので、それぞれの生き方をしなさいというのは同感です。自分本位で「わがまま」を肯定する。あまり周囲に流されずに、自分らしく生きなさいと言うことなのだろう、と。

●夏目漱石の「自己本位」というのがこの本でのわがままの一つなのかなと思っていましたけれど。

●自己本位って引き受け感がある人をイメージするんだけれど、僕が「わがまま」を否定的に評価してしまうのは「自分勝手」というイメージしかないからなのかな。僕が念頭に置いているのは、未成年で、自己本位に生きることを模索する人たちは割と自分のことを責任をもって引き受けられる大人なのだと思うんです。

●その「自分勝手なわがまま」の例を一つ挙げてください。

●たとえば、「5千円もかけて行く意味がない」といって、学校行事の遠足を拒否する生徒がいるんです。それはそうなんだけれど…

●今の例で思ったのは、自分の思いを言えない人と言える人がいて、自己表現ができて自分を大切にするという点では、私はその「わがまま」を肯定したいと思います。そこには先生と生徒という立場の違いによって葛藤があるのかもしれませんが。

●自己表現があって、生徒と教師の対話が発生するというのは重要だと思っているけれど、組織の人間としてふるまわなければいけない中で、それは何とも肯定しがたい自分もいます。声を上げて社会が変わっていくということもありうることはわかるし、その理屈はわかるんだけれど……。

●子どもたちにとっての「わがまま」を取り上げるときと、大人にとっての「わがまま」を取り上げるのは違うなと思いました。「自己本位」から始めたいというのは、みんなが思っていることだと思うけれど、そこには自分のことを考えることが、同時に他人のためになるんじゃないかということではないでしょうか。そのことが、この本の全般に貫かれているんじゃないかな。この本の回答には、その意味での自己本位をもって社会の中で生きられればいいのにねというのが通底している。

●大人なら「自己本位」の意味を分かったうえで、ちゃんとやってほしいのにそういう大人が少ないということですね。子どもの「わがまま」を許せるのは、その意味を今は知らなくても、対話を通してこれから関係を作っていく途上にある人だから許せるのだと思います。でも、大人でその意味を知っている人がもう少し増えてもいいと思う。

●153ページで、「当事者にしか理解できない何か」とあるんだけれど、ここが「わがまま」のことを示しているのではないかなと思う。他者にはわからないけれど、でもどうしても他者に頼らざるを得ないもの。けれど、それがなかなか人には伝わらないものというか。

●少し話の内容が抽象的になっているので、ちょっとここで本に関して尋ねてみたいんですけれど、この本の人生相談で関心を持つところは世代によって異なるものなんですか?

●第4章の「おカネに縛られずに生きる」というのが惹かれました。

●40代後半ですが、圧倒的に第3章「家族とパートナーシップをくみかえる」がおもしろかった。というのは、その他の章というのはステレオタイプで聞かれるのですが、この章だけは他の章と異なる印象というか、インパクトがあります。たぶん、他の章はそれを突き抜ければ何とかいけそうなんだけれど、この家族の問題だけは切実で、それこそわかってはいるけれどできないというか、直視できない。けれど、それを突破する痛快さがありました。

●60に近い年齢ですが、子どもが30代なので、第4章の「おカネと仕事にしばられずに生きる」ですね。共感できる。たしかに、先ほどの意見にもあったけれど、観たくないんだけれど、答えを読むとつらくて読めないんだけれど。

●60代だけれど、次々と職探しに苦労している親戚の子を念頭に置くと、第1章「人生の不安をふりきる」と第2章「わかりあえない関係を生きる」を読ませたいと思っていました。けれど、だんだん先を読み進めていくと、第3章第4章なんて、読ませちゃまずいんじゃないかと思うようになった。キケンすぎる。けれど、やっぱり第3章が一番面白かった。自分も60歳になったら、家族を解消したほうがいいんじゃないかなと思っていたので、それをまさに論じているところがあって共感しました。

●なぜ、60歳になったら家族を解消したいと思ったんですか?

●それまでは子どもに対する責任があるけれど、人まず親の責任を果たし終えたところで、夫婦で我慢してきたところをいったん解消して、お互いに自由になろうと思いまして。

●60で夫婦関係を解消した後、もう一度同じ相手とパートナー関係をもちたいですか?

●なりたいですよ。相手次第ですが。

●著者から各相談内容と世代の関心をリンクさせる質問が出されたのは意外でしたが、そういう意図があって編集したんですか?

●以前、この本を何人かの人に読んでもらったところ、たまたまか年齢の違いによって関心を持つ相談内容が違うことがあって、それが印象に残っていたからです。特に編集上、世代によって関心事が異なるかどうかまでは意図していなかったと思います。この場では、割と年配の方から本の人生相談に関して意見が出されましたが、それを聞いて若い世代の方々はどう思われたのでしょうか?

●私は20代で、割と妊婦さんや母親が来る職場なんですが、113ページを読むまでは、出産とか子育てを幸せだと思っていたんだけれど、色々読んだり意見を聞いたりする中でわからなくなりました。

●読んでいてつらいところもあるのですが、若い人ほどすっと読めると思う。というのも、年齢を重ねると色々な経験を重ねていくので、この本で引っかかる場面が多くなるような気がする。人生相談の回答コメントを読むと、わかっているんだけれどできない自分がいます。ただ、それが第1章、第2章、第4章は割り切れればいけるところがあるけれど、第3章はちがう。あまりにも自分の現実的な悩みに近すぎて生々しすぎる。その中で、特に家族を相互扶助の保険契約システムという考え方がとても興味を持ちました。自分の親の介護とか生きづらさを考えると、その意味がよくわかる。でも、「わがまま」に生きることにうらやましさを感じてしまう自分がいます。

●58ページにある「自己本位」と「わがまま」がイコールにならない。「自己本位」の人のように他者の自己本位を尊重できるということなのでしょう。

●「わがまま」という言葉は、やっぱり一般的にはネガティブなイメージがあると思います。それをポジティブな意味に反転させているところに本書の意味はあるんだけれど、僕にとって、他人の自己本位を認めながら自己本位に生きている人のイメージは、まさに佐藤さんなんですね。

●「わがまま」の意味をネガからポジに反転させているというのは、そのとおりだと思いました。204ページにある「生き方の大転換が必要だ」という言葉や、「時代の転換期」という言葉に、今まで安定していた環境が変わってどれが正しいかわからないという意味で、「わがまま」に生きるのが最適な生き方になったという意味なのではないでしょか。

●私の人生の大転換期として、38歳のころに一人になりたいという欲求が生まれたんですね。それまでは一人になりたいという欲求が生まれるのは、妻の他に好きな人ができたとか言われるんだけれど、そうではなくて単に「一人になりたい」という欲求が生じた問題を研究してみたことがあります。それについて文章に書いたのは男性にはいないけれど女性にはいたんです。その代表的な人はバージニア・ウルフ。そういう心を持っている人がいるのだということを知って、自分の中に持っている感情をうまく肯定できたんですね。そのことを考えてみると、世の中に示しちゃいけないという感情があると思うんですが、それについては皆さんはどうですか?たとえば、与謝野晶子の「君に死に給うことなかれ」という発言がそうだと思うんですが、戦争時代には「そんなこといっちゃいけないだろう」という世間一般の圧力がある。けれど、そうした思いを声にだせないという問題をどう考えるか、ということなんですが。

●そんなのいっぱいありますよね。実行したら犯罪になるということもあるし。文化の中によって言っちゃいけないこと、やっちゃいけないこともあるわけで。それを全部言ってしまえばいいのかと疑問に思う。賛成する人もいれば不愉快に思う人もいるし。苦労しなきゃイイ人になれないという世の中の価値観があるじゃないですか。だから、ぐっとその思いを我慢しなければいけないと生きていかなければならないと思います。

●最近、印象に残った言葉の中に、「しょせん、人生は芝居でしょ」というのがありました。つまり、役割を演じているのが大半で、対外的には制度・慣習の枠組みの中に合わせて生きている。でも、自分の中ではもっとこうした方がいいのにということが、先ほど60歳になったら家族は解散することを制度化した方がいいということにつながったんです。

●40代前半ですが、一番面白かったのは「家族の卒業」で、それを子どもの立場で親に言うことは想定していなかったけれど、子供世代からではなく親世代の方から家族の卒業旅行をしたという話が提起されたことが印象的でした。「わがまま」に関して言うと、「自己本位」になることで誰かを翻弄するかもしれませんが、そうすることによって救われる人もいる。「わがままな人」は、他者を責めない人が多い気がします。我慢している人ほど他者を批判するような気がしていて、それはなぜかというと自分を抑圧しているが故の結果なのだと思うのです。その点、「自己本位」になれる人は、自分が解放されている分だけ誰かを縛る欲求が生まれないのではないでしょうか。それと「わがまま」には、自分の中でもっている「わがまま」という感情と、次にその「わがまま」を他者に対してどう表現するかという2段階があると思います。この本で論じられている「わがまま」は、その第2段階だと思います。

●難しいところは、「俺、一人になりたいんだよ」といわれたら、妻は衝撃を受けるんだと思うんです。こうした人生の問題についてパートナーと一緒に考えるときに、私は3人以上の中で話し合わなければいけないという原則を持っています。つまり、一対一の対話では、どうしても行き詰ったり、関係を悪化させてしまう対話になってしまうんですね。
●その場合に、三番目の人はどう選ぶのですか?

●離婚の危機の時は親友を呼びました。家族の問題に関しては家族だけで話し合うのは難しいです。

●今の話を聴いて、私にも同じようなケースがあって、夫と二人で話すとわがままになり、話し合いをファミレスでするようにしたんですね。そうしたら夫は紳士的に話したので、誰かの目の届かない二人だけの空間では、暴力的にわがままになってしまうというのは経験的に理解できます。

●それに関して言うと、私には「神様」がいて、「神様」がいると想定して、つまり自分たち夫婦の間に自分たちを超えたものを想定して話しています。

●今の意見でまた思い出したんですが、私の頭上から光のシャワーがあると思っていて、その光のシャワーが降り注いでいると感じるときには、誰かの眼がなくてもお互いに冷静に話し合えるということがあります。

●一応、哲学的なことを言うと、アリストテレスという人は家族の関係は独裁的になるといっていますが、それは公的な光が届かない領域だからというのですね。その公的なものというのは今おっしゃったように、家族にも光を照らせばそうした危険性を回避できるのかもしれませんね。

●今の話で思い出したのは、コールバーグの道徳性の発達の理論です。これは、簡単に言うと道徳は下のレベルから言うと怒られるから善い行いをする、次に他者(世間)の目を気にして善い行いをする、最終的には神の目お天道様が見ているから道徳的にふるまうという段階に意識は発達するという理論です。その光のシャワーというのは、そこで言い神様やおてんとうさまのイメージなのかなと思いました。

●そこでいう「光」というのは見られているということだと思いますが。それは常識の範囲内でふるまうということになると、わがままにふるまえないということではないですか。すると、「光」と「わがまま」にふるまうということとは、どう関係するのでしょうか?

●光のシャワーのレベルは、夫の要求にしても魂のレベルで合意ができたねという経験をしました。

●今までの話を聞いていると、自分が常識的なものにとらわれているから、逆に「わがまま」にふるまえる人を羨ましい思う気持ちが働き、自分を「わがまま嫌い」にさせたのではないかと思いました。

●わがままに生きたいし自己本位で期待と思うけれど、それを邪魔しているものは何かと思うと、世間だったり慣習だったりが邪魔するんですよね。じゃ、それがなくなっていいのかといえば、それはないでしょう。自分自身の声が聞こえてくると書いてあるけれど、40歳後半になってもそれが明確に聞こえてこない。じゃ、それらを全部一蹴できるかというと、それもできない。そのせめぎあいなんですね。だから、「自己本位」とか「わがまま」ということが問題化できる。でも、皆がわがままに生きちゃったら「わがまま」が成立しないんじゃないかな。皆が「わがまま」に生きたら、「わがまま」に生きられないということになるんじゃないか。

●いや、むしろみんなが「わがまま」に生きるようになったら、それを超えた何かが出てくるのだと思う。みんなが「わがまま」になって肯定しあって、それが肯定して成り立つ社会になったならば、次に出てくるのは、いま私たちが考えてくる「わがまま」を超えた何かが出てくるのではないでしょうか。

●今の議論に出ている「わがまま」は、「自己本位」を意味しているのでしょうか。それとも、ネガティブな意味での「わがまま」なのでしょうか。

●たしかに混乱して「わがまま」という言葉を使ってしまいましたね。最初は「自己本位」という意味での「わがまま」だったのですが、後半はごっちゃになってしまっていたかな。

●ちょっと、自分を抑圧しているものを捨てきれない。それを本当に捨てきっちゃっていいのかと考えちゃうんですね。世捨て人になりたいとは思わないので。

●ここに集まっている人は、「わがままな人」が多いと思いますが、みんな本当に自由になりたいんでしょうか?僕は、ちょっとだけ日本は自由になりたい人が増えてもいいと思うんですが、自由になんかならないで楽したい人って多いんじゃないかな。皆が自由になりたいということを前提として話し合いを進めていること自体がおかしいんじゃないかな。

●それぞれが思うように生きることができるというのが「わがまま」なんじゃない。だから楽をしたいということも含めて、それを選んでいるのが「わがまま」ということでしょう。

●自分で決定することが「わがまま」なんだと思うけれど、決定したくない人が多すぎるような気がする。

●「楽だから自由なんていらない」という人が増えれば、今の政権のトップが正しいんだという人が多くなって、結局、全体主義みたいな事態になりかねないんじゃないでしょうか。

●僕は〇〇長とか総理大臣なんか、とてもなりたいと思わない人間なんです。それはなぜかというと、「わがまま」には次元があるんじゃないかと思うのです。自分の人生については「わがまま」になれるけれど、首相をするレベルでそれを実現してしまっては、膨大な他者を傷つけてしまうでしょう。だから、どう公平にふるまおうとしても首相になった以上、1億3千万人全員に公平に振舞うことは不可能です。ある政治家と会合を持ったとき、「あなたはもしかして政治は全員が幸福になるような営みだと思っているんですか?それは勘違いですよ。政治は誰かの犠牲の上に成り立っているんです」と言われたことがあります。つまり権力を行使するというレベルで、「わがまま」を実現するととてつもない加害者になってしまう。実は、若い人が自由を放棄するというのは、「楽だから」というよりも、この「わがまま」を行使するレベルを混同してしまっていて、自分が他者を傷つける加害者になるくらいなら被害者でいた方がいいという思いの現れなんじゃないかな。

●たしかに、決定しなければならない問題を他者に譲っちゃったり、決めたくない、決めなくて楽でいられるという風潮は、決定することは他者に迷惑をかけるという葛藤が若い人の中にあるのかもしれません。

●断ってもいいんだということを知っているのと知らないで育つのでは大きな差があります。お見合いは断っていいんだということを知っていれば、断っていたのにと、お見合い結婚した自分の経験を思い出します。人と人とのコミュニケーションを育てずに生きてきちゃうと、自分のわがままをニュートラルに出せないのかなと思いました。

●「断ることもできたんだ」と選択肢の問題は、ブラック企業の問題でもありますね。そこから抜け出ることも難しいし、エネルギーが要りますよね。それに疲弊し、「仕方がない」と悶々と毎日を過ごしている若者が多いと思いますが、ただ仕方がないんだというんじゃなくて、自分だけじゃなくてみんなで変えようという動きが労組なんかと相まって動き出さなきゃいけないと思います。

●私の研究したところによると、過労死してしまった人の多くは、「いやだ」という感情を持たないで、「申し訳ない」と思うようです。ある女性が「生きるということは社会的義務を果たすことだ」と私に話してくれたことがあるのですが、じゃ、それを果たした先にあなたの人生の何があるんだと絶句してしまったことがあります。

●「わがまま権」があるのに、それを知らずに行使できない状態があまりにも日本は多すぎるんじゃないかな。

●農家がみんな自民党を支持することとも関係すると思います。自民党を支持しなくてもいいということを知らないんじゃないかとしか思えないんですよ。TPPなんて自分たちを苦しめるような政策を決めた政党を、なぜ選ぶのか理解不能ですが、たぶん彼らは「選ばない」という選択肢を知らないだけなんじゃないかとしか思えないんです。

●選択権があるのに行使しないということには共感します。その業界の分断を生んでいるのは事実です。

●そもそもどっかでみんな加害者意識を持っているがゆえに、わがままを攻撃しているのではないでしょうか。生きづらさはわかっているけれど、その加害者性を知っているがゆえに黙ってしまうのではないか。

●時間も少なくなってきました。最後に聞きたいのですが、この本は制作するにあたって世代間の差を意識したのですか?

●制作した当初は、それを想定したんだけれど、生き難さという問題は世代間の差ではないということがわかりました。よく若い世代は年配の世代の話なんか聞いていられないというし、上の世代は「今時鵜の若い者は」と言いがちですが、問題に対して世代間の経験の違いはあるけれど、問題それ自体を考えること自体には世代の差はないということが、この出版計画を通じて発見したことでした。

●私自身は世代によって考え方の違いはあると思います。世代の持つ悩みというのは実際のところあると思います。私は40代ですが、若い世代が直面しているブラック企業の問題なんかはわからないし。

●だから世代の違いというのは問題のぶつかり方なんだろうということですね。

●「わがまま」を抑えきれるというのは、どういうものなのかなと聞きたいです。つまり、自分の「わがまま」を、皆さんどうやってコントロールできているのかなというのが一番気になっています。

●20代です。公私ともに「わがまま」だと思いますが、「わがまま」であることを「わがまま」だよと突っ込んでくれる人がいるから、自分は「わがまま」にふるまえていると思います。

●私は自己決定を大事にしてはいるけれど、あなたは「わがまま」だとよく言われると、そうかと気づかされる。

●40歳になったばかりだけれど、30歳まではレールの上を歩かされてきて、その抑圧者であった祖父が死んだことで、家族全員が解放されました。それ以来、「わがまま」になりすぎて、こまっちゃっているんですけれど、40歳になったことで、わがままを応援し、認めてくれる年上の人も多くて、それで今は逆に「わがまま」をどうすればいいんだろうと悩んでいます。決められていた方が楽だと思うようになっています。

●自分をコントロールできる力ということで、自分の場合は人に決めてもらった場合は、他人のせいにできるけれど、自分で決めると不利益は自分で責任を取らなくてはいけないし、それが不安で怖いのでそれを避けています。被害者感覚の方が,後でつらいことがあったときも人のせいにできるということです。

第6回本deてつがくカフェ報告―『愛する人に東横インをプレゼントしよう』―

2015年02月08日 08時21分49秒 | 本deてつがくカフェ記録

『愛する人に東横インをプレゼントしよう』の著者やっぱりぱんつさんと、その夫である工藤考浩さんをお招きしての第6回本deてつがくカフェが開催されました。
とにかく痛快極まる哲カフェでした。
いや、痛快なのは、やっぱんつさんと工藤さんの人柄に他ならないのですが、こんな人たちばっかりだったら、きっと平和で笑いの絶えない世界になるのになぁ、と思わずにはいられませんでした。
参加された26名の皆さんも、きっと心の中でそう思ったことでしょう。
遠くは東京や盛岡、いわき、会津、三春からわざわざお出で下さった参加者もいらっしゃいました。
ありがたいことです。
初めて会場として使用させていただいた南国カフェTUKTUKは満席状態。

まずは、この本に感動した常連さんが、わざわざレジュメを切って問題提起して下さったところから始まります。
曰く、

「他人には理解されにくいと自分では思うような趣味や好みも、もしかしたらその人の個性として、広い心で受け入れてくれる相手がいるかもしれないということがよくわかり、心強く思った。自分では欠点だと思っているような一般的ではない趣向でも、これからは自信満々に世間に公表していこうと思う。」

え!?それは、やめておいた方がいいんじゃないの!?
と誰もが思ったその瞬間、別の参加者から、むしろ他者から理解されなければされないほど、そんな他者に理解されない部分をもつ自分だからこそ、自分を誇りに思えるようになったとの経験が語られました。
「東横インをこよなく愛する」わけのわからなさを持つ工藤さんも、「それはわざと違っているのではなく、結果的に違ってしまった」が、「その違いがあることが楽しいと思える相手だから一緒になれた」と言います。
まずは「違いを楽しめる、興味を持つこと」が他者理解のキーワードとして確認されました。
いやいや、それでも「他者との違い」は理解されないのが普通だし、理解されないのは苦しいと思うのが一般的なのではないか、という疑問も投げかけられました。
これに対して、「他者を理解しなくちゃいけない」ではなくて、「他者を理解できないことを知ること」や「違っていることを理解する」ことから始めなくてはいけないとの意見が出されます。
本書127頁では、「大事なのは、どうして好きなのかを理解することではなく、好きであるという事実を理解すること」だと書かれてあります。
それにしても、「相手が好きである事実を理解する」とはどういうことなのか。
まさに、この論点をめぐって考え合うことが、この本を選んだ最大の理由でした。

それにしても、日本人はなかなかこの境地に達することができない種族だとも言われます。
この横並び気質を日本人の美徳として海外から称賛された震災での経験を語りながら、違っているものをハブこうとする日本人気質の問題は教育にあるのではないかとの意見も出されます。
これについて小野原から、「同化による理解」と「異化による理解」の違いを挙げながら、日本人的気質は前者による理解が優先されがちだとの指摘が為されました。
この「異化による理解」に関して、別の参加者からは、ある映画の中で異なる宗教文化をもつもの者同士が、あるパーティで異なる食文化を皿で分かち合いながら公平に食事を分け合う姿を観たときだったそうです。
違うものは違うのだから、それでお互いがうまくいくように折り合いをつける姿に、理解できない他者と一緒に生きるとはこういうことだと直感したそうです。

では、共に生きる相手が、もし児童ポルノや異常な性的嗜好の持ち主だったとしても、それは受け入れられるのか?
そんな他者理解の楽観性を根底から揺さぶる問いかけがなされました。
たしかに、ワタクシの知人の中には、むしろ宗教の違いから家庭生活で折り合いがつかず、けっきょく離婚してしまったというケースがありました。
実際、自分のパートナーが突然、何かの信仰団体に入信してしまったり、危険な政治信条を持ってしまったら、それを受け入れられるか自信もありません。
すると、「それは一般論で見るから苦しいと見えるだけであって、愛する人や家族など具体的な個々人と向き合えば、そんな簡単に言えないだろう」との意見が出されます。
たしかに、「理解されないことは苦しいことで対立しか生まない」と一般論や想像で語ることは、それがバイアスとなって、むしろ「他者理解」を遠ざけることになりかねません。
これについては、お互いが共有し合う「土台」がしっかりしていることが、他者の違いを受け入れることの前提となるということが指摘されました。
では、その「土台」とは何か?
これに関して、この本が提起するのは「仏教的なもの」だとの指摘がありました。
フランスでの経験を踏まえたその意見によれば、彼の国ではむしろ肌の色や人種、信条によってくっきり生活や仕事空間が選別されていることと比べると、日本はまだまだ哲カフェのように他者の異質性を考える空間があったり、受け入れる文化があると思え、それはとやかく言わずとも異質性を受け入れる禅的な仏教文化を感じたと言います。
たしかに、そうした文化が「土台」としてあるのかもしれません。
このように、今回のカフェでは、趣味や考え方の違いを超えてもお互いを結びつけるものとして取りざたされたその「土台」というキーワードをめぐって議論が展開しました。

これに関して、やっぱりぱんつさんは工藤さんに対して東横インが好きだという部分以外に、理解できない部分を感じるのか、という質問が投げかけられました。
これに対して、やっぱりぱんつさんはどんな変なことも面白いと思えるけれど、それは趣味的なものだから理解できないことを受け入れられるのかもしれないとの答えが返されました。
つまり、ここにはやはりやっぱりパンツさんと工藤さんとのあいだには、理解できない異質さを許容できるだけの「土台」があるのであり、問題はそもそも、その「土台」の違う他者と共生することは可能なのか、との問いが炙り出されました。
恋人や友人、家族はその土台を共有している関係性のうちにあると。とりあえずは言えるでしょう。
いや、それでも隣に引っ越してきた言葉も通じない中国人に対しても、意外と楽しむことができたというエピソードが工藤さんから紹介されました。
だから、「土台」が共有されずとも、それは可能ではないか。
あるいは、別の参加者から、夫がある宗教団体に入信したが、妻は入信を拒否してもなお夫婦関係は存続したというケースも紹介されます。
それでも、人には許容範囲というものがあるのではないか。
どのレベルまで行ったら他者の違いを受け入れられなくなるのか?
その問いに対してやっぱりぱんつさんは、「自分に害が及んだ時には、さすがに容認できなくなるのでは」と言います。
たとえば、自分よりも東横インを優先し始めて、自分との過ごす時間が減ってしまったりした場合には、さすがに許容できなくなるのではというのです。

すると、別の参加者から「そもそも他者は理解できないからこそ他者なのであり、せいぜい他者を容認せよとしか言えないのではないか」との意見が挙げられました。
長年のうまくいかない夫婦関係の経験から、その発言者は次第に相手を理解しようとしなくなったと言います。
けれど、それは決してネガティブな意味ではありません。
理解不可能な存在が他者であるのなら、理解しようとするのではなく、あるがままである他者の存在を許容することしかできないのではないかというわけです。
あの暴挙をくりかえすイスラム国の兵士ですら、それはもしかしたら私たちが理解できない正当性があるのかもしれません。
それを理解しないままに、この世界から即抹殺せよという権利は誰にもないことを、その意見は示しています。
では、それは他者なるこの世界の暴力的な存在をすべて許容せよ、ということになるのでしょうか。

また、同化による理解について、それは突き詰めていくとけっきょくは異化による理解と変わらないのではないか、との意見が出されます。
つまり、同質的な仲間内とはいえ、それは結局のところ、お互いが違っていることに気づかざるを得ないくなってゆくのであり、それは異化による理解に至らざるを得ないのではないか、というわけです。
その点で、やっぱりぱんつさんの選択は、はじめから異化から理解へ至ることを出発しているわけですが、それにしても、なぜその方法を東横インの模型をプレゼントする形を選択したのか。
その問いかけに対し、「お互いに気持ち良くなれるから」と彼女は答えます。
(「自分本位でも相手本位でもなく、お互い本位でやらねば意味がない。」(47頁))
もちろん、東横イン好きの工藤さんですから、それを贈られることは気持ちの良いことかもしれません。
一方、やっぱりぱんつさんにとっても模型を作る過程は楽しいものに違いないという確信の下、それが執り行われたというのです。
では、他方で工藤さんはそのプレゼントが嬉しかったのかと聴くと、一抹の引っ掛かりはなかったわけではないが、今やそれは二人を結びつけた象徴として自宅内に置かれ、それを見るたびに、その二人の関係性が構築されていった過程が想い起されるイコンとして存在していると言います。
もはや、それは東横インの模型を超えてイコン化しているというのは、とても印象に残るお話でした。

さて、場がいったん落ち着いたところで、論点は「恋愛の在り方」に移ります。
「恋は惚れたほうの負けで、惚れさせたほうが勝ちだ」という、若かりし頃から引っ掛かりお覚えていたこのテーゼについて、
「愛の勝負は、どちらが勝っても負けてもいけない。ドローという結果は、私が一番望んでいたものだった」(160頁)
という、やっぱりぱんつさんのテーゼは衝撃だったという話が挙げられました。
これに関して、恋は勝ち負けだが、愛は対等性をもって成り立つのかもしれない。
そして、その方が長く続くという意見が挙げられます。
では、対等とは何か?引き分けとは何か?
それを「自分が相手を思う気持ちと、相手が自分を思う気持ちのバランス」と表現した意見も出されました。
たしかに、このバランスが崩れると恋愛も成り立たないでしょう。
さらに拗れれば、ストーカー行為になってしまいます。
最終的にそれは相手を殺害してしまう行為に及びかねません。
それでも、惚れている間が幸せなのだから、惚れた方が勝ちなのではないか、
いや、惚れた方は自制の利かず、惚れられた方に言いなりになるのだから負けなのだ、という意見の相違も挙げられます。
でも、それって恋愛関係でなくても、友人関係にも当てはまるのではないか。
いや、それは恋愛関係が100対100ならば、友人関係は60対60という度合いの程度で表せるのではないか。
等など、恋愛をめぐって議論は尽きません。

しかし、最終段階において議論は、やはり「他者問題」に回帰していきます。
他者を尊重するとは何か?
ある参加者は、相手のことを本当に理解したいというならば、相手が生まれる前にどのような存在だったのか遡っていかなければならず、それは大変なことなのだから、理解しようと探究することはあきらめて初めて尊重しようということが必要になると言います。
この相手を理解する、尊重することをめぐっては、「相手が好きなものを自分も好きになることが理解である」と思ってきた経験を語る参加者がいました。
自分は犬が大嫌いなのだけれど、犬好きの妻の姿を見ていて自分も犬好きになれば何か世界が開けるのかもしれないと思い、一生懸命犬を好きになろうとしたがやはり無理だったというのです。
これに関して、ワタクシは工藤さんが書かれた
「理解できない部分にはあえて触れず、見て見ないふりをすること、そこから何も感じようとしないことが尊重するということだと思っていたし、そう過ごしてきた」(138頁)
という部分が印象にあり、そしてとても共感できる部分だったことを述べさせていただきました。
ただし、大事なのはその先にある「けれど彼女は違った」という続きの文章です。
この「彼女は違った」という部分をどのようにとらえればいいのか、という問いかけに対して、工藤さんは実はいまだによくわからないと答えてくれました。
そして、これから先もそのことを考え続けていくしかないのだとも言います。
実は、この部分を理解することが、今回のテーマを深める点でかなり重要な気がしています。

最後に、ある参加者から「これまでの議論を聴いていると、他者を理解するとか容認することがあたかもよいことのように語られているようだが、果たしてそうなのだろうか」との問いかけが為されました。
これは先ほどの「すべての他者を容認せよ」という論点に回帰する問題です。
これに関して、ワタクシは相対的に物事を考えることが、実は高校生たちの日常的な作法になっていることを話題に挙げさせていただきました。
異文化の食生活についてならまだしも、「名誉のための殺人」という文化まで果たして許容できるのか、という問いかけに対しても割合許容できるとする意見が多い様子を見て、ワタクシはそれが無関心に基づく、あるいは他者との関係性を断ち切る口実にした相対的思考が根底にあるのではないかと考えています。
こうした背景がある中では、安易に「他者を容認せよ」とは言えないのではないか。
その問いかけに対して、ある参加者は、そこには「目的」の有無が重要になってくるのではないかと指摘します。
つまり、仕事においてはその職務という目的に、恋愛も結婚という目的に、テロに関しても平和という目的に向かって、というように容認することが何に向かっているによって鮮明になってくるのではないかというのです。
この意見をさらに深めることで、他者問題の何かが見えてきそうでしたが、残念ながらここでタイムアップとなりました。
最後は全員で 『愛する人に東横インをプレゼントしよう』 を持って記念撮影をいたしました。

真剣さの中にも爆笑渦巻くてつがくカフェとなりましたが、それもこれも、やっぱりぱんつさんと工藤さんの清々しいユニークさのおかげでした。
「おもしろき こともなき世を おもしろく」
高杉晋作の辞世の句を、まさに現代で体現されているようなお二人とは、その後の2次会3次会までおつきあいいただき、さらに楽しいひと時を過ごさせていただきました。
あらためて、遠路はるばるお越しいただきましたお二人には、心より感謝申し上げます。
とにかく素敵なこのカップルのユニークさを理解するには、まだまだ時間が足りません。
無限の他者性を理解するために、今後ますます「お二人を応援し続けたいと思います。
いつも以上に多数のご参加いただけた皆さまにも感謝申し上げます。
皆さまのお力を得て、てつがくカフェ@ふくしまも益々のおもしろさを追求してまいりたいと思います。

本deてつがくカフェ番外編報告―カミュ『ペスト』―

2014年03月22日 12時48分07秒 | 本deてつがくカフェ記録
てつがくカフェ@ふくしま特別編4の翌日は、立て続けに本deてつがくカフェ番外編が開催されました。
課題図書は、アルベール・カミュの『ペスト』。
この企画は、この春に福島を離れる方と「読書会をしよう!」という話が盛り上がったついでに、本deてつがくカフェで扱うことになったものです。
その意味で「番外編」とさせていただいたのですが、参加者は予想以上に集まり10名の方々にお出でいただきました。

しかも、今回は、まさに「読書会の不可能性」を探求する場となりました。
というのも、まず、読書会であるにもかかわらず、課題図書を読み切ってきた参加者がほとんどいません。
1ページすら読んでいない方もいます。
つまり、ほとんどの人が結末を知らないまま読書会が進行したわけです。
さらに、読み切った人がほとんどいないということは、会の性質上、ネタバレのオンパレードになります。
これについては小野原がブログで書いています(ネタバレ本deカフェ)。

果たして、これが読書会と言えるのか?
しかし、そこはてつがくカフェ@ふくしまです。
ネタバレもお構いなしに対話がくり広げられました。
ここから読まれる方はネタバレ覚悟でお読みください。
ちなみに、今回の報告は特に発言メモを取らなかったので、皆さんの意見や議論を聞きながら渡部が再解釈してまとめた内容になっています。

さて、カミュの『ペスト』のあらすじ等についてはウィキペディアを参照して下さい。
それを読んだとしても、本書自体のおもしろさは、やはり実際にお読みいただくしかありませんが、それを前提にカフェで触れられた内容について書き連ねていきましょう。(以下、青字は新潮文庫版・宮崎嶺雄訳『ペスト』からの引用

しばしば『ペスト』は、〈3.11〉の「フクシマ」の状況と重ねて語られます。
私自身もとりわけ前半部分なんかは、原発事故直後に福島市内が放射能汚染されつつあった状況をリアルに思い出させられました。
たとえば、

「肝心なことは」と、カステル[医師]はいった。「こう言う議論の仕方がいいとかなんとかいうことじゃない。それを聞いて、みんながよく考えてみるということです」(p72)とか、

 
「我々はあたかも市民の半数が死滅させられる危険がないかのごとく振る舞うべきではない、と。なぜなら、その場合には実際そうなってしまうでしょうから」(p76)とか、

「自分[知事]にはそうする権力がないっていう返事なんです。僕の意見では、こいつ[ペスト]、勢いを増してきますよ」(p92)とか、

知事:「総督の命令を仰ぐことにしましょう。」
リウー(医師)「命令なんて!それこそよっぽど頭を働かせなきゃならない時なんだが」(p94)
とか、

「この病疫の無遠慮な侵入は、その最初の効果として、この町の市民に、あたかも個人的な感情などもたぬようにふるまうことを余儀なくさせた、といっていい。」(p97)とか、

これらの言葉は、実際に被災現場にいた私たちが口にしたり耳にしたりしたものです。

「仮に我々の中の一人が、ふとしたはずみで、自分の感情上の何かのことを打ち明け、あるいは話そうと試みたとしても、相手のそれに対する返事は、どんな返事であろうと、たいていの場合、彼の心を傷つけるのであった。彼はそこで、その話し相手と自分とは、同じことを話していなかったことに気がつくのである」(p109)なんて、放射能に対する温度差に悩んだ経験を思い出さずにはいられません。

これらの言葉の数々は、あの放射能汚染が広まる中、なかなか自分で考え判断できない、自分で責任をとってよいのか迷う現場の状況下における行政側の対応と葛藤に響きあうのではないでしょうか。
参加者の中には行政職に携わる方もいらっしゃいましたが、彼に思わず問い質してしまう場面も生まれ、申し訳ないことをしてしまいました。

話題はいろいろなページにわたって繰り広げられますが、やはり登場人物の生きざまに注目が集まります。
まずは、ペストが発生したオランの外部から来訪した記者であるランベール。
彼は、閉鎖された町の外に愛人(妻)を残しており、彼女に会うために必死に脱出を画策します。
が、ことごとく失敗するさまは、まるでカフカの『審判』の世界です。
そんな理不尽さにうんざりしたランベールが言った一言がこれです。

「僕はもう観念のために死ぬ連中にはうんざりしているんです。僕はヒロイズムは信用しません。僕はそれが容易であることを知っていますし、それが人殺しを行うものであったことを知ったのです。僕が心惹かれるのは、自分の愛するもののために生き、かつ死ぬということです」(p244)

状況としては、オランがペストの蔓延を防ぐために市門を閉鎖して住民を外部から隔離したのに対し、福島の場合は放射能汚染のために居住区域から追放された点で、正反対の状況とも言えます。
しかし、「世界からの追放」という意味では、同じであるとも言えるのではないでしょうか。
その場合、「世界」とは自分に慣れ親しんだもの、愛したものたちに囲まれた環境そのものを指します。
すると、「自分の愛するもののために生き、かつ死ぬということ」とは、単に実存主義の態のいい定義とだけ解釈すべきではないでしょう。
「愛するもの」とは、その土地かもしれないし、ペットかもしれないし、自分に慣れ親しんだもの全般を指します。
あるいは、未だ発見されぬ津波の犠牲となった愛すべき存在者かもしれません。
この「愛するもの」と隔絶された内/外部の壁にもがき苦しむランベールの苦悩は、世界からの追放と読む限りにおいて福島と縁遠い話ではないわけです。

これに対して、医師であり主人公であるリウーの答えは、こうです。

「今度のことは、ヒロイズムなどと言う問題はないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方は笑われるかもしれませんが、しかしペストと闘いう唯一の方法は、誠実さと言うことです」(p245)

「誠実さ」とは何か?
彼によれば、「僕の場合には、つまり自分の職務を果たすことだと心得ています」とのことです。
彼の医師としての職務とは、自分の死を省みずに目の前の患者を救うことに只管邁進することでしょう。
まるで野口英世のようです。
この「誠実さ」という言葉に、参加者それぞれが自分の立場でものを考えさせられます。
ジャーナリストとして、果たして誠実な報道をしているか…
あのとき、予定通り入学式を挙行し、子どもたちを被ばくの危険にさらしたのは教師としての「誠実さ」だったのだろうか…
しかし、そうはいっても先述したオランの知事や行政官だって、自分の職務を全うしていたとも言えるんじゃないだろうか?
いったい「職務」の遂行と「誠実さ」はイコールなのか?
それとも「職務」の遂行が「誠実さ」を伴うとはいかなることなのか?
2次会で話題に上った登場人物の一人に作家志望の下級役人グランがいます。
彼等は、ひたむきに自分のできる行政職の仕事に従事しますが、彼の市政はアイヒマンそのものだとみる参加者がいました。
ただし、「アイヒマン」という言葉が象徴するような無思考の犯罪者というよりも、あの家中の中で黙々と自分の仕事に従事する人々がいて成り立っている側面に注意を促します。
グランはその点でまさに「誠実さ」をもって行政職に従事する人物だったと評価できると思いますが、それとアイヒマンの境目とはなんだったのか?
アイヒマンは「誠実」だったのか?

このヒントは、終盤、流れ者のタルーが自らの出自を告白する中でふれられる「聖者」というものにつながるのではないかという話題になります。

「第三の範疇―つまり、本当の医師という範疇が、当然あっていいだろうが、しかし事実として、そういうのにはそう多くは出くわさないし、まず困難なことというものだろう。まぁ、そういうわけで、僕は、災害を限定するように、あらゆる場合に犠牲者の側に立つことにきめたのだ。彼らの中にいれば、僕はともかく探し求めることはできるわけだ―どうせすれば第三の範疇に、つまり心の平和に到達できるかということをね」(p378-379)

タルー:「僕が心を惹かれるのは、どうすれば聖者になれるかという問題だ」
リウー:「だって、君は神を信じてないんだろう」
タルー:「だからさ。人は神によらずして聖者になりうるか―これが、今日僕の知っている唯一の具体的な問題だ」(p379)


タルーによれば、この世は天災と犠牲者というものがあり、万一自分が天災になるようなことがあるとしても、自分は決してそれに同意せず、「敗者の方にずっと連帯感を感じる」と言います。
この部分はなかなか複雑な告白内容で、彼が天災=ペストと名指すものは、実は死刑という殺害が正当化された社会に生きている人間に潜む病魔だと考えています。
いくら戦争や殺人を批判的であろうとしても、社会的に合法化された死刑を無意識に認めている限り、彼に言わせれば、間接的に死刑という殺害に加担していることは否定できません。
そして、それを容認する限り「やむを得ない殺人」は際限なく繰り広げられることを止めることはできません。
「やむを得ない」犠牲を容認するもの、これこそが人間の中に潜む「ペスト」性だというわけです。
タルーは、いかに死刑が社会にとって必要悪だという合理化されようとも、そんな「理性的な殺人者」に加担したくはないと言います。
加害者になるくらいなら犠牲者の側に。
しかし、ここで「天災(加害者側)」と「犠牲者」のみならず、それとは異なる「第三の範疇」としての「本当の医師」という存在が要請されるわけです。
この場合、医師は只管患者の治療にあたるわけですが、それは一方では病としてのペストを治すものであり、他方は死刑に同意する人々を治癒しようとするものでしょう。
いずれも不可能なものへ挑むものとして「聖者」としてタルーは考えます。
しかも、「神」という救済の存在もなしに、ただ救われる望みもなく挑み続けるもの。

自分の罪深さから、オランの部外者であるタルーがペスト撲滅にまい進する姿は、まさにこの「聖者」にならんとしているかのようです。
そして、その姿はペストと戦い続けるリウーにこそ見出されるのではないか、という意見が出されました。
たぶん、「神によらずしてなる聖者」とは、この終息が見えない病魔との戦いを継続するものであり、その戦いがほとんど報われるとは思えないにもかかわらず、しかも自分もまたいつ感染するかわからないにもかかわらず、只管挑むものなのでしょう。
ここに原発事故の終息が見えない廃炉作業に携わる人々の姿が重なります。
ただし、これを「聖者」と解釈して「犠牲」に供する存在の意味に解消しては決してならないはずですが。

が、しかし、まさにこの小説がカミュの作品たるゆえんは、このタルーがペスト終息宣言が出された直後にペストで死んでしまう場面です(一同驚愕)!
ペストも終息を迎えますが、それは決して医師たちの努力によるものではありません。
人々の努力が実を結んだわけでもなく、しかも努力した人間がペストの終焉とともにペストによってほとんど犬死同然に死んでしまうという不条理!
人は希望があるからこそ努力できる、という目的論はまったく通用しないことに愕然とさせられるほどです。

さて、カフェの議論でふれられた他の登場人物についても見てみましょう。
序盤からコタールという絶望に駆られた男が登場します。
彼は精神的に病んでいて自殺未遂を犯すわけですが、その背景には彼が犯した犯罪が発覚することへの恐れがありました。
ところが、一連のペスト騒動はその事実を有耶無耶にし、彼にとって何でもありの、ある種の祝祭感を与えます。
明日は我が身。いつ果てるともない生のちっぽけさに裏打ちされた祝祭性は、ある種のリセット願望と一致したのかもしれません。

「要するに、ペストは彼にとってうってつけのものである。孤独な、しかも孤独であることを欲しない一人の男を、ペストは一個の共謀者に仕立てた」(p287)

街の静けさと対照的に妙にハイテンションにふるまう彼の行動は、しかし震災直後に現れた「災害ユートピア」ともいうべき状況を彷彿とさせます。
ふだんは関係の悪い職場の人間関係も、あの震災対応に追われる中でみたことのない協働性を発揮したという経験談が挙げられながら、人とつながるにある種の陶酔感を覚えた人もいたのではないでしょうか。
他方、こうしたリセット願望は「孤独」や「孤立」といったキーワードと結びつきながら、この世界が破滅するか自分自身を破滅させるかのどちらかを欲望せざるをえない人々を想い起させます。
これに関して、『黒子のバスケ』著者に対する連続脅迫事件の裁判で、被告が「こんなクソみたいな人生やってられないから、とっとと死なせろ」と述べた一言が頭を離れません。
自殺未遂を冒したコタールにとって、ペストに侵された世界とは自分を救う新世界だったのかもしれません。
図らずも、ペスト終息後、彼は住居に立て籠り、銃で警官を殺害したことで警察隊に射殺されてしまいます……
彼にとって日常の回復は死を意味したのでしょうか。

それから、このペストと死が蔓延する中で説教を説くイエズス会の神父パヌルーです。
彼はとても説得的で学識豊かな神父として、この状況を神学的に解釈し説教しますが、それはまさに「天罰論」ともいうべきものです。

「今日、ペストがあなたがたにかかわりをもつようになったとすれば、それはすなわち反省すべき時が来たのであります。心正しき人はそれを恐れる必要はありえません。しかし邪なる人々は恐れ戦くべき理由があるのであります。世界という宏大な穀倉の中で、仮借なき災厄の殻竿は人類の麦を売って、ついにわらが麦粒から離れるまで打ち続けるでしょう」(p139)

これがあの「3.11」の震災直後、この天災を「津波をうまく利用して、我欲をうまく洗い流す必要がある。積年にたまった日本人の心の垢を。これはやっぱり天罰だと思う」としたある政治家の発言を想い起すことは容易でしょう。
このペストによってオトンの息子が死にますが、パヌルーはその出来事も「それが我々の尺度を超えたことだからです。しかし、おそらく我々は、自分たちに理解できないことを愛さねばならないのです」(p322)と述べます。
これに対して医師リウーは、何の罪もない「子供たちが責めなまされるようにつくられたこんな世界を愛することなどは、死んでも肯んじません」と反論します。
我々の理解の尺度を超えたものを想定し、「自然」とか「神」とか理解を超えたものに原因を期することは一つの不条理を納得する仕方かもしれません。
しかし、リウーはそうした理解の方法を拒絶します。
そんな不条理な世界を、いくら理解を超えていようとも「愛すること」などできるはずもないのです。
福島に生きる者にしてみれば、まして原発事故という人為の責任を「天」や「神」に帰する論理など到底受け入れられないでしょう。

こうしたリウーの考えに触発されたのか、このあと、パヌルーは天罰論と無垢な死をどのように解釈すべきか、ぎりぎりまで突き詰めていく論題の説教を試みます。
子どもの苦しみをまったく問題としない天罰論者にでもなく、ペストの苦痛に対する恐怖に圧倒される者としてでもなく、「みなさん、私どもは踏みとどまるものとならねばなりません」。「善を為そうと努めることだけを為すべきである…しかし、…子どもの死さえも、神のみ心に任せ、そして個人の力に頼ろうなどとしないようにすべきである」、「中間などと言うものはない」。
だが、パヌルーはこういいながらも、自身そのはざまで不安に苛む様子がうかがえます。
「司祭が医者の診察を求めるとしたら、そこには矛盾がある」(p339)と、彼が語った事実を若い助祭は語りました。
タルーは、リウーからその説教の話を聞きながら、戦争中に罪なき者が目をつぶされる姿を見て信仰を捨てた司祭の話を引き合いに、
「罪なき者が目をつぶされるとなれば、キリスト教徒は、信仰を失うか、さもなければ目をつぶされることを受け入れるかだ。パヌルーは信仰を失いたくない。とことんまで行くつもりなのだ。」と解釈します。
ところが、パヌルー自身、その直後にペストによって死亡してしまいます。
果たして、彼の死は信仰の犠牲に自らを供したものなのか、それともまったくの無意味で不条理な死にすぎなかったのか?

いずれにせよ、タルーといいパヌルーといい、その「誠実さ」と結果とのあまりのギャップに、この本を読んでいない参加者から「結局この本はペシミスティックなわけ?」という問いが発せられました。
しかし、読破した参加者は一様に「そうでもない。むしろなぜか希望的なものすら感じる」という意見が出されました。
それはなぜなのか?
リウーのように、ほとんど徒労にもかかわらず、ただ「健康」のために医療行為に従事する姿は、ある意味でカミュの著作でもある「シーシュポスの神話」を想い起させます。
ギリシア神話においてシーシュポスは、神々の怒りを買ってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けるのですが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまい、ひたすら同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないという無意味さの苦しみを繰り返します。
この無意味な不条理さにいったい、ペシミズム以外に何があるのでしょうか。

これについて、ある参加者は、この小説がある種の報告書、証言の形式になっていることに注目します。
そして、この無意味で無価値であるにもかかわらず、そこにたしかにペストをめぐって格闘したり、悩んだり、逃げたり、苦しんだ人々を書き記そうとすることそれ自体に、何かポジティブなものを感じるというわけです。
ペスト終息宣言が出された後、街では祝賀の花火があがり歓声がわきます。

「コタールもタルーも、リウーが愛し、そして失った男たち、女たちも、すべて、死んだ者も罪を犯した者も、忘れられていた。爺さんの言った通りである。― 人々は相変わらず同じようだった。しかし、それが彼らの強み、彼らの罪のなさであり、そしてその点においてこそ、あらゆる苦悩を超えて、リウーは自分が彼らと一つになることを感じるのであった」(p457)

「忘れる力」とは、先日の特別編4のテーマでしたが、まさにそのことを指し示しているかのような一文です。

「その時医師リウーは、ここで終わりを告げる物語を書き綴ろうと決心したのであった―黙して語らぬ人々の仲間に入らぬために、これらペストに襲われた人々に有利な証言を行うために、彼らに対して行われた非道と暴虐の、せめて思い出だけでも残しておくために、そして、天災のさなかで教えられること、すなわち、人間の中には軽蔑すべきものよりも賛美すべきものの方が多くあるということを、ただそうであるというだけ言うために」

「しかし、彼はそれにしてもこの記録が決定的な勝利の記録ではありえないことを知っていた。それはただ、恐怖とそのあくなき武器に対して、やり遂げねばならなかったこと、そしておそらく、すべての人々―聖者たりえず、天災を受け入れることを拒みながら、しかも医者となろうと努めるすべての人々が、彼ら個々自身の分裂にもかかわらず、さらにまたやり遂げねばならなくなろうであろうこと、についての証言でありえたにすぎないのである」(p457~458)


歴史を作り上げてきた人々とは、歴史に名を残せない大多数の人々であって英雄ではありません。
その歴史に刻まれなかった人々は沈黙のうちに忘却という死に晒されるでしょう。
いわば、敗北の歴史というべきものです。
あの震災・原発事故ののさなかに、自分自身を引き裂きながら個々の状況に葛藤し、選択肢、戦った人々は無数に存在しました。
聖者どころか、負い目を追ってしまう人も多数いたことでしょう。
逃げるように、この地を離れた人もいたでしょう。
しかし、それらがすべて無意味であるとか正しい/間違っているといった、わかりやすい物差しで評価されること自体憚れることです。
その出来事の渦中で、個々人が経験したこと、行為したこと、苛まれたこと、これらのことを書き記す証言を残すこと自体が、不条理ともいえるペストに対抗できるポジティブな何某かだということではないでしょうか。
それが、もしかしたら「救い」なのかもしれません。
忘却から存在が救われた、という意味での。

実は、最後にこの記録者がリウー自身だったことが明かされるわけですが、彼はその戦いの中で生まれた「友情」というものに惹きつけられます。
あれほど市外へ脱出したがっていたランベールも、脱出の土壇場で共に戦ってきたこの地を離れるわけにはいかないと決断します。

「もし自分が発って行ったら、きっと恥ずかしい気がするだろう。そんな気持ちがあっては、向こうに残してきた彼女を愛するのにも邪魔になるには違いないのだ。」

「しかし、自分一人が幸福になるということは恥ずべきことかもしれないんです。」

「僕はこれまでずっと、自分はこの街には無縁の人間だ、自分には、あなた方は何のかかわりもないと、そう思っていました。ところが、現に見た通りのものを見てしまった今では、もうたしかにこの町の人間です、自分でそれを望もうと望むまいと。この事件は我々みんなに関係のあることなんです」(p307)


これが避難せずに現地へとどまった人々の行為を正当化するものとして読み込めば陳腐なものとなるでしょう。
しかし、オランという街に関わりのないエトランジェ(よそもの)であるランベールが、出来事に巻き込まれるうちに自分と無関係ではないと納得していく過程は、その中で邂逅した人々との戦いがあったからでしょう。
その中で生じた「友情」なるものは、やはり否定しがたく自分のぎりぎりの選択を規定するに余りある経験だったのだと思います。
これを「戦友」と名付けることが許されるとすれば、やはり「よそもの」であったタルーとの友情も同様でしょう。
こうした友情など、歴史に刻まれるはずもありません。
しかし、そのことを証言することは後世に役立つとかそんな功利的意義を超えて、それ自体として不条理の中に「記憶」という一つの光をもたらすように思われるのです。

「彼[リウー]はタルーの傍らで暮してきて、そしてタルーは今夜、二人の友情が本当に生きられるひまもないうちに、死んでしまったのだ。タルーは勝負に負けたのであった―自分でいっていたように。しかし、彼、リウーは、いったい何を勝負にかちえたであろうか?彼がかちえたところは、ただ、ペストを知ったこと、そしてそれを思い出すということ、友情を知ったこと、そしてそれを思い出すということ、愛情を知り、そしていつの日かそれを思い出すことになるということである。ペストと生とのかけにおいて、およそ人間が勝ちうることのできたものは、それは知識と記憶であった。おそらくこれが、勝負に勝つとタルーが呼んでいたところのものなのだ!」(p431)

さて、今回の本deてつがくカフェは、冒頭で申しましたように、この春、福島から離れる参加者から「読書会をしよう」との要望があったことに端を発しています。
まさに、彼らはエトランゼ的存在でもあったわけですが、しかし、わずかな時間であっても、こうした知的な遊びの空間を共有していただいたり、また福島の問題をともに共有し、戦っていただけたという点で、無限の友情を感じないわけにはいきません。
その点でも『ペスト』を選書したことは彼らとの友情を描き刻むにうってつけの機会だったのではないでしょうか。
福島を離れられるKさん、Fさん、そしてもうひとりのFさんには、益々ご活躍くださることをお祈り申し上げます。
また、お会いできる日を楽しみにしています。

最後に、リウーの患者であった爺さんの意味深な言葉を引用して終えましょう。

「一番いい人たちが行っちまうんだ。それが人生ってもんさ……だが、いったい何かね、ペストなんて?つまりそれが人生ってもんで、それだけのことさ」(p454)

第5回本deてつがくカフェ報告―高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』―

2013年05月19日 05時46分55秒 | 本deてつがくカフェ記録
福コンで街なかが賑わう中、昨日、第5回本deてつがくカフェがサイトウ洋食店にて開催されました。
参加者は9名。
これまでの本deてつがくカフェでは、漫画や小説といった物語性の強い本を課題図書としてきましたが、今回は哲学的テーマを扱った新書を選びました。
しかも、著者である高橋哲哉氏は福島出身の哲学者です。
この一冊を福島のてつがくカフェで扱うというのは、ことさら意味深いのではないでしょうか。

さて、議論はいつもどおり読後の感想を挙げていただくことから始まりました。
まず、この震災・原発事故をめぐっては「人々がこれまで気づかなかった問題が暴露された出来事であり、その点で意識の変化をもたらされた」と積極的な意味を見出す意見が挙げられます。
さらに、福島へが差別されている現実やこれまで沖縄の問題などが身近に感じるようになったし、自分がこの時代に生まれた役割を引き受けることを自覚させられたとのことでした。
ただし、その一方でその方は高橋氏の言う「犠牲」という言葉の意味はしっくりこないとも言います。
ふつう「犠牲」とは私利をかなぐり捨ててでも、ある行為を選択する際に用いるのではないか。
しかし、この本で語られる「犠牲」とは、支配する側と支配される側、利益を得る側と搾取される側との関係において用いられており、私利私欲とが存在しています。
すると、そこにはあえて「私」を捨てて選んだ場合の犠牲、つまり「自己犠牲」という意味での犠牲が見出せません。
そこに違和感が生じるというわけです。

これは最初の論点になりました。
本書において「犠牲のシステムでは、或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている」(27頁)と定義されてあります。
たしかに、これを読む限り「犠牲」とは、たとえば親が我が子のために臓器を供するケースなど私利を省みずに為される自己犠牲とは異なり、支配/被支配といった服従関係において用いられているように思われます。
言い換えれば、相手を目的としてではなく手段として用いる関係性における「犠牲」とも言えるでしょう。
では、両者区別されるものでしょうか。

これに対しては別の参加者から、たしかに本書での犠牲は「自己犠牲」という意味とは異なるけれども、しかしそもそも「犠牲」とは、「生贄」のように本人の意志とは無関係に支配者や共同体が強いたというのが歴史的にまずあって、そこから派生的に生じたのが「自己犠牲」なのではないかとの意見が出されました。
むしろ、「犠牲」とはあたかも自分の意志による主体的選択であるかのように見えながら、実は何かのシステムや支配構造を維持するものとして作用するものなのかもしれません。
「Subject=服従=主体」的犠牲とは、まさにその意味においてのことでしょう。

また、別の参加者からは「犠牲にされていたというのは、原発事故の後になってはじめて認識できた。うまくわからないようにしていたんだなぁと感じた」という意見が挙げられました。
つまり、「犠牲」というのは「後からの思考」によって認識されるものであり、その点で高橋氏の言う、「通常、隠されている」ということが証明されたということでしょう。
さらに言えば、これについて筆者(渡部)は、高校の授業で原発事故を扱った際の生徒たちの反応を想い起こしました。
それは、少なからぬ生徒たちから「自分たちの被災が後世の役に立つと思えば無駄ではなかったと思える」との意見が挙げられたというものです。
つまり、「自分は犠牲に供されていた」と気づいた後もなお、実はそれが犬死だったと受け入れられないという、自分の存在意義に関わる反応でした。
それゆえ、犠牲は美化されたり歴史の中に意味づけてみることで、単なる犠牲=犬死ではないことを確認しながら、自分の存在を保持しようとするわけです。
しかし、それは「犠牲のシステム」を強固なものにしてしまうという皮肉な結果を招くものではないでしょうか。

この「後からの思考」によって犠牲は気づかれるという点については、さらに別の参加者から「ほんとうに犠牲だと気づいたのだろうか」との疑問が付されました。
つまり、あれだけの原発事故の被害にあってなお、この国のシステムは原発を存続させようとする政権を選択したし、何も変わっていないではないかというわけです。
なるほど、犠牲のシステムは暴露されたものの、相変わらずその構造を保持しようとする連日の報道を見るにつけ、苛立ち以上の失望を感じないわけにはいきません。
しかし、この意見に対しては、さらに別の参加者から「そうはいっても、原発事故以前には100の内に1しかなかった脱原発派が、10くらいにはふえたと思う。そう考えれば、劇的に変化はしていないかもしれないけれど、歴史は少しずつ変わっているのだと希望できるのではないか」との意見が出されました。

一方、この「犠牲とは何か」を問う論点とは別に、今回のカフェでは「犠牲にする立場と犠牲にされる立場の関係性」が中心的に問われました。
これは、ある参加者の「犠牲にする立場と犠牲にされる立場はどのように関われるのかが気になる」という感想がきっかけです。
とりわけ、そのことと関連する箇所として、本書181-182頁にある野村浩也著『無意識の植民地主義』から引用された日本人と沖縄人の対話が印象深いといいます。

日本人:「沖縄だーい好き!」
沖縄人:「そんなに沖縄が隙だったら基地ぐらいもって帰れるだろう。」
日本人:「……(権力的沈黙)」
……(以下続く)

ここにある「権力的沈黙」という言葉は印象的です。
別の参加者からは、本書について「これまで沖縄や原発の問題を知らないわけではなかったけれども、それを自分が直視せずにきてしまったことを見せつけられた一冊だった」との感想が示されましたが、筆者も含めて、もしかするとそれは「権力的沈黙」を無自覚に行使していたのかもしれません。
もちろん、高校では沖縄へ修学旅行へいくことがります。
ということは沖縄について事前学習を高校生にさせるわけです。
そこでは沖縄の米軍基地問題を当然に扱うものです。
しかし、それは平和学習の一題材として手段化してしまっていただけではないか。
その守備範囲を超えた応答はまさに「権力的沈黙」によって見てみぬふりをしてきた結果ではないか。
この日本人と沖縄人の対話は、そんな筆者に痛烈な自己批判を迫る場面なのです。

一方で、この問題提起に対して別の参加者からは、「沖縄の知人と沖縄について対話すると、必ずといっていいほど外部の人間である私(発言者)のモノローグになってしまう」との意見が出されました。
つまり、その沖縄の知人は沖縄問題になるとほとんど何も語らなくなるというのです。
その知人の姿に発言者は、大江健三郎の『沖縄ノート』にある沖縄の人々の「絶対的な優しさと絶対的な拒絶」という言葉を引用しながら、福島に生きる自分の思いと重ね合わせながらこうも言います。
「県外の知人に『福島は大丈夫ですか?』と聞かれると、『大丈夫じゃないですよ』と応えながらそれ以上何も語らない自分がいる」。

犠牲にする側が「権力的沈黙」を行使する一方、犠牲にされる側もまた自らの犠牲について多くを語りたがらないものです。
これについては、さらに別の参加者から
「福島県外の人々から「ガンバレ!」といわれるとシラける自分がいるし、「温度差」ということを思い出す」や、
「7,8年前に高橋哲哉さんの講演を聴きにいった際、震災前から沖縄について『沖縄の空気は現地に行かないとわからない』と熱心に語っていたことが印象的だったけれど、この原発事故を経験した後になってはじめて当事者意識とはこういうことかとわかった」との感想が挙げられました。
ここで挙げられた「温度差」や「当事者」という言葉は、しばしば震災・原発事故を語る際のキーワードとして、これまで幾度となく取り沙汰されてきたものですが、今回はこれらが「犠牲にする側/犠牲にされる側」との関係において興味深い議論に発展しました。

こうした意見に対しては、そもそも「犠牲にする立場/犠牲にされる立場」は分けられないのではないか、との意見が挙げられました。
この発言者によれば、震災直後の2011年には原発事故の犠牲になったという意識を強く持っており、そうであるがゆえに首都圏で行われる反原発運動の姿を見るにつけ、強い反発を覚えたといいます。
しかし、そのような状況の中、首都圏に住む知人から「あなたはどれだけ福島のことを知っているのか」と問われた際、自分が福島について何も知らなかったことに気づかされたというのです。
出来事の内部にいれば、その意味がもっともよく理解できているかといえば、そんなことはまったくないでしょう。
外部にしか見えないことなどいくらでもあります。
また、原発事故の被災県とはいえ、そこには浜通り・中通り・会津地方、さらに浜通りの中にも警戒区域や計画的避難区域など、細かく見れば、事故の当事者とは誰かなど単純に見分けられません。
そこにおいて犠牲を強いられた側が、その内部において犠牲を強いる側になっていることさえありえます。
あるいは被害者であると同時に加害者であり、負担者であると同時に受益者という立場にもなるでしょう。
事実、原発事故の被害者である一方で、構造的には原発の廃炉作業に作業員を従事させる側にある人々は県内でも多数派なのです。

このように犠牲者が自らの立場を反省的に思考することは必要です。
しかし、こうした思考はどこか危うさも孕みます。
つまり、犠牲にされたことと犠牲にしたことがない交ぜになった結果、自分にも原発事故の責任があるとして、根本的な責任追及を自己抑制しかねない危うさがあるのではないでしょうか。

そのことを、仕事上、原発事故関連のクレームを受け付けながら「東電や国の責任なのに」と腑に落ちないエピソードを紹介してくださった参加者がいました。
その意見によれば、なるほど構造的には自分も某かの責任はあるのかもしれないけれど、しかしこの腑に落ちない理由は、まずこの原発事故を引き起こした第一義的な責任の追及が果たされていないことにあるというわけです。
たしかに、いまだ原発事故の責任について東電も国も責任追及されていません。
その刑事責任をめぐっては福島県では原発事故告訴団が福島地検へ起訴を訴えかけていますが、いまだ動きがありません。
その第一義的な責任が明らかにされていないのに、その犠牲になったものの責任を問うというのは順序とその責任のレベルからして転倒しているというわけです。
すると、第一義的な責任をめぐっては東電や国だけに止まらず、天皇制を基盤とした近代日本の国家形成そのものを当必要があるとの意見も挙げられました。
なるほど、内田樹氏は自身のブログにおいて原発立地が戊辰戦争や西南戦争における賊軍の地域に立地されているとも言います(「東北論」参照)。
つまり、いまこそ近代日本の形成期における責任も含めて問い直しが為されなければならないというわけです。

しかし、その一方、この原発事故の責任をめぐっては「いったい誰と闘っているのかわからない」といった戸惑いも訴えられました。
「復興」という言葉は、元に戻すことを求めますが、それは裏返せば、何事もなかったかのようにいつのまにか原発という犠牲のシステムが修復されているということです。
学校現場でも同じだったとの意見も出されます。
とにかく日常に戻そうとする。
非日常の不安から逃れるためにそれは必要な部分もありますが、しかし見てみぬふりをするという意味での復旧は破滅への道を選ぶことになりかねません。
この元に戻そうとする同調圧力の強さにウンザリするという感想も洩れました。
もちろん既得権益者がそれを望むのでしょうが、それにしてもそれがいったい誰なのか顔が見えない。
No man rule無人支配。
もしかすると、この現状を変えたくないという人のほうが多数派なのではないか。
石原慎太郎氏は、元東京都知事時代に起きた震災直後に、震災は日本人の我欲に対する天罰だと発言し物議を醸しましたが、こうした発言はひょっとしたら首都圏の人々の潜在的な無意識にある罪悪感なのかもしれないとの意見も出されました。
しかし、それをなぜ東北の人間が贖わなければならないのか。
その点を本書の第3章では明快な批判がなされてあります。
あるいはまた、本書の「日本イデオロギー」に関して、参加者からは「日本人はお上の言うことが正しいと思い込みやすい」との批判も出されました。
本書に即して言えば、福島県の放射線アドバイザーとして県立医大副学長(現在は退任)に就任した山下俊一氏が、「私は日本国民の一人として、国の指針に従う義務があります」(95頁)と県民に訴えた発言はその典型でしょう。
ここには科学の真偽を問う以前に、国家に服従する義務が国民の前提であることを示しています。

それにしても、この鵺(ぬえ)のようなこの犠牲のシステムを、果たして変えることなどできるのでしょうか?
これについてはカフェの終盤、「犠牲のない世界はありうるのか?」との論点で議論が交わされます。
これについて石垣りんの詩「食う」を引用された方がいました。
生きることは何かを犠牲にしなくてはいけない。
たとえ親兄弟といえど。
つまり犠牲のない世界などありえないということです。
すると、これを前提にどのようなことが考えられるのでしょうか。

ある参加者に寄れば、サイジングの問題を考える必要があるだろうといいます。
地理的規模や人口規模、そして政体についてサイズが大きくなればなるほど犠牲が大きくなる。
たしかに犠牲をゼロにすることはできないけれど、サイズを小さくすることで犠牲を小さくするという発想が必要ではないかというわけです。
エネルギーの地産地消という考え方もそうでしょう。
産出できるエネルギー量が小さければ、自ずとライフスタイルもそれに応じたものにせざるを得ません。
これは興味深い意見ですし、筆者はダグラス・ラミス氏の『ガンジーの危険な憲法』を想い起こしました。
成長や膨張を前提にしか考えられない政治観の転換を迫る意見です。

また別の参加者からは、「原発事故が起きてしまった以上、自己犠牲をしながら進まざるを得ないけれど、自分で許容できる自己犠牲の程度で済む社会にするしかないのではないか」との意見が提起されました。
ここいう許容できる自己犠牲とは自律した判断の下に選択されるものを指します。
廃炉作業に携わるにせよ、高線量地域下に留まるにせよ、何かを犠牲にして選択する以上、それは誰からも押しつけられるべきではありません。
そのかわり、自律的判断を最重視するわけですから、その選択に関する情報はすべて開示されて知った上で、自己責任の下に為される条件が整備されなければならないでしょう。

犠牲のない世界はない、しかし犠牲を必要とする世界に積極的に生きたいとは思わないのではないでしょうか。
すると、限りなく犠牲を減らす努力、あるいは犠牲を前提としない社会システムを望むことは否定されたり諦められるべきではないでしょう。
本書はその解答ではなく、その賭場口に我々を立たせ、ともに考えよう誘おうとのメッセージが込められています。
今回の本deてつがくカフェはあっという間に時間が過ぎてしまいました。
まだまだ語り尽くせぬ題材に満ちた一冊です。
ぜひ、今後ともこの犠牲のシステムを突破できる可能性をてつがくカフェ@ふくしまでは探求していきたいと思います。
ご参会いただきました皆様には心より御礼申し上げます。

第4回本deてつがくカフェ報告

2013年01月28日 22時55分13秒 | 本deてつがくカフェ記録
第4回本deてつがくカフェが昨日、13名の参加者たちによりサイトウ洋食店で開催されました。
課題図書は『星の王子さま』。
子どもの頃、誰もが一度は読んだことが…
と思いきや、ワタクシも含めてこれを機にはじめて読んだという参加者も数名いらっしゃるかと思えば、「大好きな本」や「この本で人生が形づくられた」と言い切る方など、この本に対する思いも様々なカフェとなりました。
さらに驚いたことには、この本の翻訳の数です。
参加者が持ち寄った翻訳書は多彩でした。
なかでも一番の衝撃はコレです。

そう、アノ、西原理恵子が挿絵を描いた『星の王子さま』(角川つばさ文庫)なのです!
うーん、衝撃だ!これじゃ、ただの田舎の腕白坊主じゃないか!
「裸の大将」の子どもの頃はこんなかんじだったのではないでしょうか。
ちょっとおっとりしている感じが王子様っぽい感じもしますが。
もちろん内容は原書に則った『星の王子さま』そのものですが、
訳者の菅啓次郎の翻訳もなかなかです。
これだけで王子さまのイメージがガラガラ崩されたものです。
こんな感じで各々の『星の王子さま』像がぶつかり合う楽しい会となりました。

読後の感想、疑問もそれぞれです。
「共感できない部分があるのは、私がおとなになったからか」
「今回読んでみて新たな発見があった」
「おとなってそんなにつまらなくないぞ。おとなって何?」
「子ども向けの絵本ではないだろう。子どもとおとなの両方の立場を理解してこそ、おもしろさがわかる」
「おとなになって見えなくなったものとは」
「自分に当てはまるものもある」
「冒頭にあるレオン・ウェルトに、サン=テグジュペリはどんな気持ちで捧げたのであろう」
「理由なく泣いた箇所がある」
「なぜ、王子は死ななければならなかったのか」

個人的にはこの本をすんなり読み進めることは難しかったです。
いつもどこかで躓くのです。
このつまずき、というか引っかかりは翻訳の難しさにもよるものでもあります。
議論ではまず、「飼いならす」という言葉の違和感について話題に上がりました。
この言葉は後半部に登場するキツネが、王子様と友達になりたいという思いを語るなかで述べられた言葉です。

「きみにとっておれは10万匹のよく似たキツネのうちの1匹でしかない。でも、きみがおれを飼い慣らしたら、おれと君は互いになくてはならない仲になる。君は俺にとって世界でたった一人の人になるんだ。おれも君にとってたった1匹の…」

このキツネの言葉に引っかかりを覚えるのは、ふつう、かけがえのない関係になる上で「飼い慣らす」という言葉を用いるだろうか、という点です。
別の翻訳書では、この部分は「暇つぶし」となっているとの意見も出ます。
「でも「暇つぶし」もどうだろう?」
「いや、手間ひまをかけるということではないか」
「自分の持っている時間を自分の意志で費やすという意味では、単なる暇つぶしとは異なるだろう」
他にも「なつかせる」や「なじみになる」という翻訳書もあるとのことです。
原典のフランス語ではどう書かれているか確認できませんでしたが、
いずれにせよ、この言葉には情愛の結びつきや親密さをつくる意味が込められているようです。
そうはいっても「飼い慣らす」や「なつかせる」というのは、どうもしっくりきません。
自分で自分を「オレを飼い慣らしてくれ!」とか「ワタシをあなたになつかせてちょうだい!」というのは、ふつう言わないものでしょう。
ある参加者に言わせれば、これはあくまで人間と動物の関係においてだから、その表現は成り立つともいいます。
たしかに、人間同士の関係と考えるから違和感を持つのであって、動物の擬人化だと考えれば理解できます。
いずれにせよ、見ず知らずのもの同士を親しませるためには、一定程度、強制的に互いを結びつけるようなことでしか生まれないということでしょうか。

話題は「大切なものは目に見えない」という言葉へ向かいます。
冒頭にヒツジを書いてと王子にせがまれる飛行士が、やぶれかぶれに描いた「箱」の中にヒツジを見出す王子様の目には何が見えるのか?
逆に、なぜ大人になると見えなくなるのか?
いつから大人の心になってしまうのか?
そのような問いに対し、分類することを覚える過程で見えなくなっていくのではないかという意見が出されます。
いや、そもそもそれは見えているのだけれど、それが見えていることを許さない社会になっているのではないかという意見も挙げられます。
たしかにいくら自分に見えたものの存在を主張しても、誰にも相手にされないとき、人は口をつぐみ自分だけの秘密にしてしまうものでしょう。
その意味で言うと、大多数の人々は社会に飼い慣らされているといえるのではないか、それが生きにくい社会の実相なのではないかという意見も挙げられました。

それにしても、人はなぜ世界の多様なものを分類するのか。
それは数字(値)化することと言い換えてもよいですが、王子様に言わせればそれが「大人は数字で表すことが好きだ」ということの証です。
人間はこの世界について説明なしには不安になってしまうものです。神話はその役割を果たしてきました。
それが大人においては神話の物語ではなく、「数字」に成り代わってしまったということでしょうか。
ところで、数字とは比較分類の道具ともいえます。
すると、これに興味のない子どもとは、まさに手にするもの、目にするものはすべて「このもの」としてしかたち現れないのではないでしょうか。
そして、「このもの」として立ち現れてくるものの分だけ「世界」が広がっていくのではないでしょうか。
小学生時代、同級生の数など意識したことはありませんが、なじみの友達が増える分だけ自分の生きる領域が広がった感じがしたものですが、いかがでしょう?
これは単なる友達の数を問題にしているわけではありません。
「このもの」と思える馴染み深いもの分だけ世界に奥行きができていくというか。
なぜか知りませんが、子どもはコキタナイ玩具を大切にします。
手垢で真っ黒になったものほど手放したがりません。
なぜなら、それは自己の一部でもあるからです。そしてその自己とは世界と分けることのできないものだからです。

そもそもこの物語に出てくる「王様」や「地理学者」などは大人の駄目な代表として登場します。
しかし、そういう人物を描けるのは実は、サン=テグジュペリ自身が実社会で経験したことが糧となっているのだろうという解釈も出されました。
その気忙しくもいきにくい実人生の中で、彼が見出したのが愛する「花」の「はかなさ」ということでした。
王子様はこの愛する「花」と、しかし冷たく虚栄心に満ちた「花」であるがゆえに別れを告げて星から出てくるわけですが、これはサン=テグジュペリの実の妻のことではないかとの憶測も出されました。
それはともかく、「はかなさ」であるがゆえの「かけがえのなさ」というのはこの本の最大のテーマではないでしょうか。
しかし、これに対してはむしろ、「はかなさ」から生じる悲しさは、「はかなさ」にこだわるがゆえに生じるのであって、この本ではむしろその「はかなさ」を捨てることを求めているのだという解釈が示されました。
だからこそ、最後の場面で、王子様が星々にはそれぞれ美しいものが隠されているといい、そこに永遠性を見出そうとすることとつながるというわけです。
そこの部分の解釈はたいへん興味深いことなので、諸欄のご意見を待ちたいところです。

驚いたのは、この「はかなさ」、「かけがえのなさ」、「特別な存在」というキーワードから、実はそのような親密とも言うべき間柄には、排他性を含む暴力性を含むのだという話題に展開したことです。
そこからアルジェリアでの反政府武装組織の結束やファシズムの話題にまで展開しました。
まさか『星の王子様』からそんな論点に至るとは思いもよりませんでしたが、そこには日本社会で生きる我々の文化的まなざしによるものではないかと理解しました。

たしかに、親密な関係は他者の介入を許しません。他者がそのものと自分とのあいだに介入すれば嫉妬が生まれるからです。
親密圏で暴力を生み出すということはDVなどがいい例ですが、こうした文脈で「かけがえのなさ」を読み込もうとする背景には「世間」や「共同体」のしがらみ、「空気を読む」といった日本独特の社会文化があるからではないでしょうか。
だからこそ、「もっと自律した個人同士でで成り立つ市民社会を!」ということになるのかもしれません。
が、こと『星の王子様』に即して言えば、フランス社会はむしろ市民化が徹底されていく中で個人主義化が根付き、引いては孤立化が進む中で、むしろかけがえのない存在を求めずにはいられなかった作品なのかもしれません。
戦間期ということも考え合わせればなおさらです。
それがいかに扱いにくい存在であろうとも、お互いがなじむ中で代替不可能な存在となっていくものとして。

思いがけない方向へ展開したところでタイムアップとなり、消化不良感も否めませんでしたが、議論を経た後にはやはりもう一度読みたくなってしまうような本であることに気づかされます。
自分の大好きなこの本をてつがくカフェのような場で、他の人に汚されたくないという複雑な思いで参加された方もいらっしゃるようです。
いずれにせよ、共通のテキストを用いるやり方はそれほど脱線せずに進むものです。
また次回に本を選定する楽しみができました。
積雪の中お出でいただけた参加者の皆さんには感謝申し上げます。
次回は2月16日にアオウゼにて通常のてつがくカフェが開催されます。
多くの方々にご参加いただければ幸いです。

第3回本deてつがくカフェ報告

2012年10月29日 01時02分45秒 | 本deてつがくカフェ記録
第3回本deてつがくカフェは13名の参加者が集い、サイトウ洋食店にて開催されました。
課題図書はジョージ・オーウェルの『動物農場』。
同書の冒頭タイトルには「おとぎばなし」と書き記されてありますが、旧ソ連の全体主義や権力闘争に対する風刺がきいた大人向けの内容となっています。
物語のストーリーとしては、農場主であるジョーンズ氏を農場から追い出し、動物達が自主管理で農場経営に取り組んでいくのですが、その反乱(革命)当初に打ち立てられた理念が頓挫していく過程が描かれます。

まずは参加者に自己紹介とともに、読後の感想を述べてもらうことから始められました。
「大衆の忘れっぽさや能力の異なる動物たちが国を作ることの難しさ。」
「石原新党がつくられようとしている現在の社会状況にマッチする物語だと感じた」
「スローガンの単純化は普遍的な原理主義の方法」
「民衆が体制に屈服していく過程がコワかった」
「読んでも感情移入できなかった。その理由として、なぜナポレオンが独裁者に変貌したのか、そのきっかけがよくわからなかったことがある」?」(ナポレオンは演説は苦手だが政治的根回しが上手く狡猾で、後に独裁者と化す雄ブタ。)
「「動物農場」はなんと旧い組織であるかと感じた。インターネットなど情報を入手する自由度が広がる現代からすると、今では考えられない話である」
「最後の場面で人間と動物の見分けがつかなくなった場面が印象的だった。」
「ナポレオンは人間になろうとしたのか?」
「一読してトロツキーとスターリンの権力闘争の風刺だと感じた。読後間もないので、それ以上の印象から離れて今は考えられない」
「この物語の悲劇性を救っているのはモリーの存在だ。いかなる体制になろうとも、自分の幸せを自分で見つけようとするモリーにゾッコンになった」(モリーはかわいらしいけれど頭が空っぽで、おしゃれ好きの白い雌馬。自分の欲求に負けてしばしば動物農場のルールや理念に反してしまう行動をとる。)
「人間の行動を動物に戯画化した物語だけれど、その背景にはキリスト教的な考え方が感じられた。日本の動物に対する文化であれば動物とは一心同体という感情を持ち、家畜を財産とみるようなこの小説の描き方には共感できないものを感じた」
「誰でも守れそうな掟(「七戒」)なのに、誰も覚えていない場面が特徴的だった」
「寓話は人間のことをうんとわかりやすく、混じりけなしに表現する。この小説にはザラザラしたリアリティがありすぎて、今も現実に起きているこの物語の状況をどうすればいいのかと思っている」
「自主管理の共同性は永続できないのか」

感想からは、さまざまな視点で全体主義や権力闘争の問題を描き出そうとするこの物語のユニークさが浮かび上がりました。
まず、「七戒」と呼ばれる動物農場の基本理念=ルールが、物語の進行とともにいつのまにか変更されていく様は、私たちの現実場面でいくらでも目にします。
原発事故以前には厳格に守られていた被曝放射線量の許容限界値が、事故勃発とともに変更されていったケースや、復興予算がいつの間にか被災地以外に用いられていた事実。
あるいは、「社会福祉と消費税の一体改革」をうたって成立したはずの消費税増税法案が、いつのまにか差し込まれた「附則」によって公共事業へ用いることが可能にされてしまった事実。
物語は大衆の「忘れっぽさ」が頻繁に描いていますが、そればかりではなく、法が「いつのまにか」改変(改竄?)されていることへの恐ろしさが、議論の中ではしばしば話題に挙げられました。
また、東電提供の地方TV番組のように、原発に対するイメージ操作は以前から存在したけれども、最近目立つ政府提供の公共放送にもプロパガンダ的な要素があり、派手ではなくても視聴者にじりじりと浸透していく効果があるのではないかという意見も出されました。
やはり、どうしても原発事故という現実と重ね合わせて読まずにはいられない内容のようです。

そのような議論の過程で、論点はいくつかに絞られていきました。
まず、「自主管理の共同性は永続できないのか」という問いに関して。
革命の同志とは一つの同じ目的に向かうものたちのことですが、この物語では独裁者ナポレオンの独裁によって一変します。
それに関して、やはり全世界の人々(動物たち)が同じ目的で一致するのは困難なのではないかという意見が出されます。
たしかに、物語の中では革命を成就した動物農場の動物達が、同じ奴隷状況にある他の農場の動物達や、自然に生きる野生の動物達にまで「動物の平等」と、人間支配からの解放を共有しようと訴えかけますが、なかなかよい反応が得られません。
なるほど、その理念に理解は示すけれどもなかなか動こうとしない人々に苛立ちを覚えるのは、現実社会でも社会運動に携わる人々にとってはリアルな状況ではないでしょうか。
しかし、それに対しては、むしろ目的はみんな共有できるけれども、その実現の方法が一致しないということではないかとの意見も出されます。
世界中の誰もが自由や平等や平和といった理念を求める点では一致できるでしょう。
しかし、いざその理念を実現しようとすると、あるものは武力を用いて実現しようとするし、またあるものは非暴力で実現しようとするものもいます。
動物農場に関して言えば、人間支配からの解放と動物の平等という革命時の理念では一致していたけれども、その実現過程で徐々に分裂が生じてきたという点では、手段の不一致にあるのではないかということです。

しかし、これに対しては、そもそも権力闘争のライバルであるナポレオンとスノーボールは、はじめから目的が一致していただろうかという疑問も出されました。
というのも、はじめからナポレオンは野心家として描かれており、革命当初から秘密警察や親衛隊を髣髴とさせる「犬たち」を密かに育て上げています。
そんなナポレオンが動物農場の理念をはじめから目指していたとは思えない、むしろ革命当初から自分が支配者になることを目論んでいたのではないかというわけです。

では、こうしたナポレオンの独裁体制以外に、革命の理念を実現・継続できた組織や共同体の可能性はなかったのでしょうか。
これについては独裁者がすべてを統括するピラミッド型ではなく、各人が得意分野をそれぞれに活かしながら成り立つ「惑星」型の組織が提案されました。
それによれば太陽系のように太陽を中心におきつつ、しかし支配関係にはない水平的な関係性を保持する組織です。

そうはいっても「もしもリーダーが○○だったら」という空想は尽きません。
たとえば、もしも動物農場のリーダーがボクサー(他の動物たちから尊敬されていてナポレオンも一目置く。ひたすら真面目に働く律儀者の牡馬だが、物覚えはよくない)だったらどうだろうか、あるいは、まだ人望や知性もあったスノーボール(ナポレオンとともに動物農場のリーダー的存在であったが、権力闘争の末にナポレオンに追放される)であればどうだろうか。
もしもスターリンではなくトロツキーだったら…という議論を思い起こします。
それぞれのキャラクターの特徴を踏まえながらもその可能性も議論されました。

しかし、結局それは強いリーダー待望論に結びつくし、たとえ誰がリーダーになったにせよ、うまくいかなかったのではないかとの意見が出されます。
個人的な意見を付け加えさせてもらえれば、そこに人間の行為や共同作業の根深い問題が潜んでいるからではないでしょうか。
つまり、人間の営みはモノの制作とはことなり、いくら目的に向かって設計どおりに進めても、必ず齟齬をきたすという性質があるからではないかということです。
その性質とは、すなわち人間は理性的であると同時に気まぐれで予測不可能に満ちた存在だという点です。
もし、一者がある理念をもとにした社会設計どおりに進めれば、それは自ずと予測不可能性を本質とする人間性に暴力性を働かせざるを得ないことに至ります。
さらにいえば、それは目的というよりも方法の一元化によって引き起こされ、そしてそれが物語の悲劇的な顛末をもたらしたのではないでしょうか。

では、誰がなっても動物農場の行く末はけっきょく破滅的な未来だったとすれば、いったいどうすればよいのでしょう。
これについては、革命初期の動物農場に生まれた幸福感が継続することはできなかったのかや、誰がリーダーになってもその幸福感が永続する仕組みとは何かが問われました。
その問いについては、能力の異なる人々がいかにして一緒に社会作りに取り組めるのかと表現した意見もあります。
動物農場の物語では、理知的な動物から愚鈍な動物まで様々なレベルが存在します。
当初、革命の意義やその理念を現実化するために、すべての動物の識字率を上げるためのい努力もなされました。
しかし、それはいつのまにか失われていき、むしろその愚鈍さは法や歴史の改竄に利用されていきます。
それでも、現実の私達の民主主義社会では、いちおうある程度の能力は同等であるとみなしているのが原則であるし、やはりそれに向けた教育こそが重要な役割を果たすと野意見が出されます。

また、革命が必然的に独裁体制や全体主義体制に結びつく病理をもつものだとするならば、革命に関与した人物は以後の国家建設には関与しないという原則を確立すべきではないかとの提案もありました。
つまり、革命によって旧体制を破壊する原理と、その時点での理念を引き受けつつも新たな社会建設に取り組む原理ではおよそ異なっており、そこは切断することで革命以後の社会作りから暴力の要素を排除するという仮説的提案です。

そのことを、革命を起こした側が自らの行動を正当化することが粛清などその後の暴力的要素を生み出す原因だと指摘する意見も出されます。
何事においても、政治は自らの政策や選択を正当化せざるを得ません。
そもそも正当化できない政策など支持もされなければ、事後的に持ちこたえることはできないでしょう。
しかし、その意見によればその正当化そのものが、革命の理念の永続化を阻むのだということになります。
いわば、革命側が行使する権力のやましさというものです。
たとえば、アメリカの広島・長崎原爆投下は一般市民の大量虐殺を引き起こしましたが、その選択でさえもアメリカ側は歴史的な正当化を行って言うことはいうまでもありません。
しかし、そこに大量虐殺という「やましさ」が含まれている以上、いくら革命の理念や正当性を主張してもいずれ破綻する要素が含みこまれており、むしろそれを隠蔽しようとすればするほど、物語が描く悲惨な結末を招かざるをえないのだというわけです。

さて、議論は歴史の進歩という論点についてもふれられました。
なるほど、動物農場に診るまでもなく、歴史上革命は同じことの繰り返しで、理念を掲げ理想的な社会が実現されたかと思えば、その後は腐敗していく例に事欠きません。
そのことに失望感を示す意見も出される一方、それでも人間の歴史は進歩しているのだと見なす意見も出されました。
いくら物語りに描かれる情報統制や粛清がリアルに思われるといっても、てつがくカフェで政治批判をしたことで粛清されることはまずないでしょう。
あるいは、情報公開の制度化はまだまだ不十分だとはいえ、政府情報の秘匿をよしとしない原則を現実化しています。
「人権」という概念によって、やはりそれが不完全ではあるにしても、私達はかつての民衆とは比較にならないほどの自由を享受できると評価しても差し支えはないでしょう。
すると、どんなに革命が暴力を繰り返す出来事だとしても、以前よりは少しでもましになっていると思いたいというわけです。
とはいえ、平和な日本社会といえども、公権力によって社会的に抹殺されるという意味での粛清は現実化していないでしょうか。
それについて議論では、大阪市職員のタトゥー禁止問題など幸福追求権という憲法レベルの問題を残したままその地位を追われる事態が話題に上げられましたが、そのような見方は果たして深読みだといえるでしょうか?

粛清の話題に関しては、若い世代から暗殺などモヤモヤする状況が飛び交うなら、いっそ戦争のほうがましだという過激な意見も飛び出しました。
この意見に対しては、一笑に伏せない深刻な事態が見出されるとの意見が出されます。
というのも、社会の複雑化や価値観の多様化によって閉塞感が増幅する中、若い世代も戦争など分かりやすい事態に救いを求める傾向は、けっして珍しいことではないといいます。
だからこそわかりやすく、単純化されたスローガンを連呼する強いリーダーに惹かれてしまうのだし、そこに『動物農場」の現在的なリアリティがあるのだというわけです。
しかも、忘れっぽい大衆は、そのリーダーがかつてどのような発言をし、どのような行動を取ったかはすでに忘れてしまっている。そこに民主主義社会が全体主義に結びつく弱点があるということでしょう。

終盤の議論は「あるべき組織論」をテーマに議論を深めてほしいとの要望が出されたものの、話題は「革命による犠牲」の問題を中心に展開してしまいました。
ある参加者は犠牲の意味を辞書で調べたところ、ある目的のために身を挺することだと知り、それまでの悲愴的なイメージから尊さを感じるようになったといいます。
その点で言えば、動物農場の目的のために愚直に働き続けるボクサーの姿には崇高さを感じるものでしょう。
参加者の中には、全体主義=悪というイメージは否定しないものの、そのような社会体制の中で愚直に努めた人々の生き方を軽んじるわけにはいかない、むしろそのような人々は幸せであったかもしれないといいます。
なるほど、過去の独裁や全体主義体制に対して、われわれはそこで生きた人々を不幸であったと評価しがちです。
しかし、そのような歴史的評価はあと知恵に過ぎないともいえるでしょう。
では、ボクサーは幸福であったのか?
たしかに彼は幸せであったかもしれません。
世のため人のため身を捧げることに、ある種の幸福感が伴うことは誰しも経験があるのではないでしょうか。
その姿は周囲から見ても、やはり賞賛に値する姿でもあります。
その意味で、動物農場が目指す公の目的とボクサー個人の目的は一致し、その目的のためには自分の生命も省みなかったボクサーの姿はやはり崇高であり、実際、物語の中でも彼は動物たちから尊敬される存在でした。
しかし、たとえそうであっても、ボクサーの生き様にはやはり手放しで「よい生き方」だったと言い切れない悲壮感があります。

これに対しては「無知」であることの不幸を指摘する意見が出されました。
無知であることが生み出す不幸といえばよいでしょうか。
それは主観的には幸福であったかも知れなけれども、その主観的な目的と客観的な公の目的との一致がすべての動物に要求されたときに、社会全体が無類の暴力をふるう様を想像できるからではないでしょうか。
むしろ、モリーのように公の目的に適応できず蔑まれる姿にこそ、人間らしさ(動物らしさ?)を感じてしまうものです。
全体主義の恐ろしさというのは、むしろ個人が主体性によってあたかも誰にとっても当然視一致すべきものとされるところにあるものでしょう。

これに対しては、様々な歴史を経験してきた人間は、いまやここで描かれるほど無知ではないだろうとの意見も出されます。
そして、現段階では多様な人間は違ったままでいながら、同じ目的を共有できる社会をどのようにして作っていけるかという課題があるのではないかというわけです。

それでも昨今のリアル政治の状況を見ていると、ほんとうに社会は変っていけるのか不安であるという意見も出されました。
そのためにもやはり教育の重要性が訴えられます。
その中で、日本国憲法前文に触れる意見もありました。
起草者の夢と政治を推し進める政治とのずれという問題は、動物農場の変貌の過程に重ね合わせることもできるかも知れません。

ところで、今回のカフェではしばしば哲学の力という問題に触れられました。
ある参加者によれば、哲学とは経験を積み重ねていくことでその内容に深みを増すものであり、
意味の分からない文章でもある日突然、その意味が分かる瞬間が訪れたりするものだといいます。
別の参加者からは、3.11を経験した後では、そんな哲学の力こそ必要であると確信するとの意見も出されました。
では哲学の力とは何でしょうか。
ある参加者によれば、哲学にできることとは結局、ものの見方や考え方にしか関われないのだけれど、それによって世界や社会が変っていく可能性を担保できるかもしれないといいます。
生活の中で忘れっぽい大衆の性質が指摘されましたが、まさに考え方を示していくだけでなく、それについて議論を交し合えるカフェという空間こそは、民主主義の原点であるとも考えさせられものです。

第2回本 de てつがくカフェ報告

2012年06月24日 07時48分16秒 | 本deてつがくカフェ記録
昨日、第2回本deてつがくカフェがいつもお世話になっているサイトウ洋食店で開催されました。
今回は事前予約制で13名の方にご参加いただきました。
課題本はカフカの「断食芸人」。
選書に何か意図があったわけではなく、いつまでも課題本が決まらない中で「ええい!」と力技で選んだものです。
選んだ後になって、シュールすぎるかも・・・と一抹の不安もよぎりましたが、ご参加いただいた方々にはさまざまな視点から多様な解釈が出されました。

「断食芸人」はカフカ晩年の作品です。あらすじは上記に貼り付けたリンクからウィキペディアをご参照下さい。
まずは、参加者から一読した感想を挙げてもらうところから始めました。

「カフカは基本的に何を言いたいかわからない作品ばかりだが、それは寓話性が強いという意味でもある。最後の台詞がポイントではないか。」
ここで「最後の台詞」とは、断食芸人が死の直前に発した次の言葉です。

親方:「まだ断食しているのかね」「いつになったらやめるんだ?」
芸人:「どうかご勘弁願いたい」
親方:「いいとも」
芸人:「いつもいつも断食ぶりに感心してもらいたいと思いましてね」
親方:「感心しとるともさ」
芸人:「感心してはいけません」
親方:「ならば感心しないことにしよう」「しかし、どうして感心してはいけないのかな」
芸人「断食せずにはいられなかっただけのこと。ほかに仕様がなかったものでね」
親方:「それはまた妙ちくりんな」「どうしてほかに仕様がなかったのかね」
芸人:「つまりわたしは―」「自分にあった食べ物を見つけることができなかった。もし見つけていれば、こんな見世物にすることもなく、皆さん方と同じように、たらふく食べていたでしょうね」(池内紀訳)

この最後の台詞が何を意味するのかは、今回の議論の焦点の一つとなりました。
それについては「身体に必要な食べ物というよりも、自分の魂に合った食べ物を見つけられなかったという意味ではないか」という意見が挙げられました。
また別の参加者からは、「自分に合った食べものとは職業のことだったのではないか」という意見も挙げられます。
いずれも自分の存在と関わる糧、そんなものが見つからない中で逆説的にも自己の生を否定することに邁進する「断食」という行を芸にせざるを得なかったのではないかという意味が見えてきそうです。

そんな芸の真の意味が、しかし他者から理解を得られないことに芸人は常に苛立ちます。
しかし、そうであるにもかかわらず「断食」を貫く芸人には、「孤高の人」というイメージがあるとの感想も挙げられました。
たしかに、断食芸人の芸に対する「誇り」と観客や興行主たちとのズレに引っ掛かりを覚えます。
すなわち、それは断食という超人的な行に対する芸人自身の「誇り」と、その行に向けられる疑惑(「密かにつまみ食いしているんだろう」とか)や商売としての芸としか見られないことへの不満とのズレです。
こうした自分を特別と思いたい断食芸人の主観性と、しかしその自尊心が他者に承認されないことの物語。
ここで「自尊心」とか「誇り」という言葉が、この物語のキーワードとして浮上します。

ある参加者は、この物語は「強さと弱さの物語」だといいます。
その意見によれば、そもそも芸人というのは「」ともいわれるように、時代や国を問わずいつでも最底辺の人々であるとのことです。
そして、その最底辺にある人々が自己を失わないために必死に芸にプライドを持たざるを得ないのが、この断食芸人の姿だというわけです。
その証拠に、芸人が要所要所で自分以外の他者を馬鹿にする様が描かれます。
しかし、それは自尊心をもてない弱さの反転に他なりません。
弱き存在がかろうじて自己を保つための物語、その行としての断食を芸とせざるを得ない存在の物語。
そして、その姿は原発事故によって農業を失った結果、自死を選ばざるをえなかった農家の姿を思い起こさずにはいられないという意見も出されました。
フレンチ料理を職とする参加者によれば、それを失っては自分の存在も何もなくなってしまうもの、それが断食芸人にとっての芸であり、自分にとってはフレンチであると言います。
そんな自己の存在の根源と結びついた行、それが芸人にとって断食だということです。

しかし、断食とはそもそも芸なのか?
そんな疑問も提起されました。
それに対する解釈はいくつかに分かれました。
断食芸人自身の言葉よれば、「いかに断食がたやすことであるかであって、それはこの世で最もたやすいことといってよかった」となります。
しかし断食がたやすいはずがない、それは弱き存在が痩せ我慢的に放った言葉であり、断食とは何もできない人が生業にせざるを得なかった芸なのだ。
というのも、芸とは本来特別な才能や特殊能力を用いるものであって、断食という行はその意味で言うと誰でもできるという点で芸とは呼べないということです。
これに対しては、断食はやはり特殊な能力ではないかという解釈する意見も挙げられます。
そもそも断食芸人は現実に存在したのかという問いも投げかけられましたが、ある意見によれば、それは実在し、歴史的に見れ断食を行うものが聖者として崇められた時代から19世紀末には芸人として存在していたとのことです。
その中で、実は断食が精神的な疾患によって食べたくても食べられない人間が実際に存在したという指摘がなされました。
すると、これはある意味で特殊能力だということもできそうです。
いずれにせよ、この物語で言う「断食」が最底辺の弱きものが自分の存在を保つためせざるを得ない行なのか、それとも周囲とは異なる特殊能力のなせる行なのか、その解釈によって随分異なる読み方になりそうです。
いずれにせよ、他者から承認されないことの苦しさ、社会での生きにくさが断食を芸とせざるを得なかったのではないかということです。

では、この断食芸人にとってのゴールとは何だったのでしょう?
彼はサーカスの親方との対話の直後、息を引き取りますが、彼にとって断食による死がゴールだったのでしょうか。
そのような問いかけが為されました。
本文において断食芸人の最期の場面は次のように描かれます。

「とたんに息が耐えた。
薄れ逝く視力の中に、ともあれ断食し続けるという、
もはや誇らかではないにせよ断固とした信念のようなものが残っていた。」(池内紀訳)

池内紀訳と山下肇訳とでは、その訳語にかなりの違いがあります。
山下訳では「信念」ではなく「確信」と訳されています。
それだけで随分意味合いは変わるものです。
それにつけても、最期まで断食を貫いたという「信念」(「確信」)が消え入る視力の中に残されたということは、彼の断食芸は目的を果たしたということでしょうか?
それにしては死とともに藁くずと一緒に葬られたという惨めな最期とのギャップがあります。
いや、須らく死とはそんなものではないか、
たしかに彼は彼自身の価値を全うしたが、そもそも人生に目的を求めることがそもそも無意味だ。
あるいは、断食し続けることが目的であって、死んでは元も子もないのではないか。
そもそも断食の偉大さというのは、自ら生命の否定へ向かわせながら生き続ける緊張、というか矛盾にあるのではないか。
しかし、死は同時にその偉大さを無化することでもあります。
それが破綻したとき、しかし彼の目に残る「信念」は幸福を意味するのかどうか。
様々な解釈が提示されて、なお興味深い論点です。

一方、彼の死と同時に、彼に代わって檻には生命力みなぎる豹が入れられます。
この最後の場面に登場する「豹」もまた意味深です。

「断食芸人は藁くずと一緒に葬られた。
代わって檻には一匹の精悍な豹が入れられた。・・・豹にはなに不足なかった。
気に入りの餌はどんどん運び込まれた。
自由ですら不足していないようだった。
必要なものを五体が裂けるばかりに見に帯びた高貴な獣は、自由すらわが身に備えて歩き回っているかのようだった。
どこか歯なみのあたりにでも隠し持っているらしい喉もとから火のような熱気とともに生きる喜びが吐き出されていた。
見物人にとってそれを耐えるのは、なまやさしいことではなかったが、人々はぐっとこらえて、ひしと檻を取り巻き、一向に立ち去ろうとはしないのだった。」

この場面を、19世紀社会の文化の転換場面そのものだと解釈する意見が出されました。
それまで断食=禁欲という宗教文化が残っていたものが、まさに快楽主義に変わったという象徴が「豹」ではないかというのです。
この「豹」が何を象徴しているのか。
自由すら不足していない、生きる喜びに満ちている存在が檻に入れられていることの不可解さ。
哀れなほどみすぼらしい断食芸人の容姿とのコントラスト。
社会が断食芸に興味をもたなくなった時期、それとともに断食芸人が生きる目的でもあった観客を恐れるようになったというのは、社会の転換そのものを意味しているということでしょうか。
(たしかに、池内訳では「観客」が山下訳では「大衆」になってもいることも気になります。)
このあたりから断食芸人は「感じる能力のないものに、わからせるなどできるものではない」と、観客へ絶望していきます。
まるで自称天才の芸術家を思わせるような口ぶりです。
自分の作品の偉大さは、大衆ごときの趣味判断ではもはや計り知れないのだ、と嘯くかのように。
すると、芸とは芸人本人の思いだけで自立的に成り立つものなのでしょうか?
真の価値がわからない悪趣味な観衆など、真の芸にとっては不必要な存在だということになるでしょうか?
これは芸(術)とは何かという問いにも結びつきそうです。
ただ彼自身は、「探るような子どもたちの目の輝」だけには「栄光の時代の再来を予感させるもの」があると望みを見出すのですが。

さて、最後にこの「断食芸人」の物語が果たして寓話なのかという点について問いを提起させていただきました。
なるほど、カフカといえば一読してでは理解できない寓話作品が数多くあります。
この作品もその一つだとすれば、どのような意味が見出せるでしょうか。
ある物書きの参加者によれば、「書く」という表現行為は「書かざるを得ないから書く」という面があり、それは性に近いものではないかといいます。
だからといって、自分の書きたいものだけを書くなどということは稀であり、むしろ表現者にとって「書きたいもの」というものは朧気でしかないのではないかといいます。
カフカの場合もそうではないか。
彼が何かの意味を描こうと意図して寓話を書いたのではなく、書きたいことを朧気に浮かべながら物語を書くという方が真実に近いというわけです。
その意味で言うと、むしろそれが何を意味するかどうかは読み手にかかっているとも言えるでしょう。

それにしても、「書きたいから」ではなく「書かざるを得ないから」という表現は断食芸人の最期の「断食せずにはいられなかっただけのこと」という言葉と符合します。
その意味で言うと、生前は評価されなかったにもかかわらず、「書かずにはいられなった」カフカ自身が「断食芸人」そのものということも言えるでしょう。
ただし、この作品をカフカの私小説と評価することに対しては、この作品のおもしろさを著しく損なうということであまり賛成を得られなかったのですが。
その一方、私たちの生活に還元して考えてみるに、「就きたい仕事に就く」のではなく「就かざるを得ないから就いた」というのが私たちが仕事に就く際の実際かもしれません。
しかし、その過程で「誇り」や「存在価値」を自ら付与していくことで自身の存在を維持していく。
将来の就職に希望を抱く学生さんの前で歯切れ悪く、そんな意見を述べる社会人の言葉が印象に残りました。

カフカの不思議な世界に戸惑いを感じながらも、今回もまた豊かな思考の時間を過ごすことができました。
「断食芸人」の本質をめぐっては、その後の懇親会で引き続き性愛の問題などに展開するなど、とても興味深い論点がまだまだあることに気づかされたものです。
次回はAOZ(アオウゼ)で定例の哲学カフェです。
また皆さんとお会いできることを楽しみにいております。
会場をご提供いただいたサイトウ洋食店さまには心より感謝申し上げます。



第1回「本 de てつがくカフェ」報告

2012年02月19日 09時20分46秒 | 本deてつがくカフェ記録
第1回 「本 de てつがくカフェ」 が昨日、サイトウ洋食店で行われました。
これは指定された本から哲学的テーマを探り当てながら、参加者で語り合うという活動です。
その活動の性格上16名の定員を設定させていただきましたが、今回は12名の方々にご参加いただけました。
福島では初の試みでしたが、与えられたテキストに即しつつはみ出しつつ、様々な哲学的テーマについて話し合いが交わされました。

第1回の指定本は『dream body』。ファシリテータは小野原さんです。
これは漫画なのですが、非売品であるため著者の了解を得た上で事前に参加希望者に配布されました。
たいへん深い作品なので内容を詳細に紹介したいところですが、それについては割愛させていただきます。
あらすじはこちらのブログをご覧下さい。
http://blog.goo.ne.jp/masaoonohara/e/0b00162c51c99c5debbcd45b41a23a1f

2×××年。医療技術の進歩は身体の各部位を自由に交換できる「dream body」(以下db)を生み出しました。
この技術によって低価格・短時間手術で若さや美貌など、「夢の身体」を手に入れることが可能になったわけです。
それだけではありません。
生来、手足をもたずに生まれた障がいに対しても、この技術によって欠損部位の補完が可能になります。
これについてファシリテータからは、以前の特別編で挙げられた論点の一つである「障がい者と健常者」、あるいは「ありのままの生命を肯定できないのか」というテーマとの関わりも示されました。
そもそもdbを施術した親からは手足が欠損した子どもが生まれるという問題があるのですが、しかし、これもまた生まれた子どもにdbを施せば問題は克服できるとも考えられます。
その意味で言うと、このdbは「ありのままの生命」を肯定することを可能にした技術と言えなくもないでしょう。
しかし、手足の欠損したdbの子どもとして生まれた主人公百合子の「手足が当たり前にない身体、みんなの身体がそうなること、それが私の夢、夢の身体、dream bodyよ」という言葉からは、単に「ありのままの生命」を肯定しているようには思えません。
果たして、dbが「夢の身体」であるとはいかなる意味なのか。
このことをめぐって、まずは参加者から読んだ感想を挙げてもらうことから始められました。

「作品中ではdb=「夢の身体」の意味が変容していっているが、それは主人公の身体性と存在の受け入れ方の変容ではないか」
「最終的にdbはなくならない方がいいと思う。というのも障がい者にとっては自分が不要になることが最も悲しいことで、そんな目に遭うくらいならdbによって欠損部分を補って存在を認められた方が幸せではないか」
「死の孤独という場面が印象に残った」
「理由はわからないけれど、手をつないだ場面で泣いてしまった」
「身体の不細工な部分をつけ替えるという魅力もあるけれど、過去の傷跡のある身体をみると何か愛着を感じる」
「自分の身体への愛着もさながら、他者の身体への愛着という問題が示されている」
「五体満足な状態であると気づかないけれど、なくなって初めてその欠損部位が欲しいと思うのではないか」
「この世界や人間は不完全だからこそ、それを変えていこうとするもの。不完全性から人は新しい気づきや学びを得られるのではないか」
「このストーリーはハッピーエンド?最後の場面がどうにも収まりが悪い感じがした」
「脳と身体を分離して考えるのは難しいという日本人の感覚があるのではないか」
「自分だったら目を交換したいと思った。どこまでが医療行為なのだろう?作品中の「脳以外の身体を愛すべきではない」という言葉が印象的だった」
「身体のデザインが行き着く果てが想像できない」
「dbは脳死臓器移植の問題と同じ。ファッションのためのdbは認められないが、医療行為によって障がいや病状が回復されるケースならば認められる」

作品を読まれていない方には、これだけ読んでも何のことだかさっぱりわからないかもしれませんので、各発言者の意図とずれるかもしれませんが、いくつかの論点を私なりに整理させていただきます。

一つは、身体とアイデンティティの問題です。
作品中では、身体の交換に伴ってその部位が経験によって蓄積した能力はリセットされます。
たとえば腕を交換すると、その身体が馴染むまで字を書くのが下手くそになります。
それだけではありません。
作品の設定では、身体の部位を交換すると、その身体が触れた記憶も失なわれてしまうのです。
これは単純に作品上の設定という以上のことを考えさせられます。
唯脳論者ならずとも常識的に考えれば、脳ではなく身体(腕や足)が経験を記憶しているというのは不可解でしょう。
しかし、少なからぬ意見からは、この身体の記憶ということへのこだわりが示されました。
楽器の操作、金属磨き、自転車乗りなど脳ではなく身体が記憶する経験が示されるとともに、身体こそが世界との通路であるというわけです。
ちなみに、これは「幻肢」の問題にもつなげられる個人的にはとても興味深い問題なのですが、ここはそれについて書くことを禁欲しておきましょう。
意識せずとも身体が動くことを〈慣れ〉と呼びますが、この〈慣れ〉とは一種の世界とのつながりそのものであり、無意識的な〈記憶〉と呼びうるかもしれません。
ところで、〈私〉のアイデンティティ(自己同一性)とは、過去の自分との一貫性を保障するという点で〈記憶〉そのものだといえます。
すると、単に脳内の記憶だけでなく身体とはその人のアイデンティティを構成するといえるのではないでしょうか。
これについては、全身麻痺になった家族を介護する中で、それでも本人が自分の身体を用いて動こうとする姿を見て、身体の自由がその人の尊厳に関わっているのではないかとの意見も出されました。
さらに身体の記憶を構成するのは、親や先祖といった自分に先立つ遺伝上の〈記憶〉も含みこまれているのではないかとの意見も出されました。
こうなると自分を構成しているのはどこからどこまでが自分なのかという問題にもつながっていきます。
逆に、整形が当たり前になり、それがdbのように身体へ拡大していったとして、どこまで身体を交換すれば自分ではなくなるのかという疑問も出されました。
それに対しては、結局その人がその人であるのは自分しかわからないのだから、心がアイデンティティの根源だという話に戻っていきます。もちろん、心はどこにあるのか?という問題は別に論じられなければなりませんが。

さて、こうした身体の問題は次に死の孤独という論点につながっていきました。
ある参加者から、作品最後の場面で百合子が発した「死ぬ孤独はどれほどのものだろう」という台詞をどう思うか、という問いが投げかけられました。
もう少し説明を加えると、百合子はdb推進に反対する安井直人と心が通じ合いながら、彼の死に際して次のような思いを語ります。
「手がなければ顔を覆うことができない、痛いところに手を当てることができない、痛みを和らげることもできないで、温かい人の温度も失い感じられぬまま―」
この作品で「手」はある人の存在を受け入れたり、記憶する象徴として描かれています。
百合子は、最終場面で手足を交換せざるをえなくなるのですが、直人と触れた記憶を残す「手」を失った彼女が思いをめぐらしたのが「死の孤独」だったわけです。
家族の最期の看取りに際して手を握り締めること、腹痛を訴える子どもをさする手。
それぞれがどのような効果を与えているかは判然としなくても、身体が孤独から救うという意味において何がしか力を与えるものではないか。
ハグや握手など身体接触の例について触れる話題が出されながら、そうした文化的記号的なレベルを越えて、他者と通じ合える可能性としての身体について議論が展開されました。

中盤を過ぎてファシリテータからは特別編の論点であった「障がいと健常」について問題が提起されました。
これについて、明治以前に「必要」という言葉が日本にはなかった事例を紹介したある参加者の意見は、近代日本が有用性・効率性を重視して突き進んできた社会であったことと、障がいの不必要性の問題を浮き彫りにします。
また、障がい有無を判別する出生前診断に関して、それを受診するかどうかの段階で既にその先のストーリーが仕上がっているとの指摘も出されました。
近代社会の根底に「自由とは必然性を認識すること」だとする考えが備わっているのだとすれば、私たちはリスクを予測し、予防することが幸せをもたらすという考え方が身に染みついています。
もちろん科学はその価値に支えられて進歩しました。
けれど、その過程で私たちは「例外」や「偶然」なるものへの受けとめ方を疎かにしてきたのかもしれません。
障がいの予測が可能になった出生前診断をプロメテウス的な構えとすれば、偶然を偶然のものとして事後的に肯定できるようなエピメテウス的な構えを検討してもよいのではないか。

しかし、それではニーチェ流に「いかにひどい人生であろうとも自分の運命を愛せよ!」という、実存主義っぽい解決で済ますのかという問題も出てくるでしょう。
やはり、dbは障がいを軽減するものとして肯定されるべきだ。
そんな議論が最後に交わされました。
そもそも、この議論の発端は「このストーリーはハッピーエンド?」という意見をめぐってのものです。
実はdbは老化とともに接合部分が腐食して、結局は老人になると手足を欠損した生を強いられることになります。
作品上では、それが結果として認知症の老人の徘徊の世話や手間を軽減するという政策的意図がdbに込められていたことが百合子によって暴露されます。
そして、最終場面で百合子は手足を失った老人の身体を、自らの腕で包み込み「死の孤独」を癒す姿が描かれます。
この最終場面に違和感を覚えた参加者の意見によると、冒頭の場面で手足のない姿で生まれた赤ん坊の百合子と、dbの手足をつけて手足のない老人を包み込む百合子の姿が何か一致しない、最後は生まれたままの百合子の身体を肯定する形で終えてもらいたかった、というわけです。
これに対して、ありのままの生を肯定するとは、障がいをそのままにしておくという意味では肯定されない、あくまでよりよい身体の自由を可能にさせる仕方でdbは認められるのだし、その姿でdbの犠牲となった老人を癒す姿はハッピーエンドなのだということになります。
さらにいえば、この理屈は同様に脳死臓器移植でも通じるものだということです。

最後の最後に自分の身体は自分のものなのか?という論点も提起されましたが、残念ながらタイムオーバーとなりました。
一冊の本を読んで哲学的に語り合うというのは初の試みでしたが、時間もあっという間に過ぎ去り、いつも以上に深い議論が交わされたように思われます。
これは『dream body』という一冊の作品の厚みと深さによるものに他なりません。
ご協力いただいた著者にはあらためて感謝申し上げます。
ご本人の希望により著者名は公表いたしませんが、さらなるご活躍をお祈り申し上げます。
ご参加いただいた皆様、お疲れ様でした。
毎度ながらサイトウ洋食店さんにも会場をお貸しいただき、誠にありがとうございました。
第2部のお料理も大変美味しゅうございました。
次回てつがくカフェ@ふくしまは3月10日(土)です。
ビューホテルで会いましょう!