てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

11月のてつがくカフェ@ふくしまのご案内

2014年10月26日 22時08分36秒 | 開催予定
福島県知事選挙の結果が出ましたね。
皆さん各々どのような感想をお持ちになりましたか?
ともかく、これで福島の未来が明るくなってくれることを願いますが、真の民主主義は選挙が終わった時から問われるものです。
その意味で内堀県政をしっかりチェックしていきたいものです。

さて、11月のてつがくカフェ@ふくしまは定例会の開催を予定しておりません。
ただし、番外編的な哲学カフェが2回予定されています。

まず、11月8日(土)15:30~17:00に、コラッセふくしまで開催される多文化関係学会において、小野原がファシリテーターを務める哲学カフェ形式の「オープンフォーラム」が行われます。
テーマは 「福島で生活するとは?」です。
いつもの哲カフェ感覚で多くの方にご参加いただければ幸甚です。
なお、同学会は9日(日)も開催されますが、2日目には「3.11特別編」でお世話になっている法政大学の牧野英二さんの講演もございます。
そちらへも多くの方々にご参加いただきたく存じます。



それから11月13日(木)は、フォーラム福島にて、ヒップホッパーANARCHYのドキュメンタリー映画「DANCHI NO YUME」を見た後にシネマdeてつがくカフェが開催されます
20:30~22:00上映後、その場で1時間程度哲学カフェを行います。
今回はANARCHY本人も参加しての哲カフェです。
どうなることやら不安も大きいのですが、いつも以上に予想できない哲カフェになりそうです。
前売り券1,100円となっていますので、購入ご希望の方はfukushimacafe@mail.goo.ne.jpまでお問い合わせ下さい。





第27回てつがくカフェ@ふくしま報告―選挙に意味はあるのか?―

2014年10月26日 07時26分48秒 | 定例てつがくカフェ記録
昨日、第27回てつがくカフェ@ふくしまが「かーちゃん ふるさと農園わぃわぃ」で開催されました。
本日行われる福島県知事選挙を前にして、「選挙に意味はあるのか?―代表民主制を問う―」がテーマです。
参加者は23名。
かなり難しい議論にもなりましたが、今回は中学生や高校生の参加もあり、投票率低下が懸念される中で選挙の意味を問い直しました。

まず、直接民主制と代表民主制の違いについて、直接政治決定の場にいるか、その決定を代表者によって選択してもらうかの点で異なることが確認されました。
その上で、政治(県政)に参加している実感がないという発言が出されます。
それに対して、せっかく選ばれてもマニフェストを実現しなかったり、カネの問題を引き起こすなど、政治家の資質のなさが、その政治参加の実感のなさをもたらすのではないかという意見が出されます。
また、政治家養成学校をつくり、そこで立候補者は資質を高めることを学び、しっかりした政治を行ってくれれば、政治参加の実感も生まれるのではないかとの意見も出されます。
また、町内会など顔の見える範囲であれば、政治家に向いていると思われる人はみつけやすいから、その人を地域から選出し、その選出された人の中からさらに資質のある政治家を選べばよいのではないかとの意見も出されます。
これは代表民主制を肯定したものでしょう。

しかし、これに対しては、政治家に資質があれば政治参加の実感があるのか、との疑問が提起されました。
政治家だって人間である以上、間違いを起こすことは十分ありうる。
代表民主制はまだまだやれる制度だけれど、「それは政治が間違ったときに替えがきくシステムを大切にする限りで機能するものではないか」との意見が出されます。
あるいは、資質が高い人を選ぶのであれば、最初から選挙する必要もないし、そもそもある人には資質が高い人物と見えても、ある人にとっては資質がない人物と見えることがありうる以上、「替えがきく制度」という意味での代表民主制は意味があるとの意見が出されます。

むしろ、選挙を行う意味というのは、選挙で選ばれれば政治を行うものも、市民に支持されたことが明示されて、自らが政治を納得して行うことができるとの指摘も挙げられました。
その意味で選挙は政治の「正統性」を確保するという意味があると言います。

それにしても政治は町内会や顔の見える範囲を超えて、コアな人たちのものになってしまったという点があります。
周囲を見ても無関心な人の方が多い。
この政治との距離感をどう考えるべきか。
この論点について、家庭や地域で政治について話をしない日本の政治文化の問題を指摘する意見が挙げられました。
たしかに、子供の頃に親に選挙に連れられていったことがあっても、親がだれに投票したのかはわからない。
政治と宗教の話は同窓会でするな、という話もあります。
なぜなら、だれを支持する支持しないの話は仲違いの原因になりかねないからです。
しかし、フランスなどでの体験を示しながら、むしろ遠慮なく政治について語れる文化が日常にあることは、かなり重要で、そのことを教育で整備していく必要があるのではないか、という意見が出されました。
これは世代間の対話の重要性も指摘するものです。

しかし、他方で、世代間と人口の問題を指摘する声も挙げられました
少子高齢化がものすごい勢いで進む日本社会において、人口の多い年齢層を票田としたい政治家にとって、若者向けよりは高齢者向けの政策を提示したがるのは当然で、若者の投票率を挙げようとすれば、その問題を喚起する必要があるのではないかというわけです。
世代によって「政治」に対する意識やイメージが異なる点を指摘する声も挙げられました。
割と高齢に属す世代からは、政治と言えば政党政治であり、利権政治であり、選挙で投票するのは当たり前という意識がある一方、自分の子供世代からそもそも選挙制度の中にいるという選択肢と、その制度の外にいる選択肢があるという意識があることに驚いたと言います。
関心もなければ選択肢もない選挙であれば、その制度に参加しなくてもよいという選択肢があるというわけです。
だから、投票棄権もそれは積極的な意思表示の一つになるというわけでしょう。
果たして、それは意思表示なのでしょうか。

それにしても、なぜ、政治に対して無力感を覚えてしまうのか。
政治が「遠い」。
今回の議論ではこの問題が、しばしば取り沙汰されましたが、では「遠さ」の内実とは何でしょうか?
それについて「ほんとうに変わるのか?」という不信感を指摘する意見が挙げられました。
ここから議論は、次第に政治に対する無関心の問題へと移っていきます。
その原因を膨大で複雑な政治に関する知識がなければ理解できないという問題を指摘する声が挙げられました。
その意味でもっと政治の全容をとらえやすい透明性を確保する必要性や市民が理解しやすくする必要があるとのことです。
たしかに、これだけ現代社会の仕組みが複雑になり、分野ごとに専門家でなければわからないことが多すぎることは、政治に対して興味を失う大きな要因です。

また、その要因の一つに日本社会の政治文化の未熟さを指摘する声も挙げられました。
政治と言えば利権政治であった時代だったけれど、そこにはその政治を批判する対抗する力があった。
しかしその言論の力も弱まり、デモも盛り上がらない、組合組織率は低下して弱体化していく。
そのころから政治は面白くなくなっていったのではないか。
もし、政治をおもしろいものであり、身近なものにしていくためには、政治が変わる可能性を示せばよいのだけれど、しかしそれがないことによって「誰がやっても変わらない」という意識が蔓延するのではないか、というわけです。

しかし、これに対しては、誰がやっても政治は変わらないという感覚はないという意見が出されます。
最近の政治を見ても、たしかに一気に変化がもたらされています。
ただし、その変化は必ずしも「良い方向に向かっていない」という意味においてだと言います。
むしろ、政治の劣化は甚だしく、単に権力者が立憲主義の手続きも踏まずに憲政を骨抜きにすることを当たり前化していく政権は無法者そのもので、こんな政治は、かつて利権政治だと言われた時代の与党政権であってもありえなかった、というわけです。
また、SNSなどネットの普及で、たしかに政治は「見える化」したけれど、逆にちょっとしたキャンペーンやイメージ操作で民意が扇動的に動かされてしまう世の中においては、むしろ政治は変わ理易くなったという指摘も挙げられました。

ここで10代の参加者から、選挙に行かなくてはいけないというメッセージはよく聞かされるけれど、そもそもなぜ選挙に行かなくてはいいのか理由がわからないという問いが出されました。
これに対して20代の参加者は、「選挙に行かないということは政治に対する批判する権利を捨てることになる。ある意味で投票するのは社会参加の義務ともいえる」との答えが返されました。
しかし、この回答に対して40代の参加者からは、「投票するのが義務というは疑問だ。税金を払っている以上、市民としての義務は果たしているじゃないか。投票にいかなくてもいい権利も参政権には含まれているのではないか」との意見が出されます。
では、なぜ行かないのか?

これについて60代の参加者からは「幸せなんじゃない?」との問いかけがありました。
つまり幸せな人間は、えてして政治に関心を向けないものであり、現代の日本の若者は幸福な社会に生きている以上、政治に関心をもてないのは当然ではないかという意見です。
これについて、40代の参加者からは「今の若者はバブル時代を知っている自分たちと比べてかわいそうだと思う」という意見も出されます。
では、むしろ若者の政治意識は目覚めるはずではないでしょうか。
これについて20代の参加者は別に不幸だという意識はない、むしろ「一個人の幸せと一市民としての有権者としての意識は別である」と返します。
むしろ、かつての若者だった上の世代の一つは、なぜ政治に関心をもてたのか、その目覚めるきっかけはなんだったのかとの問いが投げ返されます。
これに対して60代の参加者は「戦争」をなくさなければならないという思い、からそれは目覚めたと言います。

しかし、幸福な人間だから政治に無関心になるというのではなく、むしろ不幸な人ほど政治に関心をもてなくなってしまうのではないか。
政治に関心を向けられるのは、自分の生活が安定していて初めて目を向けられるものであり、しかも選挙結果に対して暴動が起きてしまっては民主主義も何も成り立たない以上、政治的に安定した社会でないと成り立たないという意見が挙げられます。
その意味で、今回のテーマ自体、ものすごく幸せな問いなのかもしれません。

一方、不条理や悲しみを感じたとき政治に目覚めたという意見に対して、それは「選挙に行くか、武器を手にするか」と言う選択肢の間にそれほど決定的な違いがないのではないかという指摘も挙げられます。
社会に不満を持っている若者が「イスラム国」へ渡航するという話も報道されている以上、この社会に対する義憤が選挙では満たされないという問題を考えることは重要だと思われます。
そうであるにもかかわらず、やはりこの選挙という代表民主制は不完全かもしれないが、さしあたり人類が歴史を歩む過程でつくり上げてきた、いまのところ最も有効な制度であるという、選挙に意味を認める意見が多くの参加者から挙げられました。
最後に、自分の意見を突き詰めることの苦手な日本人は、やはり自分のしっかり意思を確立することと同時に、自分とは異なる考えをもつ他者を受け入れられる力を身につけることが選挙の前提条件であり、政治というのはそうしたつながりをもったコミュニティが膨らんでできあがるものではないかという意見が出されました。

さて、今日は福島県知事選挙です。
投票率も含めて、どのような結果になるのか。
乞うご期待です!