てつがくカフェ@ふくしま

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てつがくカフェ@ふくしま報告2023.10.21.「未来に対する責任と希望」

2023年10月24日 14時42分28秒 | 定例てつがくカフェ記録
10月21日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には12名、オンラインでは1名の計13名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・本日のテーマは「未来に対する責任と希望」ということで、まず「未来に対する責任なんてあるんだろうか?」という問いが2月の時に参加者の方から出されて、それについて話し合おうということで今回のテーマを挙げています。特に「未来に対する責任」というのは環境倫理の問題で、資源とか「この地球をどう残していくのか?」とかSDGsですね、サステナブルな持続可能な発展みたいな話にもかかわってくる訳ですけれども。「未来の為に私たちが何か責任を果たさなければならないのか?」という考えが普通に広がってきている訳ですけれども、そもそも「そんな責任なんてあるのか?」みたいなふうに考えてもいいですし、「どんな責任があるんだろうか?」と考えてもいいと思いますし、「責任」のことだけ考えているとちょっと重苦しくなってしまうかなということで、「希望」という言葉も入れました。未来に対して今本当に何の希望も感じないように思うんですけども、今戦争もやっているし、政治も全然良いように行く様な気もしないし、というところで希望もないんですが。でも「未来に対する希望」というものもあれば、出てくるといいかなと思ってテーマを設定させて頂きました。テーマをどう受け止めて頂いても皆様のご自由ですので、どこからでも何かお考えのことがありましたら、どなたからでも挙手をお願いいたします。Zoomの方はマイクでお声掛け頂ければと思います。

・私の場合は、3.11の原発事故がありましたし、それで色々と勉強してきて、そして、汚染水の問題もありますし、本当に「未来に対して責任と希望」と言った場合に大人として、今子供いますし知り合いのお子さん達なんかも結構症状も出てますし、提訴した方達もいますし。やっぱり凄く子供達を守らなかったというのが、一番最初にあったんですね。それは本当に福島の親達が皆そうだったんで。そして、勉強してくる中で子供達の何を見守らなくちゃならないのかっていうと、子供達というのはこういう事故が起きなかった時、未来に対する希望があった訳です。希望があったと必ず言えると思うんですね。だから、そういったものを奪うような事態があって、それで大人として子供達に対する責任と希望。声を上げられない子供達、まだ力も無い子供達のことを考えると本当に子供達に対する責任と希望があるし。子供達の未来に対する責任があるっていうかね、そこのところなんですね。真剣に皆で考えていくということがあれば、そこに始めて希望というのが生まれるのかなと思いました。

・今仰ったことは分かるんですが、今の方は未来だ、子供達に対する責任、あるいは原発事故、汚染水。そういうことに関する定義や責任と希望について、議論しようということなんですが、その責任についてはどういうふうにお考えなのか。要するに責任は「こうあるからこういうふうにしなければならない」という筋書きになると思うんですが、ちょっとお聞きしててどういうふうに具体的に責任をお感じになっていらっしゃるのかなとそこのところをお聞きしたいのですが。

・具体的には、今回の3.11の原発事故については、国も東電も責任を取ってませんし、その上で六人、七人だったかな子供達が甲状腺がんのために、物凄い苦しんでそれで裁判をやっている訳ですね。そして、その現実というのがやっぱりかなり厳しい。体の調子が厳しいですし、子供達の症状が出ていて親と子が一緒になってやっていて。でも、福島県の知事なんかは「そんな提訴するなんて遺憾である」なんて事を言ってますし。ただ、やっぱり自分も子供の事を考えた時に正直症状が出てますし、私の体の調子は良くないですし。だから、そういう運動ですよね、そのことをやっぱり実際にちゃんと責任を取ってもらうような運動ということをやっていかない限りは、希望というのは持てないだろうと思うんですよね。だから、まず今回のこの被爆した子供達の問題以外にも色々と苦しんでいる人がいる訳であって。そういうことをただ見過ごして、なんて言うのか自分に希望があるということは言えるのかなと思うし、その辺のことですかね。だから、とにかく東電とか国に働き掛けていく。そして、皆に実態を知らせていくということは、やらなくてはいけないことではないかなと思います。

・お話を聞いていて、自分としては責任ですね。特に未来に対する責任って考えた時に全然自由にそもそも考えられるから責任がある訳で。個人的には、人間ってあんまり自由意志って自由に考えて決定することってほとんど出来ないと思っていて。じゃあ、責任なんて言うのはほとんど無いんじゃないかなって個人的には思っていたんですけど。ただ、お話を聞いていてやっぱり未来に対する責任ていうものを取っていくことによって、自分自身が気持ち良く生きていくことが出来るのかなと今感じました。

・今お話しをたことを聞いて思ったんですけど、責任の定義は置いておいて、ここに責任が今あるとしたら、今のこの状態よりも良い状態。気分の良い状態だったり、良い環境の状態だったりっていうのを今思う訳ですよね。想像したり、想像出来るということが希望の望む方ですね、今とは違う別の映像を自分の中から自分の意志とか気持ちから望むことが出来て、「そっちの方が良いよね」って自分の中の選択を出来る、その自分が今の状態よりも違う状態を望めるということが未来があるっていうことでもあるし。じゃあ、自分が望んだ所にアプローチをしていく。色んなやり方があると思うんですね。積極的に組織を作って、行動していったり個人的に何か個人の嘆願書を出すとか、SNSで発信するとか。また身近な所で、ご近所さんと話をするとか様々なやり方はあると思うんです。全てのものの基本に全ては変化している、変化しないものは無いっていう。変化していけるっていうこの世界の仕組みがあるので、未来もあるし希望も描く事は出来るのかなって思いました。

・議論の仕方についてこだわっちゃうんですけど、要するに責任について考えようって場合は何か問題が起こって、問題があるから責任についてどうそれを負うかという事になっていくんだと思うんですが。その問題が何かっていう事を出来るだけ明確にしないと議論は先に進まないのではないかなと思う。問題があって、その問題について解決あるいは改善するために、どういう責任を誰がという問題があるんですけど。どういう責任を取ったら、その問題が解決・改善されるのか。そして、どうすれば希望も生まれるのかっていうような話の展開になるのかなっていうふうに思うんですね。ですから、先ほどの原発事故の場合、「子供達が苦しんでいるよ」と、あるいは「被爆した方々がいるよ」と「体調が悪いよ」と。それは「政府の責任だよ」「東電の責任だよ」という事で問題がある。どういう責任を取らせるのかというふうに、具体的な話になっていかないと具体的な問題解決にもならないし、希望も生まれてこないんじゃないかなというふうに、考えてたんですけど。

・今の点に関して、前に「責任とは何か?」だったかな?「責任」について議論した事があって。「責任」という言葉遣いには、幾通りかの使い方があって過去何かしてしまったていう事に対して、その「責任を問う」という言葉の使い方もあるのと。それから、今私子供がいてその子供の未来に対する責任という言葉でも良いのですけれども、その場合の責任というのは何かしてしまった事を何か償うとかとは違いますよね。その子をちゃんと育てていく責任があるとか。多分今回未来に対する責任という言葉をテーマにした時、どちらかと言うと何か起こってしまった事の責任とか、何に対しての責任とか、過去の何かに対する責任という事よりは、これから未来に向けて自分達の子供という具体的に見える人達でも良いのですけれども、もっともっとずっと未来の遠い地球人に対する責任みたいなものがあるんだろうかと言った時には、「責任を取る」という言い方の責任とは違う責任という、その二つの責任があるという事は今日も頭のどこかに入れながら話していった方が議論がぐちゃぐちゃにならなくて良いのかなというふうに思いました。

・未来があるって事は、過去があっての未来だと思います。

・このテーマを見た時に、私はちょうど日大のアメフト部の問題、大麻所持がニュースでやっていて。それで、その後の大学の対応だとか記者会見を見ていると、「学生ファースト」という言葉が出てきたりしているんですけど、それ(学生ファースト)はどこに行ったんだろうなという感じを受けまして。若者とか学生とか、彼らの未来に対する責任を大学はあるのに、それをすっ飛ばして「学生ファーストはどこ行ったよ」という動きを日大がしているので、凄く自分はモヤモヤしているというか。国からの補助金を早稲田大学に次いで2番目に貰っている日大が、問題が起きたことで補助金を貰えなくなるからという理由で副学長に退陣要求とかして、結局身内のごたごたが日大の学生だったり、日大で働いている職員に被害や損害が及んでいるというのが、「どうしたよ?」と言いたくなる。7万人もの学生を預かっている立場の大学の対応に自分は非常にモヤモヤしていて、「日大の未来は暗いのかな?」って日大出身でも何でもないんですけど。今就職活動している日大の学生だったり、アメフト部でも事件にかかわっていない部員へのケアとか彼らのサポートとか、そういう事を考えると中々どうして厳しい未来なのかなと思った次第です。

・半分ちょっと今のに茶々を入れるような形になってしまうけれども、補助金問題でああやって「辞めろ」と言っているのは、もしかすると大学側を贔屓目に見るとすると、補助金みたいに分かりやすいもので確実に人を落とせそうな所で、落とした方がいいからってあの手を使っている可能性はあるなとみていて、あんまり学生の未来を考えていないってあの辺のやり取りだけを見て言っていると危険なのかなって思いました。絡めて考えていうと、日大の人、学生さん達の未来をどうするかって議論、得意アメフト部の人達をどうするかって議論をする時に、「でも、アメフト部の人達自身知っていたんでしょ?」っていうような話ももっと考える必要があるだろうし。そうすると、勿論アメフト部の中に真面目にやっていた人もいるだろうし、全く知らない人もいただろうと思うんですけれども、でも知っていた人もいるだろうし、そうでもない人もいて。なんかそういうのをまとめて、一緒くたにして議論してしまうと何となくぼやけてしまって、原発事故問題もだから同じような事に行きついてしまう気がしていて。なんかぼんやりと、誰に対して何の責任なのかっていう話をしていると、ちょっと話がぼやけるのかなって。僕ちょっと遅れてきたので、見えていない所もあったかもしれないですけども、最初中々話についていけなかったのは誰に対して何の責任の話をしているのかっていうのが、とっても見えにくくてぼんやりした集団に対する話をしているなと思って、見えていたのが感想です。

・今原発の問題と教育の観点の話が出たかと思うんですよね。全ての問題は繋がっているとは思うんですけども。例えば、大学の問題と言えば大学だけではないんですけれども、1990年代からの所謂「新自由主義政策」っていうかね。その中で、教育なんかはもう競争原理の中に置かれているっていう事をまず私達が意識しなかったら、本当の事って分からないじゃないかなっていうふうに思うんですよね。それで、あの国立大学も法人化っていうか、競争しないと生きていけないような大学にされている中で、学生も今まではもっともっと自由があったんだけれども、何というか一つの会社と同じような形で経営されていて本当の学問が出来るような状況に無いっていうふうに私は見てるんですけれども。何と言うか管理されているっていうか、国家に管理されている点が物凄く強くなっている。それは、全て教育の現場において、小学校それから中学高校でそうなんですよね。そういうような状態の中において、とにかく子供達が苦しんているっていう事があって、実際に問題なんかもそういう事とは無縁では無いっていうか。やっぱり、そこに不正なお金の動きというものがあって、全体として教育の内容というのが自ずと変わってきていて。やっぱり、大人の世界が歪められてる中で、そういう事が起こっているという事はあるんじゃないかなって、ちょっと大雑把な話ですけれども、そのように感じています。

・一番初めに話された女性の話は、子供が原発で被爆して甲状腺がんになったという事は、その子が健康で文化的に生きるっていう権利が原発によって奪われたっていう事に対する国なり東電の責任という事で明確になると思うんですけど、それとは対照的に問題が起こった事に対する、誰が問題を起こしてどういう問題が起きたかに対する責任を取るというのと、先ほど世話人が言った子供を育てる責任ていう所でちょっと考えてみて、私相馬市に住んでいて福島市に来る時に玉野が間にあるんですね、山ん所に。あそこをずっと伊豆でしたっけ?あっちで土砂災害をやった所のそこに絡んでいる人がそこに一枚噛んでて、あそこはほぼほぼ禿山になっていてソーラー発電、メガソーラー作っているんですね。地権者はお金をあげていて、お金を凄い金額を借りて回っているので、その人はお金を貰えるからいいですよね、周りに何を言われようが。果たして終わった後儲かった後、撤退して土砂災害、下流域の相馬とかあの辺多分土砂災害起きると思うんですが、起きた時には明確に責任、その人は撤退しているから責任の所在は誰になるかって問題もあるかと思うんですけども。禿山にしてしまったっていうこと事態が、問題が起これば責任は家が土砂崩れした、氾濫したとかね、問題が起こると思うんですけども起こらない状態であんなふうにしてしまった責任とか。問題は起こらないけど、ああいう状態で色んな所に出来てしまって良いのかっていう。なんでしょうね、起こってしまえば責任問えますけど、起こらない状態であれは良いのかなって、私的にはダメじゃないかと。山梨とかはああいうふうな開発が進むのを嫌って、山梨県知事は作らないっていう宣言出したみたいですけど。ちょっと、すみませんまとめってないんですけど、世話人が言った子供に対する責任という方で考えたいなと思うんですけど、やっぱりぼやけてしまうのかな?問題が起これば誰が責任者で、どういう問題が起こったという事が明確化できるんですけれども。すみません、ちょっと中途半端で。

・今のお話を聞いていて感じたのは、まだ起こっていない問題の責任を考える必要があるんじゃないかってお話しだったんですけど、まだ起こってない事に対して良いとか悪いとか価値判断というのを、今の僕達がやっていかないと、勿論行動に移せないので判断をしていく必要があると思うんですが。実際に害を被ったり、恩恵を受けたりっていう未来の人ってのは、勿論孫とか子供とかの世代だったらまだいるかもしれませんから、想像できるんですけれども、それよりずっと先の時代っていうのは実際に価値観も変わってきているかもしれないし、また色んな科学的知見がまた入って来て、「実はこれは悪くはない」みたいな事が起こるかもしれないと考えた時に、何が良くて何が悪いのかって判断をどういうふうにこれからしていけばいいのかって、結構難しい問題っていうか。未来に対して責任を取るっていうのが、なんか簡単にはできないし、先ほどからの女性の話にもあった通り、過去についての責任というのは実際に皆が考えていって責任を追及するっていう可能ではあると思うんですけど、未来というのは過去とは違ってまだ実在していない事なので、それに対して責任を取っていくというのは難しい事なのかなと感じました。

上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓







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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。